禍津神颪 1



 瘴気の霧が視界を阻み、鋭敏な嗅覚に牙を剥く。その不浄は生命力を尽く吸い尽くし、まるでその地に生きとし生けるもの全てを喰らいつくさんとしているようだ。

 自慢の優れた五感は今や正しく機能しておらず、常に付き纏う頭痛や倦怠感、全身の痛み、酸欠感、酩酊感、嘔吐感などのありとあらゆる苦痛は肉体と精神を蝕み続けている。

 一致団結の抵抗虚しく、その永遠とも思える地獄のような苦しみの果てに、同胞達は一人、また一人と次々に倒れてゆく。

 それはまさに、荒れ狂う禍津神の厄災そのものだった。

「ぜったい、ぜったい、助けを呼んで戻ってくるからね…!」

 木々の間から微かに降り注ぐ月の明かりだけを頼りに蒼銀の少女は裸足のまま道なき道を駆ける。

 その白く小さな手足は打撲や豆が潰れ血に塗れており面影はなく、何度も転んだ白の装いは無惨にも土色に汚れ、ところどころ擦り切れている。道すがら、耐えきれずに嘔吐をしたためか空腹と脱水により足取りはおぼつかず、重くのしかかる疲労で眼前は霞んで見えている。

 少女は既に立っている事が不思議なほど消耗しきっていたが、そんな些細な事には構わず、ただ無我夢中に、一心不乱に走り続けた。ただひたすら希望を求めて。

「だからそれまで待ってて、おねえちゃん…!」

 帰りを待つ、少女の片割れを救う為に。



 夏休みから続いていた茹だるような熱気はいつの間にかなりを潜め、時折冷たい風が肌を撫でる。聞こえてくる虫の音も騒がしいものはいなくなり、いつしか季節は秋に移り変わっていた。

 坂本雄一郎が懇意にしている喫茶店では秋の食材を使った菓子を提供しているらしく、ブラックボードの看板には可愛らしい丸文字で秋のスイーツフェアと大きく打ち出されている。

 喫茶店で住み込みアルバイトをしている宇都宮シキの料理の腕前はなかなかのものらしく、マスターが一人で作っていた軽食なども彼女が受け持つようになっているのだとか。

「へえ、結構いい雰囲気の店じゃん。」

「ああ、静かで落ち着く所だ。」

「だろ?」

 彼が奥の席に腰掛けると、続いて不知火夜と不知火朝はそれぞれの感想を口にしながら腰を下ろした。

 秋といえば食欲の秋やスポーツの秋と言うが、東雲市立東雲学園高等学校も例に漏れず、体育祭は毎年秋に行われている。

 生徒会と体育祭実行委員会は夏休み前から準備に取り掛かっており、俺達が旧市街で一悶着あった夏休み中も熱心に活動をしていたらしい。聞くところによると、龍斗も病み上がりの身体に鞭打って生徒会長にこき使われているらしい。

 一方参加する側の俺たちは、出場種目を選別する為に体育の授業で体力テストが行われた。クラスの関係で雪丸や不知火兄妹、龍斗を直接目にすることはなかったが、雪丸はもちろん走力で高得点を出し、龍斗も筋力ではかなりの得点。不知火兄妹は明らかに手を抜いたような結果だった。かくいう俺は平均点そこそこに落ち着き、お嬢に至っては情けなくも全種目において最低評価という体たらくだった。

 そして問題の宇都宮シキだが、ただでさえ四都久民というだけで目立っている為、悪目立ちしない様軽く流すように伝えていたというのに、お嬢とはうって変わって全種目最高評価。男子を含めてもクラスでトップの成績となった。これで本人としては軽く流したつもりらしいので、四都久民というより宇都宮シキの非常識さにはほとほと呆れるばかりだ。

