第15話 こうすることしかできないんだ

 あめりの入院はしばらく続き、私は一人暮らしを強いられていた。

 朝から響く賑やかな声もなければ、二人でとりとめなく話すこともできない。

 寂しさと退屈に耐えられず、近所の靭公園をあてもなく散歩する以外にすることがな。


 もしかしたら「時々来てる」ミカがいるかも、という甘い期待もあった。

 だが彼女がマンガを連載しているサイトには「休載のお知らせ」が消えることはなく、復帰の気配はまだ見えてこない。


 あめりの祖母が百度参りをしていたという楠永神社のあたりで足を止める。 

 初夏の陽気は、マスクを着用するにはさすがに暑い。口元に汗がたまる。

 少しぐらい外してもいいかなと思ってしまうが、耐えることのない人目がそれを拒絶する。

 そんな逡巡をしている時に、背後から親し気に声を掛けられた。


「塩飽さん、久しぶり」

「先輩。またここでお会いしましたね」

「フットサルのコートに行く途中なんだけど、ご一緒しない?」


 弘原海先輩はまるで就職活動中のような、紺色のスーツ上下に白のブラウスといういでたちだった。

 その大人びた佇まいは、未だに雑な服装で外出している私には憧憬さえ感じさせる。

 

「昨日有森さんのお見舞いに行ったんだけど、ご両親にお断りされてしまったんだ」

「あめりは精神的に不安定なので、しばらく静養させたいみたいです」

「そうか、じゃあとても個展とかは無理そうだね」

「あめり自身も、今はそんなことを考える余裕はないと思います」


 最近できたばかりらしいフットサルコートからは、耳慣れない大声が飛び交っていた。


「ボイ、ボイ、ボイ!」

「右に三十度,三番の方向、シュート打てる!」


 コートの中で繰り広げられるスポーツに、私は目を疑った。

 選手たちは皆アイマスクを着用し、まったく前が見えない状況でプレーしていた。


「凄いでしょ、みんな視覚障がい者なんだよ」

「あんなのを着けていてプレイできるんですか」

「ブラインドサッカーは音で指示するんだよ。ボールも鉄板がついててチリチリ鳴るから、よく聞くと分かるよ」


 私はサッカーなんてまるで興味がない。

 先日のW杯にしても、何がそんなに面白いのかさっぱり分からず、日本代表の試合でさえ見ようとも思わなかった。

 それに鷲見のやつが昔サッカー部だったこともあり、多少拒否反応があるのも事実だ。


「七番の方向、左に四十五度、間は誰もいない!」


 小ぶりなゴールの背後に立つ男性が、大声で選手にシュート先を指示している。

 でもこの声は、まさか。


「ガイドやってるの、ボランティアサークルの鷲見くんだよ」

「え、ええ、はい」

「彼ね、泉川ミカ先生と中学で同級生だったんだって。凄いよね」


 ミカと同じクラスだったことは嫌でも知っている。

 だがサイン会の時も思ったが、どうして弘原海先輩が鷲見と一緒にいるのだろう。


「おー、三葉、有森の様子はどうだった」

「一応私は先輩なんだから、ちゃんと呼んでよ。はい、ご注文の抹茶オレ買ってきたよ」

「これ、有森がいつも買ってるから気になってんだよな」

「スポーツ後に飲むものとは思えないけどね。べたつきそう」


 信じられない。

 どうして弘原海先輩と鷲見がこんなに親し気に話しているんだ。

 あいつは運動後で汗まみれなのに、ものすごく距離が近い。

 これじゃまるで二人が付き合っているみたいじゃないか。


「あれ、もしかしてそこにいるの、塩飽か」

「そうそう、ちょうど塩飽さんと会ったから連れてきたんだよ」

 

