第9話 さようなら花子さん
ゴールデンウィークの二日目。変な時間に目が覚めた。時計を見ると早朝の4時前だった。とても朝早く起きたのに、不思議なことにちっとも眠くなかった。勢いよくふとんから飛び起きて、さっとカーテンをあけると、窓の外はまだうす暗かった。起きるにはちょっと早すぎたみたいだ。仕方ないからもう一回寝ようかと思った時、ハナコの声が聞こえた。
「おはよう。いまからお出かけしよっ!」
「ハナコ、起きてたの? まだ外は暗いよ!」
「明るくなっちゃうと、あたしのこと見えなくなっちゃうかなって思って……」
「そうか、じゃあ、早く出かけないと!」
「わーい、二人でお出かけ!」
ハナコははしゃいで部屋の中をくるくると飛び回った。ぼくはパジャマをぬいで、お出かけ用の服に着替えた。去年、お父さんに買ってもらったお気に入りのニューヨークヤンキースの帽子もかぶって行こうかと思ったけど、急に恥ずかしくなってやめた。
ゆっくりと部屋のドアを開けて、忍び足で玄関まで歩いた。ハナコがぼくのうしろをついて来るのが気配で分かった。まだ、家の中はシーンとしていた。家族のみんなを起こさないように、とくに、おじいちゃんは毎日朝起きるのが早いから、絶対に物音を立てないように家を出ないといけない。そっとくつをはいて、玄関の引き戸を音がしないように開けた。外へ出て家庭菜園の脇に立つと、家の北側にある森からしっとりとした冷たい空気が鼻に入って来て、体がブルっと震えた。
「ハナコ、寒くない?」
「うん、大丈夫」
ぼくとハナコは裏山へ向かって歩いた。あたりはまだとても暗かったけど、徐々に空は明るんできていたので、街灯や懐中電灯がなくても歩くことができた。それでも道を歩いている人は誰もいなかった。近所の人もきっとまだ眠っているんだろう。1カ月以上通って見慣れた通学路のはずなのに、はじめて通る道のように感じた。デートというより冒険へと向かう勇者になった気分だった。
10分ほど歩いて地域の集会所までやってきた。だれもいない集会所の裏手から山の頂上の神社へと続く道に出ると、ここからは舗装されてない細い坂道が続く。ここからの道は木々に囲まれているせいで真夜中みたいに真っ暗だった。
「ねえ、ハナコ。この道、怖いよ」
「大丈夫。あたしがついてるでしょ」
幽霊にはげまされるなんて、おかしな気分だった。ぼくは、ハナコがいるから怖くないと気持ちを奮い立てて、足を滑らせないように、ゆっくりと坂道を登った。すると、気のせいか、後ろから誰かが歩いてくるような音がした。いったん立ち止まって耳を澄ますと、ざっざと土を擦るような音が近づいてくる。怖くなって、早足で坂を駆け上ると、いつのまにかその音は聞こえなくなった。
そのうち、頂上の神社が見えてきた。薄暗い森の中に、朱色に塗られた鳥居が不気味に浮かび上がっていた。ここがハナコの遊び場だとしたら、やっぱり、ちょっと気味が悪いと思った。
「リュウタ、まだ上があるんだよ」
その時、ハナコが上の方を指さした。
「えっ、そうなの?」
「そこから見る日の出がとてもきれいなの。はやく行こうよ!」
「う、うん!」
ハナコが言う通り、神社の裏にはさらに山の上へと続く道があった。道といっても人がどうにか通れるくらいのけもの道だった。この道は草刈りもしていなくて歩きにくかったけど、ハナコが示すとおりに歩いていくと、すんなりと先へ進めた。そして、ついに裏山の本当の頂上までたどり着いた。頂上は岩が多くて木があまり生えていなかった。しかし、岩と岩の隙間に一本だけとても大きな木が、ここから登ってくれと言わんばかりに斜めに傾いて生えていた。ハナコは斜めになった木の上を歩いて登り、木の幹から真横に生えた太い枝にちょこんと腰かけた。ぼくもハナコの真似をして木から落ちないように手をつきながら木の上を歩いた。やっとのことでハナコの腰かけている太い枝までたどり着くと、ハナコは「見て」と陽が昇る方を指さした。
