禍津神颪 3


 肌にじっとりと張り付くような湿った空気とガスストーブの音、香ばしい焼けたパンと珈琲の匂いに椿は目を覚ました。

 薄い生地越しにぼんやりと差し込む薄明かりが朝露を映し、寝袋から出ている肌は少し冷える。

 スマートフォンで時刻を確認すると午前六時を過ぎた所だ。

 傍には煌びやかな蒼銀髪を持つ四都久民の少女、ナギがすうすうと寝息を立てており、椿の腕を抱いたまま眠っている。かなり体力も戻っているようで、昨夜に比べて随分と血色が良くなっており、四都久民の自然治癒能力の高さには驚くばかりだ。

 夜中はシキと椿は交代で見張りをしていたが、ナギを追っていた何かが出ることもなく、どうやら何事もなく夜を明かすことができたらしい。

 椿はぐっすりと眠っているナギを起こさないようにそっと絡んだ腕を外し、寝袋から抜け出した。

 ナギは少し唸って何かを探すように手を動かしていたが、椿の寝ていた寝袋を手繰り寄せると安心したようにまた抱いて落ち着いた。

 そういえばと、シキも昨晩見張りの交代の時にナギがしっかり抱きついていて抜け出すのが大変だったと言っていたのを思い出して、少しは自分の事も信頼してくれているのかと思うと、椿はなんだかほっこりとした気持ちになった。

 忍足で静かにテントから這い出ると、日の出の時間はとうに過ぎているにもかかわらず外はまだ仄暗く夜めいており、サンダルを履くのも目を凝らしながら苦労するほどだ。

 その原因はまるで彼女らを逃すまいと纏わりつくように湖を取り囲む濃い霧。

 不自然にも境内一帯に霧はなく、その周囲全てを取り囲んでいる。

「おはようございます、シキさん。」

「あ、おはよー椿さん。ちょうど朝ごはんできるとこですよ。」

 フライパンで三人分のベーコンエッグを多めの油で焼いており、テーブルにはコンソメスープとバターたっぷりの焼けた食パンには昨日余っていた山菜をマヨネーズで和えたものが乗せられ、後はベーコンエッグができるのを待つばかりだ。

「すごく豪華な朝食ですね、キャンプでこんなに美味しそうな食事ができるなんて思ってませんでした。」

「あはは、そんな大袈裟なー。椿さんだって野営はよくやってるんじゃないですか?」

 大仰に目を輝かせている椿に、シキは何だかむず痒く思い、こんなに喜んでくれるならもう少し手の込んだ料理を作ればよかったと少々後悔した。

「私達のフィールドワークは発掘や調査がメインなので、実は食事はインスタントで簡単に済ませることが多いんです。それに、私は料理なんてからっきしですし、チームの皆も似たようなものなんですよ。」

「えー、それじゃあ元気でないよー。じゃあ、今度私も連れて行ってくださいよ。おいしいご飯作ります!」

「えっ、本当ですか!?絶対誘います!」

 史跡調査のフィールドワークは過酷だが、その点シキなら心配はない。それに実際、あまりに味気のない食事にはほとほと飽々していた所だ。思わぬところで料理長を手に入れた椿は、内心ガッツポーズをした。

