第12話 衝突
大阪で過ごす日曜日が、これほど待ち遠しかったことはなかった。
今日は以前ミカから誘いのあったサイン会が、いよいよ今日梅田で開催される日だ。
「わだつみ」「わだつみ」「わだつみ」
あめりのiPhoneが、何度も弘原海先輩の名前をコールする。
「あー、人がメイク張り切っとるときに電話してこんといて」
あめりの化粧はいつもに増して入念だ。
普段よりも多く並べられた化粧品がその熱意を物語っている。
「あめり、今朝はずいぶん早くから支度してるね」
「三葉先輩からお呼ばれしてるねん。大学で個展についての最終打ち合わせやるって」
自信のある写真を収めたアルバムが、何冊もカバンに詰め込まれている。
この中の何枚かをつつじ祭で展示してもらう予定となっていた。
「展覧会って本当にやれることになったんだ」
「残念ながらうちがメインやないけどな。例のなんとかいうマンガ家の講演会とセットやねん」
「泉川ミカね」
亡くなった祖父母との約束であった個展が、ついに開かれることになった。
あめりにとってはまさに人生の目標が一つ達成されることになる。
「それでも凄いよ、絶対に見に行く」
「桃ちゃんにとってはうちは付け合わせみたいなもんやろけど」
「どちらも私と関係のある人だもんね、なんか自分まで偉くなった気がする」
「それは明らかに勘違いや」
互いの肩に手を置いて、二人でどっと笑った。
あの事故以来、家庭内においても暗く沈んだ日々を送っていた私にとって、こうして再び明るく笑える日が来るなんて、思ってもいなかった。
「桃ちゃんも一緒に大学来てほしかったんやけどな」
「ごめん、今日は私も大事な用事があるんだ。その泉川ミカのサイン会」
「だったら念入りにメイクしとき」
「別に長話できるわけじゃないからね」
あめりと暮らし始めてからというもの、私も変わったと思う。
外出直前に目を覚まし、適当に顔を洗って平然と出かけていた自分が嘘みたいに、今は洗顔から保湿から簡単なメイクまでするようになった。
ファンデーションやコンシーラーまでは至っていないが、そのあたりはあめりに教わることとしよう。
「荷物重そうだし、駅まで送っていこうか?」
「ええわ、大学ぐらい一人で行けるわ」
どういうセンスで選んだのか分からない、スカイブルーのトップスに白のデニム。
五月の陽気にふさわしい色遣いだと本人が言うのなら、それで間違いないか。
「まずい、そろそろ家を出ないとギリギリすぎるかも」
念入りに顔の手入れをし過ぎた気がするが、なにせ今日は泉川ミカのサイン会だ。
ずっと机を並べて一緒にマンガを描いてきた同級生がプロになり、その晴れ姿をお祝いできる大切な日だ。
ファストファッションじゃない、よそ行きの服も買っておけばよかったな。
「すみません、もう少し左に寄った方がいいですよ。ホームから落ちますから」
「ああ、えらいすんません」
駅構内をゆく視覚障がい者にも、自然と声を掛けられるようになった。
去年まで、いや数か月前までの私ともまるで違う自分だ。
すべてはあめりのおかげだ、本気でそう思う。
「お知らせいたします。大阪メトロ四つ橋線は、信号トラブルにより全線で運転を見合わせております」
げっ、マジか。
幸い梅田なら徒歩でもたどり着くけど、サイン会のオープニングには間に合わないだろう。
とはいえ行かないという選択肢はない、歩くことにする。
せっかくのメイクが崩れてしまいそうだけど、仕方ない。
大型書店の入口には「泉川ミカ 新刊発売記念サイン会」の看板が立てられている。
ここで本を購入すると整理券がもらえる方式なので、すでに全巻持っている私も追加で一冊買わないといけない。
「凄いな、本当に売れっ子になっちゃったんだ」
