禍津神颪 4
剱楽神社本殿は四都久民の集落を抜け、さらに山道を抜けた先、幾つもの鳥居をくぐり進んだ山の中腹にある鍾乳洞だ。
懐かしく蘇る過去この場所にやってきた時の記憶。古老様からは二度と生きて戻ることは無いと宣告され、しかしその為に育てられてきたユイは何の疑いもなく自然とそれを受け入れていた。
それなのに、よもや再びこの場所に訪れる事になるなどとは夢にも思っていなかった。
入り口には一際大きなしめ縄が飾られているがかなり傷んでおり、綻び、今にも落ちてしまいそうだ。しめ縄は毎年新しいものに取り替える慣わしなのだが、こうも傷んでいるということはそれだけ瘴気に侵食されているのだろう。
「怖いならまだ引き返せるよ。」
ーーーナギは震えていた。
朽ちたしめ縄の結界から漏れ鍾乳洞から溢れ出る禍々しい神威に当てられ、本能的に命の危険を感じ取っているのだろう。
肌に突き刺さる死の感覚ナギの瞳孔が開き、心拍が上がり、呼吸が乱れ、嫌な汗が滴る。当時ユイは自分と同じくらいの年齢でこんなに恐ろしい場所でお役目を果たしたのかと、少し自信を失う。しかし、立ち止まるわけにはいかない。
「大丈夫なの。怖いけど、おねえちゃんもユイ様も、もう失いたくないもん。」
今にも泣いてしまいそうな潤んだ瞳を必死に堪え、震える声で、しかし力強く言い切った。
「そっか。」
暴風のような荒々しい神威と共に瘴気の霧はこの洞窟から溢れ出ており、その奔流を浴びたユイとナギの身に瘴気の影響が現れる。少しの倦怠感や吐き気を催しながらも、ペットボトルに溜めていた湧水を口に含み、頭から被る。そして洞窟の前で三礼三拍手、そして一礼をすると小太刀を抜いた。
物部の神社天下
萬物聚類化出大元の神寶は所謂
瀛都鏡邊都鏡八振劍
生玉足玉死反玉道反玉
蛇比禮蜂比禮品々物比禮
更に十種神
甲乙丙丁戊巳庚辛壬癸
一二三四五六七八九十
瓊音布留部由良と由良加之奉る事の由綠を
以て平けく聞こし食せ
祝詞を唱え、刀を納めて神楽を舞い終える頃には瘴気による身体の不調はいつの間にか消え去ってしまっており、さらにナギはなんだかユイの雰囲気がまた変わった事に気がついた。
それはユイの持つ荒々しくも繊細な刃のような気配でも、シキの持つ太陽のように暖かくて優しい気配でもない。
それはただ白く、純粋で神々しくもある。
まるで別人のような気配と同時に、ユイとシキの気配も同時に存在している不思議な感覚。ナギは直感でこれが神降しをしたユイの気配なのだと認識すると同時に、絶大なる安心感を覚えた。
「さあ、サラを助けに行こう。」
「はいなの!」
鍾乳洞内部は螺旋状に下りが続くため入り口から差し込んだ光は届かず、然しもの四都久民といえど明かりなしでは何も見えない。
ユイは椿から借りた電気式のランタンを灯すと、おっかなびっくりついてきているナギと共に暗い洞窟を進む。
洞内は至る所から地下水が滲み出ており、さらに霧で満たされていることもあり、ひんやりとしている。本来であれば洞窟棲の虫や蝙蝠などの生物が居てもおかしくないのだろうが、この場所からは生の気配一切感じられない。
息の詰まるような圧迫感と死の感覚。少しずつ鮮明に蘇ってくるお役目の記憶。
そう、あの時は一人、蝋燭の小さな灯りだけを頼りになんの不安も恐怖もなく地の底へ往き、少しずつ身体を蝕む瘴気に息絶えるまで舞い続けた。
この場所はまるで時間が止まっているかのようにあの頃から全く変わっていない。変わっているのは、自分自身の心持ちのみ。運命を受け入れ死ぬ為ではなく、神に抗い生きる為に来た。その心構えが違うだけで、記憶にある景色の全てが違って見える。
本殿へと続く螺旋回廊は下へ下へと続いている。足音と水音だけが洞内を反響し、螺旋状の構造と相まって前後左右の方角さえも不確かで、まるで現世から隔絶された虚無の空間。暗闇に閉ざされた洞窟はこんなにも不気味で恐ろしかっただろうか。そして暴力的なまでの瘴気と神威の嵐。禍津日神の神颪は生きとし生けるもの全てに平等な死を与える。
