エピローグ

私たちは会いにいく

 硬いものが床に落ちる音に驚き目を開く。

 どうやらソファーで居眠りをしてしまっていたようだ。

 今朝はいつもの休日より一時間も早起きしたというのに、こんなことならベッドで休んでいたほうがどれほど有意義であっただろう。

 欠伸をしながら足元のスマホを拾い上げて画面に目をやると、ちょうど出発を予定していた時間になるところであった。


 昨夜見たニュースによれば、盆休みの初日にあたる今日は高速道路で大混雑の発生が予想されていた。

 急ぐ旅ではないにせよ、のんびりし過ぎれば渋滞のピークの只中に飛び込む羽目になってしまう。

 二泊分の着替えの詰まったキャリーバッグを車に積み込み、運転席に着座するとナビでルートを設定し――ない。

 もう何十回と通った道なのだ。

 いまさら迷子になるということはあり得ないだろう。

 それならば画面に映される混雑状況を敢えて見る必要もあるまい。


 本日、八月十三日から向こう三日間の予定は――。

 1 まず昼までに最初の目的を果たし

 2 日が沈む前には移動を再開

 3 宿泊地でもある二つ目の目的地を目指す

 4 そこで二泊したのち、帰路でもう一つの用事を終えて帰宅

 5 盆休み最後の日は、ただひたすらに惰眠を貪り体力の回復に努める

 我ながら完璧なロードマップだ。


 最初の目的地に到着したのは、予定よりも一時間遅れてのことだった。

 もっとも、ツアープランナーを生業とする私にしてみれば、当初よりこのくらいの遅延は織り込み済みである。

「ママ、リュックお願い。僕はベビーカー下ろすから」

「あ、でもパパ。ゆうくん、自分で歩きたいみたい」

「えー。この前もそういってすぐに電池切れを起こしてたし」

 いくら彼が軽量な二歳児とはいえ、真夏の炎天下を負ぶって歩くのは結構しんどいのだ。

 夏休みの動物園は案の定の激混みであったが、妻と息子が楽しみにしていたペンギンの餌やりは最前列で観ることができた。

 私が観たかったライオンはといえば、日陰で尻をこちらに向けて横たわったまま、ついにはピクリとも動いてくれなかった。


 お気に入りのタオルケットを抱きしめ、遥か夢の世界へと旅立って久しい我が子をチャイルドシートに括り付けると、次の目的地である私の実家へと向けて車を発進させる。

 ちなみに現時点では二時間押しだったが、それでも昨年よりはいくらか順調な滑り出しではあった。

 たったの一年ではあったが、人はこうやって着実に成長していくのだろう。


「かなたさん、アメっていりますか?」

「あ、うん。貰うよ」

 息子が熟睡したことを見届けた彼女は、赤信号で車が止まったのを見計らい助手席に戻ってくると、包みから出した飴玉を私の口の中に放り込んでくれた。

 子が生まれてからいつの間にか、互いのことをパパママと呼ぶようになっていた私たちだったが、今のようなふたりだけの時間は昔と同じように名前で呼び合い、彼女に至ってはやはり当時のように私に対して敬語を使用していた。

 私にはそれがとても心地よかったし、どうやら彼女も同じようだった。

「お義父とうさんとお義母かあさんから催促のメッセージきてましたよ」

「家を出る前に到着は夜になるって伝えておいたんだけどね。あの二人に茉千華のお義母さんの爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいよ」

「うちのお母さんからも着信が三回入ってました」

「あ、そう……」

 毎日のようにリモート通話で顔を見せているのだから、何もそんなにがっつくこともないだろうに。

 と、そう思う反面、いずれの親にとっても悠は初孫なのだから、それもまあ仕方がないことなのかもしれない。


 明日は義母に孫を会わせてから私の生みの両親、それに今や義理の姉となった水守さんが眠る墓に参ったあと、夜にはさらに高校の同窓会が予定されていた。

 せっかくの長期休暇なのにハードスケジュールである。

 ゆうべ遅くに掛かってきた藤田からの電話によれば、七菜と芝川さん――もとい、長谷川咲希さんも出席するそうだ。

 というか、藤田はそのことを知らせるためだけに私に電話をしたと言っていた。

 彼曰く、『七菜ちゃんと芝川いいんちょうが「絶対にきてね!」ってお前に伝えてくれって。ふたりともさ、お前と水守んちの妹さんとの馴れ初めが聞きたいんだとよ』だ、そうだ。

