3-7)呪詛
どうしてだ。天道の内側に沸いた疑問は、正しい形として成り立たなかった。零れ出る呪詛をどうにもできず、立つことすらままならず。神崎と名乗る男が自身の携帯を拾ったのはわかるのに、その音が拾えない。ぐるぐると内側で鳴る音が、すべてを黒に塗り変える。のぼるものが、すべてをかき乱す。
は、は、は。短く天道は息を吸った。吸うことは出来ている。そのくせ吐き出す息すら恐ろしく、口元を両手で覆う。呼気が言葉に代わるのが恐ろしい。息苦しさが、目じりに涙を溜める。
「大丈夫ですよ」
あまったるい。胸やけするような甘さを含んだ声が、どろりと地面を覆う。先程まで何をいっているかわからなかったのに、突然脳髄に潜り込むように音が届いた。その言葉への反論が喉奥から汚泥を昇らせ、がちりと天道は奥歯を嚙む。駄目だ、違う、駄目だ。飲み下そうとすればそれは喉を焼くようで、けれども天道は口を開かなかった。
意地だ。これは最後の一線だ。
「うつくしいでしょう」
そんなわけない。ただただ吐き気のするおぞましさを、ひきつる喉で飲み下す。目じりから涙がこぼれる。嫌だ。漏れそうになる弱音を両手で押しつぶす。吸い込みすぎ、飲み込みすぎる肺の圧は、そのくせ限界を呼ばない。短い吸気と吐き出されない呼気はどこに行っているのか。この手から、漏れているのか。考えればあの汚泥が口から溢れるようで、天道はその身を丸めた。
噛み締めすぎた奥歯がぎちぎちと音を立てる。そのくせ舌が、前歯を押し破ろうとしてくる。
違う、違う、違う。否定を内に丸める。本当ならば殴り掛かりたいものを前にしながら、天道はひゅうひゅうとこぼれる音を必死に押しとどめていた。
「大丈夫です。貴方は正しい」
こめかみが痛む。歯を食いしばりすぎた痛みだ。それ以上はない。
「貴方は正しい。だから、選んでいいのです。求めていいのです。正しい貴方が、呪詛を」
ふざけるな。強い否定が、汚泥を昇らせる。そのたび必死に抑える。くすくすと笑う男が憎い。自身の望みが醜い。だから駄目だ。吐き出しそうになる呪詛を、自身の内に、内に飲み下す。飲み下す度、上る。
「神を捨てた貴方が、メデトリさまの為に。メデトリさまを呼ぶためのひとつに」
そこで言葉が途切れた。ああ、と男が呟く。
「今日がその日なんですね、メデトリさま」
うっとりとした男の声に、天道は口元を覆っていた両手を外した。歯を食いしばり、神崎の膝を抱えるように全身でぶつかる。
唐突に、外側の音が鼓膜に到達した。
「無事ですか!」
神崎を引き倒した天道に続いて全体重で押さえつけた鬼塚の叫びに、天道は答えなかった。色のないその顔を見、鬼塚は神崎と天道の間に割り込むように重心を変える。
「私はひとりで大丈夫ですので、」
「ィャダ」
鬼塚の言葉は途中で途切れた。天道の口から出たのはギィギィとした耳障りな音で、天道のものではない。咄嗟に片手でその口を覆った天道から視線を外し、鬼塚は神崎の後ろ手に手錠をかけた。村山が、天道の腕を掴む。
「天道さん、手離してください」
天道の体は硬い。拒絶するような強さに、村山はその頬を掴んだ。
「応援を呼んでます。鈴鹿さんが来ます」
「■■■、■■■■■■」
おそらく、音は天道のものだろう。しかし先ほどまでと違い、言葉すら認識のできない割れたなにかだった。いびつなその音と黒い吐しゃ物に怯みもせず、村山が天道の口に指を入れる。その口内を確認しようとする村山に、天道が抵抗する。神崎が笑った。
「むだだよ」
神崎の言葉に、鬼塚は一度膝を浮かせると再度神崎の背に全体重をかけた。ぐ、と呻くその口をネクタイで塞ぐ。これ以上干渉させないための手段だ。手錠は天道から念のため所持するように言われたからなんとかなったものの、口を塞ぐ道具はないので多少強引でもあるものを使うしかない。
揺らぎに言葉は意味を成しすぎる。神崎から聞き出せることはないだろうというのが村山の判断で、実際この状態で対話を試すことは選べなかった。これ以上、意味を作られては困る。
「天道さん、会話は無理ですか? 文字でも――わかりました、大丈夫です。無理はしないでください」
