第4話「ベテルギウス」

  近くを探し回ったが田中を見つけることはできず、帰るしかなくなった神原は自分の家に戻った。けれど頭の中には、最後に見た彼の姿がずっとあった。食欲も湧かず、一年で一番楽しみな夕食と言っても良い鯛の鍋の時間が着々と近づいているのに、全く胸が弾んでこなかった。


 それ以外にできそうなことがなかった神原は、椅子に座って自室の窓から外を眺めていた。午後五時を回れば、外界はどんどん暗くなる。空から明るさが消えていき、反対に近隣の家の部屋にぽつぽつ明かりが灯っていく。


 風が吹き、電線が軽く揺れた。きっと思わず震えて声が出てしまうような冷たい風なのだろう。けれどしっかり窓の閉じられた屋内にいるので、その風は届かない。

 だが田中はどうなのだろうか。まだ外にいるのか。いくら温度がわからない姿になっているといっても、見ただけで寒く冷たいとわかる世界に、たった一人でいるのか。


 どういう思考になっているのだろう、と考え直す。振られて落ち込んだときでさえ何だかんだで騒がしかった彼のことだ。今もどこかで明るく快活に、おちゃらけて過ごしていることだろう。

 その考えが、自分を納得させることはなかった。


 物置小屋で田中の様子がおかしくなった瞬間、彼が本当に透明になってしまったように感じられた。風が吹けば散って二度と戻らなくなってしまいそうに見えた。


 また電線が揺れた。風が吹く。飽きることなく。何かを散らしたそうに。


 次の瞬間、神原は立ち上がった。ダウンだけ掴み、家族の声を無視して家を飛び出す。


 昼間も充分寒かった。しかし太陽が沈んだ世界は、もっと鋭い寒さになっていた。突き放すように冷たい空気。走りながらダウンを着たが、冬風は容赦なくぶつかってきた。露出している耳や鼻は、痛さ以外の感覚が無くなるほどあっという間に冷えた。

 それでも神原は足を止めなかった。幽霊を見つけた時の有効な方法は、見て見ぬ振りをすること。けれど、田中という幽霊を見て見ぬ振りすることはしたくなかった。


 白い息を吐きながら、田中の居場所を考える。幽霊は普段どういう場所に現れるか。今日神社近くで見つけた幽霊のように人が多くいる場所に出現する霊も珍しくはない。だが傾向としては、夜の学校や病院、墓場、古い家やトンネルなど、あまり人のいない場所に現れることが最も多い。しかしそれだけでは候補を絞れない。


 自分はどうだったろうか。自分はどうしようもなく悲しくなったとき、布団の中や押し入れ、物置の隅で泣いた。だが田中はどうだろう。物置が苦手と言っていたのに、狭い場所に籠もるようなタイプなのか。


 あとは、と記憶を振り返る。誰もいない公園や空き地で、泣くこともあったが。


 思い至ると同時に、足が止まる。直後、それまでよりも速く神原は走り出した。もしかしたらの枕詞がつく行き先が決まったからだ。


 田中の自宅付近まで辿り着いた神原は、走るのをやめて歩き出した。今日この家に着く途中で見かけた、田中の家から十分ほどの距離にある児童公園。滑り台とシーソーと砂場に、一本の電灯しかない小さいその公園に遊んでいる子供は一人もいなかったが、代わりにたった一人、男子高生がいた。滑り台のてっぺんに腰を下ろしている彼は、じっと上を見上げていた。


 神原が近づくと、その目がこちらを向いた。


「あ。神原」


 田中は口の端を上げ、片手を挙げて軽く振った。


「星見てたんだけど、やっぱり住宅街だからかな。あんまり見えなくて。でも、あれとあれはよく見えるぞ!」


 神原は空を見上げた。あまり星は見えなかったが、いくつか見える星もあった。見える星のうち、三つ並んだ小さな光があった。並んだ星の右上と左上、右下と左下にも星がある。オリオン座だった。オリオン座の左上にある星を辿っていくと、更に左側と下側にも星を見つけた。それらを結ぶと、綺麗な三角形になった。