「シキおねえちゃん、椿おねえちゃん、おはようございますなの…。」

 そんなこんなしていると、テント入り口のジッパーが開く音がした。這い出てきたナギは目を擦り、大欠伸をするなどまだ眠たそうにしている。

 昨晩シキとユイの関係性の話をした結果、ナギはあまりよく理解していないようだったが、どうやらシキのことはユイと呼び分けるようにしたようだ。

「おはよ、ナギちゃん。お寝坊さんが早起きなんて珍しいね。」

「えへへ、おいしそーな匂いがしてきて、お腹すいちゃって…。」

 丁度配膳が済んだところで、キャンプ用のテーブルの上には食べやすく切り分けられたサンドイッチとコンソメスープが食欲をそそる香りを放っている。

「わあ、とってもおいしそう!これシキおねえちゃんが作ったの?」

「そうだよー。スープはおかわりもあるからいっぱい食べてね。」

「やったあ!」

 ナギはお行儀良くいただきますをすると、早速大口を開けてサンドイッチを頬張る。口の周りに半熟ゆでたまごの黄身をべったりと付け、満面の笑みだ。

「おいしい!シキおねえちゃん、これすっごくおいしいよ!」

「ええ、本当に。シキさんはお料理がとても上手ですね。」

「あはは、ありがとうございます。あ、ナギちゃん口に黄身ついちゃってるよー。」

「わ、本当なの!」

「ナギさん、こっちを向いてください。」

 懐から取り出した手拭いでナギの口の周りを拭う。しっとりと柔らかな肌はまだ幼く、やはり彼女はまだ甘え盛りな少女なのだと実感した。

「椿おねえちゃんありがとう!えへへ、やっぱりおねえちゃんに似てるなあ。」

「あはは、確かに。ちょっと似てるかも。」

「そうなんですか?えっと、サラさんでしたっけ。どんな方なんですか?」

「えっとねー、いつもふわふわしてて、とっても優しくて、あとね、すっごく頭がいいの!」

 ユイの記憶にあるサラは、おっとりとした性格で狩りはあまり得意ではなかった。その代わり、歳不相応に肝の座った精神と器量の良さが備わっていた。

 …器量の良さという点では椿とは似つかないと思った事は言わないでおこう。

「おねえちゃん、お料理とっても上手なんだよ!…あれ、そういえば、ちょっと味が似てるかも?」

「あ、やっぱりわかる?実はサラの料理をお手本にしてるんだ。」

「そうなの?じゃあおねえちゃん、シキおねえちゃんのお料理の先生なの!」

「あはは、そうだね。サラは私の先生だ。」

 ユイはサラの作る料理が好きで、サラが当番の時は率先して狩りに出てはこっそりと大物を獲っていたものだと懐かしく思い出していた。

 朝食を終えると、椿はナギと共に手早くキャンプ道具の撤収を済ませた。その間シキは準備するものがあると片付けを任せてその場所を離れていたが、しばらくすると幾つかのペットボトルいっぱいに水を汲んで戻ってきた。どうやらわざわざ鍾乳洞近くの湧水まで行って大量の水を持って帰ってきたらしい。

「それにしても、凄まじい霧ですね。」

 一向に晴れる気配のない濃霧。これでは山中に入るだけでも遭難の危険が高い。

「これ普通の霧じゃない。黄泉の穢れが混じってます。霧の中じゃ私の目と鼻は利かないし、穢れを吸い過ぎると昨日のナギちゃんみたいに弱っちゃうだろうな。」

「それでは尚のこと山に入るのは難しいのではないですか?」

「いいや、むしろ山から出る方が難しいと思います。試してみてもいいですけど、この纏わりつく厭な感じ、私達を逃がさないつもりだろうから。」

「そうですか。」

 椿は思案する。シキが言っている事が正しいならば、逃げ道を塞がれている今むしろ山から降りる選択をする方が悪手。それに怪我人のナギも戦闘できるほど驚異的な回復力を見せ、瘴気の影響さえなければ元気そのものだ。

 しかし、その瘴気こそが行く手を阻む最大の障壁なのだ。

 椿はともかくシキやナギは鋭敏な感覚を持つ四都久民であり、五感を犯してくる瘴気にはめっぽう弱い。なんの対策もせずに瘴気を浴びればすぐに動きは鈍り、徐々に弱ってしまうだろう。

「山全体に霧がかかっているのに、境内には瘴気は入ってきてない。私達を捉えたいならそんな回りくどいことしないでいいと思いませんか。」

「もしかして、剱楽神社に瘴気は入って来られないのですか?」

 シキは肯定するようにゆっくりと頷いた。確かに、神社の周りを瘴気が取り囲んでいるというより何らかの力で瘴気が境内に入ってこれないのだと考えた方が自然だ。

「御役目の巫女は禍津日神の瘴気の中で神楽を舞い続ける為に、湖で禊をするんです。剱楽湖には禍津日神を討ち倒した鶴来比売命とその神器を清めたって神話があって、実際湖の水には不浄を寄せ付けず清める力があるんですよ。」

