第7話 天才マンガ家、泉川ミカ

「塩飽ちゃんだ、なんで靭公園にいるの?」

「久しぶりだねミカ、まさか大阪で会えるなんて!」


 懐かしい姿に、思わず彼女の近くまで駆け寄った。

 光を軽減するためにサングラスをかけてはいるが、声、笑顔、すべては昔のままだ。


「塩飽ちゃんも、最近ぜんぜんLINEとかくれなかったじゃない」

「ごめんね、大学辞めて実家に戻ろうと思ってたから。でもそれは中止したよ」

「よかった、せっかく同じ大阪住まいだったのに」

「あー、実際に会えて嬉しい!」


 三ヶ野原いずみ、略してミカ。

 そのままペンネームにも使って泉川ミカ。

 二人でノートに向かって絵を描いていた頃、いつかデビューしたらこの名前を名乗ろうと思って決めたものだ。


「顔の怪我、平気?」

「ダメだね、いろいろやってるけど傷痕が消えてくれない」

「修学旅行からもう五年も経つんだよね」

「だけどミカは無事に立ち直れて良かったよ、安心した」


 私も顔に大きな怪我を負ったが、ミカに比べればマシかもしれない。

 車と建物に挟まれ、視神経を覆う部分を損傷したミカは、視覚の大半と正常な色彩感覚を失った。

 さらには情緒面にも異常を生じ、以前にはなかった暴力的な性向が見られるようになった。

 教室で私をからかった鷲見をカッターで切り付け、転校に追いやられた理由でもある。


「今のマンガって、液晶タブレットで描いてるんだっけ」

「いかんせん色が正しく判断できないからね。デジタル彩色だと番号とかで指定できるから、アシスタントに協力して塗ってもらってる」


 彼女の視界はほとんどが真っ白で、見える場所は僅かしかない。

 だが微かな資格情報を独自の感性で補完し、表現する画力を身につけることで、人気作『TwinBirdsStrike』を執筆できるまでに回復した。


「さっきもスケッチブックに何か描いてたんだよね、もしかしてマンガの資料かな」


 気に入らなかったのか、丸めて捨てた紙を彼女に返した。


「あ、それさっきポイしたやつじゃん。いらないから捨てといてよ」

「だからって地面に投げたらダメでしょ」

「ああ、それは悪かったよ」


 くしゃくしゃになった画用紙には、鉛筆の芯が砕けそうなほどの濃厚な筆致で、広大な森の風景が描かれていた。

 ゴミなんてとんでもない、泉川ミカのファンからすればお宝レベルの逸品だ。


「ここの木々ってこんなに鬱蒼としてないよね、こんな風に見えてるの」

「事故で視力がメチャクチャになったけど、逆に脳内に見えるビジョンは前よりもはっきりと明確になった気がするよ」


 彼女がデビューしたのは有名なマンガ雑誌の電子版だ。

 若い作家にもどしどしチャンスが与えられるが、生き残るのは厳しい。

 しかしそんな苦境も「まるで実在するかのように世界を描く」と評される画力で乗り越えてきた。


「靭公園にはよく来るの? 私、今はこの辺に住んでるんだよ」

「そこまで近くもないんだけど、イライラしたらここで気分転換してるんだ」

「まだ今でもメンタルはヤバめなんだ」

「前と違って薬で抑えられるから。以前はひどかったよ、物は壊すし暴言は吐くし、ほんと最低だった」


 ミカはあらためて周辺のスケッチを再開する。

 ビル街に囲まれた靭公園が、彼女の細密な筆致にかかると広大な森の中に広がるオアシスへと変貌する。

 草花が、鳥が、人々が、まるでファンタジー世界の非現実的な姿へと変わる。


「やっぱりミカの絵には圧倒されるな。目が見えなくなったなんて信じられない」

「塩飽ちゃんは、ギュスターヴ・クールベって知ってる?」

「名前だけはうっすら記憶にある」

「フランスの画家なんだけど、写実主義というか『見えないものは書かない』って言った人。盲学校の図書館で読んで知った人だよ」


 クールベの作品が、彼女の美術観を変えたという。

 神や天使や聖人を描くことが美術の本懐と言われていた時代に、庶民の生活を主題とした彼の作品は論壇から酷評を受けた。

 見えたものを素直に描くこと、それが彼のやり方だった。


「私は視界も狭いし色彩は狂ってるし、事故の前みたいには二度とできない。それは十分に理解してる」

「じゃあ、どうやって『TwinBirdsStrike』を描いてるの」