 その後、彼女の成績が噂となって広まった結果、俺が予想していた通りにさまざまな運動部からの勧誘が宇都宮の元に殺到した。当然捌ききれなくなった宇都宮は、逃げるためまたもや教室の窓から脱出し、生徒指導の教諭から説教を受けていたようだ。ちなみに部活の勧誘はアルバイトがあるからと律儀にも全て丁重に断ったらしい。

 そんなこんなで波瀾万丈な学園生活にも慣れてきた宇都宮だが、今日の朝早くから椿さんと共に祝日を利用して三日間の帰郷をしている。

 宇都宮の故郷は二千メートル級の霊峰、御鶴来岳の山中にあるらしく、初日は朝早くから出て麓にある湖のほとりで一泊し、二日目に集落を目指して登山する計画なのだそうだ。

「それで、そろそろこんな所まで呼びつけた訳を話してほしいんだけど。」

 それぞれの注文の品がテーブルに揃うと、不知火朝はそう切り出した。

 一筋縄ではいかない彼らを呼び出す為わざわざ前日の放課後に二人の元に出向き、今日のこの場をセッティングしたのだ。そうまでして俺はどうしても確かめたいことがあった。

 周囲を見渡し、他の客がいない事をあらためて確認すると、俺はようやく本題に入る。

「そうだな。…じゃあ単刀直入に聞くけど、シャルロッテ・ミルヒシュトラーセという名前に心当たりあるか?」

「俺は知らないな。」

 不知火夜は即答すると注文していたホットコーヒーに手を伸ばした。対する妹の不知火朝はなにやら心当たりがあるのか、しばし思案顔でカフェモカを啜っていたが、ほっと一息吐くと、口を開く。

「そういえば、ネットでそんな名前の都市伝説を見たことがあるかな。大富豪シャルロッテ・ミルヒシュトラーセ。巨万の富と裏社会の圧倒的な権力を持っていて、世界中のあらゆる事件や戦争、紛争、その他諸々の裏を辿るとその名前に行き着くと言われている。その正体は何世紀も生きる魔女だとかなんとかって眉唾な話だけど、それがどうかした?」