 持っているだけで幾分か瘴気は加減され、飲む事で体内の瘴気を浄化する。だからシキはペットボトルいっぱいに水を汲んできたのだ。

「あとは神降しが出来たら一番いいかな。まあでも神事なんて本当に久しぶりだから、鈍ってないといいんですけど。」

「それは大丈夫なの!」

 自信なさそうなシキとは裏腹に、彼女へ揺るぎない信頼を寄せるナギは、まるで確信を持っているかのようだ。

「シキおねえちゃんのあったかい感じ、昔よりずっと強くなってるの。だから心配する事なんて何もないの!」

 人智の一歩外にある神威というものの格を感じ取ることは難しいが、ナギはそんな言葉で言い表せないような感覚や直感に優れている。それは根拠や理論では計り知れないいわゆる第六感と呼ばれるものなのだろう。

「ありがとうナギちゃん。…うん、何だかちょっと自信が出てきたよ。」

 禊をする為、それぞれ白の装いへ着替えなければならない。シキは持ってきていた襦袢、椿も白のワンピース、ナギは洗濯しておいた巫女装束へと着替えた。

「シキさんのアドバイス通り、白の服を持ってきておいて正解でしたね。」

「実は来る前からちょっと嫌な予感がしてて。ごめんなさい、巻き込んでしまって。」

 シキは申し訳なさそうに白状するが、椿にとってさしたる問題ではない。そんなこと、百も承知なのだ。

「とんでもありません。元はと言えば、シキさんに着いて行くと言い出したのは私なのですから。それに、四都久の巫女の神事を生で見られるなんて滅多にあることではないですからね。役得ってものです。」

「まったく、椿さんには敵わないな。湖、結構深い所あるから気をつけて下さいね。」

 シキは黙祷をし、十分に精神を落ち着かせる。

 あたりは水音ひとつ聞こえず全くの無音。その全てが彼女の一挙手一投足へ呼応しているようだ。

 スッと息を吸い込むと、普段の元気な声色ともまた違う力強く張りのある凛々しくそれでいて繊細な声で祓詞を奏上する。


高天原に神留坐す

神漏岐神漏美の命以ちて

皇親神伊邪那岐の大神

建速須佐之男の大神

鶴来比売の大神

筑紫日向の橘の小戸の阿波岐原に

禊祓ひ給ふ時に生坐せる祓戸の大神等

諸々禍事罪穢を祓へ給ひ清め給ふと申す事の由を

天津神地津神八百万神等共に

天の斑駒の耳振立て聞食せと

畏み畏み白す


 祝詞を終えると、素足のまま無言でザブザブと湖に入っていく。ナギは冷水が傷口に滲みるようで顔を顰めていると、椿の手が目の前に差し伸べられ、嬉しそうにその手を取った。

 しばらく進むと、すっかり胸まで浸かってしまうほど深い所まで辿り着いた。

 少し肌寒い秋空の下、湖の水は冷たく澄んでいて、太陽の届かない深奥の闇まで覗けるほどだ。

 自分の中の不快な何かが清らかな水に解けるように消えていく感覚が心地よく、まるで真剣を使った稽古をしている時のように頭はクリアに研ぎ澄まされる。時間をも忘れてしまえるほどの集中に、冷え固まる身体と相反するように精神がこの場所にまだ居たいと渇望している。

 この無音で何もない、時すら止まったような無窮白色の世界。これはまさに、無我の至る最果てだ。

「椿さん、それ以上は駄目。」

 静止の声にハッと我に帰った椿は、シキから腕を引かれ、胴にはナギが抱きついていることに気がついた。そしてすぐ正面は深くなっており、そのまま進んでいると椿は足を取られて溺れていただろう。

「驚いた、よほど神域と相性がいいんでしょうね。でも、それより先は戻って来れなくなるから。」

「戻って来れなく…って?」

「私がここで溺れかけたって話。椿さんならなんでか分かったんじゃないですか?」

 もしシキやナギが止めていなかったら、もしそのまま足を踏み外していたら、もし溺れた事にさえ気づかなかったら。嫌なイメージが脳裏を過り、椿はゾッとして冷や汗をかいた。

