震え

「さっきの人って元カノさんですか?」

 少女は助手席から身を乗り出すようにして、唐突にそんなようなことを尋ねてきたのだった。

「なんでそう思ったの?」

「女の勘です」

 その当たらずといえども遠からずといった精度のオンナのカンとやらに、ステアリングを握る手のひらがわずかに汗ばむのを感じた。

 確かに私と彼女は一晩――二晩だけとはいえ、一線を越えて男女の関係になったことがあったのだが、この世の中なんでも正直に話せばいいというわけではない。

「残念だけどそういうのではないよ。彼女は高校のときのクラスメイト」

「……ヘンなこと言ってすいませんでした」

 凹んだ様子を見せる彼女に良心が痛んだが、こればかりは真実を話したところで誰の得にもならない。

 なので、たとえ死んだあとに舌をひっこ抜かれることになろうとも、嘘を貫き通すためにさらに嘘を重ねる。

「でも仲は良いほうだったから、だからそう見えたのかもしれないね」

「仲がよかったって、どのくらいですか?」

 綺麗に話を切り上げたつもりだったのに、彼女はなぜだかスッポンのように食いつくと離してくれない。

「移動教室の時間に一緒に行くくらいかな」

「それってすごく仲良しだったってことですか?」

「え? いや?」

 何が悪かったのかはわからないが家に着くまでの十数分の間、ずっとこんな感じの問答を重ねる羽目になってしまったのだった。


 玄関の戸を開けた途端、外とはまた違ったタイプの冷気が廊下の奥から押し寄せてくる。

 そんなことなど気にする素振りもみせない彼女は、「おじゃまします」と言うやいなや框を跨ぐと、さっさとキッチンのほうへ走っていってしまう。

 なんでも今から私の晩ごはんをこしらえてくれるらしい。

 少し遅れて追いついた私に、「かなたさんはお昼寝でもしていてください」と戦力外の通告をし、さっそくスーパーで買ってきた物の仕分けを始めたようだった。

「お言葉に甘えて少しだけ横にならせてもらうね」

 昨夜は両親と遅くまで酒を酌み交わしていたこともあり、実のところ今朝は目が覚めた瞬間にはすでに眠たかった。

 

 居間で座布団を枕にして寝ていると、すぐ耳元で衣擦れが聞こえて目が覚める。

「あ、起こしちゃいましたか?」

 寝顔を見られていたのだとすれば恥ずかしい気もしたが、よくよく考えたらそんなことなど一昨日の出来事に比べればどうということはない。

「カレーはもうできたの?」

「え? なんでカレーだってわかったんですか?」

 何でも何も、現に家中にオリエンタルな香辛料の匂いが充満しているし、それ以前にジャガイモにニンジンとタマネギ、それにカレーのルーと福神漬を買っているのを目の前で見ていたのだから、いくら料理をしない私といえどそこは外しようもなかった。

「茉千華ちゃんは食べてくの?」

「あ、いえ。家で母が待っているので」

「ああ、そっか」

 彼女が帰ってしまったら、私はまた一人で夜を迎えることになる。

 そんな至極あたり前なことが、なぜだかとてつもなく寂しくて哀しかった。

「家まで送るよ」

「あ、まだあと二時間くらいだったら大丈夫です」

 その言葉を聞き思わず胸を撫で下ろす。

「あの、かなたさんのお部屋に行ってもいいですか?」

「僕の? 別にかまわないけど」


 リノベーションをする時にある程度の対策をしたとはいえ、もともと作業場だった部屋は断熱性や気密性が低い上に、南側に窓がないため日射を取り込むことすらままならない。

 ここに比べればまだ、屋外のほうが暖かいくらいだった。

 ただそれも、部屋の中心に置かれた昔ながらの石油ストーブに火を入れたことで、おそらくはあと十分ほどで改善されるはずだ。


 並んでベッドに腰を下ろした途端に彼女が口を開く。

「かなたさん。またお願いなんですけど……」

 彼女の願い事は余程の無理難題でもなければ叶えようと決めていた私は、二つ返事で「いいよ」と返す。

「私とかなたさんが今こうしてここにいるのって、なぜなのかわかりますか?」

 それはお願いではなく質問であり、しかも随分と難しい内容に思えた。

「うーん」

 出会う運命だったとか?

 互いがそれを望んだから?

 ない頭を使って考えてはみたが、いずれの答えも決定打に欠けていた。

「ごめん、わかんない。茉千華ちゃんにはわかってるの?」

「はい」

 即座に返ってきた返事に続けて、「それはおねえちゃんが亡くなったからです」と、まったく思ってもみなかった回答の開示が行われた。

「それは――」

 彼女が口にした言葉の誤りを必死になって探したが、私はついにそれを見つけることができなかった。

「おねえちゃんが亡くなったから。だから私はかなたさんと今、ここにいるんです」

 硬い表情で話していた彼女の目元と口元がふいに綻ぶ。

 大きく黒目がちな瞳にじわじわと涙が蓄えられ、やがて一粒のそれが零れ落ちると板張りの床の上で音もなく砕け散る。

「おねえちゃんが私をかなたさんに会わせてくれました。でも私の中ではまだ、おねえちゃんがいなくなった寂しさのほうが大きいんです」

 私という人間はなんと浅はかなのだろう。

 てっきり彼女はもう、姉を失った悲しみを乗り越えた場所に到達しているものだとばかり思っていた。

「かなたさんにお願いがあります」

 改めてそう言った彼女が差し出したのは、おそらくは先ほど薬局で購入した物が入っている小さな紙袋だった。

「お姉ちゃんがいなくなった悲しさよりも、かなたさんと一緒にいられる喜びを大きくしてください」

 その言葉の意味を――姉を、家族を失った悲しみに対抗するために少女が取ろうとしている手段を理解するのに、壁に掛けられた時計の秒針がちょうど一周するだけの時を要した。

 それからさらに同じだけの時間が過ぎた頃。

 私はようやく考えをまとめると、赤熱したストーブの横に立つ少女の前まで歩み寄る。

 真一文字に結ばれた薄く形の良い唇が、ほんの少しだけ震えているのが見て取れた。

 それは年の瀬の寒さのせいだったかもしれないし、そうではなかったのかもしれない。

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