禍津神颪 2


「お前、まさかナギか!?」

 ユイは手にした鉈を即座に手放し、崩れ落ちた少女が地面に倒れ伏す前に、抱き止めた。

 月明かりを写すような蒼銀の髪は見る影なく泥に塗れ、衣服に滲む血と汗が少女が非常に緊迫した状況にあることを物語っている。

 どうやら気を失ってしまったようで、ユイの呼びかけに返事はない。しかし、辛うじて息はあるようで、胸に耳を当てると確かに心臓の鼓動が聞こえたため、ユイはほっと胸を撫で下ろした。

「ツバキ、手伝ってくれ。」

「えっ、あっ、はい、わかりました。」

 ユイの指示に慌てて救急セットを持って来る椿だったが、その真剣な表情に喉の先まで込み上げた疑問は一旦胸の内に飲み込んだ。今は目の前に横たわる傷だらけの少女を手当する事が最優先だ。

 二人とも応急処置には手慣れたもので、少女を担いでテント内に運び込むと、協力して汚れた衣服を脱がせ、てきぱきと濡れたタオルで身体を拭いていき、傷口を洗浄する。

 幸いにも深い傷は負っていないようで、浅い擦り傷や切り傷ばかりなのだが、既に化膿していて痛々しく腫れている箇所もある。それに体調が良くないのか血色が悪く、服には吐瀉物もついていた。

 傷口に滲みるのか少女は顔をしかめ、朧げに目を覚ました。その際に少しの水を飲ませると、幾分回復したのかそのまま再び眠ってしまうのだった。

「あの、つかぬことを伺いますが、もしかしてあなたがユイさんですか?」

「ああそうか、ツバキの前で出てくるのは初めてだったな。悪い、驚かせた。」

「いえ、こちらこそこんな時にすみません。」

 椿は処置がひと段落して、ようやくその疑問を吐き出す事ができたのだった。

「それよりこの子、ユイさんのお知り合いですか?」

「ああ、多分そう。記憶にある頃よりも随分と成長してるみたいだけど。」

 それに、なにせ一度失った昔の記憶なのだ。面影が見えるとはいえ当時の少女は物心ついたばかりの幼児であったため、見違えるほど成長している。

「この巫女装束、やっぱり私の後を継いでたんだな。」

 少女の着ていた元は純白だったであろう袴をユイが見まごうはずもない。それは、四都久民に代々伝わる巫女の装束だった。

 ひと通りの傷の手当てが済むと、シキが寝間着にと持ってきていた浴衣を少女に着せ、マットと清潔な布を敷いてテントの中で寝かせることにした。

「怪我自体は思ったほど酷くありませんが、化膿と熱が出てますね。怪我には抗生物質の軟膏を塗っていますが、定期的に包帯を替える必要がありそうです。」

 巻いたばかりの包帯には、既に黄色のシミが滲んでいる。脇に挟んで計測していた体温計の数値は四十度を少し超えており、額に触ると明らかに熱を発している。クーラーバッグから取り出した保冷剤を氷枕にしているが、額には汗が滲み辛そうな表情だ。

「ユイさん、夜が明けたらひとまず病院へ連れて行きましょう。ここは圏外ですし、山を降りて黒井さんに連絡もしたいですね。」

「…ああ、そうだな。」

 余程その少女の傷付いた様子にショックを受けたのだろう。椿の話を聞く態度もどこか上の空で、ひと通りの手当は済んだにもかかわらず、心配そうに少女の様子を眺めている。

「この子、ユイさんにとって大切な方なんですね。」

「…まだ小さかったのに厳しくしてばかりで、大して甘やかしてやれなかったんだ。もし覚えてても嫌われてるだろう。」

「そんな事ないですよ。きっと彼女もユイさんだから助けを求めてきたんです。」

 その証に熱に魘されているが、ぼんやりとした意識の中にいる少女の表情に警戒は見えない。すぐに倒れた為こちらの姿を視認したのも一瞬だったはずだが、それでももしかするとユイだとわかる何かを感じ取っていたのかもしれない。