ピラミッド状に積まれた『TwinBirdsStrike』の単行本の山を眺めていた。
学校の教室で机を並べ、仲良く「天使の色鉛筆」を持って絵を描いていた時代もあった。
デビューしたらペンネームどうしよう、サインはこれかなと夢を語った。
「泉川ミカってのも、私たち二人で考えたんだよな」
この名前は今や世界中のマンガファンのためのものとなった。
ダメだ、なぜか涙が出てくる。
ようやく整理券を手にして、書店の二階にある催事場へ向かう。
すでにサイン会は始まっているが、長蛇の列が幾重にも折り重なって会場内を見ることができない。
適当にスマホでもいじりながら、ゆっくり待とうと思っていた矢先だった。
「泉川ミカって、お前まさか…… 三ヶ野原いずみか!」
壁の向こう側から、聞き覚えのある声がした。
私には分かる。間違いない、あめりだ。
「すみません、通してください」
「ちょっと、順番抜かすのやめてください」
「ごめんなさい、知り合いが大変なことになってるんです!」
いつもの私なら横入りなんて絶対にしない。
だがあめりの声がしたとなれば、話は別だ。
「もしかして、有森あめりか」
「そうや、お前の同級生だった有森や。お前のせいで絵を描けんくなった有森や!」
「……久しぶりだな。なんでここに」
「うちに来られたらまずい事情でもあるんか」
ようやくたどり着いたサイン会場で、私の耳に飛び込んだのは信じられない事実だった。
あめりがミカと同じクラスだったなんて、今まで一度も知らされてなかった。
それ以前に、どうしてあめりが梅田にいるのかが分からない。
弘原海先輩が横にいるのが見える。
「この部屋に入った時からなんかイラつくと思ったら、まさかお前がおったなんてな」
「ちょっと待って有森、ここはサイン会の会場だから、他のお客さんもいる」
「お前が覚えてのうてもな、うちははっきり心の奥底に刻まれとるんや」
「……こっちだって一日たりとも忘れてないよ、今でもトラウマになるぐらいだよ」
こんな剣幕のあめりなんて見たことがない。
周囲の人たちが懸命に制止する。
口角泡を飛ばし、顔を真っ赤にするあめり。
自分自身をまったく制御できない様子であった。
「何がトラウマや。お前、うちの絵を見て『ヘタクソ』とぬかしたやろ。どれだけショックやったか分かるか」
「……そうかもしれない。でもな、あの時は私も何がなんだか分からなかったんだ」
「その後も一度たりとも謝罪してへんやろ、色々あったんだから仕方ないとか、先生まで味方につけて!」
ミカは手にしたペンを机に叩きつけた。
首元に掴みかからんとする勢いのあめりを睨みつけ、強い口調で反論する。
「そんなに私だけが悪いのかよ、本当に色々あったんだよ、こっちは!」
「自分のことを悲劇のヒロインとか思ってんのやろ。そんなトラウマ程度、盲学校なら一年生かて持っとるわ」
サインを目的に並んでいた人たちは狼狽し、意味もなく写真や動画を撮り始めている。
一触即発、このままでは喧嘩沙汰になってもおかしくない。
「私だってお前のことを凄いと思っていたんだ、今でもそう思ってる、なのに……ああ、もうイラつく!」
「ムカついとんのはこっちや。何やこの邪魔くさいの、いらん色ばかり出しよってからに!」
思い切り振り回したあめりの右手が、積み上げた単行本の山を薙ぎ払う。
バサバサと音を立て、数冊の本が机から崩れ落ちていった。
「やめなさい有森さん、みんなが迷惑してるから!」
「三葉先輩は黙っててや、こいつだけは許せんのや」
絶叫するあめりを、弘原海先輩が懸命に食い止めている。
「お前のせいでうちは何も描けんくなったし、お祖母は死ぬし、ロクなことがあらへん!」
「知ったことか、そっちの家庭事情なんか!」