「わあ、すごい!」
目の前には、広大な田んぼの風景が広がっていた。朝日はまだ里山の陰に隠れていてあたりは薄暗かったけど、少しだけオレンジがかった紫色の空が、田んぼの水面に映ってキラキラと輝いていた。
「二人だけの場所だよ」
こんなに素敵な風景を家の近くで見られるなんて感激だ。しばらく景色に見とれていると、ふと、ハナコの視線を感じた。気になって振り向くと、ハナコはずっとぼくの目を見ていた。ぼくは照れくさくなって視線を外した。
「ねえ、あたし、リュウタのことが好きになっちゃった。あの人に似ているから……」
思いもかけないハナコの告白だった。ぼくは言葉に詰まって何も言えなくなった。ハナコは子供に見えるけど、ぼくよりもずっと大人なのかもしれない。こんなに素敵な場所で好きだなんて言われた時はどうふるまえばいいんだろう。でも「あの人」って誰だろう。
照れくさくてモジモジとしていると、ハナコが耳元でささやいた。
「ねえ、一緒に天国に遊びに行こうよ」
ぼくは一瞬、ハナコの言葉が何を意味しているのかわからなかった。だから、素直に自分が思ったことを伝えた。
「うん、ぼくも遊びに行ってみたい」
ハナコがにっこりとほほ笑むと、あたりからもやもやと霧がふき出した。景色も何も見えなくなるほど辺りが真っ白になると、とたんに不安におそわれた。軽はずみに遊びに行ってみたいと言ってしまったけど、よく考えてみたら天国に行くってことは死ぬってことだ。ぼくが死んだらお父さんやお母さん、お姉ちゃんは悲しむだろうから、ぜったいにまだ死ねないんだ。
「ねえ、ハナコ、ごめん、やっぱり天国に行くのはやめておくよ……」
すると、霧が徐々に晴れて、目の前に涙ぐんだハナコと、ハナコを追い立てる見知らぬ男の子たちが現れた。男の子たちは三人いて、その辺に落ちていた木の枯れ枝を手に持っていた。みんな小学生くらいの年齢で、昔のこどもが着るような服装をしていた。
「この非国民めっ、陸軍第二師団、すすめー!」
ひとりの男の子が掛け声をかけると、仲間の男の子たち二人がハナコにむかって木の枝を振り上げて突進した。ハナコは泣きながら走って逃げるのだけど、そのうち追いつかれて、木の枝で頭や体を叩かれた。酷いことをするやつらだ。ぼくは頭にきて男の子たちに「やめろよ」と叫んだ。しかし、ぼくの声は男の子たちの耳には届かなかった。男の子たちは泣き叫ぶハナコをよってたかっていじめた。
なんども声を出したけど、三人の男の子はぼくの声がまったく聞こえてないみたいだった。それどころか、目の前で両手を広げるぼくのことさえ見えてないようだった。いったい、なにがどうなっているのかさっぱりわからなかった。
「おい、やめろ!」
そのとき、まるで雷が落ちたかのような大きな声が耳に響いた。振り返ると、ぼくと同じくらいの背丈で、小学校の制服を着た男の子が立っていた。ハナコをイジメていた男の子たちは、攻撃対象を制服の男の子に切り替えた。三人はいっせいに木の枝を振り上げ、制服の男の子におそいかかった。しかし、制服の男の子はさっと身をかわし、殴りかかってくる男の子のすきをついて木の枝を奪い取った。
「人の痛みが分かるか!」
そう言って制服の男の子は、攻撃をかわしながら三人の男の子の頭を順番にバシバシと叩いていった。
「いたい、やめろ!」
ハナコをイジメていた男の子たちは、頭を抱えてうずくまった。それでも制服の男の子は容赦しなかった。何度もたたき続けると、そのうち男の子たちは勝ち目がないと思ったのか、悔しそうな顔をして逃げて行ってしまった。