「焦る気持ちはわかります。それに、集落の安否が気になるのは私も同じです。この子の安全を確保したらすぐにでも集落に向かいましょう。」

「そうだな。…悪い、気を遣わせた。」

「いえいえ、お構いなく。こう見えてチームプレーには自信あるんですから。」

「ああ、頼りにしてるよ。」

 魘されながらもすうすうと寝息を立てている少女のそばで献身的に看病をする椿に、ユイは心強さを感じて少しばかりの安心感を得た。

 思えば彼女ほどに背中を預けられるほどの達人で、尚且つ野外活動でも頼りになる人物などそうはいない。

「じゃあ、頼りにしてるついでに頭冷やしてくるからさ、看病頼める?」

「もちろんです、任せてください。」

 秋のつるべ落としとはよく言ったもので、ユイがテントから出る頃にはもうすっかり夜の帳が下りてしまっていた。気温は陽が落ちると一気に冷え込み、吐く息も白い。

 つい先ほどまで煌々としていたはずの焚き火は熾となってしまい、灯火としては頼りなく宵闇を照らしきれずにいるが、すっかり冷えてしまった食材を温めてなおすにはちょうど良い塩梅だ。

 ぼうっと火を眺めていると、ユイはある違和感を覚えて耳を立てた。

 周囲の湖や森林は静寂に満ちており、秋の虫の音だけがやけに騒々しく聞こえてくる。

 さらに目を閉じ、鋭敏な感覚を更に研ぎ澄ませばその違和感は確信に変わる。

 やはりそうだ、御鶴来岳に到着して水鳥すら見かけず、不気味なほど動物の気配を感じないのだ。そして、仄かに鼻につくこの感覚には厭というほど覚えがあった。

「シキ、悪いけどしばらく一人で考えさせてくれ。」

 言うや否や表層意識に出ていたユイは深層へ潜り、シキと入れ替わる。

「まったくもー、私にもわかるようにちゃんと教えてよー。」

「どうかしましたか?」

「わっー!?」

 驚いて振り返ったシキの目の前には心配そうな面持ちの椿がいた。

 シキは少し独り言を聞かれてしまったかもしれないと思うと何やら少し恥ずかしくなり、誤魔化すように目線を泳がせた。

「なんだ椿さんか、びっくりしたー!」

「驚かせてすみません、この子がお腹を空かせているようでしたので。」

 おずおずと椿の後ろで隠れるように蒼銀髪の少女が顔を出している。幾分血色も良くなっており、外傷に巻かれた包帯が痛々しいが体調はかなり快復しているらしいところがさすが四都久民と言ったところか。

「あ、目が覚めたんだ、よかったー!」

「あの、えと、…お、お久しぶりです、なの。ユイさま?」

 少しの逡巡。ユイが出てくる気配はない。

 さては逃げたなと確信するが、彼女に応える気がないのなら仕方がない。

「うん、そうだよ。久しぶり、ナギちゃん。」

「ユイさま…ッ!」

 シキの胸に飛び込んだナギは堰き止められていたものが決壊したかのように大泣きしてしまった。

 落ち着くまで胸の上で咽び泣くナギの頭を撫で、シキは過去の記憶を思い出していた。

 確かナギは気が弱く泣き虫で巫女修行ではいつもこうやってめそめそと泣いていたものだ。

 じっとりと汗ばんだ頭を撫でると、額はまだ熱を帯びているが、解熱剤が効いているのかさっきよりも落ち着いているようだ。

「長老さまからユイさまが死んじゃったって聞いてたけど、ナギ絶対嘘だってずっと信じてたもん…!」

「うん…心配かけてごめんね、ナギちゃん。」

「ううん、ユイさまは“さいきょー”で“てんさい”の巫女だから絶対に死んでなんかないし、ナギたちを助けに来てくれるって信じてたの!」

 その真っ直ぐな全幅の信頼にシキは心の奥がちくりと痛み、彼女を抱く手が少し力む。

「でもユイさま、なんだかちょっと変わったの?ナギがちっちゃい頃のユイさま、もっと厳しかったような…。」

「あー、はは、そりゃそうだよね。説明がちょっと難しいんだけど、厳しい方の私もちゃんといるよ。ナギちゃんは昔の私の方がよかった?」

「ううん、どっちも好き!ユイさま大好き!」

 ナギの屈託のない様子に、シキは安堵と共に少しの後ろめたさを覚えた。

「ほら、やっぱり慕われているじゃないですか。」

「あ、あはは。まいったな…。」

 それからしばらく、シキは甘えてくるナギをあやしつつ、おあずけとなっていた食事にありついた。

 すっかりと冷めてしまった白米に市販のカレールウをかけ、炒めた山菜を放り込んだだけのものだったが、ナギは物珍しそうに匂いを嗅ぐと、一思いにスプーンを口へ放り込んだ。すると余程腹を空かせていたのか、そのまま出されたカレーをぺろりと平らげてしまった。食事をとったことでかなり元気を取り戻したらしい。

