第6話 新学期

 開け放った窓から吹き込んだ突風が、汗やホコリと一緒に、教室のざわめきを運び去った。が、それも一瞬のことで、室内は、またにぎやかな声であふれかえる。

 新学期の教室は、終わってしまった休みへの未練と、久しぶりに級友に会えたことによる興奮で、騒がしさがいつもよりワントーン高くなる。もっとも、授業が本格的に始まる明日からは、気だるさが取って代わるだろうけれども。


 教室のざわめきがワントーン高かろうが、はたまた気だるかろうが、今の千紗には、知ったことではなかった。というより、そのざわめきすら、ほとんど耳に入ってきてはいないのだ。


 その朝の千紗は、ギクシャクとした足取りで、頭から教室に入り、いつもの千紗からするとかなり小さな声で「おはよう」と言うと、自分の席に座った。

 それからすぐに、鞄の中身を机の中にきちんとしまった。最後に鞄のポケットから、ティッシュに包まれた細長いものを大切そうに取り出すと、千紗は、それを机の中の教科書の上にそっと置いた。


 一見、何気ない動作だが、普段の千紗を思えば、月夜に狸が踊るくらい珍しい現象だった。千紗は常々、どうせ後で鞄にしまいこむ教科書やノートを、なんでわざわざ机の中にしまわなければならないのか、と声高に主張し、その類の動作をかっ飛ばしていたのだから。それが今日に限って、いったいどうしたというのだろう。


 鞄の中身をしまい終えると、千紗は初めて視線を上げて、さりげなく教室の中を見回した。窓際の一番後ろの席に、菊池がいた。いつもの仲間たちと、何やらにぎやかに喋っている。その中には、さやか達もいた。


 みんな、夏休み前とは何かが違う、と、千紗は思った。夏休み前より、ほんの少し大人びて見えた。一様に日に焼けて、背も伸びていた。あたしも、夏休み前とは違っていてほしい。あたしと菊池も。


 けれど、菊池は、千紗の方など見向きもせずに、いつもの仲間と騒いでいる。菊池がさやかをからかったのだろう、さやかが菊池に寄りかかるように叩くふりをするのを見て、千紗は慌てて目をそらした。


 千紗は、机の中に手を入れて、ティッシュに包まれた細長いものに、そっと触れた。もし、菊池が、あの日のことを、すっかり忘れていたとしても、気にするのはよそうと思った。そうだったとしても、千紗は、あの日を境に、確かに変われた気がするのだ。


 あの日、家に戻ると、千紗はすぐに学校に電話をし、ハンガーにうっかり学校を休んでしまったことをわび、苗字が変わる件は、新学期に自分自身でみんなに話したいと、そう申し出たのだ。


 あの日の菊池の言葉は、千紗の心に一つの光を灯してくれた。たぶん、心の奥の深いところで、千紗はずっとおびえていたのだ。変わってゆくこと。後戻りはできないことを。菊池は、そんな千紗を応援してくれると、約束してくれた。このことは、千紗にどれほどの力をくれたことだろう。


 千紗はもう、他人からどう思われても気にせずにいられると思えるくらい(実際にいろいろ言われたらわからないけれど、とにかく)親の離婚という問題から、開放された気がしているのだ。後は、かっこよく、あくまで自分にとってかっこよく、この事実を乗り越えてゆくだけだと、夏休みの残りの日々で、考えることが出来たのだ。


 あの日食べたアイスキャンデーの棒は、捨てずに家に持って帰った。夏休みの残りの日々、千紗は、たびたびその棒を眺めた。そして、菊池は約束を守ってくれるだろうか、と考えた。


 けれど、こうして実際に学校が始まり、教室に来てみると、菊池が千紗との約束を守るのは、クラスメートの目もある手前、ほぼ不可能に思えた。大体、あの様子では、菊池は千紗との約束など、すっかり忘れていそうだった。


 それでも何とか、千紗は、今日の菊池ではなく、あの日の菊池から勇気をもらって、今朝の学活を乗り越えるつもりだった。

 ティッシュに包まれたアイスキャンデーの棒を握り締め、千紗は、自分に喝を入れる。


 学校が始まる鐘が鳴り、ざわめく教室に、ハンガーが、いつものように威勢の悪い様子で入ってきた。みんな口々に文句を言いながら、自分の席に戻ってゆく。千紗は自分の席でどうしようもなくこわばりながらも、菊池が斜め前の席に着く様子を、目の端で見ている。菊池はそのまま、千紗に背中を向けている。


 日直の掛け声で挨拶をし、席に座る時も、菊池は、千紗の方を見ようともしなかった。考えてみれば、今日、菊池は千紗の方を、一度も見てはいなかった。千紗は、何回も何回も、菊池の方を見てしまったけれど。


 いよいよ朝の会が始まった。ハンガーが、笑顔で、クラス全員、元気に登校してきたことを喜んだ。そして、通り一編だけど暖かい口調で、新学期の挨拶をし、注意事項を説明した。千紗の登場まで、あと少しだ。


 千紗は、痛いくらい強く打つ心臓の鼓動に聴力を奪われ、ハンガーの言葉などほとんど聞き取れない。アイスキャンデーの棒を握る手がじっとりと汗ばみ、包んでいるティッシュがぶよぶよになっている。


「さて、ここでみんなにお知らせがあります」

 その言葉とともに、ハンガーがまっすぐに千紗の方を見た。それにつられる様にして、クラス中の顔が、いっせいに千紗の方に向いた。


 いや、違う。菊池だけが、未だに千紗に背を向けていた。約束を守るってこういうことだったのか、千紗はそう納得しながら、ギクシャクと立ち上がった。机の中の棒をしっかり握り締めた。うつむいてはいけない。千紗は背筋を伸ばし、ゆっくりと深呼吸をした。その時だった。


 それまでかたくなに背を向けていた菊池が、ふいに、千紗の方に顔を向けたのだ。菊池は、まっすぐに千紗を見ると、ついと顎を上げて見せた。

 千紗は驚いて、まともに菊池を見た。それからあわてて、視線をそらした。なんだか涙が出そうになったけど、その代わりに晴れ晴れとした笑顔になった。



     

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あたしが千紗だ、文句あるか たてのつくし @tatenotukushi

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