第2話
太陽が青空にどっしりと腰を掛ける中、その日は珍しくバイト以外の用事があって、僕は服装を選ぶのに涼しさと見栄えを天秤にかけ、準備に時間がかかった。
三ヵ月ぶりに会う彩音さんとの待ち合わせは、以前と同じくあの喫茶店だった。駅と繁華街とを結ぶ道沿いに、ひっそりとその店は看板を掲げている。カラオケ店と洋服屋に挟まれて肩をすぼめるように佇んでいる雑居ビルの存在には、道行く人のほとんどが気付いてすらいないだろうが、その地下一階にある喫茶店はいつもそれなりにも賑わっている。古めかしいレコード音楽が流れるアンティーク調の内装は居心地がよく、手製の茶菓子も大変美味い。一度その店を訪れると隠れ家的名店を発見したという喜びも手伝って、何度も足繁く通うことになるだろう。以前の僕たちもそうだった。
「卒業論文は順調?」
ありきたりな談笑の隙間、陶器の音を嫌うようにティーカップをゆっくり置いて、彩音さんが口にした。
「まあ、なんとか」
大学時代ずっと長かった髪は顎の高さに短くそろえられ、なんだか彩音さんが小さくなってしまったような印象を受ける。服装も、以前は絶対選ばなかったような白のチノパンを履いて、小奇麗で淡白なコーディネートになっていた。
「そっか。結局テーマはどうしたんだっけ」
「言っても分からないよ」
「教えてくれたって良いじゃない」
彩音さんは視線を落としてティーカップに手を伸ばすが、すっかり空になっているのに気付いて、ゆっくりと手を引っ込めた。
「……まあ、簡単に言うと──」
しぶしぶ説明を始めると、彩音さんの表情が少し緩んだ。実のところ、自分の専門分野のごくごく初歩の話をあたかも自分で考えた着眼点のように語っているだけなのだが、門外漢の彩音さんには十分目新しい話に聞こえるだろう。現状卒論は進んでいないどころかテーマすら決められていなかった。
「それで、やっぱり大学院に行くんだよね。就職じゃなくて」
「……うん。親父も修士ぐらい出ておけってうるさいしね」
「そっか、翔太くんの家は凄いね。翔太くんも」
僕は返答に困って、鈍い沈黙が訪れた。軽やかなクラシックが二人の余白を埋めていき、このまま何も喋らずに閉店まで座っていられる気がした。
僕と彩音さんは半年前まで恋人だった。二年生の春に大学の映画鑑賞サークルに暇つぶしで入った僕は、綺麗な長い髪の、一つ年上の先輩と仲良くなった。サークルの実態は映画鑑賞とは名ばかりにただ集まってお酒が飲みたい人たちのサークルだったため、次第に僕は足を運ばなくなったのだが、当時たまたま同じ小説を読んでいたことが判明した彩音さんとは意気投合してサークルの外でも会うようになった。
僕たちはそのまま恋人になった。
店内の音楽が止んだ。カウンターに目をやると、エプロンを着た店員がレコードを取り換えているところだった。他の客も静寂につられるように会話を止め、店内はその一瞬水中に沈んだかのようだった。レコードに針が降りてきて、ピアノジャズが流れ始めると、それを合図にするように各々がまた喋り始める。
「スイミングのバイトはまだ続けてるんだっけ?」
店の雰囲気に乗って、彩音さんもようやく口を開いた。僕はこのまま薄っぺらい会話が続くことを願って、なるべく明るく振舞うようにした。
「一応ね。やめたいとは思ってるけど、人手が足りてなくて、引き留められてて」
「そっか。もうベテランさんだもんね」
「彩音さんは仕事には慣れた?」
「うん、一年目で大きな仕事は任されないしね。最初は慣れなくて大変だったけど」
彩音さんは楽しそうに新天地でのトラブルを語り始めた。彩音さんが笑う度、見慣れないイヤリングが揺れる。
付き合うのにドラマが無ければ、別れるのにもドラマは無かった。彩音さんは大学を卒業して地元の銀行で働くことになり、お互いの将来のために僕たちは別れた。彩音さんが社会人になって忙しくなること、二人の距離が離れること、そして僕が大学院に進むとなれば、あと三年以上学生の身分となること。それらを考慮に入れた結果だった。
卒業が迫る中、別れを切り出したのは彩音さんだった。映画を観て、この喫茶店で感想を語り合って、その帰りに彩音さんは別れようと言った。まだ寒い日のことで、二人の吐息は白かったが、彩音さんは長い黒髪がマフラーに巻かれて暖かそうだった。