 帰る。

 何度もあんな奴の顔を見せられる身にもなってほしい。

 思い切り文句をつけて多少はすっきりしたとはいえ、あのふざけた外見は少なくとも気分のいいものではない。

 先輩には申し訳ないけど、無言で背中を向けた。


「三葉、塩飽を引き留めてくれ、話があるんだ」


 知ったことか。

 先日はテンションが上がっていたからまだしも、素面で相手できるやつじゃない。


「頼む、俺の話を聞いてくれ」


 中学時代から不良仲間と遊びまくり、修学旅行でも他校と喧嘩したなんて噂がある。

 普段から人をなめた口調で、真剣さなんて微塵も感じさせたことがない。


 全速力で走ってきた鷲見が、私の前でくるりと身を翻した。


「塩飽、本当にすまん、許してくれ」


 直立不動の姿勢から、腰を直角に曲げた。

 そのまま何秒間も静止し、幾度も「自分が悪かった」と連呼する。


「……俺にはこうすることしかできないんだ」


 呆気に取られた。

 確かに、ずっとこいつには謝ってほしいと思っていた。

 情けなくて惨めで正視できない程に恥ずかしい格好で、許しを乞うてほしかった。


「有森を三ヶ野原に会わせようとしたのは俺だ。だから今回の件はこっちの責任だ」


 言葉尻が微かに震えていた。

 喉の奥で詰まった息を無理やり押し出すようにしないと、この声にはならない。


「鷲見くん、もういいから頭を上げて。謝るなら普通にやろうよ」

「いや、ダメだ。塩飽が許すと言うまでは頭を上げない」


 一斉に集まる衆目に気を使ったのか、弘原海先輩が私と鷲見に割って入った。


「この前に泉川先生と会った時も同じことしたよね、向こうが委縮するから逆効果なんだよ」

「でも、他にどうすればいいんだよ」

「自分自身の言葉で、相手の目を見てしっかり伝えて。塩飽さんも分かってくれるよ」


 鷲見がミカと会っていた件は、この前に聞いていた。

 相手は売れっ子マンガ家、同級生だからという理由でおいそれと会える相手ではない。

 たとえ大学のサークル関連の話であってもだ。


「塩飽さん、私には何があったのか分からない。でも彼が謝っているから、聞いてあげてほしい」


 はっきり言って不本意だし、私はあんなやつの嘘くさい謝罪など受け入れるつもりはない。

 でも先輩の真剣なまなざしを見た以上、無下に断り続ける訳にもいかなかった。


「私にも教えて。どうして塩飽さんに謝っているのかを」

「昔、塩飽に取り返しのつかないことをした。その時のことが今でも頭に残っている」


 しらじらしい独白を、話半分に聞き流す。


「俺は嫌がっているこいつのマスクを外したり、絵を描いていたノートを取り上げて笑ったりしてた」

「もしかして、泉川先生に怒られたのもその時かな」

「ああそうだ、塩飽と泉川ミカは仲が良かったからな。カッターで思い切りやられたよ」


 そうなんだ、と弘原海先輩が無表情で頷く。

 ふと私に向けて軽い目配せを送る。

 瞬間、先輩は鷲見の頬を平手で打った。

 虫を叩き潰すというよりも、母がいたずらをした子供を叱るように弱々しい一撃だった。


「いけないことをしたんだね。そりゃ謝らないといけないよね」

「何だよ、俺にはいつも暴力はやめろと言ってるくせに」

「鷲見くんの場合は、そうしないとまた不良に戻っちゃうからだよ」

「うるせえな、いちいち」


 二人の関係がまぶしすぎて、正視に耐えなかった。

 サークルの先輩後輩とか、つつじ祭の役員とか、そういう間柄ではないことは間違いなかった。

 先輩と鷲見との関係性を確かめたい。

 だがそれ以前に、もっと聞かないといけない話が有った。


「弘原海先輩、教えてください。どうして鷲見がミカと会っているんですか」

「彼、去年からずっと泉川先生の講演会をやりたいと訴え続けていたんだよ」


 先輩が鷲見の腕をつかんだ。

 マンガ用のデザインカッターが切り裂いた、手の甲が見える。

 右手に彫られた禍々しいタトゥー、ドクロの顎関節付近に一筋刻まれた深い傷跡が目立つ。


「鷲見くん、泉川先生に昔ひどいことを言ってしまったらしいんだ」

「ああ、この傷痕を隠すためのタトゥーもその時の影響だ。あいつを怒らせたときにやられたんだよ」 


 唇を噛みしめながら話す鷲見の手を、先輩が慈しむように撫でた。

 

