裏側の国

shinobu | 偲 凪生

 

   §




 白磁の丸皿に置かれたのは、手垢のついた植物事典だった。


 長い長い長方形のダイニングテーブルの遥か先では、人ならざる存在がナイフとフォークを手にしている。

 輪郭は人間のに近いものの、その顔に目は五つ。鼻はなく、両耳を始点と終点とした大きな口がついている。仕立てのいいスーツはぱりっと光沢があり、手には白い手袋をはめていた。


 薄暗いシャンデリアに照らされたダイニングルームには、異形と人間の男のみ。

 異形は分厚い本をナイフで器用に切り分けると、フォークの背に載せて口へと運んだ。


『やはり分厚い方が食べ応えがありますね』


 紙を咀嚼しながら、異形は口以外の器官から音を発する。


「……」


 人間の男は落ち窪んだ双眸を皿へと向けた。

 ……ぐぅ。

 言葉を発する代わりに、腹の音が鳴った。


 元々、男は、日本のブラック企業で働くサラリーマンだった。一流大学を卒業して就職したものの、出社は朝の六時、帰宅は毎晩二十四時を超えていた。リスケやペンディングといった言葉の意味を知らない上司から意味もなく叱責される日々。

 食事はままならず、どんどんやせ細っていった。己の六畳一間のアパートで最後に見た光景は、空っぽの冷蔵庫だった。


 ――気絶した男は、意識を取り戻したとき、己の目を疑った。

 子どもの頃に家族と訪れたようなテーマパークにある城に似た空間にいたからだ。

 そして、男を天蓋付きのベッドに寝かせていたのが、今まさに目の前で植物事典をんでいる異形だったのだ。


『ここはいわゆる裏側の国。時々、あなたのような人間が迷い込んでくるのです』


 異形は穏やかに説明して、付け加えた。


『ただ、長くは生きません。誰も彼もお腹を空かせて、すぐに死んでしまいます』


 その言葉の意味を男はすぐに理解した。

 異形の食事とは――、なのだ。

 分厚い百科事典から可愛らしい絵本まで、異形曰く、内容によって味が変わるらしい。


『我々の主食とはです。ぎっしり、みっちりと詰め込まれたものほど、噛めば噛むほど旨みを感じられるのです』


 恍惚と異形は語ってみせた。

 しかし、人間は本を食べることはできない。もし飲み込めたとしても、胃が消化してくれないだろう。

 どのみち死ぬしかないのだと悟った男は、異形へ、裏側の国へ迷い込んだ人間がすぐに死んでしまう理由を説明しなかった。


 朝昼晩、異形は本を食す。

 一方で、男はますます痩せ細っていった。


『やはり、あなたも死んでしまうのですね』


 異形は悲しんでいるとも喜んでいるとも判断つかない淡々とした音を発した。

 男は、答えなかった。正確には意識が朦朧としてきていたため、答えることができなかった。

 今日、皿の上に置かれたのは、横長の絵本だった。

 それは男が子どもの頃によく親から読み聞かせられていたものだった。


「……」


 男は、震える指でページをめくった。

 ぱらり、と、少し分厚めの紙を繰る音がダイニングに響く。


 絵本のなかでは、登場人物たちが、自分の体よりも大きなホットケーキを作っていた。

 皆、笑顔で、美味しそうにホットケーキを食べている。

 誰もが幸福で、理不尽な現実を知らない、温かな世界……。


 ぽろり。男の瞳から、涙が溢れた。


『どうしたのですか?』


 ダイニングテーブルの向こうで、異形が慌てた。

 そして男の視線が絵本のなかのホットケーキに向けられていることに気づく。


『もしかして、あなたはこれを食べたいのですか? この登場人物たちのように?』


 ……男は、黙ったまま頷いた。

 すると異形は立ち上がって、ダイニングルームから出て行った。