これではまるで、黄泉比良坂を歩き、自ら黄泉の国へ足を運ぶ伊邪那岐命そのものだ。
傍らについて歩くナギは一生懸命に歯を食いしばって恐怖に耐えている。その様子を見てようやくお役目の儀式というものの異常さを実感した。
長い長い螺旋は地の底まで続くようで、しかしそれは唐突に終わりを迎える。そこは剱楽神社拝殿の反対側に位置し、まるで鍾乳洞の内部とは思えないほど広い空間が広がっており、灯りはなく深淵だけが広がっている。
「おねえちゃん、どこなの…!おねえちゃん!」
ナギの必死の呼びかけに帰ってくるのは反響。探れども生きた人間の気配はなく、そこにあるのは無限の暗闇と黄泉の神威のみ。
背筋の凍るような静寂の中、微かにずるり、と滑りを伴う何かが這いずる音がして、ユイはすぐさま抜刀できるよう身構えた。
ーーー何かが居る。
しかしこの現世と幽世の入り混じっている感覚は、かの禍津日神ではない。あれは居れば直ぐに解るほどに濃い死の気配を撒き散らす上、そもそも実体を持つものではないのだ。それにあの悪辣な仙人、宇都宮六廻のものでもない。
「誰だッ!」
ユイは咄嗟に声の聞こえた方に灯りを向ける。霧が濃く、ランタンの灯りを拡散させその姿をはっきりと視認するのが難しい。だが、ユイには一瞬だけ見えたブロンドの癖毛に覚えがあった。
「サラ、よかった、生きてたんだな。私だ、ユイだ。お前を助けに来た。」
「お、おねえちゃん!ナギなの!」
「ユイ…様?」
喉は潰れしゃがれた声は弱々しく、随分衰弱してしまっている。それだけでサラの体験した残酷な仕打ちの残滓が感じ取られ、ユイは奥歯を噛み締める。
「本当に、ナギがユイ様を…?ああ、なんてこと…。」
「もう大丈夫。今のうちに、さっさと出よう。」
「いけません…ユイ様。」
「何か厭なものが付いているな。待ってろ、すぐに祓ってやる。」
「私はもう…。」
ユイが小太刀を振るうと、その度に少しずつ霧が晴れていく。ユイの神威が黄泉の瘴気を祓い、そして自身も瘴気に侵される感覚。
薄ぼんやりとした灯火は徐々に彼女の姿を克明に照らしていく。
「嫌、です。見ないでください…ユイ様。」
「サラ、お前…ッ!」
一際大きな金属音が鳴り、暗闇より突然襲いかかった巨大な岩がぶつかったかのような衝撃を、ユイは間一髪小太刀で受け流した。その刹那、変わり果てたサラの姿を垣間見てしまう。
「あ…おねえ、ちゃん…?」
ナギは言葉を失い、呆然と立ち尽くすしかなかった。
どんな壮絶な暴虐がなされたのか、想像するのも悍ましい。滑りを帯びる何かに磔にされた肢体は所々火傷のように酷く爛れ、青白く膿んでおり、ぶよぶよと膨れている。身に纏う純白の巫女装束はズタズタに裂け、粘液や血、吐瀉物に汚れ見る影もない。身体のいたるところに粘液で照る触手が絡みつき、瘴気を吐き出しており、それらは彼女の体内から伸びている。そして一際異彩を放つのが、子を孕んでいるかのように大きく膨らんだ下腹部。それはボコボコと内側から脈動し、なにか冒涜的なものを内包している事が見て取れる。
激痛と悲哀と絶望に生きる事を諦めてしまった虚無と、よりにもよってそれを最も敬愛する人に醜い姿を見られてしまった羞恥に、サラの表情は酷く苦しげに歪んだ。
「見ないでくださいッ!」
サラの叫びに呼応するように、触手は目にも止まらぬ速さで薙ぎ払われる。
半ば反射的にナギを跳ね除け、ユイは小太刀を縦に真正面から受け止めるが、その勢いは凄まじく小太刀は刀身の半ばから折れ、ユイ自身も十メートル以上は突き飛ばされてしまう。
「ユイ様!」
「心配するな、なんとか生きてる。」
地面に叩きつけられる寸前、咄嗟に受け身を取ることができたが、使い物にならなくなってしまった得物を見てユイは歯噛みした。特別な謂れがある業物ではないが、幼い頃から使っており、よく手に馴染んだ相棒の呆気なく無惨な姿に喪失感が拭えない。