「ナギちゃん、椿さんを岸まで送ってくれるかな。」

「はいなの!椿おねえちゃん、行こ!」

 呆けている所をナギに手を引かれ、気づけば随分と岸に近づいている。

 未だ留まっているシキの姿は遠く、椿はハッとして振り返った。

「シキさん!」

 水に浸かる彼女はぼうっと空を見上げて静かに息を吸うと、無音の世界の中でただ彼女の無垢な詩だけが響き渡る。


ヒフミヨイ

マワリテメクル

ムナヤコト

アウノスヘシレ

カタチサキ


ソラニモロケセ

ユヱヌオヲ

ハエツヰネホン

カタカムナ


マカタマノ

アマノミナカヌシ

タカミムスヒ

カムミムスヒ

ミスマルノタマ


 椿はその祝詞でもない不思議な言葉の意味はわからなかったが、なにか心地よい大きな力が渦巻いているような、包み込んでいるような、そんな錯覚を覚えた。

 シキはその後しばらく目を瞑ったまま天を仰いでいたが、ゆっくりと目を開くと、

「ナ、ナギちゃん!迎えにきてー!」

 半泣きでそう叫んだ。



 気がつくと暗闇だった。

 手足は何かに縛られ硬い地面の上に転がされている。

 私は、聞こえてくる滴り落ちる水の音と冷たい鍾乳石の地面にこの場所が剱楽神社本殿の中であると悟った。

 生かされている。その事実を確信した瞬間、脳裏には目の前で蹂躙された両親や村がフラッシュバックされ、絶望感に激しく動悸を覚え、胃の中の物が迫り上がってくる。

 何度か嘔吐を繰り返し、もう出す物がなくなってしばらくすると幾分落ち着きを取り戻したが、同時に疲労が重くのし掛かり、明らかに体力を消費していることに気がつく。空腹はまだしばらく耐えられそうだったが、このままでは脱水で本当に少しも動けなくなってしまう。

 もう諦めようと思った。

 いくら巫女の私が生きていようが、四都久民はもう立ち直ることはないだろう。だって、もう私達の英雄は存在しないのだから。

 あの人が生きていたら諦めなかったのだろうか。私の最も尊敬するあの人ならば、こんな絶望的な状況でも難なく打開してしまうのだろうか。

「ユイ…様。」

 胃酸で焼けた喉から絞り出すように、掠れた声でもう存在しない英雄の名を呼ぶ。大きな苦難に直面した時、私はいつも彼女の名を呼んで勇気を貰っていた。

 そうだ、諦めるわけにはいかない。

 私が死んでしまえば、逃げおおせたはずの片割れがこの絶望を全て背負う事になってしまう。

 それに、あの子は助けを呼んでくると言っていた。それがほんの僅かな希望だとしても、もしかしたら本当に助け出してくれるかもしれない。だからそれまで死ぬわけにはいかないのだ。

 私は微かに残った力を振り絞って、さながら芋虫のように無様に地を這い回った。幸いにもよく聞こえるこの耳は水音の場所を正確に知覚している。

 それからどのくらい地面を這い回っただろうか。実際には然程時間も経っていないのかもしれないが、疲弊と飢餓にぼんやりしている脳では果てしなく思えた。

 漸く水音のする場所に辿り着くと、からからに乾いた喉を潤す為獣の様に顔から水溜りに突っ込み、這いつくばったまま泥の混じった不味い水を啜った。

 これで幾分命を長らえさせる事ができる。そう安心して体力の限界を迎えた私は気絶するように眠りにつくはずだった。

「さながら飢えた獣だな。」

 全身が総毛立ち、私は覚醒を余儀なくされた。

 その地獄の底から響いてくるような低音は鍾乳洞を反響して厭に耳に残る。脳は警鐘を鳴らし続け、溢れ出る脳内麻薬により引き延ばされた時間でフル回転する脳はしかしこれを打開する策を出すことは無い。

