あの老女もかつては美しき娘だった

真花

あの老女もかつては美しき娘だった

 四人部屋のカーテンをきっちりと閉めて、村田むらたさんは大体の時間をベッドの上で過ごす。そうでないときはテレビを観ていたり、歩き回っていたりする。病棟の中で見当たらなかったからには、カーテンの内側にいるだろう。

「村田さん、いいですか」

「何ですか?」

 七十歳にしては艶のある声が中から返って来る。その年であっても、僕が男性である以上は、村田さんが女性であることへの配慮は忘れてはならない。

「様子を伺いに来ました」

「……どうぞ」

 僕はカーテンの内側に入る。よく整頓された部屋、ベッドメイキングもされている。今は調子がいいようだ。村田さんはベッドに座っている。灰色の髪を後ろでまとめている。耳からイヤホンが伸びていて、外そうとしない。僕は村田さんに近付き過ぎないようにしゃがむ。見上げる格好になる。

「どうですか? 調子は」

「別に変わりないわよ」

「眠れてます?」

「先生はいつも同じことを聞くわね。眠れてるわよ」

「ご飯は?」

「食べてます」

 二、三の症状が今は優勢でないことを確認する。

「レクには出てますか?」

「出ないわよあんなもの」

「どうしてです?」

「幼稚だからよ」

「そうですか。では」

「はい」

 僕はカーテンの外に出て、しっかりと閉める。次の患者のところに向かう。

 ここには帰る場所もなく、待っている人もいない、単独で生きる能力を削がれた人が何十人と入院している。病気は治らず、合併症を抱え、意思の疎通すら困難な人も一定数いる。

 ナースステーションに戻ると高浜たかはま先生がカルテを書いていた。僕はその隣のスペースに座る。

 高浜先生がふと顔を上げる。

「長期入院って、終わりが来ることはあるのかな」

 僕は少しの間を開ける。

「退院出来ない人は、死ぬ、以外では、ないんじゃないんですか?」

「イタリアでは病棟やめたよね。どうなったか知ってる?」

「いえ」

「大量のホームレスが発生したんだ。もちろんその多くは死ぬことになった」

「とりあえず出せばいいってもんじゃないってことですね」

「薬がさらに発展したら、一部の人は改善するだろう。でもその頃までには、ここにいる患者達の人生のいいところはもう終わっている。それ以外の患者は変わらない」

「僕達だけが次の世代に交代していくんですね」

「画期的な方法は思い付かない。こうして今日もカルテを書く」

 僕は頷いて、自分のカルテに向かう。

 村田さんのカルテは、

S)変わりない

O)穏やか。部屋は整っている。睡眠・食欲良好。〇〇(症状)現在は落ち着いている。

A/P)Stable, Do

 で終わり。村田さんの数日がこれだけ。だが、他に特記すべきこともない。カルテはその人が生きた証にはなり得ない。

 高浜先生がナースステーションを出て行き、僕は一人でカルテ書きを終わらせていく。今日の分を書き終えて、椅子にもたれかかる。ギ、と鳴る。

 村田さんは僕にとって特別な患者だ。長い経過の中で大変な目に何度も遭ったこともそうだが、僕はときに村田さんが病気でなくて、年齢も近くて、別の形で出会っていたら、もしかしたら恋に落ちたのではないかと空想する。前から、何度も空想しては、そんなことは現実にはあり得ないと首を振る。じゃあ、今の村田さんの人生を、患者と言う形ではなく、プライベートな僕の人生で引き受けたいかと言えば、そんなことはない。僕以外も誰も引き受ける人はいない。

 村田さんはここにいる。

 だが、生まれたときからいる訳じゃない。

 村田さんも女子高生だった頃があった。若くて、未来をふんだんに抱えていた頃があった。

 きっと美しかった。それは生命の美しさだ。

 村田さんだけじゃない。この病棟にいる全ての患者に、若く美しい時代があった。

 それはカルテに記載される以前のことだ。

 僕がカルテに書くのは、病の後だけだし、ここに来てからのことだけだ。

 その一番美しかった時代のことを、僕は永遠に知らない。


(了)

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