 そこで、シキは改めてナギへ問いかけた。

「ナギちゃん、聞いていいかな?なんでそんなに傷だらけなのかとか、…どうして一人なのかとか。」

 ナギにはサラという双子の姉がいる。活発なナギとは正反対のおっとりとした性格で、ユイの記憶の中の二人は昔はどんな時も一緒に行動するほど仲の良い姉妹だったはずだ。切羽詰まった状態の彼女と一緒にいないと言うことは、つまりサラの身に何かあったのだと考える方が自然だ。

「あ、おねえ、ちゃん…。」

 シキの問いに、ナギの表情は暗く沈む。

「つらいこと聞いてごめんね、ナギちゃん。もうちょっと落ち着いてからにしようか。」

「…う、ううん、大丈夫。ナギね、おねえちゃんと約束したの。絶対助け呼んでくるって。だからユイさま、お話聞いてほしいの。」

 ナギは辿々しくも言葉を紡ぎ、教えてくれた。

 三日前、四都久民の集落へ一人の山伏の格好をした大男がやってきた。

 普通の登山道からは大きく外れた場所に位置する集落に迷い込んだとは考えにくく、その男の纏っていた禍々しくも強大な気配に集落の大人達は最初から警戒しており、狩人は武器を持ち女子供は家の中に匿われてきた。

 巫女であるサラとナギも武器を取ろうとしたが両親に制され、自分たちは家の中からその様子を伺っていた。

「その男の人、巫女を出せば殺さないって言って、だからお父さまとお母さまは怒って、それで…」

 ナギは言葉を詰まらせ、嗚咽と共に止まっていたはずの涙も溢れ出る。彼女の両親の結末などそれ以上聞くまでもない。

「…ナギね、怖くて動けなかったの。お父さまもお母さまも泥に飲み込まれて、みんなも死んじゃうのにナギは怖くて何もできなかったの…。」

 目の前で両親を惨殺された光景を思い出したのだろう。ナギは肩を震わせており、これ以上溢れ出てくる涙を必死に抑えている。

「でもね、お姉ちゃんは違ったの。」

 サラは決死の抵抗をした。ナギへ機を見て逃げるよう諭すと、殺された同胞の武器を拾い、地を蹴り渾身の一撃を見舞う。しかし切先は泥に阻まれて大男には届かず、泥から弄ばれるように打たれ、力尽き、そして最悪な事にサラは決死は捕まってしまったのだ。

「ナギね、お姉ちゃんを助けたかったのに、怖くて身体が全然言うこと聞かなかったの。」

 最後の力を振り絞り、サラは逃げるよう叫ぶと、それを聞いて弾かれるように家屋を飛び出し、一目散に山を駆け降りた。集落の誰よりもすばしっこく、山にも詳しかったナギは命からがら追手を振り切ることができた。

 しかし瘴気の霧が立ち込め一寸先も見えない山道を正確に進むのは難しく、ナギはいつの間にか迷い遭難してしまった。夜の雨風も凌げず、食糧もなく空腹に喘ぎ、あげく体調を蝕む瘴気に侵され意識は朦朧としている。

 そんな中で途方に暮れていたところ、遠くで懐かしい気配を感じてそれを目指して必死に進んだ。

「そしたらユイさまを見つけて、よかったーって思って。目が覚めてユイさまがちゃんといて、夢じゃなかったんだーって安心したの。」

「うん、うん。頑張ったね、ナギちゃん。」

「ねえユイさま、お願い。お姉ちゃんを、…ううん、みんなを助けて。」

 絶望のさなか、ナギは光明を信じて決して諦めなかった。そしてその願いに応えるのは、一度彼女たちを残して生きる事を諦めてしまった私の責務だ。

「大丈夫、任せて。」

 シキは力強く応えた。二度とその期待を裏切らないよう、覚悟を決めて。

 安心したのか、ナギは止めどなく溢れてくる涙が枯れるまでシキの腕の中でひとしきり泣いた後、真っ赤に染まった目尻を拭い、神妙な面持ちであらためてシキと椿へと向き直る。