サイン会に詰めかけた客たちが一斉にあめりにスマホを向ける。
写真が、動画が次々と撮影されていく。
もはや周囲の人間は、目の前の騒動を楽しんでいるようにさえ映る。
これらはおそらくSNSに乗り、どこまでも拡散されていくだろう。
警察を呼ぼうとしている人もいる。
「お客さん、順番を抜かさんでください」
「お願いだから、二人ともやめて!」
声の限りに叫んだ。
だが会場の興奮と怒号は収まることがない。
「お客さん、困ります、列を乱さないでください」
「だって、やめさせないと!」
私は列を乱したことを咎められ、係員によって部屋の外へとつまみ出される。
あめりの姿が遠くなる。
先輩があめりを羽交い絞めにし、無理やりにミカから引き離すのが見えた。
床に散らばった『TwinBirdsStrike』の表紙が激しく歪んでいた。
「鷲見くん、有森さんをここからすぐに連れ出して、お願い!」
「わかった三葉、俺がなんとかする」
弘原海先輩の涙混じりの声に、思わず背筋がぞくりとした。
どうしてあめりが、先輩が、そして鷲見がここに。
「どけお前ら、写真とか撮るんじゃねえ、スマホも下げろ!」
鷲見が自分の上着をあめりの頭に被せると、周囲を恫喝しながらあめりと共に走り去っていく。
これじゃまるで警察が犯人を護送しているようだ。
「鷲見くん、落ち着いたら連絡して。ここは私がなんとかするから」
弘原海先輩の悲痛な声に返事もせず、鷲見とあめりは逃げるように姿を消した。
完全に統制を欠いた行列は、もはやイベントの体を為していなかった。
騒ぎを聞きつけた書店員たちが雪崩をうって走り込む。
「申し訳ありません、サイン会はここで打ち切りとさせて頂きます」
ボリュームを上げ過ぎたハンドマイクがハウリングする。
喧騒と怒号で大パニックの中、出版関係者らしき人に抱えられて退場するミカの姿が、ほんの僅か見えた。
「サイン会については後日必ず行いますので、今日のレシートは捨てず、そのままお持ちください」
ざわめきが収まらない会場に、書店のあらゆる階から人が殺到する。
完全に中止とならなかったことだけが、ファンにとっては救いだったのだろうか。
でも、今日はもうイベントを続行できる雰囲気ではなかった。
「……ミカ、あめり、一体何があったと言うの」
本来の主を失ったサイン会場へと、私はふらふらと歩んでいった。
カバーが折れ曲がり、帯は破れ、無残な姿となった単行本が悲しかった。
「あめり、なんてことをするんだよ……馬鹿!」
私は零れ落ちる涙を袖で拭いながら、床にばらまかれた本を拾い集める。
とっくに持っているけど、あめりの同居人として買い取るほかない。
そうしなければ気が済まない。
痛い出費だけど仕方ない。
「塩飽さん、何をしているんですか」
本を抱えてレジ前に向かおうとした時。
真剣な顔の弘原海先輩が立ちはだかった。
「なんでレジに並ぼうとしているんですか」
「だってあめりがサイン会をメチャクチャにしちゃったから、私が責任を取らないと」
「今の有森さんを止められるのは塩飽さんしかいないんですよ」
「でも、ボロボロの本だけでも買いとらないと、ミカに申し訳なくて」
先輩は業を煮やしたかのように、私の手から何冊ものTwinBirdsStrikeを奪いとった。
「彼女を梅田に誘ったのは自分だから、お金はこっちが払います」
「先輩があめりを連れてきたんですか」
「個展の打ち合わせが終わった後、鷲見くんが『どうしても会わせたい人がいる』と言ってね。それで来たんだよ」
また鷲見か。
確かにミカと同級生だったとはいえ、どうしてそんな余計なことをしようと思ったのか。
いや、ミカとあめりの確執なんて、私だって知らなかったことだ。
「すみません、本の代金だけでも渡しておきます」
