第10話 道頓堀に雨が降る

「桃ちゃん、昨日の夜の保湿は完璧やろな?」

「できるだけのことはやったつもり」

「よし、チェックしたるで」


 もはや朝の恒例行事だ。

 今までほとんどメイクとは無縁で生きてきた自分が、わずか一か月でここまで変わるとは信じがたい。


「クリームしっかり塗れたか」

「触ってみるといいよ」


 あめりもすっかり手慣れたもので、頬の傷痕には触れないように化粧の具合を確かめる。

 まだ顔をタオルで隠しながらであるが、私もかなり順応してきたと思う。


「よっしゃ、前とは全然メイクの乗りがちゃうな」

「自分でもだんだん分かってきたよ」

「今日の動画撮影は大阪の中心ミナミやから、気合い入れんとな」


 勝ち誇った表情のあめりが妙にムカついてきたので、少し意地悪をすることにした。


「ついでにあめりの化粧姿、動画に撮るね」

「はぁ、ちょっと待ってや。アカンでこんな顔」

「自分に自信を持たないとダメだと言ったのはそっちだよ」

「メイクもそのための行為や、つまりすっぴんだと自信もゼロなんや」


 嫌がるあめりを追いかけ、ファンデもアイライン入れるのも全部撮ってやった。ざまみろ。


 しばらくのドタバタの後、私たちはドキュメンタリー撮影のためにミナミへと向かう。

 靭は梅田と心斎橋しんさいばしのほぼ中間にあるので、天気次第では徒歩でも十分に行ける距離だ。


「昔、ようお祖父と一緒に御堂筋を歩いたものやで」

「広いし綺麗だね、さすがに岡山にはこういう道はないよ」

「ただ秋やと最悪なんや、ギンナンがようさん落ちとるさかいに、踏むと猫のババみたいな臭いがする」

「その時期になったらまた教えて、避けるから」

「それが出来たら誰も苦労せんで」


 船場せんばから心斎橋にたどりつくと、周囲の景色が一変する。

 海外高級ブランドの瀟洒な店舗が増え、街全体から大人の洗練された空気が醸し出される。

 一人で歩くには眩しすぎる街だ。


「そろそろ心斎橋やろ。人も増えてきよったな」

「気を付けないとぶつかりそうだね」

「大阪のおっさんに当たったらヤバいで、リアル吉本新喜劇みたいな展開になる」

「それはそれで見てみたい気もするけど」


 あめりは白杖を折り畳むと、私の左腕へもたれるようにすがりついた。

 肘に彼女の握力が伝わる。

 身体にあめりの体温が移る。

 ほんの少しだけ、周囲の視線が気になり始める。


「この辺りがひっかけ橋のとこやないか。グリコの広告が見えるやろ」

「テレビに映る景色そのまんまだね、本当にバンザイしてるんだ」


 戎橋えびすばしは大阪観光の象徴とも言える場所で、国内外から多くの人が訪れる。

 一時期はかなり人波も少なかったが、再びインバウンド目当ての店も増え、かつての賑わいを取り戻していた。


「撮影始めよっか。うちらも看板立てるで。グリコに負けてられへん」

「勝ち負けを競うところなのかな」


 スマホを取り出し、いよいよ動画の撮影に移ろうとした時。

 あめりは私の腕を強く握りしめた。


「どうしたの、撮らなくていいの」

「天使の色鉛筆をな、ひっくり返した時を思い出す色や」


 あめりは直立不動のまま、瞼を閉じた。

 光を失った彼女の目だが、周囲の明暗程度は識別可能だ。

 時に明るく、時に暗く、光の変化を刻み込むようにその双眸を開閉させる。


「桃ちゃん、色鉛筆ひっくり返したことあらへんか」

「そりゃもちろん」

「直すの面倒やけど、バラバラになったのが楽しくてな。わざとひっくり返して遊んだもんや」


 さまざまな色味が立体となり、あめりの全身に突き刺さってくる感覚。


「こんなにようさんの色が見えたん、初めてや」


 あめりの指先が私の袖に鋭く食い込む。


「耳の奥にカメラ入れられへんかな」

「無理でしょ、そんなの」

「頭ん中の景色を写真に撮りたい。うちの脳内で広がる風景、桃ちゃんにも見せたりたい」


 あめりは今だ、とばかりにポケットからカメラを取り出す。

 人波でごった返す戎橋の真ん中に駆け込み、立ちはだかる。


「ちょっと、橋の真ん中はやめようよ、迷惑だから」

「これや、うちが子供の頃からずっと見たかった景色なんや」


 あめりは自らの頭を両手で抱えると、


「最高やーーーー!」


 道頓堀川の周囲のビルに反響するほどに叫んだ。

 誰もが一斉に足を止めた。


「凄いわ、色が頭を突き抜けるみたいや」

「ダメだよ、こっちに戻って」

「桃ちゃん、動画や、今のこの姿、はよ動画に収めんとアカンで」


 あめりはもう辛抱できなかった。

 黒光りするカメラレンズが躍動する。


「今まで何度も来たはずなのに、こんな色、一度も見たことないで」


