モラトフレニア

鴉乃雪人

第1話


 屋内プールでは子供の騒ぎ声とコーチの叱責が飛び交い、水面を叩くばしゃばしゃという音が鳴り響き、それらが建物の構造上独特な反響音を生んで、非常にうるさい。さらにはその喧騒故に声を張り上げなければ会話ができないため、より一層やかましくなる。この土曜日の昼の時間帯は特に生徒が多く、それが顕著である。もっとも、常に騒がしい子供たちを管理して数十分泳がせ続けるのにはそれなりの集中力が必要なので、そんな喧騒を気にしている暇もない。ただ、一度意識が外に向くと、不快な轟音と塩素の匂いに包み込まれた自分を俯瞰して見つめてしまい、一体何をしているのだろうという気になる。

「三十秒からもう一度折り返し行きましょう……ようい、スタート!」

 ぱん、と手を叩くと、子供たちの先頭、既に水中に入っていた少年が壁を蹴って勢いよく泳ぎ出す。他の生徒たちもそれに続き、一人また一人とプールに飛び込み、泳ぎ出す。みんな同じ紺色のキャップと水着なので、等間隔に泳いでいく様は水族館で見る魚の群れのようだと、時々思う。 

『不味そう。骨と皮みたい』

 トイレから戻ってきた小太りの少年が「今なにちゅうー?」と聞くのでバタフライを指示すると、またかよー、と悪態をつきながらもプールに飛び入る。どぼんと音を立てて水が跳ねた。 

『ううん、あいつは脂がのってる』

 咄嗟に自分のうなじを右手で覆う。掌の下にかすかな蠢きを感じる。隠しても意味がないことは分かっている、というより、隠さなくても問題はないのだが、鏡に映った自分を見て反射的に前髪をいじるのと同じ感覚かもしれない。

 大学生活最後の夏休みだというのに、八月の予定はほとんどこのスイミングスクールのバイトで埋め尽くされていた。過去最大の猛暑だと散々報道される中、自転車を必死にこいで塩素臭を漂わせるこの建物に向かう日々だ。水泳の指導はもちろんのこと、騒ぐ子、泣く子、暴れる子をしつけながら集団の面倒を見なければならない他、二ヵ月に一度ある進級テストの管理、保護者からの少なくないクレームも担当のコーチが対応することになっていて、バイトが負うべき仕事量ではない。その上給時給も千円となれば、当然慢性的な人手不足となる。

 このスクールは三歳から小学六年生までの子供を受け入れており、泳ぎのレベルによって級分けされている。大学入学時からこのバイトを始めた僕は、今ではあらゆる級の指導ができるため、幸か不幸か貴重な人員になってしまっていた。

「全部の級見れるバイト、いま棚元くんしかいないんだよ。夏休みの間だけお願いできないかなあ。 子供たちのためだと思ってさあ。子供好きでしょ? 子供は良いよねえ」

 店長に懇願されたのを断り切れずにいた結果、冗談のようなシフトが組まされてしまった。確かに、小賢しく労働力を搾取する大人や、そこに情けなく隷属する青年よりはよほど良いかもしれない。もっとも先月には三歳児に容赦なく背中を引っ掻かれて負傷したのだが。

 ごうごうと反響音が轟くプールへと意識を戻す。何かをしなければならない焦燥感を誤魔化すのに、このアルバイトは最適だった。水泳の授業を進めているうちはそれ以外の困りごとを忘れていられる。割の合わないバイトをずっと続けているのは、逆説的にもそれが精神を安定させている側面もあるからだろう。

ただ、この数日はそうとも言えない問題が生じていた。

「ショータ先生」

 後ろから声をかけられる。生徒の今井美由だった。僕より頭一つ小さい背丈で、痩せた身体にぴったりと競泳水着が張り付いている。ゴーグルを上げているので、泳ぐにあたっての困りごとでもあるのだろう。

「絆創膏がはずれました」

 左手を差し出して、薬指を見せてくる。長い時間絆創膏が巻かれていたらしい白い跡が第二関節を覆い、プールの水でしわしわになっていた。

「そっか、新しいのつけようか」

 美由以外の生徒はみなプールの中で、先頭の少年が折り返しで戻ってくるころだった。このクラスは小学校高学年のかなり泳げる子供たちのクラスなので、多少目を離しても問題はない。絆創膏はプールの隅の監視室にあるため、手招きして美由を連れて行く。

 監視室からはその名の通りプール全体を見渡せるようになっていて、小さな子供の多い時間では従業員の誰かが見張っていなければならないのだが、この時間はクラスの担当コーチがそれぞれ用のあるときに出入りするだけで、今 は誰もいない。プールの備品や、電灯・換気扇等のスイッチ、そして救急箱もここにある。

監視室のガラスの扉を開き、美由を入れる。濡れたまま入っていいようにスノコの床になっているのだが、絆創膏を巻くために美由の左手だけ水を拭きとる必要がある。

「手出して」

 ティッシュペーパーを二枚つまんで、そっと少女の左手をとる。夏の日光に少し焼けたのか健康的な肌色だが、心配になるぐらい華奢な手だ。薬指のすり傷を見ると、しっかりかさぶたができて塞がっていた。

「もう絆創膏いらないんじゃない?」

 美由は困ったような顔で僕と薬指を交互に見た。判断しかねる様子だ。

「まあ、一応つけておこうか」

濡れたティッシュを捨てて、いそいそと救急箱を開ける。

「なんで怪我したの」

「転んだんです」

 今井美由。十一歳。小学五年生。クラスの他の生徒は年相応に生意気なのだが、美由はいつも僕に対して敬語だった。泳ぎは速くないがフォームは綺麗なので、身体の成長次第でタイムも縮まるだろう。

『何するの。何したいの』

 声を振り払うように首をぼりぼり掻く。ガラス越しのプールからは例の独特な反響音がさらにくぐもって、ぐわんぐわんとうねりを持って聞こえる。

「首が痒いんですか?」

 美由は怪訝そうに僕を見上げた。僕は右手を救急箱の上に置いたまま、左手でずっと首を掻いていたのに気付いた。

「え? ああ、蚊に刺されてさ」

 慌てて救急箱から絆創膏を取り出し、テープを剥がす。美由の背丈に合わせてかがみ込むと、美由も左手を差し出した。

『誰も見てない』

 ふっと顔を上げると、至近距離で美由と目が合う。黒水晶のような瞳。清潔で潤った肌。髪をまとめてキャップにしまっているのに、いやそれ故なのか、柔らかく可憐な顔立ちが眩しい。

「せんせい?」

「なんでもないよ」

 視線を戻す。絆創膏から剥離紙をとる。美由は薬指に巻きやすいように指と指の間をめいいっぱい広げるが、そもそもの手の大きさが違うので、両隣の中指と小指に触れないでいることはできなかった。触れてはいけないという観念が強まるほどに、一瞬指と指が触れ合う有機的な感触とその湿度が意識してしまう。まるでそれが罪に相応しい享楽であるかのように。

『もっと』

 ようやく絆創膏を巻き終えたころには、汗が滲み出ていた。その緊張を悟られないよう、僕は美由に背を向けた。自分は救急箱を片付けるからと言って、美由にプールを出るように促した。美由が礼を言って監視室を出て行く。僕もすぐに子供たちの指導に戻らなければならないのだが、深呼吸をしたかった。

『もうおしまい?』

「うるさい」

 強く首を掻きむしると、ひりひりと痛んだ。

 一週間前から僕の首には小さな狂気が住み着いている。

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