第8話 梅田で踊れ

 四月に入り、ようやく大学も本格的に授業開始の時が来た。

 昨年はほとんどがリモートだったこともあり、大教室で受ける授業には高校では味わえなかった新鮮さがあるだろう。


「生の講義って、途中で寝落ちしないか心配だよ」

「うちは授業中に眠くなるって感覚わからんけどな。指やら耳やらフル回転するさかいに」

「教科書とかプリントとかも点字なんだっけ。特注なの?」

「うちの大学はその辺がしっかりしとるんや。ボランティアの人たちが教材を点字に翻訳してくれるで」


 教室に入ると、まず黒板に書かれた授業の諸注意を確認する。

 私が一字一句読み上げていると、あめりは何やら奇妙な機械を使って入力し始めた。


「それ、何の機械?」

「ブレイルメイトって言うやつやで。点字キーボードにもなるし、文字を点字で表してもくれるし、これがないと勉強にならん」

「あめりっていつもスマホも音声で聞いてるから、点字を使う印象なかった」

「いずれ見えんくなるって知っとったから、小学校の頃から習ってたんや。大人になったらもう覚えられんらしいで」


 ハンデキャップを泣き言にせず、様々な方法を駆使して勉強するあめりの姿が実に頼もしく思えた。


「ああ、授業ってこんなに長かったっけ。久々すぎて忘れてた」

「リモートと違って聞き直しできんのはキツイな。ちょっと気抜いたら終わりや」


 すっかりぬるくなった抹茶オレを飲み干し、あめりはぷはぁ、と息をつく。

 相当の緊張感を持って授業に臨んでいたのだろう。

 ある程度は事前にもらっていた資料で理解できるとはいえ、やはり視覚障がい者にとって大学の講義を受けるのは楽ではなさそうだ。


「校舎前で待っといてくれんか。ボランティアサークルに行って今後のプリントもらってくるねん」

「私も一緒に行っていい?」

「やめた方がええで。あのサークルやで」


 あめりははっきりとは言わなかったが、私には十分に伝わった。

 鷲見だ。

 私たちをからかっていた分際でボランティアサークルに所属とか、人をバカにするにも程がある。


 退屈に耐えかね、とりあえずインスタでも開いてみる。

 フォローしているのはあめり一人なので、実質彼女専用のタイムラインだ。


 目が見えないあめりがSNSを使いこなすのは私たちには想像できないほどの苦労がある。

 たとえば写真をインスタに上げるにしても、スマホから直接ならあめりでも何とか可能だ。

 だが彼女はフィルムカメラからアップするので、一度カメラ店に出してスマホに取り込んでもらっているそうだ。


「そうまでして他人に見せる必要あるのかな」


 申し訳ないが、何度見てもそこまで上手い写真だとは思わない。

 でも正直な感想を言うのも、タダで住まわせてもらってる身としては失礼極まりない。

 ミカからも「誉めてあげて」と頼まれたこともあるし、ここは黙っておくことにしよう。


 それにしても、あめりが来るのが遅い。

 白杖を使うから足音だけで分かるはずなのに、その気配もない。

 

「おい、塩飽」 


 杖の音を聞き逃すまいと、聴覚を四方八方へ向けていたのが災いした。

 猛烈な胸騒ぎと共に、胃の奥底からこみあげてくる不快感があった。


「無視すんなよ」


 この呼び方は間違いない、中学時代の最悪の同級生、鷲見備和だ。


「返事ぐらいしろよ。せっかく同じ大学に来てるんだからよ」

「何の用」


 たった数文字を返すだけでも心臓が痛い。

 顔なんて到底見られない。

 呼吸が何度も止まりそうになる。


「有森はいないのか。さっき渡し忘れたプリントがあるんだよ」

「なんであんたが持ってくるの」

「ボランティアサークルが点字資料を用意したら悪いのかよ」

「だからってあんたである必要はないでしょ」

「去年から有森の授業の資料は俺が担当してんの。この点字だって俺が打ったし、あいつが使ってる看板も俺が描いたんだ」


 点字を打ってる?