「しかし重畳。この程度で壊れては我が渾沌を容れるに能わぬ。」

「あなたは、何者…。」

「バーカ、お前が知る必要ねーよ。」

 一才の気配を感じさせない暗がりから聞こえる声に、私は大いに心当たりがあった。

「タタラ様…ッ!?何故、ここに…。」

「うるせえなあ、質問ばっかかよお前は。大体、ガキの事なんざ俺はどうでもいいんだがな。」

 タタラという軽薄な中年の男は、四都久民の一人であるにも関わらず集落に留まらず外の世界をふらふらとしている風来坊。彼は護り人の役職であり、本来なら巫女を護り、襲撃に対して真っ先に立ち向かわなければならない立場なのだ。

「まさか、裏切ったのですか…!?護り人のあなたが!」

 その糾弾も、風来坊である彼にはどこ吹く風。サラは恨めしくも睨みつけるしかできない。

「鼠が瘴気に入った。」

「へいへい、俺の出番ってことね。」

 彼は面倒くさそうに刃渡りの長い得物を肩に担ぐと、まるで興味なさげに身を翻した。

「待って、ください!お願いです、ナギには手を出さないで!」

「馬鹿かお前、なんで護り人が巫女に手出ししなきゃならねえんだ。」

 ため息混じりに吐き捨てると、彼は最後に一度振り返った。

「…自分の心配だけしてろ。これからお前が味わうのは生温い絶望じゃねえぞ。」

「タタラ様ッ…!お待ちくださいタタラ様!」

 サラの静止は虚しく、彼の気配は暗闇に消えていく。しかし、再び静寂が訪れることはない。

「無力で哀れなる娘よ。渾沌を喰らい、その胎動を受け入れるがいい。」

 その瞬間、私を縛る枷が泡立ち、膨張を繰り返す。それは私の両親を惨殺したものと同じ、あの不定形の泥なのだ。

 膨れ上がった泥は、手首からは上腕部、二の腕、胸部に向かい、足首からは大腿部に絡みつきながら腰に向かって伸びていく。

 次第に泥は無理やり縛り上げるように私を直立させ、全身へと這いずり回り、磔にした。

「な、何を…。ぐうっ…。」

「蒙昧。」

 口腔をこじ開け、泥と共に私の中に何かが侵入する。それを嚥下するや否や強烈な不快感と苦痛を伴い、絶叫し悶絶する私は腹の中から込み上げてくる何かを吐いた。胃の中にはもう何も残ってなどいないはずなのに、その強烈な腐臭を放つ不快な何かは次々へと私の中から溢れ出る。

「黄泉より出し神威の塊。無垢なる因子と黄泉の混沌の両儀に貴様が耐え、太極の片鱗を垣間見るか。」

「や、やめ…」

 刹那、私は悲鳴をあげる暇もなく膨大な泥に飲まれ、それは四肢と五感の悉くを蹂躙し、喰らい尽くし、侵食し、這いずり回り、陵辱した。

 処理しきれないほどに大量の苦痛に脳は既に焼き切れ、幾度となく意識を失いかけるが、何故か覚醒が途切れる事はない。

 叫ぶ事も、動く事も、気絶する事もできず、朦朧とする意識の中で永遠とも思える苦痛を与えられ、いつしか私の心はすっかり折れてしまっていた。



「すごい!全然苦しくないの!」

 禊を終えた一行は、濃い霧の山中四都久民の集落を目指して歩いていた。

 襲撃に備え、シキと椿は帯刀し、ナギは借りたサバイバルナイフを腰に差している。また、各々が湧水で汲んだ水などを背負っている為それなりの重量があり、フィールドワークに慣れている椿はですら小一時間歩くだけで汗を流して心拍もかなり上がっているというのに、四都久民の二人はまだまだ余裕そうだ。