「ユイさまあとね、ナギもお姉ちゃん助けに行きたいの。だから一緒に連れて行ってください。」

 当然、無理な話だ。ナギは顔の血色が幾分よくなったとはいえ、包帯の下には生々しい傷が塞がっていない。それにまだ微熱が残っており安静にしておかなければならない。

 しかし、真剣な表情で頭を下げる彼女に、シキは返す言葉を失った。

「ごはん食べて具合よくなったから、ナギも戦えるよ。それにね、ナギ、昔ユイさまが教えてくれた狩りなら誰にも負けないんだよ。」

 決めあぐねるシキをよそに、椿はきっぱりと首を横に振った。

「いけません。ナギさんがどれくらいお強いのか存じませんが、何かあっても私では守りきれないかもしれない。ナギさんは一度山を降りて病院に連れて行きます。」

「でも、そんなことしてたらお姉ちゃんが殺されちゃう!」

「今なら確実に助けられるあなたが優先です!」

 椿が声を荒げる様を、シキは初めて目にした。それは普段の姿からは想像し得ないほどの迫力があり、彼女の真剣さが窺える。

 気圧されたナギは反射的に身体を震わせて縮こまってしまう。

「ごめんなさい。私は強くないから、こうしないと誰も守ることなんてできないんです。わかってください。」

 されどナギは挫けない。

「…嫌、なの。」

 決意に満ちたその瞳は、さらに力強く覚悟を物語っている。

「椿お姉ちゃん、ナギと勝負して。」

「そんな体でなに馬鹿なことを言っているんですか!」

「怪我なんて関係ない!椿お姉ちゃんにもユイさまにも、ナギがちゃんと強いんだって認めてもらうの!」

 啖呵を切る小さな少女に、椿はそれ以上引き留めることを辞める。

「…引く気はないのですね。」

「当然なの。」

 覚悟を当に決めた面持ちの彼女を前に、椿はシキへちらりと視線を向ける。そして止める気のない様子を確認して嘆息した。

「仕方ありません、いいでしょう受けて立ちます。」

 椿はシキからサバイバルナイフを拝借すると、置いてある抜き身の鉈を差し、ナギにそれを取るよう促す。

「私を殺すつもりで来なさい。容赦はしません、少しでも迷いを見せればあなたの腕一本落としてでも力づくで止めましょう。」

 椿は腰を落として半身になり、逆手に持ったサバイバルナイフを正面に構える。普段の得物ではないにも関わらず、シキから見て熟練を感じさせる構えからは静かだが獰猛な覇気が見えるようで、その気迫に当てられ冷や汗が滲む。鉈はすぐ目の前にあるにも関わらず、遥か遠く感じるほどのプレッシャーにナギは息を呑んだ。

「今更怖気付きましたか、ならば斬って捨てる価値もありません。その程度の覚悟なら大人しく病院で寝ていなさい。」

「うわあああああああああああああああ!!」

 自棄でも己を鼓舞する為か、半ば狂乱したように少女は絶叫する。

 鉈を逆手に取り、最短距離で椿へ突進する様はしかして獣のように単調だ。

 ーーー速い

 それは単調で軽い太刀筋だが、速さだけならばシキ以上だ。それが夜の闇に紛れ、縦横無尽に駆け抜けるが故に目で捉えきれない。

 その機動力の高さを前に、確かに言うだけのことはあると椿は感心していた。シキ以上の身体能力というのはそれだけで驚異的である。野生動物などはそれだけで手玉に取れるだろう。

