第3章 私は、天使の疵跡を知る

第9話 天使はセピア色

「盲目のインスタグラマー、有森あめり」


 ずっと撮り続けている動画は、弘原海先輩からも「私が欲したかった映像だ」と好評を頂けている。

 とはいえまだまだバリエーションが少ない。

 もっと私生活に踏み込んだ絵があると助かる、そんな依頼に応えてやってきたのは


 あめりの実家だった。


「桃ちゃん、今から粉練るさかい、しっかり撮ってや」

「大丈夫? それじゃ行くよ」

「インスタグラマーGrapeCandyの、おしゃべりパン工場!」

「……そのタイトル、ダメだと思う」


 今回の撮影地に選んだ場所はパン屋。

 ここは大阪府南部、汐ノ宮駅から徒歩五分のところにあるブーランジェリー・ル・レザン。

 フランス語でブドウという意味だそうだ。

 ちなみにあめりのご両親が営む天然酵母のパン屋さんだ。


「このハルユタカという小麦粉は国産ではグルテンが豊富な種類やから、水を多めにして練るのがコツや」

「これだと料理動画っぽくない?」

「万バズとか行くんやろか」

「私の顔が映ってなければいい」


 インスタでさえ使いこなせない私だ、YoutubeやTiktokみたいに撮れるはずがない。

 前回のはたまたま良かったとはいえ、なんで先輩の頼みだからって安請け合いしたんだろう。


「うちは目が見えへんけど、その代わりに指先の神経はみんなより鋭敏や。触るだけでパンの水分量からグルテンの出来具合まで分かるで」

「グルテンの出来?」

「そうや、気温や湿度、酵母の元気さ具合によって全然違うんや」


 まるでプロのパン屋みたいだ。

 実際、子供の頃から親の手伝いをしていたみたいだけど。


「粉は命や、うちのおとんは種類ごとに粉変えとるで、産地も違うし酵母まで変えとるんや」

「有森あめりは繊細な感覚を駆使し、写真もパンも芸術的な仕上がりにまで高めるのである」

「なんやその『映像の世紀』みたいなナレーションは。そんなことより桃ちゃんも一緒にパン作ろうや」


 あめりは私にカメラを置いて撮るように命じ、十分に手を洗わせた。

 食べ物を扱う店だから、その辺りはおろそかにはできない。


「美味しいパンの作り方はな、何よりも愛情を持って粉を練ることや」

「……私の顔、映ってるでしょ」

「大丈夫や、ここは使わんようにしてもらう」


 私の手を引っ張り、ボウルの中に入れる。

 ほのかに暖かい生地の感触が、実に艶めかしい。


「二人で一緒に、ねりねりねり」

「やめてよ、さすがにバカみたいだし恥ずかしいよ」

「このパンは売り物にはせんで、うちと桃ちゃんで食べるんや」

「えっと、この後スタッフが美味しく頂きました!」


 ツッコミを入れながらも、適切な堅さになるように生地を練りあげるあめりの動きはどう見ても素人のものではない。

 むしろ製パンを本職にした方がいいのではなかろうか、というレベルに達している。


「塩飽さん、ずいぶん張り切ってますな」


 ル・レザンの店主であるあめりの父親が、オーブン前で笑っていた。


「なんでうちで撮影するんかと思ったけど、あめりが久しぶりに楽しそうな顔してるからええですわ」

「この子、親の前ではずっとムスッとしてるんですよ。やっと友達ができたと知って安心しました」

「おかんは黙っといてや、友達がおらんなんて聞いたら桃ちゃんが心配するやろ」


 私があめりの家に住まわせてもらっている時、家賃などは発生していない。

 彼女の生活費はあめりのご両親が払っているためだ。

 はっきり言えばとても助かるのだが、さすがに何もしないのは少し心が痛む。


「あめりはおばあちゃん子でしてね、祖母のいた家から離れるのがイヤだと言って靭に住み続けているんですよ」

「ちょっと、そういう話せんといて」

「いずれは親なしで生きていかないとダメですし、訓練するなら早い方がいいです」


 さすがに視覚障がいの娘を一人で住まわせるのはどうかと思っていたが、親にはそれなりに深い考えがあったようだ。


「塩飽さんがネイルとかしてる子じゃなくて良かったですわ、それやと手袋が破けないんで」

「おとん、桃ちゃんは派手なんは好みやないねん。ネイルどころか化粧もようせえへんで」


 悪かったですね。

 あめりのご両親と初対面なんだから、今日は少しぐらいは顔を作ってますって。

 もっとも、化粧品はあめりのを借りたんだけど。


「地味でもええやないですか、その方が清楚な感じがしますわ」

「おとん、まさかうちのことを派手でケバいって思ってへんやろな」

「あめりはハデやのうて、センスがズバ抜けとるんや」

「ようそんな誉め言葉使えるな、感心するで」


 あめりの父親は大阪市内で働いていたのだが、ある日一念発起して郊外に自らの店を開業。天然酵母を生かした自然派のパンで有名になっていた。


「おとんが何時めんどくなって店閉めても安心やで、うちがここを継いだるさかいに」

「お前が結婚したら考えたるわ、今は想像もしとうないけど」

 

