第5話「透けていないクラスメート」
「少し変だなとは思ってた。お前はこの世に干渉ができなさすぎだ。今日の神社の幽霊だってさほど強い霊じゃなかったのに、物を盗むことはできていた。お前は何もできない。透けてるだけだ。考えられるとしたら未練が一つもないか、そもそも幽霊じゃないかだ。だが一個も未練を残さず死ぬなんて有り得ない。何よりも」
神原は、田中の家がある方角を指さした。
「お前の家には、お前が死んだ痕跡が一つもなかった。遺影も、位牌も、線香も。仏壇はあるのにお前のは無しなんて、おかしいだろ」
田中の家には仏壇があった。それは田中のものではなかった。その仏壇を見た瞬間、強烈な違和感が生じた。疑問を抱いた。同時に、予感がした。もしかすると、と。
田中が透けている自身の体を慌ただしく見下ろした。
「じ、じゃあ今の俺はなんなんだよ?」
「多分、精神だけの姿なんだと思う。交通事故に遭ったって話だが実は死んでなくて、意識を失ったままの状態なんだろう。肉体は、まだ生きているはずだ」
「……そんな馬鹿な」
田中は呆然とした表情で俯いた。
死んだことに気づかない霊は多い。どんなに客観的な証拠を提示されたとしても、自分で納得しない限り、事実を受け入れない。
田中の場合は逆だった。死んでいると思い込んでいたから、死んでいるにしてはおかしい状況に置かれていても気づかなかったのだ。
「ただ、ずっと精神だけ留守の状態が続いたら、肉体のほうは本当に死んでしまうかもしれない。なるべく早く自分の体に戻ったほうが」
「生きてたって」
震えた声が遮った。
死んでいないことがわかったのに、田中は喜ぶ振りすらしなかった。彼は無感情に地面を見下ろしていた。真顔になるとこういう風になるのか、と思った。暗く、静かで、冷たく、寒く。心細そうな顔。
「生きてたって、どうせ……。……生き返って、どうなるんだ? 何の意味があるんだ? それで、それでいいことなんて、あるのか? 生きるって、悪いことばかりだろう? なのに」
「生きていたら、いいことがある」
神原は抑揚なく言った。口にしてわかった。なんて空々しい言葉なのか、と。
「そんな台詞は吐けない。少なくとも、今生き返ったら受験から逃れる術がなくなる。それを超えても、今度は就活がある。またそれを乗り越えたところで、うんざりするくらい嫌なことが延々と起きまくるのは間違いない。生きるって、それだけで難しいことだ。この世なんてそんなものだ」
今まで数多くの幽霊を見てきた。皆苦しそうで辛そうで、この世に恨みや悲しみを抱いて死んでいった人達ばかりだった。生きていて良いことばかり起きるなら、あんな人達なんていないはずだ。
田中の気持ちはわかる。この世界で生き続ける意味など見つけるほうが難しい。けれど。
「でも今死んだら、俺の言っていた鍋は二度と食べられなくなる」
「……厄除け鍋のことか?」
「鯛のほうだ。俺、今日食べ損なったんだよ。来年は絶対、何が何でも食べたい。で来年は、お前を招待しようと思う。でも自分で作ってみてもいいかもとも考えてて、どっちにしようか迷ってる。量も考慮するといっぺんには無理だから、どちらかを来年食べて、残りを再来年にするしかない」
神原は指を二本立てて、見せつけるように掲げた。
「だから二回分。少なくとも再来年までは、生きていてほしい。俺は、田中に、生きていてほしい」
風が吹く。電線を揺らし、木々を揺らし、髪や服をはためかせて通り過ぎていく。冷たさに震えそうになった体を押さえ込む。吹き去った後は、風が吹く前よりも一層深まった静けさが下りてきた。上空の星の光の音が、聞こえてきそうなほど。
「……その鍋は生き返って良かったって、本当に思える味なのか?」
「保証はする。でも食べてみないと、わからないことだ」
田中が、何かを言うことはなかった。滑り台から下り、神原の傍を通り過ぎていく。今度は追いかけなかった。数分経ってから振り返ったが、当然誰もいなかった。神原も帰ろうとして、最後に空を見た。オリオン座も冬の大三角形も、ちゃんと見える。ベテルギウスもまだある。
