淘汰ノ春

瑞崎はる

淘汰ノ春

 笹塚山は我が国有数の熊の生息地だ。


 山熊保全研究所の所長の【森崎春生】は、【村岡冬貴】の父親で、三年前から山にこもり、ずっと熊の研究をしている。冬貴は母親らと都市部のマンションで暮らしていて、隣県の笹塚山にいる父親とは、長期休暇の時に一日だけ会うことになっている。仕事にかまけて家庭を顧みない父親とワンオペ育児に不満を募らせていた母親は、冬貴が十歳になった年に離婚していた。


 【春】の大型連休の初日。

 中学生になった冬貴は久々に父親に会いに笹塚山に行った。冬貴の父親に世間の休日は関係ない。冬貴は当然のように熊を追って、笹塚山を歩かされた。


「熊って、人間を食べるの?」


「機会があれば食べるよ。好んで食べるわけじゃないけどね」


「機会って?」


「出会い頭に驚いて攻撃した結果、人間が死んでしまった、とか。熊にとって、死んでしまった人間は肉だから」


「じゃ、人間の死体が熊の前にあったら食べる?」


「食べるだろうね」


 父親は冬貴に「怖い?」と尋ねた。冬貴は首を横に振る。怖いとは思わなかったが、好きというわけでもなかった。どうでもいい。


「笹塚山の熊は臆病だから、むやみに人間を攻撃することはないよ。でも、【春】の熊は危ない」


「なんで?」


「繁殖期で気が立っているんだ。雄が雌を求める。邪魔者は徹底的に排除する」


「ふぅん」


 冬貴は父親の言葉を聞き流した。元から、冬貴の関心は熊になんかない。


 …メスが絡んで気が立つのは熊も人間も同じか。


 とはいえ、年中発情期の人間の方が危険なのは間違いない。

 今年、母親と再婚した体格のいい若い男は、冬貴が抵抗しないのをいいことに、事あるごとに冬貴をサンドバッグ代わりにしている。中学校でも、冬貴が目立つ女子から声をかけられていたのが気に食わなかったのか、素行の良くない同級生に目をつけられた。毎日のように絡まれる。金品を要求されたり、殴られることもある。


「やっぱりか。冬貴は見ない方がいい」


 双眼鏡で前方を見ていた父親が冬貴を制して、立ち止まった。


「どうしたの?」


「共喰いだ」


「熊の?」


「そう」


 …喧嘩して勝った雄が、負けた雄を殺して食べているのか。


 熊が共喰いをするとは知らなかったが、熊が生きるのは弱肉強食の世界だ。力が全て。強ければ、弱い者を思い通りにしていい。


 …強くなれば、俺も。


 強ければ、全ての理不尽を噛み殺すことが出来るのだろうか。あらゆる邪魔者を食い殺して、この不自由で生き辛い世界を思い通りにすることが出来るのか。


「見たい」


「グロいぞ」


「平気。もう、中学生だし」


 父親の手から双眼鏡を奪って、レンズを覗き、前方に向ける。


「どこ?」


「右側の岩陰。崖下の木が生えてない所があるだろう」


 父親の言葉を頼りに岩場を探す…蠢く黒い影。


「アッ」


 思わず声が漏れた。


 …あれは…


 大きな熊が小さな熊の腹に顔を突っ込んでいた。小さな熊は大人ではなかった。


 ――――小さな小さな…子供の熊。


 頭は皮一枚でぶら下がり、首は奇妙に長く伸びて垂れていた。黒い毛に覆われていた腹が縦に割かれ、鮮やかな桃色の臓物が溢れだしている。仔熊の毛がぺしゃんと寝ているのは、血で濡れているせいだ。左手の開けた岩場から右の岩陰に向かって引き摺った時についたらしい血の跡が生々しく残っていた。


「この辺りは、子連れの雌熊一頭しかいなかったんだ。最近になって、大きな若い雄がやって来た。危ないかな、と思ってたけど、やっぱり駄目だったか」


 父親は力無く呟いた。仕事上、怪我を負った熊を保護することは出来ても、熊同士の争いを止めることは出来ないらしい。「見守るだけだ」と辛そうに言った。


「大人の雄同士が戦うんじゃないの?」


「そういうこともあるけど、成獣なら大抵は負けた方が逃げ出すから、殺すまでには至らない。雄熊の子殺しには理由があるんだ」


「どんな?」


 父親は小さなため息をつく。


「仔熊を殺すと母熊が発情する。交尾が出来るようになるんだ」


「…そう。子供は邪魔なんだ。人間と同じだね」


 冬貴が呟くと、父親はそっと冬貴から双眼鏡を取り上げた。


「熊の世界はシンプルだ。より多くの餌を求め、より多くの子孫を残す。そのためには何をしても構わない。でも、人間は違う」


「違わないよ」


「冬貴…」


「お父さんは奪われたんでしょ?でも、戦わずに山に逃げた。弱かったから」


 父親が驚いたように目を見開いた。


「あの男とお母さんが、お父さんのいない時に何をしてたか、離婚になるずっと前から、俺は知ってたよ」


 冬貴は父親に笑ってみせた。


「お父さんがずっと気づかないふりをしてたのも知ってたよ」


「それは…」


 父親が何か言いかけたのを冬貴は止めた。


「今日、ここに来て良かったよ。俺、自分がどうしたらいいのか、やっとわかった」



 ―――――熊に、教わった。



 その年の冬。

 森崎春生が地下倉庫に閉じ込められて凍死し、研究所のガンロッカーからライフル銃と弾が消えた。


 翌年の【春】。

 村岡冬貴の母親の再婚相手が消えた。


 同じ年の夏。

 村岡冬貴に暴行を加えた同級生が消えた。


 この秋以降。

 笹塚山の熊が人を襲う事件が増えた。


 熊は肉を貪り肥える。

 冬の間に母熊は子を生み育てる。そして。


 ―――――笹塚山に【春】が来る。

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淘汰ノ春 瑞崎はる @zuizui5963

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