第11話 さらけだす

「こんなとこにホテルなんてあったんやな」

「……静かにしてて、恥ずかしいから」


 大人同伴でない状態でホテルに入ったのは、初めてだ。 

 家族旅行や修学旅行みたいに誰かが手続きをしてくれるわけではない。

 自分で部屋を決め、お金を払う。

 ただそれだけのことで圧倒的な緊張感が走る。


「音声案内が聴こえるけど、ここって自分で部屋を選べるんやな」

「なんかそうみたいだね、よく分からないけど」

「ワクワクするな、うち、お泊りとかようしたことないねん」


 宿泊施設の内装が映されたパネルがずらりと並んでいる。

 どうやらランプがついている部屋が空室のようだ。

 そもそも休憩って何だろう。

 ホテルというのは朝まで泊まるためのものではないんだろうか。


「桃ちゃん、早くよしいや、後ろから足音聞こえてきよるで」

「ねえ、やっぱり出ようよ」

「こんな土砂降りの中をか? アホかいな」


 背後の男女二人組も、すっかり雨にやられてびしょ濡れの身体で立っている。

 さっさと決めろとの無言のプレッシャーがきつい。

 適当に一番安そうな部屋のボタンを押し、逃げ込むようにエレベータへ走った。


「えらい狭いエレベータやな」

「……黙ってて。恥ずかしいから」


 四人乗っただけで定員オーバーになりそう。ブザーが鳴らなかったのが幸いだ。

 私の後ろで男女が唇を絡める音がする。

 バカか、まだ部屋にも入っていないんだよ、盛りがつくには早すぎる。


「なあ桃ちゃん、ここってもしかしてえっちぃとこか」

「……えっちぃとこだよ」

「うわ、なんか人生が変わる瞬間を見とる気がする」


 薄暗い廊下を挟み、いくつも無機質な形状のドアが並んでいた。

 扉の先には大理石のようなつるつるの床と、寒々しいコンクリートの壁。

 圧倒感よりも禍々しいとでも表現できる気配が支配していた。


「あー、あー、あー」

「あめり、何やってるの」

「声の反射で部屋の広さ見とるねん。えらい反響きついな、かなり狭いんやろな」


 狭いということは、当然えっちぃことした時の声もメチャクチャに響くわけで。


「なんかカラオケとかもあるって聞いたことあるで。あったら歌わへんか」

「休憩なんだから、そんな余裕がある訳ないでしょ」


 部屋の割には広めに作られた洗面台には、数々のアメニティ用品が乗っている。

 洗面所には小さなパックに入った化粧品が並んでいた。


「なあ、この化粧品とか持って帰ってええんかな」

「大阪のおばちゃんか」

「いずれはそうなる予定や」


 シャワー室は湯船も手すりもなく、あめり一人だと少し不安な造りだ。

 ベッドは部屋に一つしかない。当たり前ではあるが。


「うわー、これバネが凄いわ、バインバインや」

「トランポリンじゃないんだよ、子供じゃあるまいし」

「だってうち、こんな広いベッド初めてやねん」


 ご丁寧に二つ並べられた枕。

 当然ながら二人で一緒に寝ろ、という意味だ。


「なあ桃ちゃん、このちっこい袋、知っとるか」

「何って、その」

「はー、えっちぃやつやな」


 これがいわゆる避妊具か。

 そもそも使い方を知らないし、今後必要になる可能性も分からない。


「あめり、なんで服を脱ぎ始めてるの!」

「びしょびしょで気持ち悪いねん」


 自宅でもそうだが、あめりは人目を気にするという習慣がない。

 傍若無人とばかりに、あっという間に上も下も脱ぎ捨てて下着姿をさらす。


「桃ちゃん、ここでは動画撮らんでええの」

「そんな状態で撮れるわけないでしょ」

「そうやな、お子様お断りになってまうわ」


 歩き回っていたせいか、ほのかに上気した薄桃色の肌。

 艶めかしい。というかエロい。


「なあ、どっか洗濯もの干せる場所あらへんか」

