第4章 私は、天使を取り戻す

第14話 失われた共感覚

 これはどこかの本で読んだ話だ。

 世の中すべての人が、夢に色が付くわけではないらしい。

 フルカラーだけでなく、白黒の人もいると言う。

 初めて聞いた時は奇妙に感じたものだ。

 

 白黒の世界ってどんな世界なんだろう。

 あめりが見ている世界ってどんな世界なんだろう。


 着替えることもせず、あめりに口うるさく言われ続けた保湿もせず、私は気が付けば眠りこけていた。

 がさがさと壁を手探りする音がしない。

 台所にずらりと化粧品を並べる音もない。

 時々足をぶつけて「痛い」と叫ぶ音もしない。


 寂しい朝を打ち破るように、私のスマホが鳴動する。

 電話の主は、あめりのご両親だった。


「……あめりが、色が見えていないって?」


 あめりはブドウ膜炎を患い、何度かの手術を経たものの不幸にも視力を失った。

 だが超能力じみたとでもいうか、触れたものの色を読み取る感覚を駆使して今までインスタグラマーとして活動してきた。 

 その能力が消えたとすれば、あめりは再び失明したのと同じだ。


「ありがとうございます塩飽さん、うちのあめりが大変ご迷惑をおかけして申し訳ありません」

「いえいえ、私がもう少ししっかりしていれば良かったんです」


 おそらく汐ノ宮から慌てて駆け付けたのだろう、母親の声に疲れが感じられた。


「そう言えばあめりのインスタグラムがなくなっているんですが、何かご存じじゃありませんか」

「……ごめんなさい、私はインスタやってないんで」

「あめりは塩飽さんのことを気に入っていたので、顔を見せてあげられませんか」

「もちろんです、私も今から行くつもりでしたので」


 本当のことをご両親に告げたら、そっちまで倒れてしまいかねない。

 昨日のことがバレないことを強く願いながら、私はあめりがいる病院へと急いだ。


「あめり、塩飽さんが来てくれたよ」


 カーテンで仕切られた空間の中で、あめりが寝て、いやベッドに座っていた。

 窓際ではない。

 消毒液の匂いに覆われた空気と、やたら白い什器だけが揃った病院特有の色あい。

 いかにも「私は病人です」という気配を醸し出している。


「桃ちゃんか。おはよう」

「頭痛とか気持ち悪さとかない?」

「めっちゃ気持ち悪いで。なんも色が見えてこんし、いっこも面白ない」


 冷たく言い放ったあめりの言葉が、妙にトゲトゲしい。

 交通事故で頭を強打した後のミカの姿が脳裏をよぎる。

 頭部へのダメージは、時として性格にも影響を与えることがある。

 私は幸か不幸か、そのことをよく知っていた。


「着替え持ってきたよ。いつものジャージでいいよね」


 本来は一晩だけ病院に泊まる予定だったが、あめりの「色が見えない」との訴えを受け、急遽検査を延長することとなった。


「なあ、これホンマにいつもの服か」

「昨日洗濯したけど、間違いないよ」


 普段あめりが着ているジャージは上下ピンク色。

 あまりに派手すぎて、学校指定でこんなのを選ぶところは絶対にない。ほぼコスプレ用の衣装だ。


「触り心地は一緒やねんけどな、色がないねん。真っ白や」

「うそだ、いつも『この蛍光ピンク大好きやねん』って言ってるのに」


 あめりと暮らすようになって約二カ月弱。

 ずらりとベッドに並べた服を手で触りながら「今日の気分はこれ」と選んでいく姿が信じられなかった。


「ねえあめり、これでも色が見えてこない?」


 私はあめりの両手を握りしめた。

 初めてあめりの手に触れた時、彼女の脳裏で様々な色が躍り出したという。


 道頓堀で私と一緒に踊ったとき、まるで星が降って来るようだと言ったじゃないか。

 お願い、あの時ほどじゃなくてもいい。

 ほんの僅かでもいいから、あめりの心に色味が差してほしい。


「これ誰のや、シワシワないからおかんじゃないのは確かやな」

「冗談やめてよ、まぎれもなく私の手だよ!」


 私の切なる願いは、いとも簡単に打ち砕かれた。


「マネキン触ってるみたいや。マネキン言うてもワッフルの店ちゃうで」

「……こんな状況でも笑かしにかかるのが大阪人ってやつ?」

「まあ、おもろないけどな」


 あめりの顔からは、生気がまるで感じられなかった。

 ここは病院である以上、バカみたいに大騒ぎしてほしいわけじゃない。

 せめて笑顔で言葉を交わし、他愛のない会話に興じるぐらいの姿が見たかった、それだけだ。


「うちの子、普段はもっとアホなんですわ」


 あめりの父は、娘同様にわざと空気を明るくしようと考えていたのだろうか。

 だが意図的にそうした態度を取らざるを得ないあたりに、親としての苦悩が伺えた。


「おとん、言い過ぎやろ」

「でもアホ言うても、うちの中をぱっと明るくしてくれる存在だったんです。昨日からその気配がせんのですわ」

「悪い意味で淡々としているというか、何かもう諦めてしまってるような感じです」