「一部が隠れた世界も歪んだパースもおかしな色味も、すべてを真実だと思うことにした。そうしたら脳内で綺麗に描けるようになった」

「……天才の発言、深すぎて分からない」


 すべてが真実というのは、とても重い言葉だ。

 私たちは写真でも絵画でも、無意識のうちに余計な補正をかけてしまう。

 世界をそのまま切り取ろうとするあまり、真実から遠ざかってしまうものだ。


「私が見た中で、自分に匹敵するだけの絵を描くのは一人だけかな」

「へえ、ずいぶん凄いマンガ家がいるんだね。なんて名前?」

「いや、素人。でもその子の色遣い、あれは天性のものだよ。マジで殺そうかと思ったぐらい」

「いくらなんでも大げさすぎる」

「なにせ同級生だったからね」


 乱暴な言葉遣いながらも、ミカの「その子」に対するリスペクトは本物だった。

 いかに彼女の色彩センスがずば抜けているかを、身振り手振り交えながら熱く語り続けた。

 ミカ的には「本来ではあり得ない色を、あり得ない筆致で平然と塗れる」のが凄いらしい。よく分からない。


「ミカがそこまで評価する人、どれだけハイレベルなんだろう」

「でも二度と会いたくはないな。自信を無くして心が乱れちゃうかもね」

「名前はなんて言うの、検索してみる」

「いや、それはマジでやめて。思い出したら正気を保つ自信がない」


 挑戦的、野心的。現在マンガ界で乗りに乗っているミカを言葉で表すとすれば、こうした単語がふさわしい。

 そんな彼女が心を乱すような天才がこの世にいる、その事実も驚きだった。


「昔その子に酷いことを言ってしまってね。その子も傷ついただろうけど、私も時々思い出して変な声が出る」

「あー、わかる。時々自責の念を思い出して眠れなくなることがあるよ」

「その子に負けたと思ってるのに口では罵詈雑言が出たからね、自分でも理解できないよ」

「でももし、交通事故が無かったら彼女に勝てたとか考えたことない?」


 私の意地悪な問いかけに、ミカは大きく首を横に振った。


「私はあの事故のおかげで生まれ変わったんだ。事故があってようやく彼女と互角に戦えるぐらいだよ」

「事故のおかげ……?」

「最初は死のうかと思ってたけど、精神的に躁になってた時、これで死んだら私の人生負けだって考えが頭に降りてきた」

「強いね、本当に」

「マンガ家になる前、三ヶ野原いずみのままだったらアウトだったかな。でも泉川ミカだからこうして生きてられる。例の子にも負けないよ」


 彼女はただの絵が好きな中学生だった頃と違い、今は人気マンガ家でもある。

 これだけの精神の強さがなければ、一線級で活躍するなど不可能なのだろう。


「そういえば塩飽ちゃん、確か大阪国際語大学に行ってたよね」

「もしかして今度のつつじ祭のことかな」

「それもあるんだけど、なんでよりによってその大学を選んじゃったのかな、って」


 明らかに不満げなミカの表情の理由が分からなかった。

 うちの大学は国立で授業料も安いし、それなりに偏差値も高い。

 就職もしやすいし勉強の環境は整っているしで、何の問題もないはずだ。


「盲学校の時、遠足で行ったことがあるんだよ。そこで友達と大喧嘩してしまって、なんか嫌なイメージがある」

「まさかそれを理由につつじ祭での講演会を断るとか、ないよね」

「マジな話をするとそれを理由に断りたい。でもうちの担当が割と乗り気だから困ってるんだよね」


 つつじ祭実行委員は相当積極的らしく、ボランティアサークルまで動員して出版社に依頼をかけているそうだ。


「私はミカの話を聴きたいし、友達の個展もその企画の一環で進んでるから、断らないでほしいな」


 つつじ祭では視覚障がい者関連のイベントが毎年行われるという。

 弘原海先輩からさっき聞いた話によれば、今年は泉川ミカの講演会をメインイベントに据え、そこであめりの個展を併催するという予定だそうだ。


「友達が個展をやるって、それも視覚障がい者関連のイベントなの?」

「そうだよ、私と同居してる子なんだけど、目が見えないのにインスタグラマーをやってるんだ」

「やっぱり塩飽ちゃんがその子の撮影とか手伝ってるわけ?」

「いや、何も出来てない。家も提供してもらってるし、手助けしたいのはやまやまだけどね」

 