 本物の魔女がそれを言うのかとなんだか妙な感じだなと思ったが、当の本人はあまり気にしていない様子だ。あまり突っ込まないでおこう。

「つい先日、そのシャルロッテ・ミルヒシュトラーセを名乗る人物と遭遇したんだ。不知火達なら何か詳しい情報を持ってないかと思って。」

「…ふーん、そういうこと。」

「いや、考え込まないで教えてくれ。そういうことってどういうことなんだ?」

「うるさいな、殺すよ。」

「うおっ!?」

 一直線に突き立てられティースプーンを咄嗟に避ける。危うく目玉をくり抜かれるところで額から冷や汗が滲み出た。

「坂本、考えてる時の朝をあまり刺激するな。死ぬぞ。」

「お、おう。わかったよ。」

 何故か俺が悪いみたいになっている。理不尽だ。

「あんたの“その目”で見て、わざわざ私達に聞いてくるって事は、シャルロッテ本人かどうかはともかく、そいつが化け物だってことに間違いなさそうね。」

「ああ。あれはとても人間とは思えないし、錯覚って線もなさそうだ。一緒にいた雪丸もプレッシャーに当てられてるからな。」

「なに、あの子も一緒にいたの?」

「登校中だったからな、あいつ一人で遭遇してなくてよかったよ。」

 とはいえ、心身に負荷がかかった雪丸には数日の療養を要した。回復したとはいえ、不安はまでは拭いきれないだろう。

「あんたたちさ、前から思ってたんだけど、ベタベタ連んでる癖になんで付き合ってないの?そういうの、なんかムカつくんだけど。」

「理不尽だ…。つーか不知火って雪丸と仲悪いんじゃなかったっけ?何で今更雪丸の交際関係なんか気にしてんだよ。」

「うるさい、死ね。」

「坂本、朝の気に触るようなことは言わない方がいい。」

「お前さ…。」

 流石に実妹とはいえ甘やかしすぎではないかと、言いたい気持ちを大人な俺はグッと堪えた。

「それに、素直になれないだけで朝は雪丸の事が本当は好きなんだ。」

「…マジで?」

「ちょ、お兄ちゃん!?」

 妹の抗議を足蹴にして制しているところを見るに、なるほど甘やかしているというわけでもないらしい。

 それにしても、不知火朝が雪丸に好意を持っているというのは一体どういうことなのだろうか。

 以前雪丸から直接聞いた話によると、不仲の原因は小学生の頃不知火朝の起こしたとある事件によってその凶暴性と直面した事だ。彼女は詳細を語らなかったが、それ以来雪丸は不知火に対して大きな壁を作ったようなのだ。

 つまり距離を取ったのは雪丸の方だけであり、不知火の気持ちは昔からずっと変わっていなかったということなのだろうか。

「話を戻そう。」

「お前、ほんとペース崩れないのな。」

「なんで言っちゃうのよ、お兄ちゃん…。しかもよりによってこんな奴に…。もうやだ死にたい…。帰ったら私オーバードーズするから…。」

 その鬼畜の所業に、いつも余裕たっぷりな不知火朝が珍しくテーブルに突っ伏して嘆いている様はなんというか、憐れだ。それに、黄泉竈食を巡る一件で雪丸との関係はもう修復不可能なほど溝が深まってしまった故、流石に同情の念を禁じ得ない。

「そいつが本物のシャルロッテであるかどうかはさておき、問題視すべきは宇都宮六廻の他に術師である朝や大刀洗にも気づけなかった化け物が東雲市に潜伏していたということだ。それに加えて今は最大戦力である宇都宮シキがいない状況だということか。」

 戦力と言うと物騒だが、言われてみると宇都宮が居ないのはなんとも心もとない。目の前の不知火朝やお嬢は矢面に立つタイプではないし、黄泉の力を失った不知火夜も、宇都宮六廻レベルの化け物とやり合えはしないだろう。

「本人は古い友人に会いに来ただけですぐ東雲市を離れると言っていたがな。あいつにしてみれば雑魚同然の俺に嘘をつく理由はないと思うけど。」

「…だが、今の話を聞く限り、わからないことが一つある。」

「わからないこと?」

「ああ、シャルロッテ・ミルヒシュトラーセの言う旧友とは、つまり誰の事だ?」

「は?そんなの宇都宮六廻に決まって…」

「あんたバカ?少なくともシャルロッテはあんたの事を知ってたんでしょ?宇都宮六廻との戦いで発現したその目の事も含めて。なら、どうしてわざわざあの仙人の事を”旧友”なんて回りくどい言い方をしたの?」

 不知火朝のその嫌味ったらしい物言いに、俺はまるで稲妻が走ったかのような衝撃を覚えた。背中には嫌な汗が伝う。

「まさか、他にも何ががいるって言いたいのか?」

「てか、私がわざわざ言わなくても、あんただってその可能性にはとっくに気づいてんでしょ?」

 それは図星だった。なにせ不知火をわざわざ呼びつけたのだって、結局そんな嫌な予想に蓋をしたいが為に、別方向からの考察を聞きたかっただけなのだから。

「見ないふりしてたところ悪いんだけど、それだけ情報が集まってると私だってその結論になるから。ま、こっちとしては情報がもらえて助かるけど、残念ながらあんたの力にはなれないから期待はしないで。」

「…そうか。」

 それも当然と言える。本来不知火とは明確に敵同士なのだから、その助力に期待などできるはずもない。いくら和解したといえど、俺にとっても悪は悪である事に変わりはないのだから。