天道の口内から指を抜いた村山が言葉を重ねる。しかし、状況を把握しするための声掛けはすぐに止まった。ひゅうひゅうと呼吸というには痙攣じみた酸素の音とぎいぎいとした異音を零すしかない天道が丸くなるのをそのままにして、村山は鬼塚を見た。
「天道さんを頼みます」
「■■■」
ぎい、と異音が鳴った。嘔吐を飲み込むような引きつりを起こした天道が、体を持ち上げ村山に手を伸ばす。その腕を鬼塚は掴んだ。天道が、驚いたように鬼塚を見上げる。
自身の罪悪だ。そう鬼塚は内心で鉛を飲み、しかしはっきりと口を開いた。
「お願いします、天道さん」
神崎を押さえさせるように天道の手を神崎の背に引き寄せ、鬼塚は静かに促す。天道の舌打ちでもしたようなその表情は、しかしまた嘔吐を運んだようで引き付けをおこした。天道がげほりと黒を吐き出す。
明らかに存在するのに、それは鬼塚にも村山にも干渉しなかった。黒を吐きながら黒に飲まれるような状況ではあるが、しかし、これならまだだ。だから今、せねばならない。鬼塚の眉間のしわが深まり、まるでなにかに耐えるように硬くなった。それに気づいても、村山は指摘しない。
(手順だ)
村山は片目を閉じた。それから掌にペンでバツ印をつける。天道の黒が使えればいいのだろうが、あれは天道を選んでいる。だから、いびつでも村山が形を作るしかない。
「私が進めてあげますよ、神崎さん」
村山の言葉に、神崎は目を見開いた。それから顔を歪めて笑うのが、その目つきだけでも見て取れた。はっきりとした嘲笑、侮蔑。しかし言葉は、布地に飲み込まれる。
聞く必要はない。村山は表情を揺らさなかった。
すべきことは、みっつ。ひとつめは、贄の肩代わり。見た目だけでも誘うこと。これは神崎に示す意味がある。だから、別に目を潰すまではしなくていい。バツ印は、所謂当たり籤の偽装だ。
「天道さんの目出度守は、鈴鹿さんのものです。捨てたのではなく、贈ったもの。だから繋がっています」
ふたつめは、天道と贄の切り離し。目、耳とあったそれらは、単独で成り立っていた。半端な完璧。祠の揺らぎを深めても、祠になすこととは別だ。神の形を知らしめるための道具でありながら、神がいないゆえにそれが単独で成り立っている。
矛盾しながらも為されている。それでいて条件は確かにあって、故に意味を塗り替える。
「想いの先はあるんですよ」
どろり。黒が、揺らぐ。停滞する。ずるり、と、それは誘われるように、村山の足元に這った。天道が眉をしかめながらネクタイを吐き出す。その口から音は出ず、かすれた空気だけが漏れた。天道の表情は舌打ちをするときのそれだ。しかし音は存在せず、呑まれたのは声だけではないとわかる。
ただ、先ほどのぎいぎいとした不愉快な音は消えている。これは耳の時から考えるに、失わせ与えるものだ。だからひとつ、これで成り得る。
言葉が届く。神崎の意識が成しているのか祠に関わっているのかわからないが、その一つが見えることは村山にとって幸いだった。
それが成り立つなら、村山の行動は意味をなせる。
「この祠は確かに、神様のものです」
言霊を重ねる。黒は村山の足を取らなかった。むしろ共に為そうとするように、ずじゅ、ず、と地面を這う。びちゃびちゃと跳ねる。村山の言霊は、祠の意味を作るものだ。
空っぽの祠に向かい、扉を開ける。そこにある暗がりは、まるで洞穴のようだった。そんな深さがないのに、大きな穴がぽかりと開いている。祠の後ろ、急な傾斜は祠が呑んだような錯覚すら与えてくる。
みっつめのすべきことは、神を作ること。この祠は空っぽだった。神社がある前から、空っぽだった。
先に作られた祠は、なぜ無意味に終わったのか。神崎はメデトリさまと言った。この祠の地面に埋めたのは目出度守。目出度神社はなぜ作られたのか。目出度神社の人間がきてはいけないと言われたのはなぜか。
(大丈夫)
「この祠は、貴方のものです」
村山は、そうして目出度守を差し入れた。その手は祠の黒に呑まれ――ぐずり、と、村山の腕を引きずりこんだ。
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