彩音さんとはその後も何度か会い、卒業して遠くに移ってからも四月のうちはメッセージのやりとりはあった。それでも徐々にメッセージの頻度と文章が減っていき、彩音さんの生活から僕の存在は消えていったと感じていた。
それなのに彩音さんは八月にこの街を訪れると連絡をよこした。僕はそれが単なる気分転換だと思いたかったが、一抹の不安を抱いた。
「それで、新しい環境にも慣れてきて、余裕が出てきてさ。最近思ってることなんだけど……」
たどたどしい口ぶりだった。彼女は心を落ち着かせるようにゆっくりと呼吸をし、僕をじっと見据えた。僕の懸念は的中した。彩音さんの表情から、次に来る言葉は容易に分かってしまった。
「もし翔太くんが良ければ、私たち恋人に戻ってもいいなって」
彩音さんは紅潮しつつも、目を逸らすことなく言い切った。僕は耐えられなくなって、空になった茶菓子の器に視線を預けた。
「……なんだよそれ。そもそも彩音さんから言い出したことだったじゃないか」
「分かってる、自分勝手だよね。あの時は卒業したら余裕が無くなってしまうと思ってた。でももし翔太くんが迷惑じゃないって思うなら、別れる必要はなかったんじゃないかって、今は思うの」
僕は言葉とは裏腹に、自分の卑怯さを突き付けられる思いだった。彩音さんは快活な女性だったが、芯では気の弱い人だった。彩音さんは僕よりもきちんと生活ができている人で、大学生活も友人関係もそつなくこなしていたが、それはよくできた強がりで、恋人である僕にいつも不安を吐露する女の子だった。僕にはそれが彩音さんの蜜のようにも思え、そういうところも好きではあった。だからきっと、彩音さんは僕が別れを切り出すのをずっと待っていたはずだ。彩音さんの寂寥と期待の入り混じった視線を僕はチキンレースのようにかわしつづけ、最終的には僕が勝って、彩音さんは泣いた。
「だめだよ。俺は将来どうするか全然決められてない。三年か、何年か分からないけど、そんなに長い間彩音さんを待たせることなんてできないよ。彩音さんの若い時間を無駄にしたくない」
もっともらしい言葉を用意することはできたが、型通りで中身のないセリフだ。彩音さんはそれを感じ取っているのか、表情を変えずに耳を傾けていた。
「翔太くんならどんな道に進んでも大丈夫だよ。私と違って頭良いし、どこでもやっていける。だから私は待てるよ」
「僕を買いかぶりすぎてるよ」
水掛け論になると分かって、僕たちはそれ以上の言葉を堪えた。二人はしばらくの間俯いて雑音に溶け込んだ。店員がお冷を注ぎにくるまで、僕たちは目も合わせなかった。店員が去ってから彩音さんは顔を上げた。ずっと何かを考えていたのか、涙を奥に控えた眼差しを僕に向ける。
「私が隣にいると翔太くんの迷惑になる?」
ずるい言い方だと思った。「私は翔太くんに隣にいて欲しい」とは言わないのだ。何故なら、それは彩音さんの立場を表明して、責任を負うことになる言葉だからだ。彩音さんは僕が決定的な言葉を言えないと分かっているはずだ。
「迷惑なんかじゃない。けど……やらなきゃいけないことが多いっていうか」
「やらなきゃいけない事って?」
返答に詰まる。色々な単語を思い浮かべては引っ込めた。実際今の僕は学業にもバイトにも追われているのだが、それだってずっと忙しい訳ではなく、彩音さんと付き合わない理由にはならない。
「ごめん困るよね。でも、半年の間に何か変化があったなら教えて欲しいな。私のことが嫌になったなら、そう言って欲しい。それか他に好きな人ができたなら」
そうではなかった。変わったことなんてバイトの頻度が増えたことぐらいで、むしろ半年の時間を経ても何も変わらなかったことこそが、彩音さんの提案を飲み込めない原因だった。
「月末にもう一度来るから、また話そう」
何も喋らなくなった僕に、彩音さんはそう言い残して店を去った。
モラトフレニア 鴉乃雪人 @radradradradrad
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