チンギスカンの法則
みらいつりびと
第1話 チンギスカンの法則
チンギスカンの法則が確立したのは、ホラズム王国との戦いにおいてである。
モンゴル帝国初代皇帝はその戦争に先立ち、旗下に、降伏者は生かし、反抗者は兵と市民の区別なく、尽く殺戮すべしと命じた。
以後、この命令はモンゴル軍の法則となった。
チンギスカンはグレゴリオ暦1162年に生まれた。
皇帝に即位する前の名はテムジン。
彼の前半生は分立するモンゴル諸部族を統一することでついやされた。
モンゴル高原は、東を大興安嶺山脈、西をアルタイ山脈、北をシベリア針葉樹林、南をゴビ砂漠に挟まれた広大な草原地帯で、遊牧に適していた。
モンゴル民族は多くの部族に分かれ、各地で馬、羊、牛、ヤギ、ラクダを放牧し、ゲルと呼ばれる移動式住居で暮らしていた。
テムジンは父イェスゲイの死後、部族を追放され、家族だけで自給自足の生活を送っていた。
彼個人には豪傑と呼ばれるような強さはなかった。たまたま敵ジャムカが残酷で、寛大に見えるテムジンに人望が集まり、旗下の部族が増えていった。
ジャムカを殺し、長く同盟者であったトオリルとの決戦を制し、テムジンはチンギスと改名し、カアンとなった。1206年のことである。
カアンとは大王というほどの意味であり、モンゴルが世界帝国になった後は、皇帝を意味するようになった。
チンギスカンの性格は別に寛大ではなかった。彼の行動原理はあくなき拡張であった。ときには寛大であったが、ときには残酷になった。
モンゴル民族は騎馬民族であり、男子は尽く騎兵であった。各自馬を3、4頭有し、替え馬によって、当時世界最速の機動力を持っていた。チンギスカンは外征を開始した。
5万の騎兵を率いてゴビ砂漠を越え、中国北西部にある西夏王国へ侵攻。
中国は遊牧をなりわいとするモンゴル民族とは異なる文化を持っていた。中華民族はゲルではなく、城塞都市に住んでいた。
攻城戦術を持たないチンギスカンは苦戦し、モンゴルへ引きあげた。
次に中国北東部の金帝国を攻めた。
万里の長城と多数の城に守られた金との戦いも苦難の多いものであった。
しかし西夏と金との戦いを経て、チンギスカンは攻城戦術を学び、多種の攻城兵器を持つようになった。投石機、弩、雲梯、破城槌、瓶に火薬を入れた投擲兵器などである。
西夏と金との戦いにおいて、チンギスカンは敵を倒し、攻略した城塞都市の財産は略奪したが、市民を殺し尽くすなどという暴挙を行うことはなかった。彼は家財や家畜を奪ってモンゴルへ凱旋した。
モンゴル兵が去った後、西夏と金は都市を再建した。
1218年、チンギスカンは中央アジアのホラズム王国に使節団を派遣した。
アラーウッディーン王はブハラ市で使節団を謁見し、平和的にもてなした。
しかし使節団とそれに付随していた隊商は、オトラル市で総督イナルチュクに尽く殺戮された。
オトラル事件によって、チンギスカンの領土拡張先は南から西へと変更された。
「降伏者は生かし、反抗者は兵と市民の区別なく、尽く殺戮すべし」とカアンが言ったのは、このときである。
20万の大騎兵団が替え馬を連れ、攻城兵器を持って、果てなき征西の旅に出た。
アルタイ山脈には、かつてテムジンがモンゴル民族内闘争によって攻撃したメルキト部族が逃げ込んでいた。
「族滅せよ」とチンギスカンは命じ、彼の騎兵団は山麓から山頂までメルキトを追い、男を殺し、女は捕らえてモンゴル高原へ送った。
アルタイ山脈の西方にはウイグル草原があり、さらに西には天山山脈があった。その一帯はモンゴルから移動したナイマン部族が支配していた。
