エピローグ

エピローグ

 昔の私は、書店に自分の本が並ぶことを夢見ていたように思う。

 そういう、過去の自分が抱いていた夢を叶えることができたのは、幸せだと感じた。


 私は自宅の近くにある本屋さんの新刊スペースを見つめながら、そういうことを考えていた。そこにはそれぞれの美しい装丁で彩られた本が積まれていて、私が書いた小説もそっと並べられていた。

 改めて考えると、自分の描いた物語が顔も名前も知らない誰かの元に届くというのは、何だか奇跡的なことのように思える。


 ――その“誰か”が自分の物語で、少しだけでもいいから、私は途方もなく嬉しい。


 そう感じながら、私は新刊スペースから離れて、本屋さんの奥の方へと入っていく。私も今日新しい素敵な物語と出会うことができたらいいなと、そんなことを考えながら。


 ◇


 本屋さんの近くにあるカフェに入った私は、幾らか悩んだ後で紅茶と苺のタルトを注文した。去っていく店員さんの後ろ姿を少しの間眺めてから、向こう側の椅子に置いていた鞄を手に取る。

 先程本屋さんで購入した一冊の小説を出そうとして、携帯の画面が光ったことに気付いた。何の通知だろうと思って確認してみると、咲姫からのメッセージのようだった。私はすぐにメッセージアプリを起動する。

 そこには私の小説を手で持っている写真と、〈今から読みます! 楽しみすぎる〉というメッセージが届いていた。私はとても嬉しくなって、すぐに画面上のキーボードを操作する。


〈買ってくれたんだ、ありがとう!〉

〈私も嬉しすぎる……!〉


 咲姫からの返信は、すぐだった。


〈そりゃあ買いますよ、親友の最新作だもん〉

〈喜んでもらえて何より〉

〈それじゃ、読書タイムと洒落込みますね〉

〈読み終わったら感想送り付けていいかな?〉


 私も、素早く返信を打つ。


〈ぜひぜひ! どうだったか教えてほしい〉

〈改めて、本当にありがとう!〉


 やり取りはそんな風に終わって、私は携帯を鞄に仕舞った。

 自分の小説に友人から感想を貰えるのは、本当に嬉しい。私はそれを、高校二年生のときからよく知っている。


 ……私の心に、いつものように寂しさが伝った。


 私はそれを忘れようとするかのように、鞄の中にある小説を取り出して、読み始める。

 暫くしてやってきた苺のタルトは甘くて美味しくて、紅茶とよく合った。


 ◇


 私は自宅に戻ってくる。


 家族はまだ、帰っていないようだった。私は鞄を置くために、自室の扉を開ける。フックの鞄掛けに掛けて、洗面所に行って手を洗う。鏡を見ると、頬の傷跡が目に入った。私はそこから視線を移して、ほんの少しだけ欠けた耳たぶを見つめる。

 そうするだけで、私は辛い記憶に苦しめられることが余りなくなった。


 洗面所を後にして、そういえば鞄に小説を入れっぱなしだったことに気付く。本棚に移そうと考えて、再び自室へと足を踏み入れた。鞄から取り出して、本棚にそれを立て掛ける。それから私は、本棚のとあるスペースを見た。


 そこには、三冊の文庫本が並んでいる。作者は、「中野香蓮なかのかれん」――私が使っているペンネームだ。

 私は今までにこの三冊の本を出版していて、それらの物語には一つの共通点がある。


 それは、「虐め」というものが話に関わってくるという点だ。


 虐めを書くことは、苦しい。自分の心的外傷に向き合わなければならなくなるし、自分が生んだ登場人物が悲しんだり辛い思いをしたりするのを、ありありと描かなければならない。それでも私は、これからも虐めについての物語を書き続けたいと思っている。


 何故なら、そうした話を読んでくれた顔も名前も知らない誰かが、虐めという存在を憎んでくれるかもしれないから。


 昔はただ、その“誰か”に幸せになってほしいと思っていた。勿論今も、その考えは私の創作の根底にある。けれど、それと同時に……どうか虐めを嫌悪してほしいとも、願っている。