「わかった、私がやっておくから、とりあえずこの服を着て」


 クローゼット内にあったガウンをあめりに押し付け、ようやく半裸状態から解放される。


「あのさ、脱ぐなら先に脱ぐって言ってよ」

「いつもは言ってへんやろ」

「ここは、そういう場所だから」


 シャワー室前で私もガウンに着替える。

 濡れた服をクーラー前に置き、所在がないのでベッド端に座った。


「さっきのカップル、もうえっちぃこと始めとるんかな」

「知ったこっちゃないし」

「壁に耳とかつけたら聞こえるんかな」


 顔が灼けるほどに熱い。

 滴り続ける汗とは裏腹に、唇がひどく乾く。

 もうすっかり口紅も落ちた。

 濡れたマスクはゴムの部分が取れかけていた。


「あめり、なんでこういうホテルのことを知ってるわけ」

「それぐらい盲学校の子でも話題にするわ」


 障がい者に対しては、無意識のうちに「健全」というイメージを持ちやすい。

 彼らは私たちと同じような生活はしないし、できない。考えることもない。

 だが、健常者の一方的な固定観念に過ぎない。


「うちらかて化粧もすればおしゃれもするし、えっちぃことにも興味ぐらいあるで」

「……だよね、同年代だもんね」

「バカにしたらアカン。それよりな、桃ちゃん」


 あめりが私に身体を寄せた。

 生乾きの髪の香りが、意味もなく劣情を誘う。 


「せっかくやし、えっちぃことしてみるか」

「……するわけないでしょ、バカなの?」

「タダで帰ったらお金もったいないやん」


 そういう問題か。


「シャワー浴びてくる」


 この重いのか甘いのか分からない空気に耐えられず、唯一とも言える逃げ場へと向かう。


「えー、じゃあうちも一緒に浴びる」

「めっちゃ狭かったから無理、一人用だから!」


 バカ、なんで今日に限ってこんなに積極的になるんだよ、あめりは。

 視覚障がい者の宿命として、どうしても他人とスキンシップを取らないといけないのは承知している。

 でもそれにも限度ってのがあるじゃん。超えちゃダメなラインってあるじゃん。


「桃ちゃん、シャワー出たら保湿せなアカンで」

「ちょっと、覗くのやめてよ!」

「見ぇへんもん。見たいけど」

「……見たいんだ」


 部屋は沈黙に包まれていた。

 私に続いてシャワーを浴びたあめりがドライヤーで髪を乾かす音が、微妙な音量で流れる有線放送らしきBGMをかき消していく。

 ホテルの休憩って一時間が限界なんだろうか。

 時間を過ぎたら怒られるんだろうか。


「ええお湯やったで」

「ただの水道水だよ、温泉じゃないんだから」

「誘導してや。何がどこにあるか分からへん」


 あめりは家の中ではスムーズに動けているが、それはあくまで部屋や家具の配置を記憶しているからだ。


「足元に気を付けて、右側にベッドがあるから」

「ここ、やたら滑るもんやな……あっ!」


 リノリウムの床にあめりの足が取られる。

 私にもたれかかるまま、ほとんどベッドに押し倒されたような状態となった。

 まずい、これは。


「広くて良かったわ、家やったら頭打っとるで」

「とりあえず離れてくれないかな」

「なあ桃ちゃん、せっかくやし聞いときたいことがあるねん」


 あめりの手が私の身体へと伸びる。

 彼女の指先は腕から肩、さらには首から顔へと進む。


「ちょっと、顔は触らないでって言ってるでしょ」


 普段なら、この時点であめりは断念してくれる。

 だが今日は違った。

 ほぼ機能を失いつつあるマスクの表面を、執拗にあめりの手が探っている。


「割と凸凹するな、桃ちゃんの傷痕はずいぶん深いんやな」

「そうだよ、だから触らないで」

「交通事故だったんやろ。どんな状況だったんや」


 私たちの中学では、修学旅行の行き先は東京だった。