チンギスカンはまた「族滅せよ」と命じ、彼の旗下の軍団はナイマンを攻めて、その兵を壊滅させ、女と財産を奪った。
その先にホラズム王国があった。
1219年、アラーウッディーン王は兵をカラ・クムに集めた。チンギスカンの長男ジョチの率いる先遣隊が突撃し、野戦が行われた。
日の出から日の入りまで激闘がつづいたが、勝敗は決しなかった。
アラーウッディーンは撤退し、兵を各城塞都市に分けた。
ジョチの後からチンギスカンの本隊がホラズム王国に到来した。
ある城塞都市は降伏し、別の城塞都市は抗戦した。
降伏した都市の兵と市民の命は取られなかったが、財産は略奪された。
抗戦した都市の人間は尽く虐殺され、その財産は奪い尽くされた。
モンゴル人ひとりにつき24人のホラズム人の首を斬らねばならない都市もあった。
主要都市オトラル陥落。提督イナルチュクは両目と両耳に溶かした銀を流し込む方法で処刑された。
つづいてブハラ、サマルカンド、ニーシャープールが殺戮の嵐に襲われた。
「彼らは来た、壊した、焼いた、殺した、奪った、去った」と歴史家のジュワイニーは書き残している。
辺境諸都市は相次いで降伏した。
アラーウッディーンは逃走し、モンゴル軍は追撃した。
戦場は西へ西へと移りつづけた。
カスピ海上のアバスクン島でホラズムの王はついに病没した。
1220年もチンギスカンの法則は守られつづけた。
彼の友や息子が率いる部隊はさらに進撃した。
ウルゲンチの住民は殺戮されて、その死骸は丘に積みあげられた。
テルメズ城は破壊され、兵は市民もろとも虐殺された。
ナサーとメルヴでも虐殺と略奪はくり返された。高度な技術を持つ職人だけが殺害をまぬがれた。
チンギスカンが率いる本隊はヒンドゥークシュ山脈を越えてバーミヤーンに進軍した。
戦闘中に孫のモエトゥケンが流れ矢に当たり落命。
チンギスカンは「全ての生き物を殺せ」と命令した。無人の地となったバーミヤーンはマウ・バリクと呼ばれるようになった。悪い町という意味である。
イランやアフガニスタンの各都市で、百万人単位で住民が殺された。
ヘラートでは百六十万人が殺された。
モンゴル軍が往くところ、破壊と殺戮と略奪の嵐が吹き荒れた。
アフガニスタンの首都カーブルで、モンゴル兵の間で疫病が流行り、ようやくチンギスカンは遠征の終結を決め、モンゴル高原へ帰還した。
長男ジュチの次男バトゥは、さらに遠くブルガリアまで攻め込み、破壊の限りを尽くした。
チンギスカンは金への攻撃を再開したが、陣中で危篤に陥り、1227年8月18日に崩御した。
死後も彼の法則はやむことなく、子や孫や武将たちが踏襲しつづけた。
1227年と1281年には、モンゴル帝国は日本を攻撃した。
鎌倉幕府の執権、北条時宗は防衛体制を整えて迎撃した。
日本海の島嶼で、チンギスカンの法則はくり返され、多くの武士や住民が戦死したが、九州北部の沿岸で日本軍は勝利し、モンゴル軍を撃退した。
チンギスカンの死後、モンゴル帝国はユーラシア大陸の交通を盛んにして繁栄したが、いくつかの国に解体した。
帝国の終焉がいつごろなのか、判然としない。
チンギスカンの側室クランは、「あなたに三千人の妃がいようと、あなたと常に軍旅をともにした妃はわたしだけである」と言ったことがある。
2004年にオックスフォード大学で行われた遺伝学研究によると、世界中でもっとも多くの子孫を残した人物はチンギスカンであり、現在でも1600万人におよぶ男系の子孫がいるという。
チンギスカンの法則 みらいつりびと @miraituribito
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