未来
水守の家には門限というものがないそうだ。
それはひとえに模範的な少女時代を送った姉、唯の功績だという。
その妹も余程のことがない限りは、日没までに家の戸をくぐることを自らの決め事として守っていたというのだから、揃いも揃って殊勝な姉妹だとしか言いようがない。
ただ本日に限っては、すでに日の入りから数十分が経過していた。
顔の横からスマホを離してこちらを向いた彼女は、「またお母さんにウソついちゃいました」と言いつつ小さな舌をペロッと出してみせた。
「いま隣町のカラオケ屋さんを出たところで、お友だちのお母さんに送ってもらって、あと三十分くらいで家に着くことになりました」
もしも将来、自分に女の子が生まれて娘に同じようなことを言われたなら、とりあえずその場でその友達に電話に出てもらうことにしよう。
と、今はそんな不確定な未来のことよりも、その設定上の友達のお母さんに代わり急いで彼女を家まで送り届けなければ。
もともと夜ともなれば車通りのほとんどない県道だったが、大晦日の今日は普段にもましてそれが顕著だった。
ところどころにある白色LEDの道路照明灯が照らすのは、黒くて冷たいアスファルトの路面ばかりだ。
こんなことなら多少イニシャルコストを掛けてでもセンサー式のライトにでもしたほうが、余程経済的なのではないだろうか?
そんな暗闇の中を走っている時に、助手席から突然「あの!」と大きな声があがったものだから、カモシカかイノシシでも飛び出してきたのかと慌てて急ブレーキを掛けてしまった。
アンチロックブレーキシステムの得も言われぬ振動を伴いながら車を急停止させた私は、道路上に横たわる毛皮がないことを確認してから大きく息を吐く。
「事故るかと思った……」
「あ、ごめんなさい。あの、これなんですけど……」
彼女はリュックサックからガサガサと紙袋を取り出す。
「これも預かってもらっていいですか?」
それは先ほどにも一度提出された物で、確認したわけではないが中身の想像はついている。
「いいよ」
恭しい手付きで渡されたその袋を後部座席に置くと、シフトノブをDに入れ直して車を再び発進させた。
「あの。それと、さっきはすいませんでした」
「ん?」
「子どもなのにわかったような口を利いてしまって。本当にごめんなさい」
本来謝らねばならないのは、彼女の並々ならぬ覚悟を大人の狡猾さで無理説き伏せ抑えつけた私のほうだったのだが、いまさらそれを蒸し返すようなことはしたくない。
ただ、ひとつだけ彼女に伝えておかなければいけないことがあった。
「さっき茉千華ちゃんが言ったとおり、確かに僕たちが出会ったのはお姉さんに不幸があったからだったけどさ」
それを否定することなどは、どんなに巧みな詭弁を用いてもできやしない。
「でも、もし仮にあんなことがなくても」
『もし』とか『仮に』なんて、私自身が一番嫌っていた言葉だったはずなのに。
「それでもきっと僕は君とどこかで出会って、それで恋に落ちていたはずだよ」
そう断言できるほどに、私は水守茉千華という少女のことを特別に感じていた。
「……なんだかプロポーズの言葉みたいです」
「その時はもっとこう、ビシッとしたセリフを用意しておくよ」
私としてはほんの冗談で言ったつもりだったのだが、彼女は仄暗い車内にあってもはっきりとわかるほどに頬を赤く染めると、真顔でこう返してきたのだった。
「不束者ですが、よろしくお願いします」
だから事故るって。
ヘッドライトのオートハイビーム機能に一度も仕事をさせることなく、まんまと彼女の家のすぐ近くまで戻ってくることができた。
「ありがとうございました」
シートベルトを外してからこちらを向いた彼女の頬にそっと手を当て、親指の腹でなぞってその感触を確かめる。
一瞬だけ驚きの表情を浮かべた彼女だったが、すぐに笑顔を見せると自身の手のひらを私の手の甲に重ねた。
何時間でもそうしていたいくらいだったが、それでは私の大人としての立つ瀬がなくなってしまう。
「それじゃ、また」
自分で口にしておいてあれだが、その『また』とは一体いつのことを言ったのだろう。
仕事初めは四日からなので、三日の午後まではこちらに滞在しようと考えていた。
だが、水守さんの件が終息した今となっては、彼女と会うためにどんな理由を設ければ――いや。
私と彼女はいまや恋人同士なのだから、もはや会うために理由など必要ないのだった。
「そういえば茉千華ちゃん。前に約束したよね。今度会った時にはまた、どこかに連れて行くって」
「はい。それでさっきスーパーに連れていってもらいました」
そう言われればそうだったが、そんなものは問答無用でノーカウントだ。
「動物園に行こうって言ったら付き合ってくれる? ここからだと少しだけ遠いんだけどさ」
「すごく行きたいです!」
その遠さというのは物理的な距離もだったが、私にとっては精神的な意味合いが強かった。
そこはかつて、幼かった私が両親に連れられて訪れた場所であり、もう二度と行くつもりなどあろうはずもなかった場所でもある。
彼女が最愛の姉の死を受け入れたように、私もそろそろ天国にいる父と母に安心してもらいたいという、そんな気持ちが芽生えたのかもしれない。
私にとっては悪夢の記念碑のようなその場所だったが、彼女が一緒であればきっと、最高に幸せな思い出でその碑文を上書きすることができるはずだ。
大きく手を振りながら小さくなっていく彼女の姿を見送っていると、自然と小さなため息が漏れ、それと同時に大きな充実感が胸を満たした。
急いで帰ったところで誰かが待っているわけでもなければ、何かやりたいことがあるわけでもない。
だったらこの、私のことを呪っているとまで思っていた町の夜を、もう少しの間だけ楽しんでやろう。
決定を下した私はラジオのボリュームを少しだけ上げると、県道を少しだけ遠回りしながら家に帰ることにした。
アクセルペダルの上に載せた右足首に軽く力を込めると、モーターで駆動されたハイブリッドカーの前輪が力強くアスファルトをグリップする。
液晶画面の速度計は、まるで素数でも数えるように飛ばし飛ばしの数字を表示し、もう数キロほどで道路標識で指定される最高速度になろうかといったところで、モーターはその役目を内燃機関へ受け渡そうとした。
インバーターから発せられていた高周波の音が一瞬途切れる。
と、その時だった。
『中原くんありがとう』
わずかに開けていた運転席の窓からとても懐かしく、それでいてよく聞き覚えのある声が聞こえた気がした。
それはきっと、この一年半の間に起こった様々な出来事の終わりを告げているのではないだろうかと、なぜなのかはわからないが不思議とそう思えた。
たった十一文字だけの、旧友からの御礼の言葉。
それに対して私は、幼少の頃にも照れながら口にした短い言葉で返す。
「どういたしまして」
君という同級生の女の子がいたことを僕は忘れない。
だからどうか安らかでいてほしい。
君の愛する恋人とともに永遠の時のそのなかで、ずっと。
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