 手にした鉛筆をスケッチブックのリング部分に収納したミカは、ぼんやりと空を眺めた。


「何もしてあげられなくても、誉めることだけはしときな。それも大げさに」

「誉めるって、インスタの写真を?」

「私たち視覚障がい者は評価してもらえてナンボなんだよ。自信を失ったら街を歩くことさえできなくなる」

「そんなものなんだ、私なんて誉められても信じられなくて自虐的になっちゃうけど」

「凄いね、上手いねと言ってもらえることが最大のモチベーションになるんだ。私の経験上、間違いないよ」


 ミカの表情がふっと柔らかみを増した。

 だが久々の二人きりの話に割り込むようにして、ミカのスマホから「うざいやつ」という謎の声が鳴り響いた。

 あめりと同様、誰からの呼び出しを音声通知する設定だ。

 電話で少し話した後、ミカははぁとわざとらしい大きなため息をついた。


「誰、このうざいやつって」

「担当だよ。実際うざいから。しかも靭公園まで迎えに行くと言ってた」


 ミカは何かを思い出したかのように、手をポンと叩いた。


「そうそうこれ言っておかないと。再来週に梅田でサイン会やることになったんだ」


 視覚障がい者である泉川ミカは基本的に顔を表に出すことはない。

 でも講演会などを企画していることもあり、顔出しにも慣らしておきたいということだった。


「うそ、梅田でやるの? 絶対行くよ」

「大きな観覧車があるでしょ、あの中のマンガ専門書店。よかったら来てね」


 再来週の日曜日は、ミカのサイン会。

 カレンダーアプリに日程を記入する。わくわくする。

 話だったら十分にできたつもりだけど、それでも彼女の晴れ姿を見られるのは嬉しい。


「塩飽ちゃん、なんかコツンコツン聞こえるんだけど」


 和気あいあいとした会話の合間、公園を囲む遊歩道から甲高い音がする。

 間違いない、これは白杖が地面を叩く時のものだ。


「おーい、ここだよ!」


 私の声に気付いたあめりが大きく手を振った。


「ずいぶん熱心に撮影してたんだね」

「三葉先輩がいろいろ注文つけてくるから時間かかったんや」

「本当はあめりがクレーム入れてたんでしょ、自分はもっと可愛いって」

「当たり。よう分かったな」


 あめりは単純で、自分を誉められるとすぐ調子に乗る。それがいい。


「ふーん、もしかしてこの子が塩飽ちゃんと同居してる子?」

「そうだよ、この子が有森あめり。実家がこの公園の近所なんだ」  

「ねえ塩飽ちゃん、今なんて言った?」


 気兼ねなく友達を紹介しただけのつもりだった。

 ミカが手にしたスケッチブックが、どさりと音を立てて落ちた。


「ねえ、有森って聞こえたんだけど、気のせいだよね?」

「いや、間違いなくそう言ったよ」

「……まさかね、本当にここにいるなんてね、冗談でしょ」


 ミカは顔を歪め、不自然な笑いを浮かべた。

 全身は小さく震え、顔が赤らんでいる。

 どう見ても通常の状態ではなかった。


「ごめん、担当が公園に来てるらしいから戻る。それじゃ」


 引き留めようとした私を振り払い、ミカは逃げ出すようにこの場を去っていく。

 彼女は全盲ではないとはいえ、走るのは危険だ。


「待ってよミカ、もしかしてあめりのことを知ってるの?」