 バカじゃないの、そんなことをして善行でもしているつもりなのか。

 お前のせいで私の中学時代、いやそれ以降の人生はすべて台無しになったんだよ。


「桃ちゃん、誰と話しとんの」

「あめり、助けて!」


 地獄に仏とはまさにこのことだ。

 白杖をついていることも忘れ、思わずあめりの身体に飛びつく。


「危ないやろ、倒れたらどないすんねん」

「よかった、助かった、あめりが来てくれて……!」

「何があったんや。誰かに襲われとるんか」


 今までの恐怖心が一気に開放され、安心のあまりに涙があふれてきた。


「有森か、こいつ体調でも悪いのか?」

「鷲見っちか。別にそんなことないで」

「塩飽のやつ、明らかにおかしいだろ。さっきから俺を猛獣みたいに見てやがる」


 言いたいことばかり、ぬけぬけと。

 自分の胸に手を当てて聞いてみろってんだ。


「分かったわ、うちが一言ガツンとやったるねん」


 あめりは鷲見からプリントだけ受け取ると、ブレイルメイトに何やら入力する。

 およそ二文字程度だろうか。


「鷲見っち、ちょっとこれ見てや。あんたやったら読めるやろ」


 入力済みの機械を手渡すや、あめりが大声で一喝する。


「悪いけど、桃ちゃんには金輪際近づかんでくれる?」

「なんで」

「桃ちゃんは鷲見っちのこと嫌いやねん。顔も見とうないって言うとる。だからや!」

「……マジで意味がわかんねえ」


 呆気にとられた鷲見の顔を見ていると、ざまぁとしか感想がなかった。

 あめりにとっては恩人かもしれないけど、私にとっては敵だ。


「行くで、ここから逃げようや」


 ブレイルメイトを再び取り戻すと、桃ちゃんは私の手を取った。


「ちょっと、あめりの方が先導するとか、逆じゃない?」

「その通りや。初めて会うたとき、桃ちゃんがうちを引っ張ってくれたやろ」


 あめりが悪戯っぽく微笑んだ。

 そうだ、あめりと出会ったときは、私が彼女を鷲見から逃がそうとしたんだった。


「やられっぱなしやと面白くないしな」

「ねえあめり、さっき点字で何か二文字ぐらい書いてたでしょ」

「あれか、『あほ』って打ったんや」


 もの凄く気分が爽快になる。

 私がずっと鷲見に言いたかったことを、あめりが代弁してくれた。

 こんなに嬉しいことはなかった。


「ところで桃ちゃん、一緒に梅田へ行かへんか」

「どこか寄りたいとこあるの」

「HEPや。行ったことあるか?」


 梅田のHEPと言えば、大阪でも有数の観光スポットだ。

 地元民でも行きやすいし、カップルが二人で遊ぶにも絶好の場所。

 それだけに私にはまったく無縁ではあるけれど。


「もしかして、あの観覧車に乗るの?」

「そうや、桃ちゃんと一度乗ってみたかったんや」

「えー、あめりと二人で観覧車か、何か恥ずかしいな」

「……不満か? うちやのうてイケメンの方がええんか」


 いやいや、そんなことはない。

 私みたいに醜い女子が外見の良い男性と付き合えるはずがないし、それ以前に男性自体が無理だ。


「さっきな、三葉先輩たちと会うとったねん。動画制作の件とか話しとった」


 先日渡されたスマホで一分程度の動画を撮りだめしてほしいと依頼されていたものの、なかなか普段の生活では撮影する機会なんてない。


「そうか、せっかくだから梅田で撮影すればいいんだよね」

「観覧車の中で撮るのもええと思うで、あそこやったら色味にあふれとるし」


 大学からの帰り、地下鉄乗り換えをいつもと逆方向へ。

 外国人観光客も再び戻ってきた梅田の街。

 去年までは割と楽に歩けた歩道も、すっかり人ごみに埋もれている。


「そろそろHEPに着いたんやないか」

「よく分かるね、見えてないんでしょ」

「桃ちゃんの手ぇ握っとるからや。真っ赤でばーっとした色が降りて来とる」


 梅田名物の赤い観覧車は、近くで見ると圧倒的な存在感がある。

 私みたいな孤独な陰キャにとっては「近づくな」という無言の圧力にさえ思える。

 でも、今日はあめりと一緒だ。


「前から楽しみにしとったんや、桃ちゃんと乗れたらええなって」


 観覧車乗り場はビル内にある。

 おしゃれな店を横目に、さらに仲のいいカップルもチラ見しつつ歩く。

 女同士、しかも一人は杖を持つ私たちの存在は明らかに浮いている。


「ねえ、やっぱり恥ずかしくなってきたんだけど」

「ええやん、うちらにも梅田を歩く権利ぐらいあるで」

「いや、周囲の視線が強くて」

「うちは見えへんから、知ったこっちゃないで」


 観覧車前には、すでに何組もの客が並んでいる。

 到着するまでにどれだけの時間がかかるかもわからない。


「めっちゃ人いそうやな。すぐは乗れへんやろな」

「そうだね、二十分ぐらいは待ちそう」


 興味深そうに周囲の音へ耳を向けるあめりが、何かに気付いた。


「なあ桃ちゃん、ここって写真撮影あるみたいやで。あそこで説明しとる」


 ゴンドラを降りた人たちが向かった先では、乗車後の記念撮影が行われている。

 もちろん有料だろうし、全員が強制的に撮らないといけないわけでもないだろう。