 ナギは常に動き回り、死角を位置取る。

 一撃は軽くとも、幾度も視界の外から繰り出される斬撃は確実に獲物の疲労を誘う。

 しかし、人間とは慣れるもの。その上速さにおいてはシキとの手合いを重ねている椿にとって、速いだけの未熟な太刀筋を見切ることなど容易い。

 突進に合わせた振り向きざまの斬撃。その速さにより撫でるだけで斬り捨てることができる。

 避ける為にナギは最大限身を捩るが、渾身の膂力による突進を止める事はできない。見切られた時点ですでにナギはどうすることもできないのだ。

 対して余裕を持って迎え撃つ椿は、普段の柔和な性格を一切感じさせず、明らかにナギを斬り捨てる覚悟だ。

 瞬間、ナギの脳裏に走馬灯が駆けた。

 神速の一撃を繰り出すまでの刹那はあまりにも遅く、遠く、まるで他人事のように感じられる。そして殺された両親、囚われた姉、遠い昔のユイの姿、様々な記憶と様々な感情がナギの胸中を入り乱れた。

「はーい、ストーップ。」

 突然の真横からの衝撃とその直後に慣性に任せて受け身も取れず地面に激突した。そして聞き馴染みのある落ち着いた声色が聞こえて我に帰ったナギは、襲いくる死の恐怖に耐えかねいつの間にか泣き叫んでいたことに気がついた。

「椿さん、もういいですよね?」

 割って入ったシキは椿の斬撃の間合いに入る前に突進していたナギを真横から蹴飛ばして無理矢理進路を変更させたのだ。

「流石ですね、シキさん。」

 いまだ唖然とするナギを後目に、椿はさっさとサバイバルナイフを鞘に収めてしまった。

「まったく、本当に斬り捨てようとするんだから椿さんにも困ったものだよね。気を張ってて正解でしたよもー。」

「私は最初に容赦はしないと言いましたよ。それに、シキさんも最初から止める気満々だったじゃありませんか。」

「いや、そうだけど!」

 ナギは地面に倒れたまま恐怖に見開いた目に涙を流し、過呼吸になってしまっている。それだけ今の一戦であまりにも強烈に刻まれてしまったそれは、心が弱ければそれだけでショック死してしまうほどに明確な斬死のイメージだ。

 椿はおっとりしてそうで意外と容赦がないのだと、シキは椿の評価を改めることとなった。

「ナギちゃん、大丈夫?」

「あっ、え…?」

 鉈を取り落とし、半ば狂乱したようにペタペタと首から腕、胴体を一心不乱に触る。

「ナギ、身体、斬られっ…。」

「だいじょーぶだいじょーぶ、ナギちゃんはどこも斬られてないよー。ほーら、ゆっくり呼吸しようねー。」

 ナギはシキの指示に合わせて膝の上で乱れた呼吸を整える。しばらくすると過呼吸は落ち着いたが気力を消耗しすぎたようで眼尻に涙を蓄えた瞳はどこか虚空を眺めている。

「で、どうなんですか?椿さん。」

「…ええ、そうですね。」

 椿はナギへ正面から真っ直ぐに向き合い、そして頭を下げる。その予想外の行動に面食らったナギははっと気がついき、慌てて姿勢を正した。

「まずは侮っていた事、謝罪いたします。私の無礼をどうかお許しください。」

「あっ…えと、ナギも、生意気言って…その、ごめんなさいなの。」

「ナギさん、私はもうあなたの同行を止める事はしません。それだけの力をあなたは示してくださいました。…ですが、無礼を承知でお願いします。絶対に無理はしないでください。そして、まだ幼いあなたをどうか私に護らせてください。」

 ーーー椿は腹を括った。

 確かに二人は強い。椿と同格か、もしくはそれ以上か、椿が護らずとも身を守れるほどに。

 しかしいくら彼女らが強いとは言っても、椿にとって護るべき少女であることに変わりはない。

 故に椿は覚悟を決める。何があっても絶対に全員無事に帰ってみせると。

「…えと、ありがとうございますなの!よろしくお願いします、椿お姉ちゃん!」

 少女は一握の希望を掴みとり、御鶴来岳の夜は不気味な静寂と共に闇を深める。

 堅い決意とは裏腹に言い知れぬ胸騒ぎがおさまらず、闇のような不安が椿を苛んだ。



 東雲市の郊外、人里離れた山中の僻地に一条家という長い歴史を連ねる由緒正しき旧家がある。

 大病院である神代会や名家大刀洗とは違い、東雲市への表立った影響は見えず、世間一般への認知度は低いため、一条家の存在が東雲市に対して絶大な影響力を誇っているという事を知る者は少ない。