「……ふう」

「かなたさん? どうかしましたか? 顔色があんまりよくないみたいですけど……」

「ごめん、なんでもない」

 事細かに話せるような問題ではない以上は黙しておくのが正解だろう。

「明後日、そのままあっちに帰ったほうがよさそうですか?」

「大丈夫だよ。予定通り川島さんのところに寄ってから帰ろうよ。彩ちゃんに中学の入学祝いも渡さないといけないし」

 心から心配そうな表情を浮かべてこちらを伺う彼女に、多少の罪悪感を抱きながらそう答えると、まるで参観会はれのひの優等生のような「はい!」という元気な返事が車内に響き渡った。

(ちょっとママ! 悠が起きちゃうよ!)

(あ……ごめんなさい)


 大渋滞の高速道路をようやく抜けた車は、ヘッドライトの白い明かりに導かれながら、車通りの少ない下道を互いの故郷に向かって軽快に走る。

 独身時代にもあの町へ帰るために何十回と通ったこの道路だったが、フロントガラスの向こうに映る景色はその頃よりもずっとずっと彩り豊かに見えた。

 それは間違いなく私の横にいる彼女および、後席でかわいらしい寝息を立て夢を見ている彼の仕業であった。

 進行方向の左手に車一台分の駐車スペースと、そのすぐ傍らに灯る自動販売機の明かりが見えてきた。

 最後の休憩と後席の様子見を兼ね、暗闇の只中で唯一光を放つその空間へと車を滑り込ませる。


「ちょっと休憩しよっか。茉千華は何か飲む?」

「あ、いえ。……あの、かなたさん」

「ん? どうしたの?」

 彼女が何かを訴え、私がそれを尋ねる。

 私たちはずっと昔からこのやり取りを繰り返していた。

「車を運転しているかなたさんのこと、ずっとみてました。気づいていましたか?」

 実は先ほどから助手席のほうから彼女の視線を感じていたのだが、やはり何か言いたいことがあったようだ。

「うん。知ってた」

「かなたさんは……。私と一緒になってよかったですか?」

 何をいまさらと思ってしまったが、すぐにその意図が別にあるのに気づくことができた。

 なぜなら、いかにも物欲しげといった面持ちで私の顔を覗き見る彼女とばっちり目があったから。

 そうとなれば、恥ずかしいなどとは言わずに、私も少々腹をくくらねばなるまい。

「茉千華。君のことを愛してる。これまでもこれからも、ずっとね」

 この言葉に一切の嘘偽りはない。

 私はきっと彼女と出会うために生まれ、こうして今日まで生かされてきたのだから。

「私もです。おねえちゃんの妹に生まれてきて、それでかなたさんに会えて本当に幸せでした」



『死んだ恋人に会いにいく』


 かつて私の同級生だった水守唯は、この一行詩のような言葉と深い悲しみだけを遺し、ひとり此岸しがんから彼岸へと旅立っていった。

 彼女の家族が負った心の傷が完全に癒えることなどは、もはや一生涯ないのかもしれない。

 しかし、この世界に彼女が遺したものが本当にたったそれだけだったかといえば、まったく以てそんなわけなどあるはずがなかった。



「私、もうひとり赤ちゃんがほしいです。かなたさんみたいに優しくて、お姉ちゃんみたいに素敵な女の子がいいです」

 そう言った彼女の瞳は、まるでクリスマスプレゼントに玩具おもちゃをねだる子供のように煌めき瞬いていた。

「実は僕も同じことを考えてたんだ。君たち姉妹みたいに強くて素敵な女の子が欲しいなって」

 それとあと、どうせなら母親似の美少女がいいなって。

「じゃあ今夜は悠くんのこと、お義父さんとお義母さんにお願いしちゃいませんか?」

「そうしちゃおっか?」

「はい!」



 次第に遠ざかってゆく自動販売機の灯りに別れを告げると、満天に煌めく星々を道標みちしるべに車を走らせる。

 そして、私たちは会いにいく。

 あの懐かしい町と、そこで暮らす愛しい人たちに。


 終

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死んだ恋人に会いにいく 青空野光 @aozorano

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