「ナギ、攻撃は見えるな?死にたくなければ全力で守れ!」
「は、はいなの!」
薄ぼんやりとしたランタンの明かりが灯す暗闇に少し目が慣れたとはいえ、あの速度と威力の触手を得物なしで捌くのはほぼ不可能だ。愛刀には申し訳ないが、もう少し頑張ってもらう必要がありそうだ。
「ユイ様…ナギ、逃げて下さい。…私はもう、助かりません。」
「馬鹿を言うな!」
尚も次々繰り出される攻撃に一瞬たりとも気を抜けない。幸いにも単調で狙いは甘く、ユイとナギなら守りに徹しさえすれば避け続ける事は簡単だ。しかし、その猛攻を掻い潜って懐に飛び込むのは至難の業だ。
「二人を…巻き込みたくは、ないんです!」
「ちっ…つべこべうるせえな、この分からず屋が!」
ユイの怒声に、サラは一瞬肩を震わせた。彼女がユイに怒られていた所をナギは一度たりとも見たことがなかった。
「いいから、黙って大人しく助けられてろ!」
一瞬の隙をついて、ユイは更に集中を深め、一気に神威を開放した。
爆発的な白の奔流が洞内を駆け巡る。それは光ではないが薄明かりの中でも一際白く、暗闇をより暗闇たらしめる瘴気を食い散らかす。
ユイはただゆらゆらと身勝手に舞っているかのようで、しかし襲いくる触手の攻撃はまるで自分からユイを避けているように少しも触れられない。それどころか迸る眩いほど純白に輝く神威は荒れ狂う黄泉の神威を全て塗り替えてゆく。
ナギはその神々しい光景をただ敬服と感激に打ち震え、ただ眺めていることしかできない。
惟神神懸-落水剣
折れた小太刀を一文字に振るうと、たちまち瘴気は消え去り、蠢く触手も動きを止め、サラ自身も永く遠く永劫のように続いた苦痛が嘘のように和らぎ始め、暖かな心地の良い感覚に包まれる。
しかし、その代償は決して安いものではなかった。
ユイは神威の衝突で粉々に砕け散った小太刀を手から取り落とし、血を吐くと同時に膝から崩れ落ちた。
絶対無敵の英雄が倒れる様はまるで時が止まったかのようにゆっくりで、二人の悲鳴も停止した世界ではまるで遠くの出来事のようだ。
「へへ…大丈夫だよ、心配しないで。」
完全に倒れ込む寸前、どうにか意識を取り戻したシキは地面に膝を立て、身を起こした。
既に神降しの神威はなく、ユイの意識も瀕死。瘴気にやられた身体はまともに動かず、奇妙な痣が全身に走り、倦怠と激痛に立ち上がる事も困難だ。
しかしそれは禍津日神も同様で、瘴気は消え去り、サラの中から蠢いていた触手も力無く枯れている。残すは体内のものだけで、その神威も既に風前の灯だ。
「次で、終わり…だから。」
「させるかよ、この馬鹿娘が。」
再び立ちあがろうとしたシキの鳩尾に突き刺さった鉄拳は、朦朧としていた彼女の意識を完全に刈り取った。
「え…?」
呆然と立ち尽くすナギは、目の前で暴挙に及んだ不届者の存在を認識すると、怒りに身を任せ絶叫し突貫する。
「おじさまああああああ!!」
「おいおい、不意打ちするなら殺気は消せと教えなかったか?」
激情任せの乱暴な突進も、この暗闇の中でナギの膂力を持ってすれば十分に脅威だ。しかし同じく身体能力に富み、彼女に戦い方を教えたタタラには通用しない。無刀であるにも関わらず、左手で斬撃を振るう腕をいなし、肘打ち。武器を取り落とすとすぐに羽交締めにしてしまう。
「あとは頼んだぜ、嬢ちゃん。」
「…承知しました。」
ナギが聞き覚えのある声に顔を上げると、そこにいたのはまたしても見知った顔、それもつい先程まで共に姉を助ける為行動を共にしていたはずの人物だった。
「うそ…椿おねえちゃん…?」
その姿は数刻前まで着ていた山岳行動用の機能的なものではなく、純白の巫女装束を纏い、腰には愛用の刀と共に剣を腰に差している。
「どうして、なの…?」
椿はランタンの灯りを頼りに処置用のゴム手袋を着用し、手拭いをサラの口に噛ませると、剣を抜きの切先を下腹部へ慎重に突き立てる。嫌な汗が脇の下を流れ落ち、動悸と震えが止まらない。しかし、極限までの集中は切先を寸分も狂わせない。