 しばらくして異形は何かを丸皿に載せて戻ってきた。

 甘い香り。あたたかな、湯気。

 絵本のなかと同じ、二段重ねのホットケーキだ。その上では小さなバター。融けた部分が透明に変わっている。

 丸皿の隅にはガラスの小瓶がちょこんと添えられていた。


『どうぞ、召し上がれ』


 ぐぅ、と男の腹が返事をした。

 震える手でガラスの小瓶から垂れ流すのは、琥珀色のメープルシロップだ。まるで美しいドレスを纏わせるかのように、ホットケーキの表面から滴らせる。

 薄暗いシャンデリアに照らされて、宝石のようにメープルシロップが煌めいた。


 男の喉仏がごくりと上下する。恐る恐る、ホットケーキへナイフを入れた。

 表面はさくっ。中は、ふわっ。

 小さく切り分けて、男はホットケーキを口にした。


「……美味しい」


 男は久しぶりに言葉を発した。

 これが本物のホットケーキなのか、どんな材料で作られた物なのかはどうでもよかった。ただ、胃が、心が、受け入れたばかりの甘さと温かさを歓迎している。もっともっとと求めている。

 すべてを諦めていた男にとってそれは忘れかけていた欲望でもあった。

 男は無心になってホットケーキを咀嚼した。


「ごちそうさまでした」


 あっという間にホットケーキを平らげたその頬は、あかく上気していた。

 どさ。

 男の目の前にたくさんの本が積まれる。ゆっくり男が顔を上げると、異形の五つの瞳はどれもらんらんと輝いていた。


『何を食べたいですか。何でも作ってあげましょう』

「……いいんですか?」

『もちろんですとも』


 にっ、と異形の大きな口の端が吊り上がる。


「ありがとうございます。俺は、あなたに助けてもらえて、本当によかった……!」




   §




 やがて、男の血色けっしょくはみるみるうちに回復していった。

 肉じゃが、ハンバーグ、カレーライス。

 シュークリーム、チョコレートケーキ。

 異形は男の望む食事をなんでも作ってくれた。

 有益だったのは料理研究家の書いたというレシピ本だ。写真付きで丁寧に調理方法が記載されている。詳細があればあるほど異形は食事を再現しやすいそうで、そのレシピ本は、男と異形の重要なコミュニケーションツールとなっていた。


 異世界とはいえ衣食住が保障されたことで、男は、本来持っていた知的好奇心を取り戻すまでに至っていた。


(俺はどうして異世界に来てしまったんだろう)


 死の代わりにもたらされた選択肢だというのは薄々分かっている。

 気づいてしまったのだ。ダイニングルームの壁が滑らかではないということ。よくよく見れば、それはしゃれこうべで構成されているということを。

 そして、気づかないふりをする男の前にはオムライスが給仕される。

 最近の流行ではない、しっかりと焼かれた薄焼き卵でチキンライスをくるんでいるタイプのものだ。中のチキンライスには細かく刻まれた鶏むね肉とミックスベジタブルがたっぷりと入っている。

 スプーンを入れると、そこからたちまち湯気が彼の鼻腔をくすぐった。

 子どもの頃はミックスベジタブルのにおいが苦手で、いちいち取り除いて食べていた。完食と見せかけて大量に残されたミックスベジタブルは彼の母親を怒らせるには十分だった。

 しかし、トマトケチャップでしっかりと味付けされたチキンライスのミックスベジタブルには臭みがなく、鶏むね肉もふっくらと仕上がっている。

 卵も薄焼きなのにしっとりとやわらかい。塩こしょうできちんと味もついている。

 トマトケチャップはよく見ればざらざらとしている。果肉の裏ごしをしていないタイプなのかもしれない。酸味のなかにコクがあり、薄焼き卵の上へ追い掛けをしたくなる味わいだ。