 あめりが失ったのは、色だけではなかった。

 空から降りてくる色を媒介にして、彼女は周囲への興味を持続させていた。

 頭の中にずらりと並べられた天使の色鉛筆が、立体的で抒情的で、奥行きのある美しい光景を表現していたはずだった。


 あめりが本当に失ったのは、世界だった。


「有森さんのご両親ですか、ちょっと先生からお話があるので来ていただけますか」


 病院スタッフからの声に、私は思わず手を挙げた。


「すみません、彼女の同居人なんですが、お話を伺ってよろしいでしょうか」

「もちろん、ご一緒に暮らしている方ならむしろ聞いてほしいぐらいですよ」


 脳神経外科と書かれた部屋に入り、ご両親と私は医師の話に耳を傾けた。


「……共感覚が失われている、ですか」


 医師が切り出した話は、私たちの想像とはまったく違うものだった。

 MRIによる検査の結果でも、脳内に腫れや出血などは確認できなかった。

 だが現実にあめりは視覚の異常を訴えており、医師としても診断に悩んだ結果だと言う。


「頭部の外傷は思わぬところに影響を及ぼすことがあります」


 おとなしいマンガ少女だったミカの変貌を知っている以上、当然ながら私はそのことを熟知してるつもりだ。


「たとえば色覚に異常を起こしたケースも過去にあります。交通事故の後、物体の形状や色を正しく認識できなくなった症例などです」

「うちのあめりも、それなんでしょうか」

「ただしその患者の場合、事故前の視覚は正常でした。あめりさんはそこが異なります」


 医師は私たちに「共感覚とは何か」を説明し始めた。

 簡単に言えば、視覚、聴覚、色覚が脳内で混線を起こし、数字や文字などの形状、さらには音にも色がついて見えたりする現象を指す。


「これはキエフの大門、今はキーウと呼ぶべきですかね。ヴィクトル・ハルトマンの作品です」

「初めて見ました」


 最初に取り出したのは、尖塔とアーチを組み合わせた建物の絵だった。

 建造物の中央に描かれたステンドグラスの色彩は、ロシア正教会風であるそうだ。


「実はこれ、皆さんも見覚え、いや聞き覚えがあるはずなんです」


 医師がスマホを操作すると、Youtubeからゆったりしたクラシック音楽が流れだした。

 テレビ番組などでもよく流れる、ムソルグスキーの『展覧会の絵』であった。


「実はこの曲、キエフの大門からインスピレーションを受けたと言われています。今流したのはあくまでプロムナードですが」

「とはいえ何かをモチーフにして作曲するのは普通ですよね」

「では、この絵はどうでしょうか」


 続いて取り出したのは、絵の右半分が黄色でべったりと塗りつぶされたもの。

 真ん中には黒い塊、その下には赤、黄、青の物体。

 正直に言えば意味が分からない、子供が描いたような代物だった。


「あめりが描く絵がこんな感じですね」

「そうそう、言われてみれば天使やって気づくんやけどな、親やなかったら分からんで」

「……やっぱり私と同じことを考えていたんですね」

「あの子は色にはこだわるけど、形とかは全然、何でもいいって感じですから」


 だが、中央部の黒いものはうっすらと何かに見えてくる。


「もしかしてこれ、ピアノですか」

「はい。抽象絵画で知られるワシリー・カンディンスキーの作品です。シェーンベルクという人の音楽を聴いて描いたものです」


 医師によれば、カンディンスキーはムソルグスキーの音楽も「絵画化」する試みをしたことがあると言う。


「音楽から感じられるイメージ、特に色彩をこのような形で表現したわけです。色と他感覚は意外につながっているものなのです」

「つまり、あめりも触ったものの感触を色として見ているのですか」


 だがこの問いかけには、医師はやや否定的だった。


「味覚はともかく、触覚が共感覚として現れるのは稀です。あめりさんはかなりのレアケースと考えていいでしょう」


 共感覚者には、数字に色がついて見えるケースがあるという。

 ギフテッドやサヴァン症候群のうち、数学に才能を示すタイプの多くが該当する。

 尖った味、丸みのある味などの表現も、実際に味わった人の脳内に「形状」として出現していることがあるとそうだ。


「あめりさんの場合、光を受容する錐体と呼ばれる部分の神経が触覚や嗅覚などと混ざり、偶然に色彩を感じているというのが私の推測です」


 昨日からの問診を通じて調査したあめりの状態を確認し、医師は一つ咳ばらいをした。


「今回起こった色覚異常の原因なんですが、これは神経活動が元に戻ったせいです」


 あめりは皮膚を通して色が見えている訳ではないらしい。

 触覚刺激を脳が「誤認」することによって錯覚のような現象が起こる、それが彼女の能力だった。


「自発的に精神を高揚させることにより、意図的に神経の混信を引き起こしているのではないでしょうか」


 あめりは常日頃から「自信が大切」だと言い続けてきた。