「サラさん、ナギさん、恨むなら私を恨んで下さい。」
「椿おねえちゃん!なにしてるの、やめて!お姉ちゃんを殺さないで!」
哭き叫ぶナギとは裏腹に、サラは抵抗せず優しく微笑むのみ。
「参ります…!」
まるで吸い込まれるかのように、刃は肉を切りながら体内へと滑り込んだ。
◆
戦意を失った剣士二人は、背負っていた荷物から怪我の応急処置を済ませると、椿は四都久民の集落から少し離れた場所まで連れられていた。
先刻まで刃を向け合い、殺し合っていた相手は道中何も語らないが、椿はいつでも腰の刀を抜けるよう警戒を解かない。
そこは立派な造りの神社で、鳥居の文字を見るにその場所はどうやら剱楽神社の分社のようだ。鳥居をくぐると、不思議と瘴気による不快感が消えた。剱楽神社と同じく分社にも瘴気は侵入できないらしい。
「なあ嬢ちゃん、ユイは楽しくやってんのか?」
「ええ。お友達に囲まれて、いつも楽しそうにされています。」
「はは、そうかよ。俺はてっきりあいつは死んじまったと思ってたんだが、まさか御役目に選ばれて生き残ってやがるとはな。まったく、相変わらず大したもんだぜ。」
彼は昔の記憶を辿るように遠くを見つめ、ぽつぽつと語る。
「うちのかみさんはな、身体は弱かったが才能に溢れた優秀な巫女だった。あいつの神楽は何度見ても美しくて、舞で敵うやつなんか誰もいなかったんだ。だが才能ってのは残酷なもんでな、かみさんは…ミサは…御役目に選ばれて死んじまった。ユイが産まれたすぐ後だったんだが、かみさんはどうも死期を勘付いてたみたいでな。何も知らねえ愚かな俺に餓鬼だけ託して逝っちまったんだ。」
母親譲りの才能と父親譲りの頑丈な身体を持ち生まれたユイに、彼は大いに絶望した。過ぎた才能は骨の髄まで貪り尽くされ、その末路はミサの辿る道と同じなのだから。
父の元から離されたユイは現人神のように祀られ、物心つくまで神社で育ち、タタラもほとんど集落に居なかった。
妻を失い、娘を奪われ、腑抜けた姿は才能溢れる娘には余程無様に映ったのだろう。ユイが彼を父として慕うことはなかった。
「俺は、俺から妻と娘を奪った四都久民もその因習も心底恨んでんだ。」
「…それでも、あなたがナギさん達を大変な目に合わせた事を正当化させる理由には、」
「ああ、言い訳にもならねえな。だからこれは、俺が自らの復讐の為に餓鬼を利用した悪い大人だってだけの話だ。」
しかし、あの純粋なナギは彼に懐いているようで、椿の目には少なくともその愛情に偽りはないように見えた。
「悪いな、つまんねえ話を聞かせた。」
「いえ…。」
敵を討つ時は言葉を交わしてはならない。覚悟が揺らいでしまうから。
椿は少しでも知ってしまった彼を、先の戦闘のように斬り捨てる覚悟で刃を向けることはもうできない。それが彼の狙いなのかはわからないが、少なくともどれだけ警戒を強めようと戦闘になれば怪我で碌に動けず覚悟も甘い椿はすぐに制圧されてしまうだろう。
「…それで、私を神社に連れてきていったい何を?」
「おう、ユイを助太刀するぞ。」
「あっはい。…はい?」
全く予想外の返答に、椿は思わず素っ頓狂に聞き返してしまう。
「えっと、あなたは敵では?」
「何が楽しくて娘と殺し合いしないといけねえんだ、それにあの狸仙人に好き勝手暴れられて黙っていられるかよ。こちとら契約分の仕事は果たしたんだ。後は好きにやらせてもらう。」
タタラは宝物庫の扉を力任せにこじ開けると、ずかずかと中に立ち入る。長く保管されているのか埃をかぶっているものもあるが、綺麗に整頓されているようだ。
四方に見える四都久民の歴史的資料の数々に椿は目眩を覚える。永く表の歴史から隠されてきた四都久民の足跡がすぐ手の届く場所に安置されているのだ。考古学を探究する者にとっては喉から手が出るほど手に入れたい代物だ。