「お嬢様、到着いたしました。」

 敷地は背が高い塀に囲われ、瓦屋根の立派な正門が構えている。その向こうにはまるでその長い歴史を物語っているかのように修繕や増築がなされたであろう武家屋敷が悠然と佇んでいた。

「大奥様は壮健にされておられますでしょうか。」

「…ふん、あの人のくたばるところが想像できないわ。」

 大刀洗家の使用人である秋月野鳥は、主人のシンプルで上品なドレスを着て瀟洒な装いをしているにも関わらず、いつもに増してやる気の感じられない態度にも顔色ひとつ変えない。

「お嬢様、気が進まないのは重々承知しております。だからといって大奥様に対してはそのような言葉遣い、くれぐれもなさいませんよう。」

「…あの人、餓鬼の無礼なんて歯牙にも掛けないでしょう。」

「ええ、お優しい方です。」

 アレは優しいとかそういうのとは違うでしょう。と、桜は心の中でやる気なく悪態をついた。

 そもそも一条家に顔を出す羽目になったのも、元はと言えば自分から言い出したことなのだから、今更文句を言ったところでしようのないことなのだ。

 丁度気持ちの切り替えが済んだところで、インターホンで通話していた秋月が車内へ戻り、程なくして閉ざされていた大門が開く。そして秋月が適当な場所に車を停め、桜は一度深呼吸をすると、意を決して一条家の敷居を跨いだ。

「やあ、桜ちゃん。こんな辺鄙な屋敷までよく来てくれたね。」

「…ご無沙汰しておりますわ、喜介さん。…わざわざお出迎え痛み入ります。」

 出迎えた気さくで柔らかな物腰の和装の青年、一条家の次期当主である一条喜介に、桜はスカートの裾を摘まみ西洋式の挨拶で応えた。

「…相変わらず、“ご立派な”お屋敷ですこと。」

「そうかい?でも大刀洗に比べたら大したものではないだろう?」

 彼に引き連れられ、桜は屋敷の正面玄関に足を踏み入れる。屋敷の外装、内装は何の変哲もない古い日本屋敷のそれなのだが、桜の眼は違う意味を捉えていた。

「…そういえば喜介さんは確かデイトレーダーをなさっているのですよね。…近頃は順調なのかしら?」

「ぼちぼちだね、お恥ずかしながら大儲けしてるわけじゃないんだよ。まあでも大損することもないし、これもご加護のお陰なのかなあ。」

 自信なさげに頰をかくこの男は相変わらず“こちら側”に全く関わらずに過ごしているらしい。

 それもそのはずだろう。彼はずっとこの外界からの悪きものの悉くを拒絶し、所属するもの全てに幸運を振りまく屋敷の形をした“大聖堂”の中で生活しているのだから。

「桜ちゃんも霊媒師の仕事をしているんだろう?ちゃんとひとり立ちしていて大したものだよ、まだ高校生なのに。僕なんか仕事もしないでふらふらしてるようなものなのにさ。」

「…かのご加護は一条家に幸運をもたらすもの。…しかし、行動せずにどうして幸運を得られましょう。」

「はは、これは一本取られたね。」

 喜介はまた自信なさそうに頭をかいた。この男、頭は切れるのだがなんとも頼りない。

「…ところで、先程から聴こえてくるこの音は一体何なのでしょう。…あの方がギターを弾いているのでしょうか?」

「ああ、近々ライブの予定が入っているらしくてね、この頃は練習に熱が入っていらっしゃるみたいだよ。」

「…ライブって、あの方バンドでも組まれていたのかしら。…ああ、そういえば有名な動画配信者でしたわね。」

 それにしても激しい旋律だ。アンプを通して鳴るエレキギターの音色はかなり強い歪みに設定されているのだが、そこから聞こえてくる繊細な教会旋法はまさしくグレゴリオ聖歌のそれに違いない。

