黒鯱は、夜雨の銀鯨へ《甲》

鳥兎子

私は、海獣を呑み込んだ。

 𝒕𝒐 𝒃𝒆 𝒄𝒐𝒏𝒕𝒊𝒏𝒖𝒆𝒅……と歌うイヤホンを投げ捨てれば、聴覚がうつつに蘇る。夜雨よさめをアスファルトに弾く、軽やかな跫音きょうおん。黒セーラー服を纏う彼女は、手にしたサバイバルナイフで『優等生』の仮面を冷たく剥ぎ取った。青い街灯が点滅し、副交感神経を悪心で掻き乱す。そうだ、落ち着け。いつも彼女が俺に説く教えは、藍の海底より青く深し。

 

「ねぇ、玖墨くすみ先生。シャチには種族があるんだよ。魚類を喰らい定住する者と、海獣類を喰らい回遊する者。まるで農耕民族と狩猟民族として食性を分かつ人間の様に、を選り好むでしょ? 回遊する凶暴な鯱に傷付けられたは、決して鯱を忘れない。成体に成り、鯱が狩る獲物ターゲットの悲鳴を聞けば、どんなに離れていても守護する為に辿り着く。己に重ねて感傷に浸っているのか、憎悪が刻んだ本能なのか……


 『鯨に鯱』なんて、誰が言い出したのか。が真逆じゃないか。

  

「私は、あの時先生に喰われかけただよ。その得物キバで切り刻んだ、私の母鯨は美味しかった……? 」


 女教頭ターゲットを、彼女は切っ先ポイントで示した! 弾かれたように獲物から離れても、己のサバイバルナイフは棄てられなかった。逃走する獲物は、甲高い悲鳴で女子高生の庇護を忘れている。腹底から零れる愚かな嘲笑が根付いていなければ、今ここに快楽殺人鬼は居ない。


「爽快な自由への渇望が、事は認めてやる。だけど俺が……お前を殺せる訳が無い。そうだろ、海琴みこと


 海琴のかんばせが苦痛に歪められれば、俺の安堵は対照的に満ちる。彼女の中に、まだ俺は居るらしい。


「今更試さないで。“優しい先生 ”の振りは効かないよ。私は“凶暴な父親”である先生の本性を思い出したの……嫌という程に。私より、先生の方がはっきりと?」


 左手の指先で作られた『 𖩀リバースド・シー 』の望遠鏡の奥……海琴の澄んだ左瞳に、俺達の過去を視る。

 

 あれは、事故だった。夏の晴天にスリップした瞬間……家族水入らずの快速ドライブは、海水が浸蝕する転落に変わった。


『私達が海琴を守らなきゃいけないのに……もう無理だよ、遼ちゃん。海琴を土左衛門なんかにする前に、抱っこしてあげたいの。後ろのチャイルドシートを外すから、遼ちゃんの肩借りるね』


 車窓が袋詰めの小銭で割れぬ中、無共感が支配した。今まで彼女が伸し掛ることは無かった。俺が押し倒す側だったから。『愛』が分からないから、俺を選んだ彼女から『愛』を学ぼうとした。確かに、初めの頃は承認欲求を満たされていた。しかし価値観を共有出来ない者が、真綿で絞める慈愛は恐怖を生んだ。平和ボケした彼女とは、反りが合わなかったのだろう。

 

 ――今も幼少期むかしも、俺の肉体に伸し掛る母親なんていらない。


 車窓を割る勢いで振りかざす。袋詰めの小銭では気を失っても上手く死なない。バーベキュー用に気取ったサバイバルナイフは、非常に有効だ。振り返れば、眼を見開く海琴。ソシオパスは後天的トラウマで発症するらしい。 同じ価値観トラウマを抱く生き物を育てれば、俺は『愛』を発症できるかもしれない。 ただし、その生き物を抑圧する上位存在は要らない。編まれた『戦士の遺伝子』は、自由に泳ぐべきだ。僅かな可能性に賭けた俺は、小さな浮き輪に乗せた海琴を窓から逃がし、通報した。そして……“凶暴な父親”は母鯨と共に沈み、海琴の“優しい先生 ”が生き残ったのだ。 


 奇妙な現実いまが、理想の体現を立証する。親娘おれたちの刃は互いでは無く、己の庇護者へと向いていた。俺が殺し続けた母親ターゲット達は、俺が殺せない亡霊トラウマだ。

  

「先生が良い子だと褒めてきてくれたから……私は『両親が死んで』いても、耐えてこれたんだよ。だと信じていたかったのに……先生は嘘つきだね」


「嘘なんかじゃない。雑食の俺は、群れる沖合型オフショアだ。善悪の種別は、そんなに簡単じゃないんだよ。お前の母鯨とは、吐き溜めみたいに種族が合わなかった」 


回遊型トランジェントの先生に、群れる事なんて不可能だよ。お母さんから産まれた吐き溜めだと罵られても……海辺へ流れ着いた竜涎香には稀少価値がある。生き残った私は、先生の知らない香りを手に入れたの! 」


 銀の刃先が示すは、澄浄クリアな眼を見開く海琴自身! 月夜へ広がる黒髪の片鱗に、 口も心臓も金縛りに合ったように自由にならなかった。


「私を殺せないんだっけ? なら、絶対に動かないで。父性が無ければ、私を殺すから。先生が生きる現世で、『鯨の一喉突き』が焼け付く幻だと証明してよ!」


 街灯の瞬く青が切れても、聖歌を聴くように冷静になれた。遠い屋上で唸る鉄骨から逃げなければ、海琴の事故からは免れないのに。


 走馬燈ってやつなのか、俺の本当の欲望だったのか。あと半年で修学旅行だな、と笑いあったあの日が遠い。


『ねぇ、玖墨先生。なんで銀箔が無いのに、銀閣寺って言うの? 金閣寺と違って、地味だと思うんだけど』


『まぁ、太陽の下では黒光りする奇妙な建物だもんな。由来は諸説あるが……夜には月光を反射し、黒漆の楼閣が銀色に見えたんだと。にしか会わない、俺達がそのメタリックを共に観る事は無いだろうけど』


 月下、がらんどうに嗤う愛娘。あぁ、銀鯨おまえも結局……黒鯱おれと同じ鯨類じゃないか。俺達の種族選択は成功していたんだ。


「ばいばい、お父さん」


 巨大な鉄骨の影が、動かぬ俺に伸し掛ろうと迫る。夜雨に濡れるアスファルトは、得物キバが立てられない俺だけを死出の大口で呑むのだろう。それでも海琴に乞うのは、赦しでは無い。


 ――自由への渇望は、凶暴に満たされる。


 黒髪とプリーツスカートを艶めく尾の様に翻し、は魔の水境へ踊るのだから。心酔する視界が、轟音の狭間に傾いていく。反射する月光は、銀色の価値を俺に教えてくれた。


✧︎イメージ挿絵✧︎

https://cdn-static.kakuyomu.jp/image/OQfEDALK

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

黒鯱は、夜雨の銀鯨へ《甲》 鳥兎子 @totoko3927

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画