「椿おねえちゃん、大丈夫?」

「ご心配ありがとうございます、まだまだ大丈夫ですよ。ナギさんこそ怪我には障りませんか?」

「うん、元気だよ!」

 元気よく返事をし、ペタペタとサンダルで器用に山道を進むナギは、確かに昨夜死にかけていたとは思えない。

「しかし、目と鼻が効かないのは困ったなあ。」

「大丈夫!ナギ、神社からお家までなら目隠ししても逆立ちしても行けるの!」

「さ、逆立ち?」

 ナギは得意げに豪語し、シキは微妙そうな表情で視線を逸らし頬をかいた。

「昔、ナギちゃんがなんでもユイの真似をしたがるから、ユイが意地悪して難しい事ばかりしてたんです…。」

 なんだか男の子みたいな意地悪をすると椿は内心思っていたのだが、ナギが得意気なのであまり突っ込まない事にした。

「ふふん!ナギね、ユイさまがやってた事、もうぜーんぶできるようになったもん!」

「凄まじい身体能力ですね…。四都久民の方々は皆さんがそうなんですか?」

「あはは、流石に私とかナギちゃんほどなのは珍しいですよ。」

 視界も効かない中険しい山道を歩き、登山道から大きく逸れた獣道を行く。大きな岩を登り、やっと人が降りれられるような急な崖を降り、渓流を渡る。確かにこれなら登山者の目に触れることもないのだろう。

 幾つか鳥居を潜り、四都久民の集落に到着したのは山を登り始めて二時間ほど経った頃だった。

 山道として整備されているわけでもないにも関わらず、道中ナギが道に迷う事はなく、視覚と嗅覚を使わずに正しい道へ導く事ができた。ナギがいなければ、シキの昔の記憶だけでは辿り着く事はできなかっただろう。

「とうちゃーく!」

「すごいやナギちゃん。こんなのユイにだってできないよ!」

「えへへ、そう?そう?ナギえらい?」

「えらいえらい!」

「あははは!シキおねえちゃん、くすぐったいの!」

 ナギは蒼銀の髪を揉みくちゃに撫で回される。シキはナギに対して相当甘いのだと道中で椿は完全に理解していた。

 集落に人の気配はなく、静けさだけが満ちている。背景を知らなければ住人の集団失踪を疑うような光景だ。

 おそらく、最悪の状況をできるだけ考えないように、シキは明るく振る舞っているのだろう。それを知ってか知らずか、ナギも静まり返った集落を目の当たりにして、それについては何も口にしない。

「まずは古老様にご挨拶しないとね。」

「じゃあナギが案内するの!こっちだよ!」

 ナギに引き連れられ、四都久民集落を縦断する。奥へと足を進めるたびに、人気ない集落の不気味な違和感に、胸騒ぎは強まる一方だ。

「ユイさま!」

「…ッ!?」

 ナギの悲鳴に数瞬遅れて殺気に気がつき、瞬時に切り替わったユイは、ナギと共に咄嗟に後ろへと倒れ込むように地面に身を投げる。そして地に着く刹那、今し方自分の身体が起きていた場所に刃物が通り過ぎた。

 危なかった。もしナギがいなければ、反応が遅れ大怪我をしていただろう。

 ユイは額から流れる嫌な汗が滴り落ちるのを感じながら、闇討ちをしてきた相手を凝視した。

 やがて霧の中から現れたその姿は、身の丈以上の野太刀を肩に携えた長めの黒髪を後頭部で一つに結ぶ四都久民の中年男性。小柄な体格だが余計な脂肪と筋肉を削いでいるとも言える戦士の風体をしている。