もし自分が生きている間に、あの赤色の星が死んだらどうなるのだろうか。きっと冬の大三角が三角だった事実は、忘れられないだろう。死んだからといって、簡単に忘れられるものではないのだ。星も。人も。
日を改めて、神原は田中の家に訪れた。出てきた田中の祖母に、神原は少し考えてから田中の友達だと名乗った。入院している病院を聞くと、祖母は快く教えてくれた。
田中の祖父母は、毎日お見舞いに行っているという。田中は家族が毎日決まった時間に留守にしていると言っていたが、その行き先は田中本人が現在いる場所だったのだ。
「……あの、それで。物置のことなのですが」
尋ねまいと思っていたのだが、気づいた時には質問を終えていた。田中の祖母の目線が、大きくさ迷う。
「……あの子、気づいて……。あなた、事情を」
「本人から、聞きました」
「そう……。なら、隠していても意味無いわね。あの物置小屋の荷物は、あの子の母親が送り返してきたものよ。孫の思いが込められた贈り物や手紙を、処分するなんてどうしてもできなかった。私と主人で相談し合って、隠すことを決めたの。孫は物置に入ることがほとんどなかったし、仮に行くことがあっても、すぐ私達のほうで止めていた……」
正確には、田中が気づいたのは昨日だ。神原は庭に建つ物置小屋を見た。あそこにあったものは、彼を笑顔を忘れるには充分すぎるものだった。
田中の祖母は堪えきれないとばかりに、下のほうで組んだ手を震わせた。唇も震わせながら、祖母は田中が家に来たときのことを話した。
田中は、自分で祖父母の家に住むことを選んだと言っていた。しかし、それは嘘だった。彼だけ別々に暮らすことを、母親のほうから勧めたというのだ。新しい父親に慣れていないのに、一緒に住むのは可哀想だからと。田中の祖父母は激怒し、考え直すよう母親に伝えた。しかし母親も母親で、田中のことを思って、と譲らなかった。
言い争っている場に現れたのが田中だった。自分は全然大丈夫。むしろこっちからお願いするつもりでいた。彼は笑って、祖父母との同居を選んだという。
「本当に颯真のことを思っているかどうかわかりゃしないけれど……。だって娘は事故のことを伝えたのに、一回も見舞いに来やしない……!」
田中は何度も母親に、あまり連絡しなくていいと伝えていたという。年頃なのに親としょっちゅう会ったり連絡したりするなんて、恥ずかしいし面倒だから、と。
心からの完全な笑顔ではないとわかる表情でそれを伝えたのだろうと想像できた。本当に面倒だと思っているなら、あんな手紙は書けない。
「あの子が気遣いから言っている何も気にしなくていいという言葉を、母親は本心だと思っているんです。颯真を産んでいない私達ですらわかることなのに……!」
喉を詰まらせながら一気に言った祖母は、俯いて「……ごめんなさいね」と小さく謝った。
「……母親と離れて暮らすようになってから、あの子は毎年、初詣に行くようになったの。必ず母親と母親の今の家族の幸せをお願いするのよ。でも、私達としては……もう、自分の幸せだけを願うようになってほしい」
初詣の時、田中は十個くらいは願い事を唱えているような長い時間、目を閉じ手を合わせていた。彼は本当は、たった一つの願い事を唱え続けていたのだ。
田中の祖母と別れた後、神原は真っ直ぐ、田中が入院しているという病院に向かった。
向かった病室には、様々な場所に包帯を巻き、マスクや器具と共にある田中が、窓際のベッドの上で目を閉じていた。
その顔色は真っ白だ。本当に血液が流れているかどうか不安になるほどだった。だが、透けていない。両足も、ちゃんとある。
神原はベッドの傍に立った。田中は目を閉じたままだった。まだこの体に戻ってきていないらしい。
彼が体に戻るか、戻らないか。生きるか、死ぬか。どちらの選択をするかは、本人の自由だ。何を選んだとしても、誰かが口を出す権利はない。ましてや今までろくに話したことがないような、いちクラスメートの意見など尚更だ。だとしても。
神原は病室に漂う無機質な消毒液の匂いを吸いながら、田中の姿を見下ろし続けた。心はここにいない田中の姿。
だとしても。自分は、この体に戻ってきてほしい。生きることを、選んでほしかった。