「知らない。そんな名前、聞いたこともない」

「ウソだよ、本当のことを言ってよ」

「いいからほっといて、担当が来てるって言ったでしょ」


 視界の奥にはスーツ姿で手を振る男性が見える。

 きっとあの人がさっき話していた編集者だろう。


「ごめん塩飽ちゃん、また気が向いたら連絡するから」


 軽く手を挙げて去っていくミカの後姿を、私は呆然と見送るほかなかった。 

 あまりにも不自然な態度だった。


「ねえ塩飽さん、今の人、泉川ミカ先生じゃない?」


 私を追いかけてきた弘原海先輩から、まさかの指摘が飛んだ。


「えっ、先輩はどうしてミカの顔を知っているんですか」

「講演会の件、出版社に直接交渉に行ったことがあるんだよ。その時に泉川先生も同席してたから、顔を見たことがあってね」

「なあ桃ちゃん、その泉川ミカっての、確か桃ちゃんと同級生やなかったか」


 あめりの声が訝し気だ。

 どこまでごまかせるか分からないが、ミカがあめりのことを知っている気配がある以上、下手なことは言えない。

 言葉に詰まった私を見かねたのか、あめりは別の話題に切り替えた。

 

「話変わるけど、今後の動画撮影の予定、大丈夫なんか」

「つつじ祭も来月だし、そろそろ時間が取れなくなってきてるんだよね。どうしよう」

「短い動画やったらうちが自撮りしてもええけど」


 弘原海先輩は大学の三回生と言うこともあり、ただでさえ忙しい。

 つつじ祭だけでなく就職活動に向けての準備も本格化しているようで、今日も厳しいスケジュールを縫っての参戦だと言っていた。


「学校とか公園とかばかりで派手さがないで。もっと梅田とかミナミとか、ぱーっとしたとこでも撮りたいねん」

「その気持ちは分かるけど、予定が厳しくなってきたから手持ちの素材でなんとかするしかないかな」

「そっかー、なんとかならんかな」

 

 あめりが不満そうな顔をするのも分かる。

 祖父母が期待してくれたことを実現することは、いわば彼女にとっての夢だ。


 ふと私にできることはないだろうかと考えた。

 誉めてあげるだけでもパワーになるとミカは言った。

 だがそれだけでは足りない気がした。


「あの、提案なんですが」


 思い切って口を開いてみた。


「あめりの動画撮影、私がやってはダメでしょうか」

「本当、手伝ってくれるのなら嬉しいな」

「YoutubeとかTiktokみたいなのは出来ないと思いますが、あめりのことなら撮れると思います」

「じゃあ撮影用のスマホを渡しておくね。ある程度撮れたら大学に持ってきて」


 今どき動画の撮影なんて小学生でも出来るが、私にとってはなけなしの勇気を振り絞る行為だ。

 あめりを助けたい。

 そうしなければ、同居人と名乗る意味がないじゃないか。


「桃ちゃんがうちのこと撮ってくれるんか。やった、最高や!」


 あめりがもろ手を挙げると、渾身の力を込めて私を抱き寄せてきた。


「ちょっと、あめり、苦しい」

「本当に二人は仲がいいんだね。できればこの姿を動画に撮りたかったな」

「先輩、からかわないでくださいよ」


 弘原海先輩は苦笑いしつつも、小さく「ありがとう」と答えてくれた。

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