 父親の茶化しにムッとしたのか、あめりはすかさず私のもとに身体を預けてくる。


「うちは桃ちゃんと結婚するから、この店はうちら二人のもんや」

「そりゃ幸せでうらやましい。でもその前に今日の分のパンを焼ききらんとな」


 シンプルで素朴な形状のパンをオーブンに入れ終わる。

 ようやく工房内に弛緩した空気が流れた。


「焼き損ねですけど、よかったらどうぞ」


 あめりの母親が持ってきたのは山盛りのブリオッシュやクロワッサン。


「これ、本当に失敗作なんですか?」

「ちょっと火が強すぎですから、店には出せないんですよ」

「いえいえ、歯ごたえもいいし美味しいし、普通のパン屋なら商品にしてますよ」


 ふっくらしたパンの映像は、動画の合間に入れるにはちょうどいいだろう。

 あめりを育んだ環境もわかるし、何よりもグルメネタは引きが強い。


「あめりを最初に工房に入れた時から、生地を正確な形で整えるのが上手かったんですわ」

「でも焼き加減はイマイチでね。初めて焼いたパンはコーヒーでも混ぜたみたいな色でしたわ」

「近所の人は喜んでましたよ、牛乳つけて食うと美味いって仰ってました」

「おかんもおとんも、うちのこといっこも誉めてへんで」


 あめりの両親はざっくばらんにあめりの過去を語る。

 障がいを持つ子供の親は深刻な顔をしているイメージを持っていたが、むしろ普通の家庭の方が子の成長に無関心かもしれない、と感じた。


「桃子さん、さっきから食べるときに顔をずらしてますけど、どうかされましたか」

「まだ感染対策とかされてはるんかな。少し離れましょか?」

「いえ、何年も前からずっとこうなので気にしないでください」


 こんな場であっても、私はまだマスクを外せなかった。

 あめりのご両親が多分なまでの厚意を向けてくれているのは分かるが、それでも頬の傷跡を見せることには抵抗がある。


「お腹が一杯じゃなければ、もう一つあるんですけど食べてみてくれませんか」


 あめりの母親が持ってきたのは、たっぷりのグラニュー糖で夏みかんを煮たコンフィチュールを載せたパンだった。

 鮮烈な酸味に、果汁がしみたパリパリのパン皮の香ばしさが加わった逸品だ。少し皮を残しているせいか、立ち上る香気が瑞々しい。


「近所の農園の夏みかんなんですけど、美味しいでしょう」

「春にも獲れるんですね。すごく香りが強くていいですね」 


 顔を隠しながら手早く食べ終えた私は、すかさずマスクを装着して笑顔を作る。


「でもこの夏みかん、売り物にはならないんや。傷もんやから」

「それに少し小ぶりなんですけど、マーマレードなどにするとぐっと映えるんですよ」

「聞いたことあるで、傷がいった果物は自己修復能力が働いて甘くなるって」


 あめりのご両親がわざわざこのパンを私に出した理由が分かった気がした。

 おそらくこれは私のコンプレックス、顔の傷痕に対してのエールなのだろう。


「おかん、そろそろ開店準備するで。桃ちゃん、悪いけど掃除手伝ってんか」

「あめりもやるんだ」

「どこに何があるか完璧に分かっとるから平気や。大まかにやるから細かい仕上げ頼むで」


 地元の木材で作られた暖かみがあるデザインのテーブルや椅子、ガラス製のショーケースなどを器用に拭き上げていくあめり。

