第13話 さよならインスタグラマー
視覚が失われたあめりにとって、突然飛びついたりするのはタブーというのは分かっている。
だが躊躇している場合ではなかった。
有象無象からの悪意が彼女に牙を剥いているのに、止めないわけにはいかない。
「……この声、桃ちゃんか」
「あめり、いいからすぐにインスタ閉じて」
「ええやろ、うちの写真に対する感想や」
速攻消えろ、二度と泉川先生に関わるな。
iPhoneの機械音声で垂れ流される遠慮なき声が、鼓膜を通じてあめりを苛み続けていく。
「見ちゃいけない、聞いちゃいけない、あめりが壊れちゃうから!」
「そこまで言うならやめるわ」
いつもは元気の塊みたいな彼女が、ベンチにもたれてぐったりしていた。
意気揚々と持参したはずの自信作を詰めたアルバムが、むき出しのまま放置されていた。
「桃ちゃん、うちがあのサイン会におるとは思わんかったやろ」
「びっくりしたよ。大学に行ってると聞いたから」
「サークルの人たちがな、どうしても泉川ミカに会わせたいって言うたからや。まさか三ヶ野原いずみだったとはな……」
地下鉄のホームがこれほどまでに閉所だ、と感じたことはなかった。
線路の振動、吸い込まれる空気、低い天井、暗い壁。
私たちを包むすべての気配が重かった。
「知らなかったよ、ミカがあめりとも同級生だったなんて」
「名前が似とる気はしとった。でもそんな偶然ないやろって」
さっきのサイン会の修羅場が嫌でもフラッシュバックする。
髪を振り乱して叫ぶあめりの形相。
さらに大声で言い返すミカの怒り顔。
飛び散って折れ曲がって、哀れな姿と化した単行本。
「ねえ、教えてくれる。いったいミカがあめりに何をしたのか」
友達同士の諍いなんて、見たくもないし聞きたくもない。
いかなる背景があったにせよ、知りたくもない。
でも、聞かないわけにはいかなかった。
「うち、昔は写真なんてよう撮らんかったって知っとるか」
「ご両親に聞いたよ。絵を描くのが好きだったんだよね」
「そうや、お祖母に買うてもろた『天使の色鉛筆』でな」
パン屋の天井を飾るあめりの絵は、稚拙ではあるが明るい色にあふれていた。
よほど色鉛筆の缶に描かれた天使が好きだったのか、失われつつある視界の中で精一杯の筆致が鮮やかに躍っていた。
そんな彼女が、どうして絵をやめてしまったのだろう。
「中学部三年の時や、あいつが転入してきよったのは」
「私をかばって暴力沙汰を起こしたせいで、無理やり転校させられたからね」
「その三ヶ野原がうちの学校に来たせいなんや、絵を描かんくなった理由は」
そこからしばらくの間、あめりは押し黙っていた。
思い出すのも辛いのか、白杖を握る手が小刻みに震えていた。
地下を貫く暗闇の向こう側から、重々しい電車のレール音が響く。
「おい有森、リクエストのやつ買ってきたぞ」
聞きたくない声がした。
どくん、と心臓がひとつ高鳴った。
「普通のにしとけばいいのに、なんでわざわざ抹茶オレなんだよ。コンビニに行かないと売ってなかったぞ」
「すまんな、今はこれしか飲む気になれへん」
あめりは緑色のペットボトルを手に取ると、ほとんど一気飲みに近いペースで喉へ流し込んだ。
「なあ鷲見っち、これほんまに抹茶オレか」
「見れば……いや、味で分かるだろ」
「味は分かるで、でも色があらへん。見えへん」
飲み終わったペットボトルを訝しげに触り、匂いを嗅ぎながら、あめりは首を傾げた。
「桃ちゃん、このアルバムおかしいねん。中の写真をいくら触ってもな、何も色が見えてこおへん」
「嘘だよ、あめりは触れば色が見える、いつもそう言ってたじゃない」
「それがな、いきなり何も見えんくなった」
がっくりと肩を落とすあめりを宥める私に、鷲見が無粋に口を開く。