「…まあでも、連絡は取り合ってあげる。あんた達に倒れられても…その、困るし。」

 不知火朝はその赤毛を指先で弄り、きまりが悪そうにそう言った。

「ちょ、なに固まってんの。ほら、さっさと連絡先教えて。」

 言われるがまま携帯端末を取り出し、不知火朝と連絡先を交換してしまったところで、俺はハッと我に返った。

「な、なんのつもりだー!?」

「うるさい死ね。」

 今度は身構えていた為不知火朝が突き出したスプーンは紙一重で避けられた。というか、避けてなかったら眼球を抉られる勢いだったような…。

「別に、あんたの連絡先なんて毛程も欲しくないんだけど。つーか要らない、ほんと要らない。…その、あんたにはただ雪ちゃんとの仲立ちになってもらいたいだけだから。」

「まったくもー、朝ちゃんは雪丸ちゃんも食べちゃうつもりなのかなー?」

「な、何しに来やがったー!?」

 いつの間にか俺の背後に立っていた水無空の姿に俺は全身総毛立ち、思わず悲鳴のような叫び声をあげた。

「やんっ元気がいいね、雄一郎くん!でも、お店では静かにしてなきゃダメなんだぞ!」

 正論だが、この女には絶対に言われたくない。

「ちょっと空、あんたみたいな節操無しと一緒にしないでよ。私、雪ちゃんに手出しするつもりなんてないし。」

「そんなこと言って〜。今まで何人もの美少女達を手篭めにしてきたくせにさ〜。」

「は、こっちは合意の上なんだけど。見境なし好き放題やってるあんたにとやかく言われる筋合いないし。」

「え〜、でもこの間わざわざ媚薬まで作ってたじゃん。あれも合意の内に入るの〜?」

「うるさい、黙れ、ぶっ殺すぞクソビッチ。」

「やんっ!夜くん夜くん、朝ちゃんが怖いよ〜。」

「朝、空、店内では静かにしろ。お前達の猥談に坂本も困っている。」

 一体俺は何の茶番を見せられているのだろう。

「あっ、もしかして童貞だった?…ごめん、配慮が足りなかった。」

「誰が童貞だ!?」

 言葉では気を遣ったような謝罪を述べているが、その実ニヤニヤと口角を歪ませて嘲笑しており、人の神経を逆撫でする。有体に言えばイラっとした。

「そうだよ朝ちゃん!童貞は童貞でも雄一郎くんは絶倫童貞なんだから!」

「うわマジ?」

「ふふふ、おねーさんのエロセンサーに狂いはないんだよ。一度火が付いたら朝まで寝かせないタイプなんだよっ!」

「ケダモノじゃん最悪。雪ちゃんが毒牙にかかなければいいんだけど。」

 なぜか人としての尊厳が無いに等しい。なんとも酷い言われようである。

「不知火、そろそろこいつら殴ってもいい?」

「やめておけ、手酷く仕返しされるのが関の山だ。…とはいえ、二人とも些かお巫山戯が過ぎる。帰ったら仕置きをしておくとするか。」

「やんっ、夜くんのお仕置きなんてそんなご無体な〜。」

「あの、不知火君、もしや逆効果では?」

「…。」

 一人で発情している変態はさておき、不知火朝までも顔を赤くしている。不知火家では一体どんなお仕置きが繰り広げられているのか少々気になりはするが、あまり掘り下げないでおくとしよう。

 藪から蛇が飛び出しそうだし。



 休日の昼過ぎ、部活終わりで一人昇降口のガラス戸に背を預けてぼうっとしていた雪丸花火は控え目にくしゃみをすると、少しだけ身を震わせた。

 近頃は気温も少し秋めいて次第に涼しくなってきており、寒がりな花火は一足先に中間服へと衣替えをしていた。

 東雲学園高等学校の制服は、学生服にモダンと和服をインスパイアしたような一風変わったデザインをしており、女子には好評だが、男子にとっては動きづらさや慣れるまで袖や裾のひらつきがなんとも落ち着かないと不評だ。