「星座とか何もわからないんだけど、オリオン座と冬の大三角形だけはわかるんだよな昔から! 派手だからかな!」

「……お前みたいにか?」

「俺は言うほど派手じゃないぞ!」


 冷たく静かな夜のしじまには似合わない、弾けるような声が公園に生まれる。その明るさが、ぴたりと止まる。


「何も聞かないんだな、神原は」

「……」

「でも神原のことだからなあ。色々と察してそうだ」


 その通りだった。直接話は聞かずとも、現場の状況を照らし合わせれば、大体を把握することができる。


「……ごめん。手紙、少し読んでしまった。すまない」

「いいよいいよ。見られて困ることも書いてないし。あんな状況さ、俺が神原と同じ立場だったら絶対見ると思うし」


 滑り台の傍に立つ一本だけの電灯が、田中を照らしている。だから弱々しい笑みも、見えてしまう。


「あの家は、俺のじいちゃんとばあちゃんの家なんだ。父さんはいない。母さんは……別の家で、別の家族と暮らしている」


 聞いていいのか、と一瞬躊躇った。しかし、彼を止める権利が誰にあろうか。聞くしかない、と思った。田中が神原を、相手に選んだのだから。


「俺が覚えてないくらい小さい頃に父さんと別れたみたいでね。それ以降、本当に母さんは苦労の連続だったんだ。物心ついたときから、朝から夜まで働きづめの母さんばかり見てきたからな。だから5年前、やっといい人を見つけられて、ようやく幸せを掴めることになったんだよ。そこから俺は今の家に引っ越してきて、母さんは別の町に引っ越したんだ。

……あ、なんでって聞いてもいいんだぞ? 聞きたそうな顔してるのに。別々に暮らしている理由は、単純に、相手の人と俺が上手くいかなかったからだよ。なんだかなあ、気が合わなかったというか話が合わなかったというか。何度か会って話したんだけど、なんか、微妙にずれているような感覚があったんだ。相手の人も俺にどう接して良いかわからなかったんだろうな。俺ももう割と大きかったし。悪いことしちゃったよなあ……。仲良くなろうとはしたんだけど、いつも空回ってしまって。

で、じいちゃんとばあちゃんちに住むことになったんだ。俺が自分で選んだんだ。思春期真っ盛りだったし、いきなり義理の父と一緒に住むとか、結構抵抗あったしな。ちょうど良かった!」


 田中は元気に語った。元気すぎた。場違いなほどに。


「そうそう、それで4年前だったかな! 俺に弟ができたんだよ! じいちゃんとばあちゃんから聞いて、もう俺凄く嬉しくってさ! ずっときょうだいが欲しかったから! 弟の誕生日も聞いて、それで毎年、ああもう何歳になったんだーって考えると、なんかじーんと来るんだよ! もちろん毎年プレゼントも贈るんだ! いや学生だしそんな凄い物は贈れないけど、気持ちを贈ると思えばな! ないよりはずっといいだろう! 母さんと相手の人の誕生日にもちゃんと贈ってるんだぞ! やっぱり生まれた日って凄く大切だからな! あとクリスマスにもな!」


 クリスマス前の洋品店で、田中は三人分の手袋を探していた。あの時、家族に贈りたいと言っていた。


「本当はもっと色々贈りたいんだけど、やり過ぎてもなんだかだし。代わりに手紙は結構な頻度で送っているんだ! 電話はあまりしないようにしているから、その分! 電話をかけないようにしているのは、ほら、悪いじゃないか。向こうにも向こうの時間があるからな。その点手紙だったら、時間泥棒になったりしないだろ?」


 離れて暮らしているというのに、田中はずっと、家族のことを思っていた。考えていた。 けれど。その思いが詰まった手紙や贈り物は、全て田中の家にあった。


「……住所が間違ってるはずはないんだ。いつも宛先を書くとき、何度も何度も確認してるから。で、まあ、なのに、送ったものが全部、なぜかうちにあったってことは……届かなかったっていうか……。……送り返されてた、ってことなんだろうなあ……」


 神原は田中の顔をじっと見つめた。なぜだろう、と思った。どうしてここでも、彼は笑っているのだ。もう、笑顔と言い表せない表情になっているのに。


「引っ越したってことは絶対に有り得ないんだよ。だって俺、会ってるから。弟に。死んだ日に」

「え……?」

「あの日な、遠出してたって言っただろ? 実は母さんの引っ越し先に行ってたんだ。深い意味はないけど、ちょっと、久々に会いたくなって。住所はわかってたしな。で、家の前まで行ったんだけど……結局、そのまま帰った。勇気が出なくて。恥ずかしかったんだよ、別々に暮らし始めて以来一回も会っていないしさ。照れないほうがおかしいだろ? 