「なんだ塩飽もいるのか、やっぱりお前もサイン会に来てたんだな」
「来ちゃいけないの、ミカは同級生だし」
「俺だって同級生だ」
「ああ、そうだったね」
以前のように顔を見ただけで過呼吸が起こるほどではなくなっている。
あめりがいるからだ。
一人ではこうもいかないだろう。
「前に三ヶ野原と会った時は別におかしいところはなかったんだけどな。有森、あいつと何があったんだ」
「……ミカとあんたが会ったって、どうして」
「サークル活動の一環だよ。あとつつじ祭の話し合いもあるしな」
「あんたのせいでミカは学校を追い出されたんだよ、反省していないの」
「なんで俺が反省する必要があるんだ。転校を決めたのは三ヶ野原の親だろ」
あめりの口から「うるさい」と言葉が吐き捨てられる。
「ええ加減にせえや。周りの人がひそひそ噂しとるで」
「いいよ、言わせておけば」
鷲見のやつがミカについて適当なことを並べるのだけは、絶対に許せない。
だが「もう話をしない」と言った彼女が、今こうして鷲見と一緒にいることについては釈然としない。
そのせいもあって、奴を睨む私の目が自然ときつくなる。
「大体さ、あめりもおかしいんだよ」
「なんでうちが。意味が分からへんな」
「お願いだから、金輪際こいつと話すのやめてよ」
「理由はなんや」
「……あめりと一緒に暮らしてるのは、私なんだよ」
あめりを助けるべきなのは私なんだ。
もう話をしないと決めたはずの相手と、どうして気楽に言葉を交わせるんだ。
そんな恨み言が浮かぶのを、懸命に抑え込む。
「この前、道頓堀でのことを忘れた? 二度と関わらないって約束したよね」
「今日はこいつが勝手についてきてるだけや。うちは知らんで」
「だからって、話さないでほしいと言ってるの!」
あめりに対して怒鳴るなんて、これが初めてだった。
はっきり言えば嫉妬だった。
私以外の人間、それも私が心の底から嫌う男と口を利くことさえ許せなかった。
「塩飽、有森にキレても仕方ねえだろ」
「元はと言えばね、あんたのせいでしょ」
爬虫類のような冷たい目をした鷲見を、思い切り睨み返した。
なんと感情のこもっていない言葉だろう。
自分にとっては他人事だとシラを切るつもりなんだろう。
「人の絵を『下手だ』『気持ち悪い』とさんざんバカにしたの、覚えてないの」
「……あったな、そんなこと」
「それに、女子と一緒になって後ろから私のマスクを剥がしたでしょ!」
キモい、不細工だと大笑いしながら、顔写真をグループLINEで回したの、一生忘れてやるものか。
「あの時の私がどれだけ死にたかったか、あんたに分かる?」
中学時代から今まで、ずっと心の中で醸成されていた呪詛の言葉たち。
ここぞとばかりに堰を切り、止め処なくあふれ出る。
「悪かったよ。俺もみんなにやれって言われて断れなくてさ」
「この期に及んで他人のせいにするなんて、卑怯者だね」
私は鷲見に歩み寄る。
目線より高みにあるシャツの襟もとを掴み、あらん限りの声で叫ぶ。
「本気で謝る気があるんだったら土下座してよ。あめりにはもう近づかないって、今すぐ約束してよ!」
生まれて初めて、鷲見に言いたいことをぶつけられていることに、奇妙な高揚感さえ覚えていた。
その興奮のさなかに、コツンコツンと白杖を叩く音が割って入った。
「桃ちゃん、ええ加減にしたり」
「……何を」
「鷲見っちかて事情があったんやろ」
白杖を握るあめりの手は汗ばんでいた。
駅のベンチで放心状態だったことを考えると、私たちを止めるために懸命に立ち上がったことは理解できた。
「うちみたいに目ぇが見えん人は、誰かに支えてもらわなアカンのや」
「だからってこいつに助けを求めなくていいでしょ、ボランティアサークルにも他の部員はいるじゃない」