 でも、やはり心に引っかかる。


「……ねえあめり、悪いんだけど、私は乗るのを遠慮したい」

「なんで、どうして観覧車やめるん。桃ちゃんと一緒やなかったら意味ないで」

「あの写真がどうしても気になってね」

「全員撮らなアカンわけやないやろ。ほんまは高いとこが怖いんちゃうか」


 決して高所恐怖症ではない。

 だが降りたらカメラを向けられる、そうしないといけない雰囲気に圧迫される。

 いわゆる同調圧力に潰される感じだった。


「理解でけへんな、乗ったらさっさと戻ればええだけやん」

「本当にごめん、心の準備が整わないんだ」


 あめりに平謝りしながらも、言葉にならない口惜しさが渦を巻く。

 あの事故さえなければ。

 鷲見たちが私をあざ笑ったりしなければ、こんなことにならなかった。


「しゃーないな。今日はやめたる」

「他に行きたい場所があるなら、どこでもいいよ」

「ええんやな、どこでも」


 ニヤリと笑ったあめりは、私の腕につかまった。


「桃ちゃん、ドンキがどこにあるかわかるか?」

「一応わかるけど、なんで」

「そこで写真撮りたいねん。案内してや」


 梅田の中心街をほんの少しだけ離れた場所に出る。

 とはいえ人通りは多いし、決してのんびり撮影できたものではない。

 今日は例の立て看板も持ってきていない。


「よっしゃ、ちょっとこの辺りで撮るわ。周りを見張っといてや」

「いや、こんなところだと邪魔になるでしょ」

「問題ないで、事前に宣言するさかいに」 


 あめりは白杖をガードレールに立てかけると、カメラを手に取った。

 すっと大きく息を吸い込み、直立不動の姿勢をとり、叫ぶ。


「えー、これからインスタグラマー有森あめり、撮影会を始めます!」


 うそ、こんなに人がいる中で、何を言い出すんだろう。

 呆然とする私の手が、あめりにしっかりと握られる。

 逃げ出すこともできない。 


「ちょっとやめてよ、みんながこっちを注目してるよ」

「うちは目が見えへんよってに、ご迷惑おかけします!」


 周囲のビル街にこだまするような大声と共に、カメラのレンズをあちこちへ向け始める。

 赤い色を的確に補足できているのか、大観覧車にピタリと焦点が合う。


 恥ずかしくてあめりの姿が見られない。

 強く目を閉じる。顔が灼けるように熱い。


「桃ちゃん、うちのこと恥ずかしい奴やって考えてるやろ」


 言葉にはできない。

 沈黙と首肯をもって返信とする。

 あめりの両足も小刻みに震えている。


「うちな、自分の写真には自信持ってんねん。だからこうして人前に立ってる」

「私には無理だよ、自分のことなんて大嫌いだし」

「だったらな、うちは桃ちゃんに自信があるとこ見せたる。手本を示したる」


 恐る恐る薄目を開く。

 周りの人たちが気を使って場所を空けているのが分かる。

 そんな中、あめりの身体がひときわ大きく見えた。

 さほど高くもない身長なのに、まるで周囲を睥睨しているようだった。


「なあ桃ちゃん、うちがやりたいこと、決まったで」

「個展の開催でしょ。それなら今度のつつじ祭でやれるはずじゃ」

「ちゃう。桃ちゃんが人目を気にせんようになることや」


 気持ちは分かるが、それは無理だ。

 今だって強烈に恥ずかしいし、可能ならば即座にここから飛び出したいぐらいだ。


「例の動画撮るで、スマホのカメラ回してや」

「でも、こんなとこで」

「今が一番自信ある顔できとんねん。せやから撮ってほしいんや」


 あめりのブドウ色の瞳が、うっすら赤らんだ肌に浮かんでいた。

 もう知らない、どれだけ恥をかいても、全部あめりのせいだから。


「……わかった、撮るだけはやるよ。でも下手したら警察に怒られるから」

「桃ちゃんと共犯なら、何でもやるで」


 都会の雑踏の中、カメラを手にしたあめりが踊るようにステップを踏む。

 通りがかった車の窓が開き、興味深そうにこちらを眺める。


「よかったらインスタフォローしてや、GrapeCandyで検索、英語やで!」


 額に光る汗が陽光に映えていた。

 あめりの笑顔が、声が、道行く人々を止めた。


「みんなこっち見てや、見てくれはったら嬉しいねん!」


 すべては塩飽桃子のため。

 弱い心の私に、少しでも勇気を持たせるためだった。


「かっこいいよ、あめり」

「ありがとな」

 

 恥ずかしくてとても見ていられなかったあめりの背中を、意を決して凝視する。

 ぐっと腕を伸ばしてスマホを構え、彼女の一挙手一投足をも逃すまいと、懸命にレンズを動かした。


 今の彼女を支えているのは、自らへの揺らぎない自信だった。

 それを私の手で壊したくない。

 

「みなさん、お願いです、あめりのインスタグラム、フォローしてあげてください」


 汗が滴るほどに顔を火照らせながら、私はあらん限りの声を出した。

 梅田を覆う青空のもと、あめりの小さな体が誰よりも大きく跳ねた。

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