 事前にグループを組み、自由行動では各班で決めた場所を回るのがよくあるパターンだ。


「友達いないから集団行動嫌いなんだよね、昔っから」


 幸い、残されたのは私一人ではなかった。

 マンガ仲間の三ヶ野原いずみもまた、クラス内で孤立していた。


「例のボランティアサークルに鷲見っているでしょ。よりによってあいつと同じ班だったんだ」

「同級生だったんか、あいつ」

「別にケンカが強いわけでもないのに、粋がって不良の仲間になったんだよ。みっともない」


 鷲見のやつ、小学校時代はただのサッカー少年という感じだったのに、気が付けば髪の毛を染め始めていた。


「修学旅行の班分けって、不良とぼっちが残るものなんだよ。先生に無理やり組まされてさ」

「そんなんでグループ行動なんてできるんか」

「あいつらは勝手に東京見物するからって私らを放置したんだ。逆にラッキーだったよ」

「東京のどこ行ったん」

「池袋。岡山じゃ売ってないグッズがあるだろうしね」


 池袋は観光地よりもディズニーランドよりも、私とミカにとっては重大な目的地だった。

 地元では考えられない品ぞろえのアニメショップがあるのだから、行くほかない。

 二人だけの自由行動だから、何をするにも気兼ねがいらない。

 その予定は、居眠り運転の車に寄って暗転した。


「交通事故って、まさかその時の話なんか」

「池袋は人が多いって思いながら歩いてたら、周りから叫び声が聞こえてね」

「おっかないな、いきなりだったんやろ」


 歩道にいたはずなのに、気が付けば病院だった。

 暴走した車は私とミカの身体をガラスのショーケースに叩きつけ、大破していた。

 救急車のサイレンが聴こえたところまでの記憶はあるが、それが最後だった。


「そういうの、本当に覚えておらんもんなんや」

「人間って本当に記憶喪失するって初めて知ったよ。事故の場面はまったく覚えてない」

「幸いかもしれんな、それは」


 覚えていることは、全身が痺れて何の感覚もなくなったこと。

 声を発しようとしたが、顔の筋肉がぴくりとも動かなかったこと。

 のどから口を窒息するほどに満たした血の味は、生涯忘れようもない。


「でも私が顔のケガだけで済んだのは、ミカのおかげなんだ」

「もしかしてその子が、例のマンガ家か」

「そうそう。今にして思えばびっくりだけどね」


 車に撥ねされた私と建物の間に入りこみ、クッションになるかのようにミカは倒れていたという。

 飛び散ったガラスやコンクリート片で顔はえぐられたものの、それ以外の身体に影響はなかった。

 少なくとも、私はそれだけで済んだ。


「修学旅行、これで終わっちゃった」


 他の生徒たちが岡山に戻ってもなお、私とミカだけは東京の病院に残されることになった。


「顔の皮膚を貼りかえる手術を受けたんだけど、うまく定着しなくてね」

「分かる。うちもブドウ膜炎の手術したことあるねんけど、一発で終わってくれへん」

「一か月も入院したの初めてだよ」


 何一つ思い出を残せなかった修学旅行。

 唯一刻み込まれたのは、顔面をえぐりとられた醜い手術痕だった。


「鷲見のやつ、私のことを見てバケモノとかモンスターとか言いだしてさ」

「なるほど、それがマスクし始めた理由ってわけか」


 ようやく私とミカの両方がクラスに戻ってきても、平穏な日々は訪れなかった。 

 誰もが腫れ物に触るように扱うか、もしくはこそこそと陰口を叩かれる。

 そんな中、余計なちょっかいを出してくるのはいつも鷲見だった。


「あいつ、私らがマンガを描いていたノートを奪って、みんなで笑いものにしたんだよ」

「酷いことしたんやな」

「それで、半泣きで取り戻しに行った時だよ」


 不良仲間と付き合いのある女子がいきなり私の背後に回り、無理にマスクを外した。