 そうして、段々と今もどこかで起こっている虐めが消えていって、いつか世界から虐めが一つ残らずなくなることがあったら、私は心の底から嬉しいと思う。


 ――それは、彼女が私のために叶えようとしてくれていた、崇高な理想だから。


 私の心にまた、寂しさが伝った。

 三冊の文庫本の隣には、黒い本が眠るように並んでいた。


 ◇


 窓から差し込む夕陽の中で、私はソファに座りながら微睡んでいた。


 ――遠くから、扉に鍵をさして回す音、そして扉を開く音が聞こえてくる。


 私はまぶたを開くと、帰ってきた家族を出迎えるためにリビングを後にした。

 廊下を歩いていくと、すぐに玄関に辿り着く。


 そこには夫の雪斗ゆきとと、娘の縁里ゆかりが立っていた。


 縁里は私の姿を見るや否や、「おかーさん!」と笑いながらいそいそと靴を脱ぐ。


「こら、縁里。余り慌てるなよ」

「わかってるー!」


 雪斗の言葉に反応しながら、靴を脱いだ縁里は私をぎゅっと抱きしめた。小さな身体から温もりが伝わってきて、私は幸せな気持ちに包まれる。


「縁里、今日は楽しかった?」

「うん、すっごくたのしかった! おとーさんがね、こうえんでね、ブランコおしてくれたの! ゆかり、ブランコこぐのうまいんだよ!」

「そっか、よかったね。今度、お母さんとも一緒に行こうね」

「うん、いくー!」


 笑顔の縁里に、私も思わず微笑んでしまう。

 私は二人と会話しながら、リビングへと戻っていく。




 鼻歌をうたいながら落書き帳に絵を描いている縁里を眺めながら、私と雪斗はソファに並んで座っていた。


「今日は、縁里と遊びに行ってきてくれて、どうもありがとう」


 私の言葉に、雪斗はどこか照れたように笑う。


「いいんだよ。琴子は僕が会社に行っているときも、縁里の面倒を見てくれているだろう? だからたまには、羽を伸ばしてほしいと思って。今日は君の小説の発売日だったしね」

「ふふ、気遣ってくれて嬉しいな。そうそう、本屋さんに行って売られているところを見てきたんだけれど……やっぱり、いつになっても感動する。改めて、作家になれてよかったと思った」