「そんなのいらないから、早く有森さんと鷲見くんの後を追ってください」
「本当にごめんなさい、行きます」
私は先輩に大きく頭を下げると、懸命にあめりを追った。
だが梅田はあまりにも広く、彼女を見つけるには多くの人であふれ過ぎている。
「どうしよう、電話も通じないしLINEも既読にならない」
先月、あめりと共に写真を撮影しまくったドンキ前の交差点で立ち止まった。
インスタのダイレクトメッセージなら行けると思い、アプリを開く。
しかしそこには、目を疑うような内容が映っていた。
『泉川ミカのサイン会で暴れたのこいつ?』
『楽しみにしていたのに許せない』
『さっさと下手な写真消せよ』
膝が震え、足が止まった。
心無い書き込みは次々と増えていく。
「なんで、どうしてあめりのことがバレてるの」
SNSを開いてみる。
泉川ミカの名で検索をかけてみる。
『【速報】サイン会に変質者が乱入して大パニック』
『泉川ミカ襲撃される』
『#サイン会中止』
『(動画あり)』
ずらりと並ぶ剥き出しの悪意は、到底正視できるものではなかった。
ガードレールを握りしめたまま、アスファルトに座り込んだ。
「あめりがやったことは許されないけど、でもこんなのって……」
ツイートにつけられた返信には、あめりのインスタアカウントが記載されている。
無慈悲なまでの罵詈雑言はここから流れてきたのであろう。
『泉川先生のために新幹線で大阪まで来たのに、最悪』
『梅田までの交通費返して』
嘆きのつぶやきが目に入るたび、私自身のアカウントで謝罪をしたい気分になる。
でもそんなことをしても無駄だ。
あめりを追わないといけなかった。
しかも彼女を連れ去ったのは、よりによってあの鷲見だ。
「弘原海先輩も酷いよ、なんであんな奴と一緒に行動してるんだ」
疑問が脳内でグルグルと回り、結論が出ない。
心理的なパニックでどうにかなりそうだ。
地下鉄は運転見合わせ状態も解消され、既に運行を再開していた。
あめりなら、きっと家に戻っている。
鷲見なんかの言葉に耳を傾けたりはしないはずだ。
もう話をしないって、この前に約束してくれたじゃないか。
靭まで歩く気力は残されていない。
地下鉄で数駅とはいえ、その時間だけでも頭を冷やしたい。
マスクで息が詰まる、もう街中は嫌だ、限界だ。
西梅田駅の改札を抜け、なんば方面へ向かうホームを一人歩く。
自宅最寄りまでは二駅。
すっかり疲れ果てた。
ぼんやりとした頭のまま、気が付けば自宅の最寄り駅だった。
こんな場所にいるはずがないと確信しながら、それでも一縷の希望を捨てずにホームをうろうろと歩いた。
ホームドアが設置されていない危険な場所、懸命に耳をこらして白杖の音を捜した。
「わだつみ」「わだつみ」「わだつみ」
聞き覚えのあるiPhoneの音声呼び出しに、全身がびくりと震えた。
間違いない、あめりはこの本町駅にいる。
「あめり、どこにいるの」
ホームの一番端までダッシュし、四方八方に目をやった。
ほどなく彼女の姿が飛び込んできた。
水色と白のコーディネイト、自宅を出た時に見た服装だ。
『お前のせいでサイン会が中止になったんだろ』
『泉川ミカに土下座しろ』
『アカウント消せ』
『普通に死ね、ブス』
耳にするだけでも忌まわしい、呪詛のような機械の声がかすかに届く。
ベンチに座り込み、悄然としたまま液晶画面を眺める彼女の姿。
インスタグラムに投げつけられた残酷なコメントを、よせばいいのにわざわざ音声で流していた。
「ダメだよあめり、悪口なんか聞いちゃいけない!」
うつろな目つきのあめりのもとに、私は大慌てで駆け寄った。
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