で帰りに、公園でボール遊びしてる弟を見つけたんだ。ボールが車道に転がっていって、弟はそれを追いかけて……。車の信号が青ってわかった瞬間、飛び出してた。後は神原も知ってのとおりだ。

あ、ちなみに俺の家族のことだけど、神原も知ってると思うぞ。といっても写真で見ただけだけどな。今日神社近くで会った幽霊さんが盗んだロケットペンダント。覚えてるか? あの中に入ってた家族写真が、俺の家族だよ」


 ペンダントのことは覚えていた。三人の家族が写った写真。それを見た田中の様子が急変したことも覚えている。動くという動作を全て忘れてしまったように、立ちすくんでいた。


「思い返せば、手紙の返事とか全然来なかったからな! 電話も! 全然疑問にも思わなかったんだよな! うーん、俺としたことが空気読めないことしまくっちゃってたな! 恥ずかしい! いやいつも空気読めてるわけじゃないんだけど!」


 はは、と田中はわかりやすい笑い声を発した。わかりやすすぎて、中身がないように聞こえた。自分でも空しいとわかったのか、ふいに声が止まる。


「なんでだろうなあ」


 まるで目を逸らすように、田中は再び上を見上げた。夜空の一箇所に向かって指を指す。示した先にあったのはオリオン座の左上であり、大三角形の右上。他は白く光る中で、その星はほのかに赤く光っていた。


「あれ、ベテルギウスっていうんだって。昔調べて知った。で、調べてわかったんだけどベテルギウスって、実は死ぬ寸前の星なんだとさ。あれが死んだら、オリオン座の形、だいぶ変テコになるだろうな。冬の大三角も、三角じゃなくなるってことだ」

「……そう、なのか」


 神原は改めて、赤色の星を見た。ベテルギウスは、変わらず空に輝いている。あれが空から消える日が来るなど想像できなかった。今までもそうだったように、これからも永遠にオリオン座の一部として、大三角形の一部として、冬の空に存在し続けるようにしか見えないというのに。


「信じられないよな。だけど、いつになるかわからないけど、必ずその日は来る。ベテルギウスが消えて、皆の記憶からも消えて、冬の大三角形は三角じゃないことが普通になる。こんなに輝いているのに、死んだら何も残らない。死んだらそのうち、いないことが当たり前になるんだ」


 それは星に送る言葉にしては、やけに、気持ちの込められた響きがあった。

 訂正しなくてよかったのに、田中は「何言ってるのかな自分」と打ち消してしまった。


「……俺、仲良い奴らいっぱいいるけど。本当の意味で友達なのかって聞かれると、ちょっと、あれなんだ。だって俺幽霊だってわかったとき、友達の誰にも頼れないなって思っちゃったから。迷惑かけてしまうな、申し訳ないなって。他の誰にも頼れないって思った。色んな人と仲良くなりたくて、クラスの人の顔と名前、頑張って全員分覚えておいたんだ。なのに、結局役立てられなかった。……神原は、助けてくれたよな。ありがとう。迷惑ばかりかけて、ごめん」


 いつの間にか上を見上げていたはずの田中は、下を向いていた。表情は見えない。見ようとしても、きっと、明らかにはしてくれない。声音からはもう、笑おうとする意思すら感じなくなっていた。


「俺、どうして生まれてきたのかな」


 ぽつりと。声を発した事実すら消えてしまいそうなほど細く、田中は呟いた。


「意味無いけどな。今更だ。死んでから考えたって」

「田中。一ついいか」


 顔を見せてくれない田中の顔を、しっかりと見上げる。目を合わせてくれなかったとしても、自分から目を逸らすわけにはいかなかった。決して。


「お前は多分、死んでない」


 田中の目が、まさしく綺麗な点になった。

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