「僕もずっと応援していたから、琴子が夢を叶えたときは自分のことのように嬉しかったな。これからも頑張ってね、中野香蓮大先生」

「もう、先生だなんてやめてよ。何だか恥ずかしくなっちゃう」


 私の言葉に、雪斗は「ごめんごめん」と言いながら微笑んだ。

 そうして、私たちの間を沈黙が満たす。縁里のうたう鼻歌が、リビングに淡く響いている。


「あれっ」


 少しして、隣からそんな声が聞こえてくる。

 雪斗の方を見ると、彼はどこか困ったような表情を浮かべていた。


「どうしたの、雪斗?」

「いや……ポケットに入れておいたはずのパスケースが見当たらなくて。今部屋に仕舞ってこようと思って、気付いた」

「えっ、そうなの? 大変」

「もしかすると、公園で落としてきちゃったのかもしれない。やらかしたな……琴子、ちょっと縁里のことを見ていてくれるか? 僕、戻って落ちていないか探してくる」

「うん、大丈夫だよ。交番とかに届いているかもしれないから、もしも公園になかったら、そこも確認してみるといいかもしれないね」

「そうだね、ありがとう。それじゃ」


 雪斗は立ち上がると、縁里に「ごめん、縁里。お父さん、ちょっと出掛けてくるな」と告げてリビングの扉へと向かう。


「いってらっしゃい、おとーさん!」


 縁里の元気な声に見送られながら、雪斗はリビングから去っていった。




 夕暮れのリビングは、綺麗なオレンジ色に包まれていた。

 私はソファで縁里のことを見つめながら、ぼんやりとしていた。


 ふと、縁里の鼻歌が聞こえなくなったことに気付く。

 それだけならこの部屋は静寂に包まれるはずなのだけれど、そうはならなかった。縁里が、何かを喋っているのだ。

 独り言だろうか――そう思いながら、私は彼女の言葉に耳を傾ける。


「うん、これはね、おはなばたけ! ぴんくとね、あかとね、きいろとね、みずいろのおはながあるんだよ! えへへ、ありがとう! ゆかり、うれしい! ねーねー、いっしょにおえかきしようよ! みずいろのクレヨン、かしてあげる!」


 ……すぐに、違和感に気付いた。


 


 けれど、それは私ではない。現に、彼女は私の方を見ることはせずに、どこか虚空を見ながら笑っていた。その光景に、私は背筋の凍るような寒さを覚えて、



 ――そしてその感覚が、酷く懐かしいことに気付いた。



 ……まさか。

 私はよろよろと立ち上がって、縁里の側へと近付いていく。

 その間にも、縁里はにこにこと楽しげに笑いながら、喋り続けている。


「ねえ、おねーちゃんは、なにいろのおはながすき? しろいろ? なんで? へえ、きれいだから、なんだ」

「縁里」


 私は座ると、強く娘の名前を呼んだ。

 縁里は笑顔を浮かべながら、私の方を向いた。


「どうしたの、おかーさん!」

「縁里は今、誰とお喋りしていたの……?」

「えっ? おねーちゃんと、だよ!」

「そうなんだね。……その“お姉ちゃん”の名前は何か、わかる?」

「んー? えーっとね、なんだろう? ねー、おねーちゃん。おなまえ、なんていうの?」


 一瞬、この部屋が恐ろしいほど静かになる。

 その後で、縁里は屈託なく笑った。



「――すいれん、だって!」



 もうずっと聞いていなかったその響きが、私の心にずしりとのしかかる。

 何も言えないでいる私の耳に、縁里の「あれっ?」という声が届いた。

 見れば彼女は、残念そうな表情を浮かべている。


「おねーちゃん、いなくなっちゃった。なんだ、つまんない! せっかく、いっしょにおえかきしようとおもったのにー」

「縁里」

「んー?」


 不思議そうに私の方を見ている縁里に、私はぼろぼろと、溢れ出す言葉を告げた。


「そのお姉ちゃんはね、私の、すっごく大切な人なの」

「……おともだち?」


 首を傾げた縁里に、私は「うん」と頷いた。


「私と沢山仲良くしてくれて、私のために苦しい思いをしながら戦ってくれて、私のことを深く愛してくれた、人なの。本当に、大切で……けれど、もう二度と会えることはないんだろうって思っていて、」