 女子の中間服は、冬服の羽織風ジャケットを外した紺の和風襟ジャンパースカートで、生真面目な花火のスカート丈はしっかりと膝下まである。

「うう、なんか今一瞬寒気がしたような…。」

「風邪でもひいたんじゃねーの?」

「わーっ!?」

 背後からの突然の声に、花火は驚いて声を上げ、ぎちぎちと後ろを振り向く。そこには待ち合わせをしていた柄の悪い風体の男子生徒、白川龍斗が軽薄に笑ってひらひらと手を振っていた。

「よっ、雪丸。」

「もう、いきなり脅かさないでって、いっつも言ってるじゃん!」

「はは、悪い悪い。」

 口ではそう言うものの龍斗のそのちっとも悪びれない様子に、花火はむっと頰を膨らませた。

「そんだけ元気なら心配ねーか。」

「ごめん、心配かけて。」

 先日、登校中にシャルロッテ・ミルヒシュトラーセと名乗る謎の女性に遭遇した雪丸花火は、彼女の放つ大き過ぎるプレッシャーに当てられ、数日心身の不調を来していた。

 秋の駅伝大会を控えた花火にとって療養のため数日家で過ごす事になったのは痛手だったが、幸いにも久しぶりの練習で特に問題なくこなすことができたので一安心といったところなのだ。

「ロリ丸いねえと張り合いなくて暇だったわー。」

「ロリ言うなー。大体、暇なら坂本と遊んでればよかったんじゃない?」

「あの正義馬鹿が絡むと何でも大ごとになるからダメだ。こちとら病み上がりなんだわ。」

 龍斗は今はもう包帯の取れた手をひらひらと振るった。不知火夜から蹴られて頭から血を出していたが、どうやら少し切っただけの軽傷で済んだようで、骨折していた腕も庇っていた為か悪化はしていないようだ。

「それに、今も不知火と絡んでなんか動いてるっぽいし、暇してられるのも今のうちかもなー。」

 先日の一件以来、雄一郎は不知火兄妹とのコネクションを得たらしく、度々連んでいる場面が見られる。

 花火としては不知火朝は狡猾で危険だという認識が覆ることはない。むしろ普通の人間とは違う異能を操る魔女であることが分かってから見え透いた地雷を踏み抜かないようこれまで以上に距離をとっているというのに。