 その仕事は手先の感覚を駆使して進めるだけに、ゆっくりだが丁寧だ。


「うちのおとん、準備段階からこだわったみたいなんや。出来るだけ丸みのあるものしか置かんとか、段差はなくすとか、人が歩けるスペースを広くとるとか」

「あめりのことを考えて設計したんだろうね」

「おかげで足が悪いおばちゃんでも買い物が楽みたいなんや。バリアフリーしっかりやれば儲かるってことや」

「お金の問題なんだ」

「そりゃそうやろ、店自体が続かんと何の意味もあらへんがな」


 あめりのポケットから、電話の呼び出し音が聞こえる。

 わだつみ、と鳴り響いていることを考えると、おそらくは今度の個展についての話なのだろう。


「すまんな、先輩からの連絡や。ちょっと待っててや」

「わかった、適当に時間潰しておくよ」


 店の天井付近には店内に差し込む薄日で日焼けし、やや色褪せた絵画が飾られている。

 気のせいか、少し破れたような跡もある。

 デザインは覚えがある。『天使の色鉛筆』の箱絵をモチーフにしたものだろうか。

 それも一枚や二枚ではない、店全体をずらりと囲むように貼り巡らされていた。


 そうだ、これを撮影しておこう。

 今は写真がメインとはいえ、あめりの基礎を築いたのはこれらの絵であることは間違いないはずだから。


「ええ絵やろ、これ、みんなあめりが描いたものなんですわ」


 ぼんやりと眺めていた私の背後から、まさに子煩悩といった笑顔であめりの父親が話しかけてきた。


「すみません、勝手に店内を撮影したりして」

「構やしまへん、どうぞご自由に」


 大胆な構図と色遣い、背景と主役の大きさが同じざっくりとした描写。

 子供のような視点で描かれた天使が、私たちを見下ろしていた。


「あめりさんって、絵は嫌いじゃなかったんですか」

「そんなことはないです。祖母からもらった色鉛筆が大好きだったんですよ」

「暇さえあれば天使の絵をようさん描いてましたわ。色はその日の気分によって変えとるんですがね」


 ご両親の言葉は、先日靭公園で聞いたあめりのセリフとは異なっていた。

 絵は嫌いだ、天使の色鉛筆なんて捨ててしまった。

 そう言い切ったあめりが寂しげな顔をしていたのを思い出す。


「実家なんてあめりの絵だらけでしたね。祖父も『この子は色遣いの天才だから』といつも誉めていたんで」

「額縁まで買い揃えて、いつか孫の個展をやると張り切ってたのが懐かしいですわ」


 あめりの絵について語るご両親の顔は得意げだった。

 でもそうすると、祖父母にも愛されていたはずのあめりが絵をやめた理由がまったく見えてこない。


「あめりさん、色鉛筆を捨てたって言ってたんです。何があったんでしょうか」


 私の問いかけを待っていたかのように、ご両親は落ち着いた顔で言葉を選ぶ。


「中学の時、いきなり額を全部叩き落したんですわ。それも自分の手でね」

「わんわん泣いてどうしたかと思いましたよ。割れたガラスが飛び散って大変でした」

「落ちた絵を手であさっては引きちぎってね。何枚かをこっそり救出するのが精一杯でした」


 額を叩き割って、絵を引きちぎる。

 どう考えても尋常な沙汰ではない。


「もう絵は描かん、天使なんておらん、色が見えんって泣くばかりで、理由も分からないんです」

「あれほど大好きやった天使の色鉛筆も、全部叩き折ってゴミ箱にほかしてもうて」