「うちらはな、相手を選べる立場やないんや」
あめりの言うことはもっともだった。
鷲見が嫌いだというのは、あくまで私の個人的な事情であり、あめりには無関係だ。
でも、でも。
「あめりだって同じじゃない。ミカとの間に何があったか知らないけどさ」
「……さっきうちが怒鳴ってたことか」
「そうだよ、私を止めるんだったら、あめりだってあそこは抑えて欲しかったよ」
私の気持ちに、あめりは何も答えようとはしなかった。
「もう別にええねん。絵も写真も、下手ならやらんでええと思うようになった」
「インスタのコメントの件だよね、あんなの無視してしまえばいいよ。気にしちゃダメだよ」
「妙に刺さるねん、心にザクザクとな」
「あめり、前はこんなコメントにも強く反論してたでしょ、あの時の元気を思い出してよ」
あめりはiPhoneを操作し、再びInstagramを開く。
設定とプライバシー、アカウントセンター、個人の情報。
音声の指示を受けながら、何度か複雑な操作を繰り返す。
「おい有森、何をしてるんだ。まさか」
何かに気付いた鷲見があめりを止めようとする。
音声読み上げの機械音は『アカウントを削除します』と聞こえる。
彼女が活動の拠点として大切にしてきたインスタのアカウントを、今ここで放棄しようとしていた。
「待て有森、これを消したらGrapeCandyとしての活動ができなくなるぞ」
「ええねん、もう悪口しか書かれへんし」
あめりのインスタのフォロワー数は、私みたいな素人からすれば膨大だ。
だが他の人気写真家からすると、はっきり言って「自称人気写真家」レベルの数でしかない。
それでもあめりが今まで頑張ってきた実績であり、消すにはあまりに惜しい人数だった。
「今度のつつじ祭はどうするんだ、有名インスタグラマーとして個展を開催する予定なんだぞ」
「うちなんて所詮は自称の人気やし、中止にすればええやん。どうせ客も三ヶ野原のしか見に来んやろ」
ダメだよあめり、それだけはいけない。
陽光の大学キャンパスで、観覧車を見上げる梅田で、人でごった返す道頓堀で、あめりはいつも楽しそうに写真を撮っていた姿がよぎる。
何よりも彼女の人生を支えてきた自信が失われる、それが私にとって最も怖かった。
「それだけはダメ、絶対!」
横から手を伸ばし、なんとか食い止めようと試みた。
だが、もう遅かった。
すでに削除ボタンが押された後だった。
「はい、スッキリしたで。なんもかんもアホらしいわ」
あめりは背中を震わせながら、乾いた声で笑っていた。
ブドウ色の両目からは、何粒もの涙がこぼれていた。
アーチを描く駅の天井に顔を向け、「これでええんや」と力なくこぼした。
『まもなく、電車が参ります』
ダイヤ乱れもようやく復旧していた。
あめりはベンチ上に置いていたアルバムを手に取った。
「今までようさん写真撮ってきたんやけどなぁ、現像代もったいないなぁ」
思い出を懐かしむように、あめりはアルバムのページを次々とめくる。
手ブレや角度ずれだらけの、ピントの甘い写真が映る。
だが青空を背景に美しく咲く花々や、エネルギッシュな街並みを鋭く切り取った画像は、素人目にもはっとさせられる色彩にあふれていた。
「こんなもん、もういらんわ」
迫る電車のヘッドライト。
トンネルの奥から伝わってくる空気の振動。
点字ブロックを越えて立つあめりに、警笛が喧しく鳴動する。
「やめてあめり、それだけは捨てちゃダメだよ!」
何秒にもわたって轟くホーン。
アルバムがあめりの手から離れ、線路上へ向けて放物線を描いた。
剥がれ落ちた何枚もの写真が電車にぶつかり、踏みつけられ、破片となって舞い散る。
異変に気付いた駅員が殺到する。