 そしてその姿にユイは大いに見覚えがあった。

「あれ、親父?」

「は?ユイか、お前?」

 四都久民の護り人であるタタラは、ユイの実父である。

「うーわ、マジでユイじゃん。ったく聞いてねえぞ…。それにしても、デカくなったなあ。…本当に。」

「おい、どこ見て言ってんだぶっ殺すぞクソジジイ。」

 癪に触る人を煽るような軽薄な態度と、少し老けたとはいえその姿はユイの記憶にある父に違いない。

「にしてもお前、ミサに似ていい身体つきになったなァおい。口の悪さは俺に似たか?」

「知るか、実の娘に欲情してんじゃねえよ気持ち悪い。つーか、母様は私が産まれてすぐ死んだんだろ。」

 その軽薄なやり取りの間も、椿は居合の姿勢を崩すことができない。親子であるにも関わらず、二人とも一切気を抜く事はないからだ。

 むしろ、妙な動きをしようものなら即座に斬り捨てようと、柄に手を当て互いに殺気立っているのだ。

「タタラおじさま!おねえちゃんは!?」

「おうおう、相変わらず元気いいなお前は。」

 そして父娘の物騒な殺気を幾許か和らげたのはナギだった。本来の目的を思い出したユイは警戒を続けつつも臨戦態勢を解く。

「安心しろよ、あいつは本殿だ。まだ死んじゃいねえが、助けるなら急いだ方がいいぜ。」

 サラは生きている。それが嘘か真か断定できないが、彼女がまだ生きている可能性が上がったことに、少しばかり心の余裕が生まれた。

「もっとも、俺を出し抜けたらの話だがな。」

 そして彼は更に集中を深め、殺気立つ。なるほど、彼の役割は本殿で行われている何かを邪魔させない為の用心棒なのだろう。

「そんな…。ナギ、タタラおじさまとは闘ってほしくないの。なんで仲良くできないの?」

「参ったなこりゃ。」

 しかし、いくら精強な四都久民の戦士といえど、子供に詰められると形無し。タタラは困ったように頭を掻いた。

「一応聞いとくけど、ユイ、その小娘を置いて引く気はあるか?」

「あるわけないじゃん。さっさとぶっ飛ばしてサラも助ける。」

「ははは、だよな。」

 ユイは再び腰に差した小太刀の柄に手を添える。

 あの六尺はある野太刀を躱して懐に飛び込まなければ刃は届かない。ならば野太刀が振られるより速く駆けるか、斬撃を躱して潜り込むか。

「お待ちください。」

 睨み合っていた二人に水をさすように凛と声を張った。集中を乱された二人の視線が集まり、その暴風のような殺気を椿は自然体で受け流した。

「ユイさんのお父上とお見受けします。無礼を承知で申しますが、どうかその勝負、私に譲っていただきたくーーー」

「は?誰お前。」

 間髪入れず踏み込んで繰り出されたタタラの凶刃。その踏み込みの速さと重さはナギを凌駕し、技巧はユイと比べても遜色無い。

 しかし、椿の神速の居合により難なく往なされた。

「申し遅れました。夜都賀埜清神社道場にて微力ながら剣を教えております、門矢椿と申します。若輩ですが、何卒見知りおき下さい。」

「チッ、お前も強え奴かよ。やってらんねえなおい。」

「ユイさん、あなたはナギさんと共に先へ。一刻も早くサラさんを助けてあげてください。」

 野太刀の間合いへ距離を取ろうとする後の先、椿は一足脚に踏み込む。四都久民特有の身体能力を活かした間合いも、詰めてさえしまえばその優位は無いもの同然だ。

 互いの斬撃が掠れども、互いに一歩も引かない。

 間合いを詰めるという事は互いの刃が届く距離。刃が届くという事は刃が同士が競り合えば自ずと力が強い方が優位に立てる。そして片や細身の女性、片や四都久民の男の戦士。力の差は語るまでもなく明白だ。

 しかし、椿は押し負けるどころか嵐のような斬撃のその全てをしのぎ、いなし、かわし、後退に転じる無拍を潰す。

 まるで筋力の遠く及ばない敵と何度も死線を渡り合ったことがあるような一寸の狂いもない見事な剣筋にタタラも舌を巻くほかない。

「ったく…絶対死ぬなよ、ツバキ!それとクソ親父、後で絶対にボコすから覚悟しておけよ!」

「どっちも死んじゃやだよ!椿はおねえちゃん!タタラおじさま!」

 ナギの声掛けに、気を散らすどころか椿はさらに集中を深める。自らの剣よりも数段速い相手の剣線すら鈍足に見えるほどに。

 しかし、それでもなお足りないのだ。あの湖で体感した無音の境地には。

「…困りましたね。あなたをただ斬って捨てるわけにはいかなくなってしまいました。」

「ははっ!そうかよ、ありがてえこったなァ!」

 超近距離の打ち合いが続いたのは、シキとナギの足音が聞こえなくなるまでの十数秒間だが、その間数度刃が肌を掠り、互いの服に赤く染みを作る。圧倒的に速度で劣る椿は、至近距離からさながら小太刀の様に縦横無尽に襲い来る野太刀の刃を見切り、必要最低限の身のこなしで躱し、大振りの一撃の間隙を縫う様に刃を通した。