 音楽もないのに、ステージでもないのに、あめりは叫び、笑い、踊る。

 使い捨てカメラのフィルムを巻くのが間に合わないのか、シャッターが何度も空を切る。

 前衛芸術にも似た彼女の舞踏を、私は口を開けたまま撮り続ける。


「踊ろっか、身体が勝手に動くねん」

「ちょっと、手を引っ張らないで」


 くるくると回るあめりに、私の腕が巻き込まれていく。

 恥ずかしがる様子などない。

 あめりはただ一心不乱に、心が求めるままに、乱暴なまでのステップでダンスを踊る。


「やめようよ、みんながこっち見てるから」

「誰が見てても構へん」


 いつのまにか手拍子が沸き起こっていた。

 外国人観光客が私たちにカメラを向けている。

 無理だ、ほんと、イヤだ。


 逃げたい。

 拍手の渦に飲まれたまま、身動きさえできない。

 だが不思議なことに、あめりと二人でステップを刻む間に、心が妙に高揚していく。


「桃ちゃん!」


 大阪のど真ん中で、感極まったあめりが私の胸へ飛び込んだ。


「あめり!」


 彼女の想いを、身体を、私はぐっと受け止めた。

 全身全霊で舞ったばかりの踊り子のように、あめりがぐったりともたれかかる。

 唐突な終わりを迎えたダンスに、人々が万雷の喝采で応えた。


「動画、ほとんど撮れなかったじゃない」

「すまんな、すっかり夢中になってしもうた」


 疲れ果てて地面に崩れ落ちた私たちに、外国人観光客たちがなぜかコインを置いていく。

 大道芸人か何かと間違われているのだろうか。


「ちょっと待ってください、It's not a show」

「ええがな、うちらの魅力で稼いだお金や」

「そんなこと言われても、ほら、また一人来てる」


 無精髭を生やした白人の青年、いやおじさんが千円札を手にしている。

 三十代半ばぐらいだろうか、よれたTシャツ姿が実にいかがわしい。


「Very good performance、スバラシイ」

「いらないです。これは見世物じゃないです」


 そう断って突き返したとき、彼は別の提案を出してきた。


「じゃあその代わりに絵で払うよ、それでOK?」

「えっ、似顔絵を描いてくれるん」


 おじさんの申し出を聞くや、あめりは素早く彼の手を取った。


「描いて描いて、うちの名前はあめり、Please draw us!」

「アメリ、いい名前ね。ボクはJoachimヨアヒム。イスラエルから来たArtistネ」

「なんやおっさん、ええ年して日本でフラフラしとるんか」

「イスラエルでは軍隊行ったあと、みんなこうやって世界をフラフラするヨ」

「おもろそうやけど、軍隊はキツそうでアカンわ」

「そう、平和が一番ネ」


 初対面の外国人男性と馴れ馴れしく話し続けるあめりを後目に、私は一歩下がって様子をうかがっていた。

 だがそうもいかないようだ。


「君はアメリの友達? 名前を教えて」

「私は、桃子です」

「モモコ! すごく日本人らしい、いい名前ネ」


 ヨアヒムの話によると、彼は似顔絵を中心に路上活動している画家のようだ。

 少し怪しげな風貌からして、おそらく警察の許可など取っていないだろう。


「じゃあ、アメリとモモコ、二人の絵を描いてあげるヨ。どっちを先にする?」

「すみません、私の絵は描かないでいいです」

「タダだよ、お金いらないヨ」

「お金の問題じゃないんです」


 事務的かつ素っ気なく、私はヨアヒムの頼みを断った。

 似顔絵となればマスクをしたまま、とはいくまい。

 人前に傷痕をさらすぐらいなら、死んだ方がマシだ。


「まあええで、うちの顔を描いてや。めっちゃ楽しみや」

「そこに座ってネ、すぐに終わるヨ」


 戎橋を渡る人々が次々とあめりを凝視し、指をさしているのが見える。

 ほとんど公開処刑みたいなもので、私じゃ絶対に耐えられないだろう。

 ドキュメンタリー撮影には絶好の素材なので、とりあえずカメラは回す。


「興味深い目をシテルネ。まるでグレープ」

「ヨアヒムのおっさん、インスタやっとるか」

「Instagram、もちろんやってるヨ。アメリのアカウント教えてほしいネ」


 ドローイングを中断し、二人はインスタの写真を互いに見せ合う。

 スマホの写真では色味を感じられないはずなのに、あめりはGoodを連発する。社交辞令が上手い。


「イスラエルはずっと戦争してる。だから日本は平和で羨ましいヨ」

「でもおっさんかて楽しそうやんか、顔が自信にあふれとるで」

「Of Course、ボクは絵が得意だから、世界中どこでも絵を描いて生きていける」


 英語専攻とはいえ、あめりの英語も割と怪しいレベルだ。

 だが彼女の大声ではっきりと単語を並べていく話っぷりは、見習わなければならないと感じさせる。

 