「バカ野郎、なんてことをしやがるんだ!」
今にもあめりに平手打ちでも食らわせかねない剣幕で、鷲見が絶叫する。
「これでええ、もう何もかんも無くなった。これでええんや」
「それ以前の問題だ、電車に物を投げるバカがいるか!」
色とりどりの思い出の欠片たちが、地面に落ちた桜の花びらのようにちぎれ、悲しい姿をさらしていた。
「写真が、あめりの写真が!」
ホームから線路へ飛び降りようと思った。
少しでも無事な作品があれば、一枚でも多く救出したかった。
「おい塩飽、何をするつもりだ」
「あめりの写真を拾わないと。せっかく一生懸命に撮ったんだよ」
「お前もこれ以上駅員に迷惑をかけるのはやめろ、いいからベンチに座れ」
鷲見が必死に駅員に頭を下げているのが見える。
急停車を強いられた車輛から出てきた客たちが、忌々しげに私たちを凝視している。
あめりの姿は、どこにも見えなかった。
「おい塩飽、有森はどこに行った」
「……ちょっと、あめり、あめり!?」
彼女の姿を見つけるのに、長くはかからなかった。
ライトブルーのトップスが、冷たい駅の床タイル上に倒れていた。
精神的にぷつんと切れてしまったのか、身体が小刻みに痙攣している。
「大変だ、あめりが!」
あめりの隣では、髪の長い外国人男性が懸命に声をかけ、意識を呼び戻そうとしている。
彼の姿に、私は見覚えがあった。
「アメリ、アメリ! しっかりシテ、返事シテ」
「すみません、もしかしてヨアヒムさんですか」
「おお、モモコ!」
精神的なショックで倒れたあめりを介抱してくれたのは、たまたま梅田に来ていたヨアヒムだった。
「アメリどうしたネ。大変なコトになっちゃったネ、僕もスゴク心配」
「ありがとうございます、危ないところでした」
ヨアヒムとは先日、道頓堀で出会ったばかりだ。
戎橋の上で見せたあめりのパフォーマンスに感銘を受けたのか、彼はあめりのインスタに何度もメッセージをくれていた。
「すぐ病院に行くとイイネ、結果わかったら教えてネ」
駅員が呼んだのだろうか、救急隊員が担架を持って駆け付けてくる。
騒然とした雰囲気の駅構内も、少しずつ落ち着きつつあった。
「でも私、ヨアヒムさんの連絡先が分からないです」
「モモコ、インスタグラムやってる? あれでメッセージ送るとイイヨ」
「一応持ってます。フォローすればいいんですか」
「アレが一番便利ネ、世界中の人と連絡とれるヨ」
あめりを搬送する救急車には、私が同乗することにした。
憔悴が止められない。
何があったのか、どうしてこうなったのか。
駅での対応を鷲見に任せきりにしたことも、それで良かったのか分からなかった。
長い時間が経過した。
診断結果が出るまで私が何をしていたかさえ、まったく記憶していない。
ご両親に連絡すべきかどうかさえ考えることができなかった。
「過呼吸による一時的な失神ですが、大きな外傷や出血はありません」
「そうですか、それなら良かったです」
「ただし倒れた際に後頭部を打っているので、念のため病院で静養させます。よろしいですね」
医師の言葉に、ただ黙ってうなずく以外は何もできなかった。
入院準備など最低限のことだけこなし、ようやく靭の自宅に着いたときには、すでに日は完全に落ちていた。
X(Twitter)もインスタも、何も見る気力が湧かなかった。
カバンの中に押し込まれたままの泉川ミカの単行本も、紙袋の封すら切ることができなかった。
「今朝ここを出た時には、こんなことになるなんて思ってもいなかったのに……」
台所に並べられたあめりの化粧品を見ているだけで、心が引き裂かれそうに辛かった。
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