風船

ぽんぽん丸

風船

店を出て深呼吸をすると、初めてこの街に来た時の嫌な匂いを感じなかった。無理矢理に酒で作った楽しい気持ちが失せた。私にあの都会の嫌な匂いが感じられないということは私の体の隅々までもうあの嫌な匂いは満ちてしまったのだ。


例えば今の私の、この酒気を帯びた呼気で風船を膨らませて、誰かの顔の前で破裂させたとしたらどうだろう。あの美しい故郷に住む人にとっては、私はこの街の嫌な匂いを充填した風船なのだ。そんなものがあの良い心を持つ人の暮らしの中にあることを私は許さない。いつか充分になったら故郷での豊かな生活を夢見ていた。都会での嫌な匂いの暮らしはあの嫌な匂いを感じる感覚と同時に目的を消失した。糸の切れた風船さながらその身を環境に委ねて人の住む地上からふらふら離れていくしかなかった。


その日から暮らしのために禁止していたものほど私を惹きつけた。酒はよかった。二日酔いにならないようにいつまでも飲んだ。二日酔いは酩酊し続けると翌日になっても愛想を尽かしていなくなる。あいつはまともに戻る人だけを叱りにくる。そうして飲み続けるとだんだん体の重さから精神が解放された。空も飛べる気がした。重量を無視して体を動かそうとすると当然に体は重さがあるから、その度に転んで地面に打ち付けられてその滑稽な自分が酷くおもしろくて笑った。すると周囲の人は曇った顔で店を出て、私は店主に放り出された。私の両脇に乱暴に差し込まれた私の重さを引きずる店主の腕。働く人の血の通った熱感が怖くて家に帰ってずっと飲んだ。


ギャンブルもいい。目的のないこの暮らしをまともたらしめる唯一のものが貯金だったから、それを闇雲に失うのが心地よかった。人のいないホールはいい。確変よりチャンスタイムがいい。換金所を利用せずに帰る日ほど心地よかった。食べるものや着る物や住む所、私という人間を作るものをパチンコ玉に替えて闇雲に失くすことがよかった。


女性を買うのもいい。そんな暮らしを続けるとコンビニのパンに手が出なくなる。なのに高い金を払って人を買う。そして故郷に残した人を思いながら人の体を使って果てた後の、心の果てしない深さを覗き込むといよいよどうにもならないことが自覚できてもう破裂するのだと思える。


最後に残された小銭で風船を買った。お腹はパンを求めていたけど、私は風船を買った。10個入っていて5色。今私が所有しているなにより鮮やかだった。一番鮮やかな赤い風船を外袋から取り出すとこんなときに童心が少し踊った。小銭を握って駄菓子屋へかけた頃。同じようなことをしているとほんの少し同じ気持ちになってしまう。


吹込み口をくわえると、久しぶりに味を感じて唾液が湧いた。ゴムの味にも反射する体をバカにしながら息を吹き込んだ。なぜわからなかったのだろうか。弱りきった肺活には風船のゴムは硬かった。ただ汚い唾液がしなびれたゴムの袋に流し込まれただけだった。手で伸ばしたり、体温で温めてもダメだった。ただ唾液を補充するだけ。私は泣いた。叫んだ。


「ふくらましましょうか?」


顔をあげると私の目線に高さを合わせて屈み込んだその人の優しい笑顔を見た。怒りに任せてアスファルトに叩きつけた残りの風船を女性が一つ拾った。私は飛び上がって、下半身を硬めて、上半身を少しそらせてから振りかぶり叫んだ。


「カエレ!!!カエレ!!カエレカエレカエレ!!」


破裂音に鳥が逃げるみたいに笑顔の人は鳴きながら駆けていった。もう二度と帰ってこなければいい。


私に充填された都会にきてした酷いこと。それを濃縮し尽くして破裂して、この汚い土地の風に舞い、心良い人を残して来た若者の鼻腔に私の時より耐え難く香り、豊かな心のままこの街から帰り、貧しくとももう二度と寄り付かなくなることが私の救い。

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風船 ぽんぽん丸 @mukuponpon

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