「えっと、どこだ?…あーこれこれ。ったく、埃被ってんじゃねえか。」
そんな葛藤などつゆ知らず、無造作に宝物殿を粗探しするタタラには貴重な遺物は優しく丁寧に扱って欲しいと苦言を呈したいほどだ。
やがてタタラは目当ての品を探し当てたようで、鞘に収まった一振りの剣を引っ張り出してきた。
埃で少し汚れた鞘から抜かれた剣は打って変わって錆一つなく、丁寧に手入れされている。
「これはかみさんの剣だ。」
そう呟く彼の表情は慈愛と寂寥を帯びている。そして少しの間その美しい剣を眺め、不意にその柄を椿へと差し出す。
「ほらよ。」
「えっあっ…え、なんで私に?」
「俺は腕がこんなだからな、嬢ちゃんにはやってもらいてえ仕事があんだよ。」
「仕事、ですか。」
「そう警戒しなさんなって、俺も餓鬼共をみすみす死なせるつもりはねえ。」
椿は訝しむ。この男は仕事だと言って実の娘であるシキの行く手を阻んだのだ。結果的に椿が大怪我を負ったとはいえ、死人は出なかった。しかし彼の太刀筋は間違いなく人を殺す剣だった。
そんな悪い大人である彼を情に絆され信用するなどあり得ないことだ。
「あいつが、…サラが捕まったのは俺の失態だ。だが、俺だけじゃあの仙人の計画を止めることはできねえ。…だから頼む、手を貸して欲しい。」
復讐に駆られ、子供を絶望に追いやった張本人を椿は到底許すことなどできない。しかし、椿には大人として、シキの保護者を引き受けた責任がある。
「…あなたは許せません。ですが、シキさん達を助ける最善なら、…私はあなたの手を取りましょう。」
椿は差し出された剣を受け取り、刀と共に腰に差した。肋の折れた身体は尚も動くなと悲鳴を上げている。だとしても、全てを賭けてナギを救い絶対にシキを無事に連れて帰ろう。それが大人の義務なのだから。
◆
刃が肉を裂き、体内に侵入するそのあまりの痛みに、手拭いを噛むその口の端からも血が滴り、幼気な少女の苦痛に耐える呻き声は罪悪感と焦燥感を増長させる。
突き刺した傷口からは血と共に生臭い少しぬらついた液体が溢れ出る。そのまま更に奥へと突き刺すと、もう一度嫌な感触が手に伝わり、椿は不快感に顔を歪ませた。
それは胎内で激しく暴れたが、すぐにピクリとも動かなくなってしまった。
拙い知識で大きな血管を避けたのが功を奏したのか、剣を抜いた切創からの出血は然程でもない。すぐに持ってきていた応急処置セットから取り出した包帯や手拭いできつめに縛り、止血をした。
「サラさん、もう少しの辛抱です。」
「お願い…します…。」
抜き手のように細めた手を少女の綺麗な下肢の間に当てがい、外壁を傷つけないよう、焦らずゆっくりと丁寧に内部へ侵入する。肉壁を押し広げるたびに聞こえる苦悶の呻き声に、椿の意思は大いに揺らいだ。
「私の…事は、き…気にしない、で…。ユイ様の、妹分は、だ…伊達では、ありません…ので。」
「…絶対に、死なせはしません!」
上腕に差し掛かるまで侵入すると、行き止まりに辿り着いた。その奥にある最大限に開き切った内臓の入口を手探りで探し当て、そこから少しだけ顔を出す異物を鷲掴んだ。
滑りを帯びる体内では、思うようにその異物を引き上げるのは難しい。椿が引っ張るのと同時にサラが息むと、異物は肉壁をこじ開けて少しずつ前進する。それは既に体力が限界を超えているサラにとって過酷なんてものではない。
絶え間なく続く地獄のような激痛に抗い、必死に息むたび意識が途切れそうになる。いっそのこと気を失ってしまえば楽になれるのかもしれない。そうなってしまえば腹のものを出すことが出来ず、まず助からないだろう。
しかし、心から敬愛するユイが命を賭けたのだから、死ぬことだけは絶対にできない。サラにとってのユイは、他の何もかもを差し置いて、自らの生き死によりも優先されるのだ。
「ユイ…様…ッ。」
一際大きな苦痛を前に、サラは無意識にその名を呼ぶ。そうして一際強く下腹部に力をこめる。