 オムライスを食べながら男は遠くに座る異形を見た。

 異形が食しているのは一世を風靡したファンタジー小説だ。映画化され、近年では舞台化もされたとネットニュースで目にした。

 男も原作小説は親にせがみ、全巻買い揃えてもらっていた。幼少の頃に映画館で観て、たちまちその世界観に魅了されたのだ。


 異形がその分厚い一冊を、まるでミディアムレアのビーフステーキを食べるように切り分けて口に運ぶ。

 想い出を喰らわれているような気分になり、胸の奥がずきんと鋭くも鈍い痛みを訴える。

 男はスプーンを皿に置いた。


『どうしましたか? 美味しくなかったですか?』

「いえ、美味しいです。だけど、お腹がいっぱいになってしまって……」


 立ち上がった男は、部屋へ戻ると異形に伝えた。

 ダイニングルームを出ると延々と続く廊下。赤絨毯が敷かれ、壁には等間隔に明かりが点されている。


(一度は死んだようなものだ)


 現実世界に戻りたいとは思わない。

 どれだけの時間が経過しているかは分からないが、待っているのは山積みにされた無駄な仕事か、無断欠勤をなじる罵声のどちらかだろう。

 一方、気づいてしまったことがある。

 異形が、自分の想い出の本を喰らっている様を見ると、心が軋む。

 思い返せば男は読書好きの子どもだった。口下手で会話が苦手で、学校の休み時間は図書室の隅にこもっていた。だからこそ大学まではストレートに進学したのに就職活動で失敗したのだが、それはそれ。

 男はさらに思い出す。何枚もいっぱいにした図書室の貸し出しカード。そこに書き込んだたくさんの題名。

 異形が喰らったものは、現実世界で消えたりしていないだろうか。ファンタジー小説ならば大いにありえる展開だ。


(もう一度死ぬことなんて恐ろしくない)


 守るのだ。本を。

 男は決意すると、壁の照明へ手を伸ばした。ランタンの形をしたそれは力を入れるとすぐに外れた。




   §




 男は歩き回った結果、書庫に辿り着くことができた。

 むせ返るほどの紙のにおい。男にとっては書庫であり異形にとっては食物庫。

 円柱状の空間の壁には隙間が見えないほどびっしりと本が並べられている。あれだけ書物を貪ってもあまりある蔵書があるようだ。

 壁に沿うように設置された螺旋階段をゆっくりと男は歩き出す。

 中学校の授業で習った古典も、初めて買ったライトノベルもある。異形が食していたファンタジーの続巻も健在だ。

 タイトルに惹かれて購入したがあまりのつまらなさにすぐ古本屋へ持っていった本もあれば、アニメをリアルタイムで視聴するくらい好きだったのに結末を思い出せない物語もある。

 男は人差し指を文庫本の上に引っかけて、一冊を取り出した。

 ぱらぱらとページをめくり、記憶と照らし合わせる。


「……ふふ」


 自然と笑みが零れていた。

 

「本に囲まれて死ぬっていうのは、いいな」


 結末を確認すると男は本を棚へ戻した。


『何をしているのですか?』


 下から声が響いてきた。異形が書庫の入り口に立っている。五つの目がぎろりと男を見ている。男の後をつけてきたのかたまたま訪れたのかは分からないが、男にはどちらでもよかった。


『これらは私の食料です。むやみやたらに触れないでください』

「あなたの食料かもしれませんが、僕の想い出でもあります」


 男はランタンのカバーを外した。剥き出しになった炎が書庫を明るく丸く照らす。予想通り、普通の火ではなさそうだ。熱くないのにごうごうと燃え盛る音がする。

 これから男がやろうとしていることを察した異形は、初めて声を荒げた。


『おやめなさい。あなたも死んでしまいます。何の為にあなたを助けたと思っているのですか』

「かまいません。この世界に来た以上、僕はもう死んだも同然ですから」


(お前を巻き添えにできるなら、さらに好都合だ)


 異形が何故自分を助けたのかは分からない。もしかしたら、珍味として食べるつもりでいたのかもしれない。しかし、そんなことはどうでもいい。

 もう、何もかもどうでもいいのだ。

 男の双眸にくらい光が生まれる。

 自らが正義だと信じて疑わない強い意志の表れ。

 



 ――炎が、落ちた。

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