 先日、梅田の街中で見せた堂々たる態度が、まるで嘘のようだった。

 あめりは自信に満ちた表情でカメラを構え、自らのアカウントを高らかに叫んでいた。

 それほどの強い心がへし折られる事態が何なのか、まったく想像もつかなかった。


「そんな時、父があめりにカメラを買うてくれたんですわ」

「あめりは色遣いの天才やから、写真でも日本一になれるなんて喜んでましたね」


 あめりが写真を始めたのは、絵を描けなくなった代償だったと言う。

 ミカが語ってくれた言葉が頭をよぎる。

 視覚障がい者は自信がないと生きていけない、誉めてあげなければいけない。

 もしかしたらミカにも、あめりと同じようなことがあったのだろうか。


「不思議なことに、スマホだと色が見えないから写真が撮れないって言うんですね」

「あめりはカメラをいじるようになって、やっと笑顔が戻ったんですわ」

「インスタ、とか言うのも私がアカウントを作ってあげて、写真をスキャナで処理してアップロードして。面倒でしたけど、久々に笑顔を見せてくれました」


 ご両親の話を伺いながら、私はじっとお店の天井付近を見つめていた。

 すっかり退色した数多くの天使たちが、妙に悲し気に映った。

 それは彼女にとって、いかにも子供らしい純粋なる自信だけで描き上げた存在証明だったのかもしれない。

 

「あめりさんに怒られませんか、勝手に絵を飾るなとか」

「色褪せてセピア色になってますしね。おそらくあめりには見えていないんだと思いますよ」

「でも正直な話、これやったら見えへんやろと思うて残しとるのは確かです。親としては娘の絵も好きなんで」


 その時、店のドアに取り付けた鈴がガラガラと派手な音を奏でた。

 小ぶりのミカンらしきものを両手に抱えたあめりだった。


「山の上んとこのオレンジ園の主人がおったねん、めっちゃ久しぶりに会うた」


 形も凸凹で悪く、素人の私にも売り物にはならないと分かる。

 だが店全体をあっという間に満たすほどに強烈で爽快な香りは、新鮮な果実が持つ生命力さえ感じさせる。


「あめり、この店の中で何か色を感じるかな」

「普段やとレンガ色に樺色、そこに山吹色やろか。チョコレート色もあるし、ぶどうの酵母使っとるパンやとぶどう色もうっすら分かるで」

「他には何かある?」

「あとはこのオレンジや。橙色と蛍光レモンの色味が皮膚に突き刺さってきとるわ」


 屈託もなく語るあめり。

 幸か不幸か、自分の絵が飾られていることには気づいていない証拠だった。


「そろそろ開店の時間やろ。お客さんの話し声が聞こえてくるで」

「そうだな、今日はあめりに店番してもらおうか」

「じゃあ、私はその様子を動画で撮影しますね」

「うわ、めっちゃ緊張する。セリフ噛んだらどうしよう、恥ずかしいわ」

「梅田で暴れていた方がもっと恥ずかしいよ」

「まあ、そうやろな」


 準備中から営業中へと変わるドア前の表示。

 なだれ込んでくる多くのお客さん。

 あめりの目には、今どんな世界の色が見えているのだろうか。


「いらっしゃいませー!」


 あめりの弾んだ声が、素朴な色合いの店内に明るく響き渡った。

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