「鷲見のやつ、素顔が露出した瞬間を動画で撮り始めたんだ」

「……マジか」


 奴の行動は昔から見ているが、何をさせてもそこまで強くない。

 どうせ誰かの指示で動いている、それぐらいは分かる。

 その惨めで醜い心根が情けなく、許せなかった。


「きつかったやろ。それはさすがにアカンわ」

「そうしたらミカがね、今まで見たこともない剣幕でキレてくれたんだ」


 私のマンガは、鉛筆で軽く描いただけのものに過ぎない。

 だがミカの場合はきちんとペン入れし、スクリーントーンも貼り、デザインカッターで削ってさまざまな効果も使う。


 そのカッターの尖端が、鷲見の手の甲をスマホもろともに切り裂いた。

 細かいガラス片だらけの床に、止め処ない鮮血がしたたり落ちた。


「申し訳ないけど、ざまぁって思ったよ。天罰だよ」

「……ほんまか。えぐいことするやっちゃな」


 東京での事故以来、ミカは性格が変わっていた。

 それまでは地味で大人しかったのに、授業中に突然大声で叫んだり、無断で家へ戻ったりと、奇行が目立つようになっていた。


「どうも事故で頭を強く打ったせいで、情緒面に影響が出てしまったみたいなんだ」

「わかるで。うちのクラスにも同じようなことになった子がおった」

「凄いよね、声まで変わっちゃうんだよ。悪魔かと思うようなドスの効いた話し方、びっくりした」


 学校側でうまくやったせいか、刑事事件にはならなかった。

 だがその後、ミカは突如として学校に来なくなった。

 先生からは、彼女は大阪へ転校したと知らされた。

 名目はあくまでも病気の治療。


 だが学校の誰もが、傷害事件が尾を引いていることは間違いないと考えていた。


「なんで、悪いのは鷲見なのに、どうしてミカが転校しないといけないんだよ」

「……学校ってのは理不尽なもんや」

「だからって、悪くない子がどうして責任を負わないといけないんだよ」


 辛い記憶を語っていると、自然と喉が詰まってくる。

 息ができない。

 ベッドのシーツがびしょびしょに濡れている。


「しかも鷲見のやつ、なんでよりによってうちの大学にいるんだよ……」

「うちがなんとかしたる。助けたる。だから泣かんといてや」


 あめりは私の身体を抱きしめた。

 どくんどくんと力強く響く彼女の心拍音が、私の荒ぶった魂を鎮めていく。


「桃ちゃん、朝に塗った口紅が剥げとるで」

「雨のせいかな、マスクもべちゃべちゃだしね」


 あめりの指先が、私の唇を這う。

 初めてルージュを引いてもらった時のように、優しく、柔らかい感触が伝わる。


「なあ、目ぇ閉じててや」

「……なんで?」

「恥ずかしいからや。こっちは見えてへんけどな」


 あめりがひとつ息を吸い込んだ。

 キス、したいんだろうか。

 まさかね。


「盲学校の先生から聞いた話やねんけど、手先の感覚が悪うて点字が読めん人がおったらしいんや」

「……それ、なんの話」

「その人、どうにかして点字を読めるようになったんや。なんでか知っとるか?」

「わからない」

「唇や。唇の神経ってめっちゃ鋭敏やから、本にキスするみたいに読んだって話やで」


 あめりの言うことだから、どうせ嘘に決まってる。

 だが彼女は今までよりもさらに緊密に体を寄せてくる。


「手よりも、唇で触れた方がよう分かるらしいねん」


 私は彼女の意図を酌みとった。

 そっとまぶたを閉じ、あめりに身を任せることに決めた。


 だが。


 ――ジリリリリリ。


 ほんの数秒だけの、人生で最高の緊張感が不意に途切れる。

 至福とも言える時間を無慈悲にも遮ったのは、休憩時間の終了を告げるフロントからの電話だった。

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