通学電車

大隅 スミヲ

【三題噺】「生徒」「指紋」「発熱」

 その日は朝から気だるさが続いていた。

 学校に行きたくない。

 そんなつもりではないのだが、学校へ向かおうとする足は重く、いつもより1本遅い電車におれは飛び乗った。


 いつもと同じ電車なのに、1本遅いだけでここまで景色が変わるのか。そんなことを思いながら朝のラッシュでおれの身体は潰される。


 隣りにいるサラリーマンがスマートフォンの画面をクリックするたびに、肘がおれの脇腹に当たり苛立ちを覚えていたが、少し離れた場所に隣のクラスの女子生徒、山里やまざと美海みうを見つけたことで、その苛立ちはどこかへと消え去っていた。


 美海はドアの近くを陣取って、そのドアにもたれかかるようにしながら、文庫本を読んでいる。書店のカバーが掛かっているため何を読んでいるのかはわからないが、活発なイメージの強かった美海が本を読むというのは意外なことだった。

 しばらくの間、美海が寄りかかっているドア側は開閉することはなく、美海はその確保したエリアで集中して読書を楽しんでいる。


 普段であれば苦痛でしか無い通学電車の中も、美海を見つけたことによって、何だか楽しい時間に変化したような気分だった。


 電車が学校の最寄り駅に着く。開くドアは美海が寄りかかっていた方のドアだった。すべては計算済み。なかなかやるじゃないか。おれは颯爽さっそうと電車を降りていく美海の後ろ姿を見失わないようにしながら、大勢のサラリーマンたちをかき分けて何とか駅のホームへと降り立った。


「おはよう。同じ電車だったんだ。あれ、何の本を読んでいるの?」


 もしも、おれが陽キャであれば、ここで美海に追いついて、そう声をかけているだろう。

 だが、おれにはそんな特殊能力があるわけもなく、ただ前を歩く美海の姿を見つめながら同じ方向に向かって歩いていた。


 その日から、おれは電車を一本遅らせて乗るようになった。

 遅刻ギリギリではあるが、この電車に乗れば毎朝文庫本を読む美海の姿を見ることが出来るのだ。

 おいおい、これじゃあストーカー予備軍じゃないか。

 ただただ文庫本を読む美海の姿を見つめるだけの自分に対して、ツッコミを入れてみる。

 でも、おれには美海に声をかける勇気なんてものはない。

 いまここで、と呼んでいるものの、彼女に話しかける時はと呼ぶだろう。

 所詮、おれは通学電車の中で彼女のことを見つめるだけの陰キャのストーカー予備軍なのだ。


 そんなおれに千載一遇のチャンスが訪れたのは、金曜日の朝のことだった。


 なぜかその日は、いつも異常に電車は混んでいた。あとで知ったことなのだが、似たような路線を走る別の電車が故障したため、振替輸送が行われていたのだ。そんなことはつゆ知らず、おれは大勢の大人たちにもみくちゃにされながら車内の奥まで押し込まれていった。


「あっ」


 思わず声が出てしまった。

 なぜかといえば、すぐ隣に美海の姿があったからだ。


 美海はいつものように文庫本を手にしていたが、その目は文章を追っておらず、いまにも泣き出しそうな顔をしていた。


 何かがおかしい。

 そう思ったおれは、勇気を振り絞って声をかけてみた。


「おはよう」


 すると美海が顔を上げてこちらを見た。目が合う。

 おれはこの時、確信した。

 痴漢だ。


「いまどきは、衣服からでも指紋を検出することはできますよ」


 おれは誰に言うわけでもなく言った。

 すると美海の背後から舌打ちが聞こえた。ゾッとするような、ものすごい負のオーラがこもった舌打ちだった。


 電車を降りると、美海が声をかけてきた。


「さっきは、ありがとう」

「え、あ、いや……」


 発熱でもしたかのように、顔が熱かった。


 その日から、おれは通学電車で美海の姿を見つけると、近寄っていき、話をするようになった。


 衣服から指紋が検出出来るかどうかなんて、おれは知らない。

 ただあの時、美海を助けたいという思いから咄嗟に出た言葉だった。


 おれは、ただ彼女を見ているだけの陰キャストーカーから、通学電車で話しかけることの出来る友人にクラスチェンジをすることが出来た。

 とりあえず、いまはそれで満足している。いまは、この状態が一番楽しいのだ。

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通学電車 大隅 スミヲ @smee

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