「痛かったんだね。それも身体だけじゃないよね」

「恥ずかしかったんだろうな、女にやられた傷が残っているのが。ごまかそうとしてこんなことをしたけど、消えやしない」

「ごまかしても何にもならないよ。自分がしたことを認めないと」


 陰キャの私にとっては、間隔を詰めて話す二人の姿を見ているだけでも辛い。

 だが先輩は私の手を握りしめると、その緊密な関係の中へと引きずり込んできた。

 

「ねえ塩飽さん、鷲見くんのお父さんが視覚障がい者なのは知ってるかな」

「……知りません。初耳です」

「だからお父さんのサポート方法を学びたくて、ボランティアサークルに入ったんだよ」

「そうなんですか」

「泉川先生の講演会をやりたがっているのも、罪滅ぼしのつもりだったかもね」


 今は視覚障がい者を援助してますと言えば、過去の罪が許されると思ってるのか。

 私の中に何年間も積み重なってきた鷲見のイメージが、奴の殊勝な言葉をすべて否定する。


「三ヶ野原にも言われたんだよ。私に謝る前にまず塩飽に謝れ、と」

「……ミカが、そんなことを」

「あいつ、妙にカンが鋭い奴でな。俺が不良になった理由を『雰囲気に流されていただけ』と一発で見抜きやがったよ」

「やっぱりそうだったんだ、小学校の時はむしろいじめられてる方だったしね」


 ミカが許したからと言って、すぐに謝罪を受け入れるほど私は聖人君子ではない。

 相手が謝罪してきたなら、それを逆手にとって無理難題を押し付けてやりたいぐらいだ。

 でも。


「塩飽さん、お願い。鷲見くんを許してあげてください」

「どうして先輩がお願いするんですか。それもこんな奴のために」

「彼が望んでいるからです」

「教えてください。もしかして鷲見と先輩って、ただのサークル仲間じゃなくて」


 頑なな態度を取り続ける自分の姿を、もう一人の私が客観的に見下ろしていた。

 頭を下げて懇願する相手の目も見ないで、にべもなく却下する姿勢が、ひどく冷淡に思えた。


「塩飽さんの考えてることが正解。私は鷲見くんと付きあっています。今はまだこんな外見だけど、昔に比べたら良くなったんです」

「……本当ですか」

「最近はいつも塩飽さんの話をしていたんです。まさか同じ大学だったなんて彼も気づいていなかったようで」


 リモート授業のせいで、私もあいつと同じ大学だったなんて知る由もなかった。

 だがいずれにせよ、あいつは昔のことを反省するような奴ではないと考えていた。

 少しずつ現実が崩れていくことに気付く。


「三葉がいろいろうるさいからな。粋がって顔にも少し入れてたタトゥーは消しただろ」

「彼は真面目になろうとしています。私にはわかります。だから許してあげてください」


 先輩に促された鷲見が、二人並んで私に頭を下げた。

 フットサルコートに集まった人々の目が一斉にこちらに向けられる。

 私が苦手な場所でこういうことをするのやめてほしい、うっかり承諾しかねない。


「手のタトゥーも消す。何なら今ここで皮膚を剥がしてでもな」

「バカ言わないでよ、感染症にでもなったらどうするの」

「金髪もやめる、言葉遣いだって直す、注文があるなら何でも聞く、だから、頼む、塩飽!」


 このまま私だけが拒絶し続ければ、自分が悪人になってしまう気がしてならない。

 苦渋の選択ではあったが、二人の提案を受け入れざるを得なかった。


「話は変わるけど塩飽さん、有森さんの写真って自宅に残っていないかな」

「インスタのアカウントは消しちまうし、アルバムは線路にぶちまけてしまうし、このままじゃつつじ祭に支障が出てしまう」

「そもそも泉川先生の担当者からも『しばらく考えさせてほしい』と来てるけどね」