 奥間に近づくほどその旋律がはっきりと聴き取れるようになり、その音圧は武家屋敷の古典的な襖ではまったく抑えきれておらず、異様な雰囲気だ。

「ささ、秋月さんはこちらでゆっくりお茶でも。」

「ありがとうございます。ではお嬢様、後ほど。」

「…ええ、寛いでくるといいわ。」

 二人が行くのを見送り、桜は意を決して襖をノックした。

「どうぞ。」

 ノックの音はギターの音圧で完全に掻き消えていたはずだが、ピタリと音が止むと同時に打って変わって囁くような細い声が襖の奥から小さく聞こえてきた。

「…失礼いたします。」

 奥間は十畳ほどの洋室で実際かなり広いが、さまざまな楽器が所狭しと並んでいる他タワー型のパソコンが置かれたデスクや複数の衣装棚に敷き詰められかなり狭く見える。

 そして一際目を引くのは少女のような小さな体格にそぐわない大きな美しい純白の翼。頭上には輪状の発光体がぼんやりと浮かぶ。

 そう。一条家高祖、一条八千代は人間ではない。正真正銘本物の天使なのだ。

「…お久しうございます、八千代様。」

「こんにちは、桜ちゃん。少し待っていてくださいまし、すぐに片付けてしまいますから。」

 八千代は、今しがた弾いていたらしいエレキギターを片付け、着物の襷掛けを解いたところだったようだ。

「あ、そうだ。どうせならセッションをしましょう。お琴ならそちらに…。」

「…やりません、早く片付けてください。」

「まあ、相変わらず連れませんね。ところで今日は喜介ちゃんとのお見合いの話でございましたか?」

「…違います。…八千代様の知恵をお借りしたいと、先度メールでもお伝えしていたと思うのですけれど。」

 楽器を片付けて空いたスペースに、部屋の隅からふよふよと飛来した応接テーブルとソファが着地する。天使の力とは全く便利なものだ。

「ふふ、ほんのジョークでございます。近頃は桜ちゃんのようにわたくしと相対しても臆さない肝の据わった方はなかなかいらっしゃらないもので、少しばかり揶揄って差し上げたくなるのですよ。」

 この面倒くさいところが苦手なのだと、桜は心底辟易して大きくため息をついた。

 齢一千歳を超えても尚、刹那的に生きていけるのは寧ろ関心すべきなのだろうか。

「あ、ちなみに喜介ちゃんとのお見合いの件は大真面目なので是非前向きにお考えくださいまし。あの子は少々引っ込み思案なところがございますが、とても頭の良い子ですよ。聡明で気が強い桜ちゃんとはお似合いでしょう。それに、子供とは大変良いものなのですよ。わたくしも遠い昔、旦那様と幾度となく深く愛し合い、たくさんの子を授かりまし…ちょっと桜ちゃんストップ、どうか魔眼は勘弁してくださいまし。」

 どうにも五月蝿いので魔眼を開いた。このババアは一千年も前の旦那の惚気話を始めると歯止めがきかないのだ。

「…あら、八千代様の聖域に守られているのだから“悪霊は”寄ってこないはずでしょう。」

「あの引っ込み思案だった桜ちゃんもすっかり逞しくなられて、わたくし感動で胸がいっぱいでございます。」

「…本題に入っても良いかしら?」

「ええ、勿論。確か、桜ちゃんのお友達が神威に目醒められて以来目の調子が優れないとか。これはまた珍しい事があったものでございますね。」

 ロストタウンの一件で覚醒して以来、雄一郎の眼は回復しておらず、寧ろ桜から見て進行していると言わざるを得ない。これまで定期的に桜の魔眼で神威を散らしながら騙し騙し現状を維持しているとはいえ、このままでは人の身に余る神威が雄一郎の身を滅ぼしかねない。