「おっさん本当に絵うまいな。目ぇ見えへんけど分かる」

「You Blind? 凄いネ、写真も上手いし絵もわかる!」


 鉛筆を走らせるヨアヒムの手を、あめりは何度か触らせてもらっていた。

 画用紙のざらついた表面を愛おしそうに撫で、その感触を楽しんでいた。


「これ、どんな鉛筆使っとるんや」

「Made in Germanyね。使いやすいヨ」


 実家で見せてもらった多くの作品からは、とにかく絵が好きだというのが伝わってきた。

 脳内で色を指定する時に見せる、天使の色鉛筆への固執。

 ヨアヒムが使う画材への興味。

 どう考えてもあめりは写真より絵の方に関心があるのではないだろうか。


「デキタヨ、アメリ」

「ありがとなー、Thank you very muchや」


 カリカチュアと呼ばれる技法で描かれたあめりは、いかにも外国人が見た日本人のもの。

 少し長めの輪郭に細めの目鼻。

 グレープキャンディというよりはレーズンといった風情だ。


「なあ桃ちゃん、うちの顔、上手に描けとるやろ」

「……あめりがそう思うならそれでいいよ」

「桃ちゃんの絵も見たかったわ、残念や」

「ごめんね」


 似顔絵を筒状のケースに収納しながら、あめりは心から笑っていた。

 自分の顔を誰かに描いてもらった、そのこと自体が純粋に嬉しいと言う表情だった。


「それじゃまたここで会いマショウ。ヒッカケバシで待ってます」

「なんかナンパ狙いの男みたいやな、You’re playboyや」

「必ず来てネ、アメリ、そしてモモコ。あとさっきまで撮ってたMovie、今度見せてネ」


 あまりのノリの良さに、最初は違法商売をしている人間かと訝しんでしまうぐらいだった。


「これ、うちの大学の学園祭で流す予定なんです」

「Festival! 大阪の大学ネ、絶対行くヨ」


 遠い国から日本に来て、しかも東京とは明らかに雰囲気が違う大阪で生活する生命力に感心する。

 あめりが満面の笑顔で話し続けるだけの魅力がある。

 素直にそう思った。


「すごいね道頓堀は、変わった人もいるんだね」

「うちはこの街が好きやで、とにかくようさんの色があふれ返っとる」

「でも危ない場所でもあるから、自分だけで来たらダメだよ」

「もちろんや、桃ちゃんと一緒やないと色味が半分になってまうからな。一人じゃもったいないわ」


 周囲を見渡すと、気になるものを売ってるお店や美味しそうな飲食店など、ありとあらゆるものが目に飛び込んでくる。

 ぼっち時代の私なら絶対に近づきたくないはずだが、あめりと一緒だと全てを楽しみたいという気持ちに駆られる。

 孤独じゃないって、本当に素敵なことなんだ。


「ねえあめり、道頓堀って裏の方にもいろいろとあるんだよね」

「そうや、川沿いを適当に歩いてみるか?」


 戎橋を過ぎ、日本橋あたりへと歩を進めていた時だった。

 頭に、頬に、ぽつりぽつりと水滴が当たる。

 かなりの大粒、おそらくこれは夕立になるだろう。


「まずい、雨降ってきたみたい」

「適当に動画撮って帰るつもりやったからな、傘なんて持ってきてへんで」

「どこかで雨宿りしないと、風邪ひくよ」


 あめりを腕にしっかり捉ませたまま、急激に強くなった雨を避ける場所を探す。


「アカン、さっき描いてもらった似顔絵が濡れてまう」

「下手に裏通りに来て失敗だったね、喫茶店とかないのかな」


 あめりは絵の入った筒を服の中に押し込む。

 そのせいで白杖もうまく使えないし、私の袖もつかみづらそうだ。

 自然と走るスピードが落ちていく。

 背中はほとんどずぶ濡れ、髪の毛から止め処なく水がしたたり落ちる。


「なあ桃ちゃん、この建物は入れそうやで。音声でご休憩とか言っとる」

「えっ、ちょっと、ここはまずいよ」

「ええから、選んどる場合やない」


 あめりに無理やり押されるようにして、二人は妙に小洒落た建物へとなだれ込む。

 

「いらっしゃいませ」


 無機質な自動音声が私たちを出迎える。


「お好みのお部屋をボタンにてお選びください」


 私にとってはもちろん未経験の場所だ。

 だが、この雰囲気はなぜか分かる。

 独特の空気がある。子供を遠ざける気配がある。


「レディースプランの方は、インターホンにてお知らせください」


 来てしまった。

 ここは道頓堀の裏通りに林立する、ラブホテルの一つだった。

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