ゴリ、と嫌な音を立てサラの意識は暗転し、同時に大量の血と体液が混じった生臭い液体と共に椿が掴んだ何かが体外へと放り出された。
「サラさん!…サラさんッ!」
ぐったりと虚ろに項垂れるサラに血の気が引いた椿は、すぐに彼女を抱き抱え、その名を叫んだ。
手足は冷たく顔色も悪いが、辛うじて浅い呼吸をしていた。予断を許さない状態だが、その少女は確かに生きている。その事実に椿は安堵と重圧からの解放にへなへなと力無く腰を抜かしてしまった。
その気の緩みに隙が生まれてしまった。
殺気に気が付いて椿が振り向いた時にはもう遅かったのだ。
サラの体内から取り出した其れは、人の形をしているだけの怪物だった。体外から剣で突き刺した頭から腹にかけて不恰好に崩れており、その傷は人間ならば致命傷のはずが、しかし未だ微かに蠢いている。そして人間の形が保てなくなったのか少しずつグズグズに崩れ、原型を留めない。
しかし崩れ落ちる刹那、傷口から飛び出した鋭利な触手が椿の眼前まで迫っていた。自らを刺し殺した相手に同じ傷を負わせようと、頭頂部から喉を貫き、心臓を貫かんと、最後の怨嗟を振り絞るかのように。
「…え?」
次の瞬間、横に突き飛ばすような衝撃と肉を貫く厭な音、そして生暖かな何かを浴びる。反射的に瞑った目を開くと、触手はすぐ隣に逸れていた。
「…よう、無事か?」
「タタラさんッ!?」
椿を庇った彼の腹部を穿った触手はそこで力尽きたのか、形を保つことが出来なくなり、ただの泥に成り果てる。
ぽっかりと空いた風穴からは止めどなく血が溢れ出ており、さしもの四都久民といえどそれは致命的に見える。
「ナギさん!すぐに彼を背負って走ってください!」
「…この馬鹿がッ!こんな老耄なんぞ放っておけ。餓鬼ども優先しろ!」
怒号が洞内を反響し、狼狽えてしまった椿は自らの目的を思い出した。ここで選択を間違えてはならない。深呼吸を一つ、心を鬼に、冷静に判断する。
「…ナギさん、サラさんを頼みます。シキさんは私が。」
「…わかったの。おじさま、すぐ迎えにくるからね!」
「おう、…頼んだぜ。」
サラを背負ったナギが風のように走り去ってしまうのを見送ると、痛む身体に鞭を打ち、ぐったりと項垂れるシキを担ぎ上げる。
シキは動けないほど弱っているが辛うじて意識があるようで、弱々しくも唸るような声としがみつくような動きを見せ、椿は少しの安心を覚えた。
やがて完全な静寂を取り戻した本殿で、タタラは腹部の痛みと次第に身体が冷たくなっていく感覚を覚え、あまり長くない事を感じていた。
子供達には格好つけて見せたものの、それで死んでいては世話ないというものだ。彼とて死ぬつもりなど毛頭なく、いかにして命を長らえさせたものかと思案する。
仮に生きながらえたとしても、長くはないだろう。仙人との契約で植え付けられた混沌の泥の侵蝕はもう始まっている。じきに身体を全て喰らい尽くし、魂さえも永遠に混沌の一部と成り果てるだろう。そうなる前にユイの神威に貫かれたかったが、その願いも今となっては叶うことはない。
ふと、傍でズルリと蠢く音が聞こえ見やると、完全に形が崩れ泥と肉塊が混じったような何かがまるで縋るかのように近づいていた。
「はは、そうかよ。お前も、死にたくねえってか…。」
巫女の腹から産まれ落ちるはずだった災厄は見る影なく、しかしそれでいて尚、無様にも生きながらえようと足掻いている。
「奇遇だな、俺も死にたくねえ。せっかく娘に会えたんだ、こんなところでくたばってたまるかよ。」
不定形はぐつぐつと沸騰したように膨れ上がり、その体積を増大させる。
「だからよ、死に損ない同士仲良く生きながらえようや。」
程なくしてそれは大口を開け、男を飲み込んだ。
◆
後日談。
鍾乳洞をなんとか抜けた椿はそこで力尽き、崩れ落ちた。戦闘による極度の緊張状態で分泌されていたアドレナリンの作用が終わったらしく、少し体位を変えようと身を捩るだけで耐え難い激痛が全身を襲う。せめてスマートフォンの電波の届く場所まではと思っていたが、どうやらここが限界らしかった。