「あんまり無茶してないといいけど…。」

「ま、俺は面白けりゃ何でもいいけどな!」

 心配性の花火をよそに、龍斗はカラカラと笑った。

「面白いといえばそういや、おもしれー話を聞いたんだけどな、」

 花火は楽しそうな様子の龍斗を見て、内心辟易した。そういう時は大体、彼がまた変なモノに興味を持ってしまった時だと知っているからだ。

「最近、妙な通り魔が東雲市を徘徊してるらしいぜ。」

「えー…通り魔なんて物騒。」

「はは、違いない。で、その通り魔なんだがな、燃えるような髪の美しい女性で、人を喰い口元は真っ赤な血で濡れてるらしいぜ。」

「え、怖…。」

「あと、身長が2メートル超えてるとか時速100キロで追いかけてくるとか背中に羽根が生えてて飛んでくるとか…」

「わー!わー!やめて怖いー!」

 花火は次々と怖い話を語る口を塞ごうと必死になるが、上手く口元に手が届かず諦めて耳を塞いだ。

「何やってんだ、お前ら。」

 振り返ると、呆れ顔をした教師と、その後ろからは見知った駅伝部の部長が顔をのぞかせていた。

「あ、小早川先生に守田先輩。」

「やほ、雪丸ちゃん。白川くんもね。」

 小早川と呼ばれた教師は駅伝部の顧問だ。さらにシキ達のいる一年二組のクラス担任で、担当科目は数学。授業は花火と龍斗の一組も担当している。

 ひょうきんでずぼらな性格で、教師にあるまじき死んだ目や野暮ったく伸ばした天然パーマと相まって多くの女子生徒や職員からは嫌煙されている。

 これでも学生時代は陸上競技部でブイブイ言わせていたらしく、外面に似合わず時々練習に混ざったり、個人で小さなマラソン大会なども出場しているらしい。

「げ、バーセンじゃん。」

「何が『げ、』だこの野郎。うちの主力いじめてんじゃねーぞコラ。」

「は?言うべき相手間違ってんぞ先公。」

「間違ってねーよボケ。つーか白川お前、授業サボりすぎだ。単位落とすぞコラ。」

「うっせーな、点数取ってるから良いだろうが。私情挟んでんじゃねえぞハゲ。」

「ハゲてねえむしろフサフサだボケ。天パだけど。」

 またやってると、花火は呆れて肩をすくめた。

 龍斗のサボりは今に始まった事ではないのだが、大概の教師はそれでも好成績を獲得する彼を強く責める事はできず、むしろ言いくるめられて終いとなる事が多い。

 しかし、この小早川という教師は事あるごとに龍斗へ絡んではその度に口論へと発展しているのだ。

「まーまー、ケンカしないでよー。センセも雪丸ちゃんに用があるんじゃなかったの?」

「おう、そうだったそうだった。大会も近いし、体調の確認しておこうと思ってな。練習見てた感じ問題なさそうだったが…。」

「あ、えっと。大丈夫です、ご心配をおかけしました。」

「そうか、そりゃよかった。うちのエースが不調だと士気にもかかわるからな、この調子でしっかり頼むぞ。」

 小早川はほっと息を吐くとニンマリと笑みを浮かべ、花火の頭をわしゃわしゃと撫で回した。

「そういえば、お前ら今から遊びにでも行くのか?近頃は何かと物騒だから気を付けろよ。」

「うっせ、大きなお世話だ。」

「まぁそうだな、白川がついてるなら雪丸は心配いらないな。」

「おい、バーセンは俺をなんだと思ってんだ。」

「雪丸のボディガードだろ?」

「ちげーよ。」

 いい加減収拾がつかないことに花火はほとほと呆れ返り、話題を変えようと抱いていた一つの疑問を投げかけることにした。

「ねえ、白川ってなんで小早川先生にはそんなに噛み付くの?」

「バッカお前、そりゃあ…」

「センセ、しーっ!」

「おいお前ら、勝手に適当言ってんなよ。」

「おいおい、それじゃあどうして白川はそんなに恥ずかしがってるんだァ?恥ずかしくないのなら雪丸の質問にも答えられるよなァ?」

「うるせえな、気に食わねえだけだボケ!」

「…先生、いい加減それくらいにしてもらえますか?」

「ハイヨロコンデ!」

 なおも続く応酬に、少し苛立ちを覚え大きくため息をはいた花火が静止に入ったところでようやっと収拾がついた。

 涼しい顔をしている小早川に対して龍斗の方が顔を赤らめており、花火は彼のしてやられた姿を珍しそうに眺める。

「悪い悪い、白川みたいな頭のいいクソガキ見てるとついな。悪気はあるんだがまあ許せ。それじゃあなクソガキ共、くれぐれも清く正しく不純異性交遊しろよー。」

「二人とも、またねー!」

「あ、えっと、お疲れ様でし…行っちゃった。」

「けっ、塩撒いとけ塩。」

「やめてよもー。」

 多分、白川は口にしているほど小早川先生の事を嫌っていないのだろう。彼とはいい加減長い付き合いなのだから、それくらいはわかっているつもりだ。そして小早川先生も、いつもは軽薄で悪ぶっているくせに白川のような不良生徒も他の生徒と同じように気にかける真面目な人だ。