 勝手に声がかすれて、震えてしまう。


「おかーさん、だいじょうぶ?」


 俯いていた顔を上げれば、縁里が心配そうに私のことを見つめていた。


「うん、大丈夫……本当はね、ずっと私、大丈夫じゃなかったの。でも今、ようやく、大丈夫になったの」

「そうなの?」

「そうなの。私ね、今、嬉しいのに悲しくて、幸せなのに苦しくて……なんか、変だ」


 縁里の顔が、ぼやけていく。

 溢れ出した温かな涙が、頬を滑り落ちていった。


「おかーさん、なかないでー」

「うん、そうだね、ごめんね、」


 縁里に抱きしめられながら、私はあの初夏の日の自然公園のことを思い出していた。


 ◇


 雪斗と縁里の寝息が、真っ暗な寝室を優しく彩っていた。

 私は二人を起こさないように、部屋を後にする。

 廊下を通ってリビングに行き、そこからベランダへと出る。


 そこには、夜空がどこまでも広がっていた。


 淡く輝く星々に囲まれるようにして見えるのは、半分ほどが欠けている綺麗な白い月だった。

 その月は、吸い込まれてしまいそうなほどに美しくて……私はどこか呆然と、空に浮かぶそれを見つめていた。

 そうしていると、私の中にずっと仕舞われていた睡蓮との記憶も、煌めき出す。



 ――生きているうちに、彼女と再び会うことはないのだろうと思っていた。



 それだけではなく、私はずっと一つの可能性に怯えていた。それは、睡蓮が向こう側の世界からも消失してしまっている可能性だ。

 人を呪い殺してしまった彼女が、何らかの咎めを受けて、存在そのものがなくなってしまったかもしれない――私はそれを否定することができなかった。

 そして、もしもそれが正しかったとしたら……私は死んでしまった後も、睡蓮と再会することができない。


 それが怖くて、堪らなかった。

 けれど、それは結局現実ではなかった。

 私はその事実に深く安堵しながら、そっと口を開く。


「遅いよ、睡蓮」


 少しばかり糾弾するような響きで、私はそんな言葉を夜空に溶かす。

 それから、微笑みを浮かべた。


「…………約束、覚えていてくれたんだね」


 何も声は聞こえなかったけれど、ほんの少しだけ、あの冷たい香りがした。

 それだけで、今の私には充分だった。


 ◇


 気付けば私は、睡蓮と笑い合っていた。


 高校の制服に身を包んだ私たちは、様々な思い出の場所を巡った。他愛もない雑談を交わしながら、時間を忘れるくらいに真っ暗な世界を歩いた。私たちの他には誰の姿もなくて、まるで地球が終末を迎えてしまったかのようだった。


 そうしているうちに、深い紺色だった空が少しずつ、明るくなり始める。

 そろそろ夜明けが訪れるのだと気付くと同時に、私はこれが夢の中だということを思い出した。

 その瞬間、いつかのように閉ざされていた全ての記憶が、激流のように溢れ出して……私は歩くことができなくなって、立ち止まる。


 睡蓮は少し先で足を止めると、怪訝そうな表情を浮かべながら振り返った。


「…………琴子? どうしたんだ?」


 私と睡蓮の目が、合う。


 ――ああ、今私が見ている睡蓮は、私の脳がつくり出した幻なのだろうか。

 ――それとも私は、どこか遠くの場所で本物の睡蓮と一緒に過ごすことができているのだろうか。


 自分の口が僅かに開いて、でもすぐに閉ざされる。

 問い掛けて、真実を知ってしまうのが怖かった。

 だから私は、尋ねないことにする。


「……ううん。何でもないよ、睡蓮」

「そうか? それならいいんだけど」


 私は睡蓮と肩を並べながら、再び道を歩き出す。

 完全な黎明が訪れると同時に、この世界が砕けることをふと悟った。そしてそのときは、もうすぐやってきてしまうだろう。私はきゅっと唇を噛んだ。


「あのっ、睡蓮、」


 思わず、彼女の名前を呼んでしまう。

 睡蓮は私の方を見て、微笑みながら「どうかした、琴子?」と言った。


 伝えたいことは山のようにあるのに、いざそれを言葉にしようとすると、さらさらと形を失ってしまう。私は少しの間何も話すことができないまま、睡蓮の綺麗な微笑みを見つめている。


 そうしていたら、私はようやく、本当に伝えたいことを形づくることができた。


「…………睡蓮、」

「うん」


 長い前髪の隙間から、黒く澄んだ瞳が覗いていた。




「どうか永遠に、私の側にいて」




 私は睡蓮の手を両手で握りしめながら、そう懇願する。

 俯いてしまった私に、「ふふっ」という彼女の笑い声が降り注いだ。

 顔を上げると、睡蓮は優しい眼差しで、私のことを見つめていた。


「……ああ、勿論だ」


 そう告げられて、私はようやく少しだけ安堵することができた。


 ――遠くの空に、真っ赤な朝焼けが見えた。


 この世界が砕けてしまう、最後の一瞬まで……私は睡蓮の白い手を、握っていようと思った。



(完)

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睡蓮、願わくは永遠に 汐海有真(白木犀) @tea_olive

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