椿は朦朧とし始めた意識を手放すまいと気を強く保つが、疲労と激痛に徐々にそれも難しくなってきた。
側を見ると、シキは静かに寝息を立てている。いつのにか痣もほとんど消え、苦しそうな様子も落ち着いているようだ。その規格外な生命力に今は安心して眠ることができそうだ。
意識を手放す直前、ぼんやりと誰かが近付いてくるのを見た。しかし椿は消えゆく意識を引き戻すことはできず、そのまま眠りに落ちた。
そして次に目を覚ましたのは丸一日後。椿は見慣れない病室で、治療を受けた状態で寝かされていた。
折れた肋をバンドで固められ、ほとんど動きが取れない。それに寝たきりだったらしく身体の節々が固まっており、少し身を捩ると筋が張ったような痛みが走る。
「やあ、門矢さん。お目覚めだね。」
「やっほー、つばきん!」
病室に入ってきた見知った二人を見て、椿はようやく自分が今どこにいるのか理解した。一人は東雲総合大学病院院長の息子、黒井奈都。もう一人軽薄に声をかけた女性は内科医で椎名千歳。二人とはかねてよりの知り合いであり、坂本雄一郎と共に今回の御鶴来岳行きの引率を頼んできたのも彼らなのだ。
「…みなさんは無事ですか?」
「ああ、心配しないで。シキも四都久民二人も無事だよ。」
「サラたんは治療中だけど、意識は戻ってるよ。しーちゃんとナギたんはちょっと元気すぎるくらいで困ってるんだよねー。なんなら君が一番重体だね。」
「そうですか…。」
椿はほっと胸を撫で下ろすと同時にタタラの安否が気になる。名前が上がらなかったという事は、彼は病院には搬送されていないのだろうか。もしそうであるならば、私を庇って致命傷を負った彼は助からなかったのだろうか。もしそうだとしたらと考え、椿は無力感に奥歯を強く噛み締める。
「シキから聞いたよ、君の助けがなければ二人を助けられなかったってね。これは謝礼は弾まなくてはいけないね。」
今の椿には素直に報酬を受け取る気にはなれない。それに元々シキに同行したのも報酬の為などではない。単に四都久民の遺跡調査に興味をそそられただけに過ぎないのだ。
「サラさんとナギさんは、今後どうなるのですか?」
「孤児だからね、シキと同じだよ。うちの児童養護施設に入ってもらうことになるね。」
「そうですか。では、謝礼は全てお二人に寄付します。」
「いいの?かなり大きな額になるけど。」
「元はと言えば私の判断で連れ帰った子達ですから、少なくともあの子達が独り立ちするまでは責任を持つべきでしょう。」
幸い二人ともシキの教え子で剣士だ。椿も道場を離れるつもりはなく、面倒を見るくらいの事ならできるだろう。
「それならいっそ、つばきんが後見人になったらいいんじゃないかな?」
「えっ、私がですか?」
「だって二人が懐いてる成人って君くらいだし、慣れない街暮らしでも親代わりがいたら安心なんじゃないかな。ま、色々めんどーな手続きもあるけど、そこはもちろん僕らも協力するしね。」
確かに、故郷と親を亡くして同じ四都久民もいない児童養護施設での生活ともなれば何かにつけて不安はあるだろう。施設に預けられると聞いて椿は安心したが、果たしてそれで責任を果たしたと言えるのだろうか。椿が二人のために背負える責任とは一体なんなのだろうか。
「…少し、考えさせてください。」
「ま、ゆっくり考えるといいさ。なに、時間なら沢山あるんだからね。」
後見人云々は置いておくとしても、せめてサラとナギがひとり立ちするまではと時間は惜しまないことを、椿は心に決めた。
「ところで私は山中で倒れていたはずなのですが、一体誰が運んできてくださったんですか?」
「ああ、直接本人に聞くといいよ。ちょうど到着する頃だろうし。」
「本人…?」
しばらくすると病室の戸がノックされ、開かれる。その凛と張りのある声に椿は半ば条件反射のように背筋を伸ばし、起き上がった反動で骨折の痛みが全身に走った。