制服の男の子は、泣きじゃくるハナコに近寄って、「もう、泣くな」と言って着ていた制服の袖でハナコの涙をぬぐった。そのとき、ハナコが泣いて座り込んでいた場所の近くに、くしゃくしゃになった紙切れが落ちていることを制服の男の子は気が付いた。男の子は紙切れを拾い上げてしわを伸ばし、そこに書かれていた文字を読むと、きゅっと眉をしかめた。
「こんなビラを持ってたらまた叩かれるぞ。うちのオヤジに見つかったらハナコのおじさんだってひどい目にあうにちがない……」
「あたし戦争なんてしたくないもん。お父さんの言うことは正しいんだもん」
ぼくは、そっと制服の男の子の後ろに近づいて、紙切れに何が書いてあるか確かめようとした。
「えっ、戦争反対?」
ぼくが驚いて読み上げると、制服の男の子はぼくに気がついて素早く振り向いた。
「だれだおまえは! お前もハナコをいじめるつもりか!」
「ち、ちがうよ、そんなことしないよ!」
制服の男の子が木の枝を振り上げると、ハナコはそれをさえぎった。
「やめて、リュウタはあたしの味方なの!」
「リュウタ? どこのどいつだ?」
ぼくは何も悪いことはしていない。だから制服の男の子に負けじと大きな声で言い返した。
「おまえこそだれだ!」
「おれはゲンタだ!」
どこかで聞いたような名前だった。どこの誰だったかは思いだせないけど、とても身近な人。いつもぼくたちのそばにいて、笑って励ましてくれる大切な人。どうして忘れちゃったんだろう。ほら、あの人だ……。
すると、二人がケンカでも始めると思ったのだろう、あわてたハナコがぼくと制服の男の子のあいだにひょいっと入った。
「ねえ、リュウタのことを叩いたりしないで。あたし、これからリュウタと天国へ遊びに行くの」
「天国へ? どうして?」
「だって、ゲンちゃん、遠くへ行っちゃったじゃない」
「遠くへ……? どこへ?」
「いつも助けてくれたのに。ずっと助けてくれると思って待ってたのに。東京に行っちゃったでしょ?」
「東京へ? 行ってないよ。おれはずっとここにいる」
その時、背後から人がやってくる気配がした。誰だろうと振り返ると、おじいちゃんだった。
「おじいちゃん!」
「リュウタ、こんなところにいちゃいかん。さぁ、うちへ帰ろう」
ハナコはおじいちゃんを見て、「きゃっ」と叫んで頭をかかえてうずくまった。
「ハナコ、大丈夫、怖くないよ。ぼくのおじいちゃんだよ」
「怖いよ! 叩かないで! ゲンちゃん助けて!」
「ぼくのおじいちゃんは叩いたりしないよ。とってもやさしいんだよ!」
おじいちゃんはハナコのそばにゆっくりと歩み寄った。
「いやだ、近づかないで! 叩かないで! ゲンちゃん、ゲンちゃん、助けて!」
さっきまでそばにいた制服の男の子はもうどこにもいなかった。それに気が付かないハナコは、うずくまったまま必死でゲンちゃんを呼び続けた。しかし、どれだけ呼んでもゲンちゃんはハナコの前に現れなかった。
すると、おじいさんはハナコの前でしゃがんで、にっこりと笑いながらハナコに声をかけた。
「おれがそのゲンタだ」
おじいちゃんがハナコに名乗ると、ハナコは頭を上げておじいちゃんの顔を見た。すると、おじいちゃんの姿はみるみるうちに制服を着た男の子に変わっていった。
「うそでしょ。本当にゲンちゃんなの?」
「おう」
「戻ってきてくれたんだね!」
「うん、あそこがハナコの家だったなんて知らなかったけどな」
ハナコはわんわんと泣き出した。ずっとおじいちゃんに会いたかったみたいだ。引っ越してきてからおじいちゃんはずっと近くにいたのに、とても歳をとっていたから、制服を着た勇敢なゲンちゃんだということにハナコは気が付かなかったんだ。
「じゃあ、あたしと一緒に天国に行ってくれる?」
