第二話 過去の耳成り
2-1)再会
後悔は必ず存在する。心に毎度沸き上がり、なくなることはないだろう。
後悔しない人生を。そういう人間は、はたしてまっさらのまま、悔いることなくあるだろうか。
後ろに心を囚われる。
だからそう。声はずっと、呼んでいる。
* * *
人の声が、遠い。
実際のところはそんなこと無いのだが、対話する誰かがいないということは一つの膜を作るように村山は感じていた。周囲のざわめきは自分には向かわないもので、だから音以上になり得ない。孤独ではないが、故にひとりを実感させた。
空気が冷たく、耳の形を思い知らされる。過ごしやすい地方ではあるが寒くない訳ではなく、村山は小さく身を震わせて白い息を吐いた。
こんな夜は、あの日が呼ぶ。
「……村山さん」
低い声は落ち着いているのに、突然の名前に村山はびくりと跳ねた。膜を弾くわけではなく、しかし確かに届く音。大きくないのにやけにはっきり聞こえた声の先を反射で見て、は、と白い息を重ねる。
「わ、鬼塚さん。びっくりした」
やけに体が反応してしまったことは、あえて言葉にし笑うことで軽く流す。鬼塚は表情の起伏があまり大きくないのか、こういう時どう考えているのか村山には読み取れない。
「驚かせてすみません」
「いえいえ。職場の人と外で会うとついつい驚いちゃうんですよねぇ」
お互いコートを羽織って、こうして夜出くわすのは初めてだ。新鮮だな、と村山は内心で呟く。職場から離れている場所なのに、とは思うが、逆に職場周りを避けるというのもあるのかもしれない。それに、離れているとはいえ駅前の広い歩道は待ち合わせとしても適している。
互いに、奇妙な沈黙が流れた。
「待ち合わせ、ですか?」
答えたくなければ聞かなかったことにしてください、と続けた鬼塚に、いえいえ、と村山は慌てて手を振った。別に嫌だとかそういうのではない。ただ、話題がなかっただけだ。
「ひとりでふらっとって感じですね。特に何か、ってわけじゃないんですけど、ちょっと、帰るにはさみしいなーってしていただけでして」
口角を持ちあげて村山は笑った。にたりとした笑みはだいたい軽薄に見えるものだと自覚している。こういうことを言うと、なにいってんだかと笑われるのがいわゆる予定調和と言うやつだ。
だが、鬼塚は少し目を伏せ、黙した。
「あ、別に鬼塚さんに何かたかりたいとかじゃないですよ! 年下に奢らせる趣味はないですから! そもそもどっからどうみても寂しいって柄じゃないでしょ私!」
予定調和ではあるが、鬼塚がそうするかというと難しいだろう。言った後、というよりは鬼塚の態度を見た後にそこまで思い至った村山は、慌てた調子で声を上げた。
そもそも、年下どころか他人に奢られることの想定はしていない。冗談めいた声色でなんとか鬼塚の気遣いを無くそうとした村山は、その真っすぐな目に見据えられて、つい黙した。
「寂しい時、は、誰でもあるものなので」
静かな言葉に、うお、と村山は内心で変な音を巡らせた。外に出なかったのは奇跡だろう。じわ、と、顔に熱が昇る。
こういう、真っすぐとした言葉には慣れていない。流されることに慣れている故、受け止められたものをうまく逃がせず外側の寒さを内側の熱が追い立てる。
じわ、と、鬼塚の目じりもやや赤らんだ。
「すみません、あんまそういうの言われ慣れなくて、自分の弱音と慣れない対処に照れました……」
はー、と長く息を吐いて村山は両手を上げた。肘を曲げたままの降参めいたポーズで、相手の親切をそれ以外に受け止めてはいない主張をする。
中々慣れないので照れてしまうが、せっかく職場で良くしてくれる人にそういった別の意味での気まずさを与えたくない、というのが村山の切実な気持ちだった。
とはいえ鬼塚も村山につられたのか、じりじりと昇る赤みは中々止まらないが。
「あれ、ケージ?」
奇妙な間に入り込んだのは、男の声だった。ぱ、と鬼塚がそちらを見る。その振り返った先を追えば、短く刈り上げた焦げ茶の髪の下、人懐っこそうな顔の男が鬼塚を認めて嬉しそうに目を細めるところだった。
「ケージじゃん、偶然だな」
「アキラ」
男に短く鬼塚が応える。アキラ、と呼ばれた男は「相変わらずだなぁ」と鬼塚の方を叩き、目を細める。
「最近昔の夢みてたからなんか運命的に感じるな。お前見ると安心するわ」
「……疲れているのか?」
「いやぁ、なんつーかちょっと夢見が悪くて」