「失礼するよ。…まったく、相変わらず世話が焼ける子だね、椿。」
「あ、天音さん!?なんで!?」
「興奮すると怪我に障るよーつばきん。」
その長身の女性の名は坂本天音。坂本雄一郎の姉で数年前まで夜都賀埜清神社道場に出入りしていたいわば同門。今は海外で宗教過激派によるテロ行為や違法取引などの脅威を取り締まる仕事をしており、多忙な身のはずだ。
「仕事仲間から面倒な後始末を頼まれてね。で、どういうわけかその仕事仲間は消えてるし、椿が首突っ込んで自爆してるし、聞くとこの馬鹿二人も一枚噛んでるようだし。」
「いや、面目ない。」
どうやらこっ酷く叱られたようで、奈都と千歳の目が泳いでいる。
「…あまりお二人を責めないであげてください。御鶴来岳が危険な場所だなんて誰も予想できなかったのですから。」
「まぁ、大方の事情は四都久民の巫女から聞いたよ。まったく、さっさと退散していればよかったのに、子供一人助けるために三人死にかけてどうすんの。…いつも言ってるよね、未知の遺跡にはどんな危険があるかわからないんだから無闇に立ち入ったら駄目だって。」
「いだいいだい、こめかみが痛い!天音さん、ギブですギブ!」
「あまちゃーん、つばきんの傷が開くから勘弁してあげてー。」
拳骨がこめかみに刺さり、椿は悲鳴を上げながら身悶える。以前にも今回のように遺跡探索で痛い目に遭い天音の世話になった事があり、こうやって叱られるのは初めてのことでは無いのだ。
「気になってると思うけど、タタラさんは生きている可能性が高い。」
「っ!?彼と面識があるのですか?」
「まあ仕事でね。というか、後始末を頼んできたのも彼。」
「それで、タタラさんが生きているって…。」
「あくまで可能性が高い、なんだけどね。」
天音が剱楽神社本殿、鍾乳洞の最奥に到着した時には既にタタラの姿はなく、そこにあったのはまだ固まり切っていない血溜まりだけだった。
ナギから彼の状態は聞いていた天音は、正直死体を回収する事になるだろうって思っていたのだが、その後本殿周辺を捜索しても彼はどこにもいなかった。確かに四都久民の生命力は並外れている上、タタラであるならば生還したと考えても不思議ではない。
「そうですか。」
「なんだ、あまり心配してないんだ。」
「私のような若輩者が心配しては失礼にあたるでしょう。…それに、死んだはずの娘さんに会えたんです。あんな所で死んでなどいられませんよ。」
「ふーん。」
彼も椿も死線を駆る武人なのだから、相応の覚悟はしている。彼が死んでいないその可能性だけでも、彼に庇われ命を拾った今の椿の不安を取り除くには十分だろう。
「そうそう、私しばらく東雲に滞在するから。たまに道場にも顔出すよ。」
「えっ、」
「何、いちゃ悪いの?」
「いやー、まさかそんな、天音さんなら大歓迎ですよ。」
冗談じゃない、と椿の背中に冷や汗が伝う。
坂本天音は空手や剣術をはじめ数多の武を修めた武術家だ。そして無類の試合好きであり、付き合わされる椿の体力が切れようとお構いなしで修羅のようにに襲いかかってくる鬼だ。それではせっかくの昼寝もとい瞑想の時間がなくなってしまうどころか、道場に行く方がサボタージュできなくなってしまう。
「さっさと怪我治して道場に来なよ。椿居ないと張り合い無いんだよね。」
「そ、それならシキさんに声をかけておきましょう。」
「四都久民の巫女か、確かに面白いね。そういう事ならユウくんも連れて行こう。確か同級生って言っていたね。」
ーーー雄一郎さん、ごめんなさい。
椿はとばっちりで犠牲になる坂本雄一郎へ申し訳なく思う一方、バトルジャンキーの矛先が逸れた事を安堵するのだった。
東雲学園ジュブナイル ゆうねこさくま @sakumasakusaku
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