 色覚が高揚感によるものであることを理解していて、その力を維持するために自らを勇気づけている――医師の言葉は腑に落ちるものがあった。


「つまり意気消沈してしまうと、頭の中での混信が消えると」

「はい、私はそのように考えています」


 あめり独特の芸術性の根幹となっている神経の混乱が、昨日駅で起こした騒動によって「正常に戻ってしまった」ことによる色覚の喪失。

 医師の話をまとめると、そういう結論に達した。


 思えば、あめりが私の前で見せてきた振る舞いは時に常軌を逸しているとさえ感じられた。

 梅田でのインスタ撮影、道頓堀での動画撮影、どれをとっても「無理やり自らを鼓舞させる」気配が否めなかった。


「私が消極的なのをどうにかしたくて、あめりは無理をしていたのかな……」


 おそらく、あめりは必要以上にオーバーなパフォーマンスをしていた。

 その興奮状態がミカと再会したことでピークに達し、心の中で何かが弾け飛び、急速に鎮静化していったのだろう。


「ごめんあめり、私のことを考えてたことに、どうして気付いてあげられなかったんだろう」


 両手で顔を覆った。

 今あめりが隣にいる訳ではないのに、彼女に顔向けできないという気持ちでいっぱいだった。


「実は先生、あめりにこういうことが起こったんは、これが初めてじゃないんですわ」

「ダメですよお父さん、ここには塩飽さんもいるし、席を外してもらったほうがいいのでは」


 あめりの父親が漏らした言葉に、母親が慌てたように夫の口を塞ぐ。


「待ってください、私にも詳しく教えて頂いていいですか」

「面白い話やないと思いますわ」

「それでもいいんです、私はあめりの同居人なんですから」


 ご両親を思わずまじまじと見つめた。

 あめりとミカとの間に何があったのか、分かるかもしれない。

 二人の話から顔を背ける訳にはいかない。

 たとえその結果、あめりのイメージが崩れるとしても。


「あめりは子供の頃から絵を描くのが大好きだったんですわ」

「ええ、以前お店で伺いました」


 パン屋の天井近くにずらりと並べて飾られたの絵を見せてもらった。

 あめりが得意としたのは、色鉛筆の缶ケースに描かれた天使の模写だった。


「うちの母、あめりにとっての祖母は信心深い人で、靭公園の中にある楠永神社へ百度参りしてたんですわ。あめりの視力の回復を祈願してね」


 祖母があめりにこう教えたという。

 自分が楠永神社に百度参詣すれば本願が成就する。病気もきっと治る。


「実はあめりの目、小学校から中学にかけて何度も手術してるんですよ。でも治る見込みがなく、ずっと落ち込んでいたんです」

「そんなときにうちの母が言うたんです」


 あめりは『天使の絵』が上手やから、心を込めて百枚描いてみ。

 きっと神様が見てはる。願いを叶えてくれるで。


「あと一枚で百枚ってとこまでは描いていたんですよ。学校の休み時間になってもずっと描いてたって中学の先生が言ってましたね」

「で、絵はどうなったんですか」

「完成しませんでした。あめりが自分で引き裂いてしまったんです」

「どうして、破り捨てるなんて普通じゃないです」

「ちょうどその頃、クラスに転校生が来たそうなんですが、揉めてしまったみたいでしてね」


 あめりが語っていた過去の出来事と一致した。

 ミカから「ヘタクソ」と罵られた衝撃で、絵を描くことを断念したことを聞かされていた。


「その時も『色が見えなくなった』と言っていたんです。今回と同じです」


 黙って話を聞き続けていた医師は、うんうんと頷くだけだった。

 大切にしていた色鉛筆も全部へし折って捨ててしまったというエピソードを含め、カルテにささっと記載していく。


「とりあえず、今のあめりさんに重要なのは精神的な安定だと思います。しばらくは薬を処方して、まずは不安感を解消する必要があります」

「でもあめりの神経が落ち着くけば、色が見えない状態が続いてしまうのでは」

「彼女の色覚は、あくまで神経の興奮によって引き起こされたものです。正常ではないんです。医師としては抑制を勧めざるを得ません」


 あめりに普段通りの生活を取り戻してほしいことは事実だ。

 だがその治療によって、彼女の人生を支えてきた「色覚」を奪い去ることとなってしまう。

 安易に結論が出せる話ではなかった。


「あめり、今度のつつじ祭での個展をすごく楽しみにしていたんですよ。私たちにも見に来てとお願いしてたのに」

「仕方ないです。今の彼女はまず健康を回復することが大切ですから」

「やはり薬で落ち着けるしかないんですかね」

「……色を失ったことを知ったら、どう思うんでしょうね」


 今すぐに投薬を開始するという話は、何とか止めておいた。

 だが今の状態では好転の兆しは見えない。

 

 祖母との約束だった個展の開催は、絶望的と言うほかなかった。

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