 私は二人のように器用じゃないから、そうやって本心とは離れた態度を取る事が難しい。でも多分、器用な彼らには彼らなりの煩わしさがあるのだろう。

「おいチビ丸、ボサっとしてんなよ。」

「チビ言うな!」

 私にはそれがとても面倒で、そして羨ましく見えるのだ。



 御鶴来岳一合目、宇都宮シキと門矢椿は陽が傾く頃に湖のほとりに到着した。

 門矢椿のハンドリングは手慣れており、レンタルのコンパクトカーが山道をものともせず軽快に走る様に彼女が日常的に車を運転していることが窺い知れる。聞けば、彼女の所属する考古学ゼミの学生達が度々彼女の運転で日本各所の遺跡や自然遺産に赴いてはフィールドワーク調査を行なっているのだという。

 椿の装いが見慣れた道着でなく、登山用の速乾と丈夫さを備えた装備であり、そういえばと、名目上の目的は四都久民の調査だったという事をシキは思い出していた。

 到着した御鶴来岳の一合目には剱楽神社という社があり、登山口となる剱楽湖のほとり一帯が境内となっている。

 境内の一角に車を停めると椿は慣れた手つきで居住スペースを設置、その間シキは焚き火に使える薪を収集を始めた。

 シキの記憶によると四都久民の集落は御鶴来岳の中腹から山道を逸れて進む必要があるのだが、長旅で既に夕刻が迫っており、一日目はここで一泊することにしていた。

「椿さーん、薪これくらいでいいですかー?」

「はい、それだけあれば十分足りると思います。」

「へー、これがテントなんだ!この中で寝るなんてなんだか不思議な感じです。」

 シキが山中で薪を集めて戻ってくると、野営の準備も滞りなく完了していた。山岳用のドーム型テントが二人分と、日差しと雨風避けのタープまで張られている。

「これで結構快適なんですよ。シキさんにもきっと気に入っていただけ…ているようですね。」

「えへへ、なんだか秘密基地みたいで楽しいです!」

 テントの入り口を開けるとすぐに飛び込んで楽しそうにごろごろしているシキを見て、椿はなんだか好奇心旺盛な猫を連れてきたような気分になった。

「シキさん、設営もひと段落しましたし、一夜お世話になるこの神社にお参りをしませんか。」

「賛成!」

 シキ達のいる湖畔一帯が境内である剱楽神社は、その湖自体が巨大な手水の役割をしている。拝殿である鍾乳洞の入り口に柄杓が設置されており、椿はシキに倣って参拝の前に泉の水を掬い、手、口を清めた。