そこまで話して、男は言葉を切った。生まれた間に鬼塚が問うように視線をやると、男は村山を見、瞬いたところだった。そうしてから男は、あ、と声を漏らす。
「悪い、デートの邪魔した」
「違う、偶然会った職場の人だ」
そのまますっと引く男の腕を掴んで鬼塚が珍しく早口で続けた。すみません鬼塚さん、と内心で謝罪し、村山はその様子を見守る。こういう時は、下手に口を挟まない方が良い。
「偶然でも偶然じゃなくても邪魔には変わりないだろ、二人で話していたんだろうし」
にやにやと笑う男は気安い様子だ。職場の人、という物言いだから同僚とかではないのだろうが、しかし学生時代の友人と言うには「ケージ」という物言いが謎ではある。職業名で呼び合う関係がどういうものか、村山には想定できない。
とはいえ口を挟まないスタンスに変わりはなく、村山はただ笑みを浮かべて黙っていた。
「話す、ってほど話してはいない。……ただ、ちょうど暇らしくて」
「デートに丁度いいじゃん、誘えよ」
「だから違う……」
せっかく男と話していて落ち着きだしていた鬼塚の朱色が、また目じりに戻ってきた。じわじわとした変化は男にもよくわかったようで、はいはいごめんごめん、と宥めるように肩を叩く。
「えっと、すみません。偶然会って声かけちゃって。ケージとは学生時代からの友人の、モモタアキラです」
「あ、はじめまして。同じ場所で働いている村山です。えっと」
「えーっと、じゃあおまわりさん? いつもお疲れ様です」
にか、と、男――百田は笑った。お巡りさん、ということは、鬼塚の職場が今本部になったことを知らないのだろう。そこまで考えて、村山は首を傾げた。
じゃあ、何故「ケージ」と呼んでいるのだろうか、という話だ。
「えっと、お巡りさんではないですね。警察署で勤務していますが、一般職員で……」
「あ、そうなんだ。それで同じ職場ってことは、じゃあ今部署変わった? ケージ、刑事になった?」
「なった」
そこまで話が進んで、村山はつい鬼塚を見た。
なるほど、ケージ。
「あ、村山さんこいつの名前知らなかった感じ? オニヅカケイジ。ケイシじゃなくてケイジね」
「刑事さん、ケイジさんだったんですね」
つい納得してしまう。名前についてコンプレックスがあればあまり触れないでおきたいが、どちらかというと鬼塚は受け入れているように見えたので村山は素直に尋ねた。こくり、と頷く表情は、まだ目じりが赤いだけで穏やかだ。
「村山さんのお名前は? せっかくの機会だし連絡先とか聞けたら思うけど初対面じゃ流石にまずいかーだよなー俺じゃまずいよなー、だからケイジと交換しようぜ」
「どういう理屈だ」
軽い調子で言葉を並べる百田を、鬼塚の低音が制する。ははは、と笑う姿が楽し気で、村山は目を細めた。
「私は村山ヒメ、ですね。お姫様のほうじゃなくて、氷が芽吹くって文字です」
「へー、珍しい字」
鬼塚も百田も少しだけ驚いた表情を見せたが、返ったのは軽い調子の言葉だけだった。鬼塚もそこに「そうなんですね」と重ねるだけで、なるほど大人だなあと村山は頷く。もう慣れた名前ではあるのだが、こういう軽い調子は村山にとって気楽だ。
「まあ、珍しいといえばケイジもちょっと珍しいよな。木のカツラ……えーっと、月桂樹のケイに武士のシでケイジ、だろ。先生がよく間違えてた」
「俺じゃなくてアキラや他のクラスメイトが訂正していたな」
「そうそう。んで、俺は普通に読めるけどアキラって中だと珍しいか? 朗らかのホガ。
ぽんぽんと飛ぶ会話は楽しげだ。仲のいい学生時代だったのだな、と思い、村山は小さく笑う。
「偶然とはいえ、話も積もるでしょう。私はそろそろ帰るので……」
「ああいや、俺ツレがいんだよね、だから連絡先を」
「モモタロー、まだ掛かるかー?」
「もう戻る!」
タイミングよくかかった声に、百田が声を上げた。振り返りながら手を上げ応える様子はきびきびとしている。右耳には黒い点と、一つの発疹。
「んじゃ、またな桂士。村山さん、お邪魔しました」
「いえ、お気をつけて」
「また連絡するから、桂士はいい報告出来る程度に頑張れよ」
「だから違う……」
鬼塚の否定は百田に届かなかった。ついくすくすと笑った村山は、しかし少しだけ目を伏せた。ほんの少し、見えたのは逡巡。言葉を待つ鬼塚に、村山は顔を上げた。
「あの、もしご迷惑でなければなんですけれど」
多分お互いに、その言葉の必要性を感じていた。
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