 そこで千年の時を生きる天使の智慧に活路を見出そうと重い腰をあげて遥々山奥までやってきたのだ。

「それは巫覡相でございましょう。」

「…巫覡相?」

 霊媒師として宗教知識や怪異譚あるいは超常現象にも幾許かの知識を持つ桜だが、その聞き馴染みのない単語に思わずそのまま聞き返してしまう。

「…巫覡、いわゆるシャーマンの事ね。」

「左様でございます。未熟な人間が神の御力に届いてしまった故の傷、それが巫覡相でございます。」

 巫覡、神に仕え神楽や祈祷などの神事を行う者。またの名を神巫、巫女、覡。

 人間である神巫が神降し等で神威に触れた時、肉体が耐えられずに傷めてしまうということだろうか。

「…それで、治せるのかしら?」

「それはご本人様次第でございます。私の力でできるのはせいぜい巫覡相ごと眼球を抉り取るくらいでしょう。」

「…やめて。」

「ふふ、そんな顔しないでくださいまし。ほんの冗談でございます。」

 趣味の悪い冗談に余程嫌な顔をしていたのだろうか、八千代はさもおかしそうにクスクスと笑う。

「巫覡相を“治す”というのは難しい事でございます。何せ病気ではありませんし、寧ろ神威が使えるという事はありがたい事でございましょう。或いは、神威を意のままに操る術を手に入れる事でございます。それならば心当たりもございましょう。」

「…冗談じゃないわ。」

 確かに大刀洗の異能は役に立つ。しかし、それは桜が霊能を必要とする側の人間だからという事でしかない。

 果たして雄一郎にとって神威という異能が有用であるかは桜にはわからないが、桜にとって彼は一番身近な此方側の拠り所なのだ。それが壊されるのは困る。

「ところで、その神威を覚醒させた方はどのような方なのでございましょうか?もしや桜ちゃんのボーイフレンドでしょうか。」

「…違うわ、…ただの友達よ。」

「あらあらまあまあ、左様でございましたか。やはり子供達は成長は見ていて飽きませんね。」

「…その人を見透かしたような物言い、とても癪に障るわね。」

「うふふ、揶揄っているつもりはございませんよ。ただ、子供達の営みというものは、ただただ可愛くて可愛くて仕様がないのでございます。」

 それに見られるだけで物怪の類は震え上がり尻尾を巻いて逃げだす漆黒の瞳をすうっと細めて睨みつけるも、どこ吹く風の八千代は袖口で口元を隠して嘲るように微笑う。

「…ふん、まあいいわ。…役に立つかは別として、貴重な情報をいただけたのだから、これは借り一つね。」

「あら、それなら喜介ちゃんとの結婚を、」

「…却下。…というか、私があの人嫌いなの知ってて言っているでしょう。…いつも通り、厄介事を一つ引き受けると言っているのよ。」

 あのどっち付かずで煮え切らないあの柔和な態度が桜の癪に障るのだ。それで毎度邪険にしてしまうのだが、それすら気付いていないのか、それとも小娘の粗相など気にも留めていないというだけの事なのだろうか。

「誠に残念でございます。こう見えてわたくし、桜ちゃんの事は本当に気に入っているのでございますが…まあいいでしょう。では、またおひとつ調査をしてくださいまし。」

 聖域を守護する天使は聖域以外ではその力の多くを制限される。故に桜は天使の智慧を授かる代わりに一条の抱えている厄介事を引き受けることで、互いが互いを利用する利害関係を結んでいるのだ。

「通り魔の噂、既に桜ちゃんの耳にも届いていることでしょう。東雲市も物騒になったものでございます。」

「…ええ、聞いているわ。…なんでも燃えるような赤髪の人喰い、身長2メートル、背中に羽根があって時速100キロで追いかけ、口元には血が滴る女なんだそうね。…馬鹿馬鹿しい。」

「え、何それ怖。」

「…天使が素で怪異を怖がらないでもらえるかしら。…それで、噂の出どころでもわかったのかしら。」

 八千代はどこからともなく一条家の家紋が刻印された封蝋で綴じられた茶封筒をひらひらと飛来させ、桜の前に差し出した。つまり最初から桜への依頼は決めてあり、結婚のくだりはとんだ茶番だったという事だ。

「おそらくは桜ちゃんとも無関係ではございませんので、おあつらえ向きかと。」

「…あらそう。」

 桜は茶封筒を受け取ると、話はそれまでとばかりに席を外した。

「…練習中に邪魔したわね。…秋月に手土産を持たせているから、喜介さんから受け取って頂戴。」

「またいつでもいらっしゃいまし。今度はゆっくりお茶でもしましょうね。」

「…勘弁して。…それでは八千代様、ご機嫌よう。」

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