「それはできない」
「どうして?」
「わしにはリュウタがいる。まだ面倒を見てやらないといけないからなぁ」
制服の男の子は、再びおじいちゃんの姿に戻った。おじいちゃんはぼくを見てにっこりと笑った。そして、ハナコを見て同じように微笑むと、やさしく語りかけた。
「ハナコ、泣くな。あと何年かなぁ、明日かもしれないぞぉ、そのうちわしもハナコのところに行く。約束する。それまで先に行って待っていてくれ。でも天国のバアさんになんて言われるかなぁ。浮気者みたいに思われたらこまるけどなぁ、あっはっは」
ハナコの目からたくさんの涙があふれた。
「ゲンちゃん、ぜったいにきてね。待ってるからね……」
「おぉ、待っててくれ……、ずっと待っててくれ……」
すると、あたり一面を覆っていた霧が徐々に晴れて、真っ青な空が現れた。見上げると空の一部が金色にキラキラと輝きだし、そこから天使のような白い服を着た見知らぬ男の人と女の人が現れて地上へ舞い降りた。
「お父さん、お母さん!」
はしゃぎまわるハナコを見て二人はニッコリほほ笑むと、ハナコの両手を取って再び空へと舞い上がった。三人は楽しそうに話しながら、光り輝く空へと吸い込まれていった。そして、みるみるうちに透明になっていって、ついにぼくの目の前から消えた。ハナコは天国へと旅立ったんだ。
気が付くと、ぼくは朝日を見ていた。まぶしさに目をそらすと、山頂から斜めに突き出した大きな太い木にまたがっている自分に気が付いた。落ちないようにゆっくりと木から降りると、そこにはおじいちゃんが立っていた。
「お、おじいちゃん、どうしてここにいるの?」
「わしの毎朝の散歩コースじゃ。はっはっは」
ぼくとおじいちゃんが山から2人で戻って来た時、家では大騒ぎになっていた。おじいちゃんが散歩で朝に家にいないのはいつものことだけど、ぼくがいなくなるのは初めてのことだったからだ。ちゃんと伝言を紙に書いて残しなさいとお母さんに怒られたのは言うまでもない。
ゴールデンウィーク最終日。不動産屋さんから一本の電話が入ると、お母さんは家の中を飛び回ってよろこんだ。古民家の買い手が見つかったらしい。物好きな人がいるもので、幽霊屋敷をネタにカフェを開きたい人が現れたんだって。もう幽霊は出ないのに……。
これで、ついにこの家ともお別れだ。
最初は田舎暮らしなんてしたくないと思っていたけど、今はここを離れるのがさみしい。せっかくミツナリくんと仲のよい友達になれたのに、お別れの挨拶に行かなければならないのはつらい。
もう少しここで暮らしていたら、リュウセイくんたちともっと仲良くやれたかな。コテハシ先生もぼくのことをもっとわかってくれたかな。近所の人たちもやさしく接してくれたかな。いざここを離れることになって、いろいろなことを考えてしまう。
でも、いまだにお母さんも、そして、お姉ちゃんも家に幽霊が住んでいると思っている。もう幽霊は出ないよと言っても信じてくれず、ちょっと窓が風でカタカタ鳴っただけでお姉ちゃんは怖がってしまう。だからもうあきらめるしかないんだ。
それにしても、田舎に来たばっかりで、今度はどこへ引越しするんだろう。また東京に戻るのかな。お父さんとお母さんがまた良からぬことを企んでいるみたいだけど、振り回されるのはぼくとお姉ちゃんだ。もうこれっきりにしてほしいな……。
「ねえ、幽谷村の空き家バンクにこんな素敵な古民家があったのよ」
「いや、次は千葉の海沿いがいいよ。東京から近いし、別荘地だから田舎のしがらみもないしさ」
「それいいわね!」
ぼくと花子さんのいなかぐらし ロコヌタ @rokonuta
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