「だからこそ、せめて有森の個展だけはやりたいんだ」


 さっきまで広がっていた初夏の青空に、みるみる内に雨雲が押し寄せるのが見えた。

 蒼穹を貫くように流れていた白い飛行機雲が、薄曇りに消えていく。


「フィルムカメラはネガとかいうのがあればまた現像できると聞いたことがあるけど」

「もしかしたら、それも線路に落としてしまったかもな」

「だとしたら最悪だね、講演会も個展も、全部が無理になっちゃったかも」


 三人が雁首揃えて絶望的な顔を浮かべた時だった。

 私のスマホが突然鳴動した。

 あめりのご両親からの電話だった。


「塩飽さん、あめりが病院から抜け出してしまったんです」


 まさか。

 昨日病院で会ったときは、顔色こそ冴えなかったがベッドから動こうとはしていなかった。

 気力も体力も本物ではないのに、一体どこへ行くつもりなのか。


「病院の人が少し目を離した隙だったみたいです。確かに白杖も部屋に置いていたんですが」

「あめりは定期券もスマホに入れてるから、電車で移動するのも十分可能ですね」


 あめりが消えた。

 怪我こそしていないとはいえ、今の彼女の精神状態で外に出すのはまずい。


「俺らにできることはあるか。サークルのみんなもいるから、人数だけは確保できるぞ」


 鷲見が真剣な表情を見せた。


「そんな、うちの家の話に巻き込むわけにはいかないでしょ」

「今回の件は俺の責任なんだ。元サッカー部だから無理は利く。中之島でも梅田でも回ってやる」

「塩飽さん、ご両親には病院で待機してもらってください。捜索は私たちでやります、そう伝えて」


 正直なところ、鷲見に対して燻っていた不快さはかなり消えていた。

 中学の時のことは許す気はない。

 でも今は、彼の力がどうしても欲しかった。


 あめりに電話もしてみた。

 LINEも送ってみた。

 だが返信は来ず、メッセージは既読にもならない。 


「他に有森さんと連絡を取る方法ないかな、例えばX(Twitter)とか」

「ダメです。今はあめりの悪口であふれてるから、私がアカウントを消しちゃいました」


 あめりと交際があった人のことを、私はほとんど知らない。

 ボランティアサークルで点字資料をもらう時を除けば、私以外と話すのを見たことがない。


「有森さん、大学に入ってからずっと孤独だったんです。写真撮影も邪見にされてたよね」

「だからうちのサークルでいつも目をかけてたんだよ」

「鷲見くん、彼女のために『インスタグラマー撮影中』なんて書いた看板を作ったりしてたしね」

「ちくしょう、あいつが他に話をできそうなやつがどこかにいないのかよ……」


 私はダメもとでインスタを開いた。

 突如アカウントを復活させ、またのんきに写真でも上げていないだろうかと。

 だが私のフォロワーがヨアヒムだけという事実は変わらなかった。


「ちょっと待って、この人、有森さんじゃない?」


 タイムラインの一番上に出てきた画像を、弘原海先輩が指さした。

 ヨアヒムが撮影した道頓堀の写真は、たった今投稿されたばかりだった。

 キャプションには「My friend GrapeCandy」とある。

 間違いない。


「急げば間に合うよ、道頓堀へ向かおう」 


 先輩と鷲見が、意気揚々と声をあげた。

 二人の力強い言葉に、私は大きくうなずく。


「待っててあめり、今すぐに行くから」


 石畳がみるみる内に濁った色へと変わっていく。

 大阪の街に雨が降り始めていた。

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