 湖の水は思わずため息が出るほど美しく高い透明度を持ち、ほとりからでもそこに棲む生き物の姿を見ることができるほどだ。

「ここで泳げたらとても気持ちいいでしょうね。…流石にバチ当たりでしょうか。」

「えーっと、多分大丈夫です。四都久民の巫女は神事の前にここで禊をしますからね。実は私、昔ここで溺れて死にかけた事があって、以来泳げないんですよね。」

「えっ意外です。シキさんにも苦手な運動があったんですね。」

「あはは、走るのは得意なんですけどね。」

 剱楽神社の拝殿はその広大な敷地と打って変わって、薄暗く狭い鍾乳洞の中にある。

 鍾乳洞といってもすぐに奥が狭まって行き止まりとなっており、こぢんまりとしたものだ。その内部に大きなしめ縄と鈴、賽銭箱が整然と立ち並んでいる。

 椿は財布から小銭を取って投げ入れると、鈴を鳴らし、二礼二拍手一礼を厳かに行った。特に願い事はないが、心の中で一晩境内を間借りするご挨拶を済ませた。

「うーん、おかしいな。」

 その隣でシキは参拝もせず不思議そうに奥細りした洞窟を眺めている。

「どうしたんですか?」

「えーっと、瘴気の残滓を感じるんです。昔封印して今は完全に本殿から出られないはずなんだけどなあ。」

 本殿で瘴気を放っている穢浄醜女は、黄泉の穢れが現世で畏れられ奉られた禍津日神と呼ばれる一柱。それは代々四都久民の巫女がその命と引き換えに封印を永らえさせてきた。

 封印されて尚黄泉の瘴気を醸し続けるが、それはユイの施した封印によってほとんど完全に抑えられているはずだった。

「つまり、どういう事でしょう?」

「瘴気を利用しようとした人がいる。」

 それは間違いなくあの混沌を呼ぶ仙人、宇都宮六廻の仕業。そして、瘴気の利用先は東雲市を侵略していた不知火朝の生成した麻薬、黄泉竈食の原料だろう。

「椿さん、きっとただの里帰りだけじゃ済まなくなります。引き返すなら今のうちですよ。」

 神妙な面持ちで警告するシキに対して、椿は頭を振り、柔和な笑みをもって応える。

「お気遣いありがとうございます。ですが、尚のことシキさんだけで行かせられなくなりました。それに、ここで引き返しては坂本さんや黒井さんに合わせる顔がありません。どうか引き続きお供させてください。」

「…心配しなくても、椿さんだけ置いては行きません。」

「ふふ、それならよかったです。」

 門矢椿の剣の腕ならシキは身をもって知っている。あの太刀筋には日々の鍛錬はもちろんのこと、実戦で磨き上げられた確かな強さがあった。

 だからこそ、シキは椿にその刃を振るう意思を問うたのだ。

「さて、お参りも終わったことですし、戻りましょうか。早く火を焚かないと日が暮れてしまいます。」

 参拝を済ませ鍾乳洞を出ると、落ちかけの日は真っ赤に染まっており、湖畔は燃えるような赤を写していた。

 二人は足早にキャンプ地へと戻るとシキが集めてきた薪に火を入れた。しばらくすると焚き火は煌々と燃え、すっかり日が落ちて暗くなった湖畔を仄かに照らしていた。

  椿は飯ごうに米と水を入れ、焚き火へそのまま投入。その間シキは薪の収集のついでに集めておいた山菜やきのこをざく切りにフライパンへ放り込みバターでで炒めると、たちまち香ばしい香りがあたりに一帯に広がった。

「何か来る。」

 椿がいざ夕餉にありつこうとしたところで、シキの鋭敏な聴覚が山の茂みから近づく何かの微かな物音を捉え、やむなく掴んだ箸を離した。

 大抵の野生動物は明らかに人間がいて、そればかりか火も焚いてある場所に不用意に近づく事はない。しかし、飢餓状態などで気が立っている場合は別だ。

 シキは薪割りに使った鉈を手元に手繰り寄せ、音のする方を見据えた。焚き火がちょうど逆光になり、夜の闇は彼女の目をも晦ましている。ついで椿も警戒して立ち上がり、腰に差した木刀に手をかけた。

「匂いに釣られただけの野生動物なら、火には寄ってこないはず。このまま大人しく去ってくれればいいですけど…。」

 徐々に目が慣れ、闇の中に隠れていたものがぼんやりと視認できるようになった。そしてそれが野生動物のものではなく、人間のものであると認識すると同時に、警戒レベルは一層高まった。

「お前、何者だ!」

 そして、シキの闘争本能に引き摺られるように、今まで控えていたユイの人格が表層に現れる。

 ユイはいつでも斬りかかれるよう獣のように身を前傾し、逆手に持った鉈を突進に邪魔にならないよう自然に身体の後ろに構えて様子を窺っている。

 人影は棒立ちのままふらふらと左右に揺れたかと思うと、おぼつかない足取りで茂みの影から出た。その時、不意に姿が火に照らされ、ついに正体を表した。

「おなかすいた、の。」

 か細い声でそう言って崩れ落ちたのは、焚き火の炎を反射して煌めく蒼銀の長髪を揺らめかせ、頭に長く垂れた兎の耳を持つ四都久民の痩せこけた少女だった。

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