 長い前髪の奥に隠れた瞳はただの一度も瞬きをせず、まるで手の内を見透かしているかの様な立ち回りに、一貫して攻め続けているはずだというのに行動を操られている様な錯覚に陥る。

 しかし、その打ち合いは唐突に終わる。今まで一向に下がらせなかった椿が、後退を追わなかったのだ。

「はは、そうかよ。そりゃあそうだよなァ!」

 椿は大量の汗を流し、肩で息をしていた。体力が限界だったのだ。

 幾度も剣を受け止めた手は痺れてほとんど感覚を失い、地を踏ん張る足は覚束ない。さらには過集中を続けた脳は焼け切れる寸前で、熱を持ち頭痛を伴う。それに対して目の前の相手は自分よりも豪快に動き回っていたにも関わらず体が熱ってはいる様だが、丁度ギアが入ってきた程度で基礎体力の差は歴然だ。

「さっきは侮って悪かった。お前は確かにユイが認めるだけはある戦士だった。だがな、四都久民の力を知らな過ぎだ。」

 一度下がってしまえばあとは野太刀の間合い。威力の潰されない剛剣でじっくりと攻める事ができる。

「恐縮です。ですが、たかが間合いが開いただけのことです。」

「そうかよ!」

 長い刀身の野太刀を片手で豪快に振るう。彼の本来の戦闘スタイルは、四都久民の持つ筋力を遺憾無く発揮する。片手であるにも関わらずその鍛え抜かれた肉体により遠心力を完全に制御され、しなる刀は軌道が読みづらい。そして筋力に加えて刀より刀身が長いおかげで質量と遠心力が上乗せされた剛剣は受け止めた上から叩き潰す。

 刹那、金属のぶつかる轟音が響いた。

 吹き飛ばされた椿は背後の岩盤に打ち付けられる。

 肺の空気は全て吐き出され、呼吸が激しく乱れる。さらにはぶつかった瞬間嫌な音を立て、激痛が襲う。おそらく肋骨が折れたのだろう。

 千載一遇の機会を、しかしタタラは追わなかった。いや、追えなかったのだ。

 重い音を立て、鮮血と共に野太刀は地面に転がり落ちた。

「クソが…!」

 右腕から血を流す。椿は刀を受け止める瞬間刀身を翻し、威力を殺しつつその威力を利用して小手を打ったのだ。間一髪気がついて柄を離さなければ、今頃右手は無かっただろう。

「惜しい、ですね…。斬り落とした、つもりだったのですが…。」

 痛む身体を無理やり起こし、刃を向ける。まともに剣を振るえないのは互いにそうであったが、右手で剣を持つことができないだけのタタラと比べて、剣は持てても満身創痍でほとんど動けない椿はもはや満足に闘うことはできない。

「さて、…どう、しますか。どちらかが死ぬまで、死合うと言うならば…望む、ところです。」

 これは剣術試合ではない。肋が折れようが腕が落ちようが、どちらかが死ぬか双方闘いを止めるまでは終わらないのだ。

「馬鹿言え。止めだ、止め止め!その物騒なもんとっとととしまっちまえ。」

 しかし、刃を向けられて野太刀を拾う事も身構える事もせず、ひらひらと左手を振るう。

「え、やらないんですか?」

「はぁー?何言ってんだお前、ったりめえだろ馬鹿。俺は剣握れねえしお前は満身創痍。相手は綺麗な姉ちゃんで別に恨みがあるわけでもなく俺は仕事も果たして正直集中も切れた!闘う意味あるか!?俺は面倒な闘いはしない主義なんだよ、わかったかこの野郎。」

「き、綺麗だなんて、そんな…。」

「マジか、ちょろいなこの姉ちゃん…。」

 呑気に頬に手を当てて恥ずかしがる椿に、ただ困惑して眉をひそめるのだった。

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