何も深い意味なんてない。高尚な理由もない。ただ自分が、田中ともっと話してみたいから。本当にただそれだけの、些細で矮小な理由で、このどうしようもなく生きづらい世界に戻ってきてほしいと願っている。
こうなることがわかっていたら、初詣でもっとちゃんとお祈りを捧げていた。今言ってもどうしようもないことを、神原は本気で悔やむ。だから今、やり直す。
ここで手を合わせたら不謹慎なので、目を閉じるだけにとどめる。手は心の中で合わせる。
どうか、戻ってきてほしい。ほとんどノリで発しているような台詞の数々を聞かせてほしい。また、心からの笑顔を、見せてほしい。
いるのかどうかわからない神様にではなく。田中本人に向けて、神原は願いを唱え続けた。
ふいに眩しくなった気がして、目を開けた。病室の窓から、光が差し込んでいた。雲がどいたのだろう。冬場の太陽の光は弱いのに、眩く、明るく、窓辺を照らしていた。その光は、彼の体の上にも降り注いだ。優しく、そっと手を乗せるように。包むように。
ぴく、と。ほんのわずかに、田中の睫毛が揺れた。
ゆっくりと、瞼が上がっていく。瞼の下に隠れていた瞳が、ぼんやりとした状態で、露わになっていく。
瞳が、神原を見た。目が合う。
「……俺で、ごめん」
絶対他に見合った言葉があるはずなのに、出てきたのはその言葉だった。
最初に目に入った顔が、本当に自分で良かったのか。彼がもっと会いたい人は、別にいるはずだ。そこも気にするべきだったのに、忘れてしまっていた。
「違うよ、神原」
掠れて途切れ途切れの声が、自分にかけられた。喉は弱々しくなっているはずなのに、その声には明るい色があった。
「最初に見えたのがお前の顔で、良かった。本当に、良かった。一番最初に会いたかったから」
両目を三日月の形にし。口元を綻ばせ。覆い隠していた雲がどいて、太陽がゆっくり現れたときのような温かさで、彼は笑った。その下がった目尻から、透き通った雫が一滴、零れ落ちた。
霊感が嫌いで、幽霊も苦手だった。夏の心霊番組も全て嫌いだったし、ハロウィンのイベントや、ホラーを好んではしゃぐ人達の心も理解できなかった。霊感を持つ自分が嫌いだった。
けれど神原は今、心の底から、霊感を持っていて良かったと思っていた。
霊感がなかったら、田中を見つけることはできなかったのだから。
「寒いーーー!!!」
「相変わらず熱い奴だな」
「寒いって言ってるだろ!」
自分は寒いとき、黙ってその冷たさに身を凍えさせるので、どうして田中は寒いと訴えているのに元気よく騒げるか疑問だった。けれど頬が真っ赤っかになっているので、嘘はついていないのだろう。霊体だったときも、病院で眠っていたときも、田中の肌は青白かった。けれど、今は赤い。ちゃんと、血が流れているとわかる色になっている。
目が覚めてから田中は見る見るうちに元気になっていき、少し前に退院してからは、力が有り余って困っていますというくらい完全に本調子を取り戻した。
「本当に、元気になって良かった」
寒さに我慢できずといった風にその場で激しく足踏みする田中に、そう言った。
すると田中は、にっと歯を見せて笑った。
「今の俺、どんな風に見える?」
自分で自分を指さす。健康的な肌。地面に着いた両足。向こう側の景色が見えない体。
「生きてるようにしか見えない」
「だよな!」
その台詞を望んでいたように、そう言われたことがたまらないというように。田中は、心から嬉しそうに笑った。
「……って、そろそろ急がないとやばいんじゃないか?!」
「やばいな。これで遅刻したら、田中が騒いでいたからですって先生に言う」
「おまっ、友達を売るのかよ!」
「背に腹は代えられない」
「ひどい! そして冷たい! この北風よりもずっと冷たい!!」
「だから早く行こうって」
「よし! 競争だ競争!」
透明ではない足で、田中は走り出した。神原も後を追って走る。寒いだけの風が、なぜだか心地よかった。
完
田中、お前死んでるだろう 星野 ラベンダー @starlitlavender
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