死毒の薬 2
「おっすー!奇遇だね、雄一郎くんっ!」
「うわっ、出た。」
その女に出くわした俺の口から悲鳴のようなものが漏れ、それはとてつもなく苦い顔をしていたことだろう。
下着が見えんばかりに奇抜に改造された制服にゴツめのアクセサリーの数々や前下がりの濃紺のショートヘアに空色のインナーカラーが特徴的なこの女は、俺にとってあまり出くわしたく無い類の人間なのだった。
変態の名は水無空。東雲学園高等学校在学の三年生で先輩であり、俺にとっては姉弟子にあたる同門の格闘家でもある。
このところ俺は放課後大刀洗邸に通い詰めていた。理由は未だに違和感が残る目の治療の為である。
その道中、大刀洗邸の最寄駅から出て田舎道を進んでいた俺を仁王立ちで待っていた挙げ句に奇遇を装うとは神経がどうかしているのだろう。それに、おあつらえ向きと言うべきか間が悪いというべきか、付近に人気をまったく感じない。
「それでは、先を急いでますので。」
「ちょおっと待った!!」
避けて進もうとした俺の目の前に大きく手を横に開いて通せん坊のポーズをしている。どうやら見逃すつもりはなさそうで、俺は観念して大きなため息をついた。
「なんですか、俺急いでるって言いましたよね。」
「おやぁ?折角お姉さんが誘ってあげてるのに、どうして雄一郎くんはそんなに萎えた顔をしてるのかなぁ?」
「自然な流れで胸元を開くな、この全方位セクハラ女。」
「うふふ、雄一郎くんのエッチ。」
「再三言いますが、俺は急いでるので通してくれませんか?これ以上邪魔するようなら容赦はしませんよ。」
俺は出来るだけ目の前の女子高生が突然来ている制服を脱ぎ始めたことを意識しない様に努め、冷静に警告をした。
「じゃーん、残念ながら水着でした!」
「OK、問答無用だ。」
とうとう堪忍袋の緒が切れた俺は変態に向かって突進した。訳のわからないポーズを取っている隙だらけな彼女への不意打ち。流石の格闘家でもその拳を避けるのは難しいはずだ。
「やんっ!雄一郎くんったら大胆〜。」
しかし、俺の攻撃はあっさりと去なされてしまった。それどころかその勢いを逆手に取られ、体勢を崩した俺は胸元に押し付け雁字搦めとなった俺は身動きが取れない。
「どこに、押し付けて、やがる!」
「お姉さんのおっぱい、甘くて良い香りするでしょ?朝ちゃんに新しい香水作ってもらったんだ〜。うりうり〜。」
「うおおおお!?どこ触ってやがるこのド変態!?」
無理矢理引き抜いた右腕は真っ直ぐに顔面を捉えた。俺は無事に水無空を引き剥がし、貞操は守られたのだった。
「ナイスパンチだったよっ!」
変態は鼻から血がドクドクと垂れ流したまま何故かサムズアップをしている。なんだこの女、本当に意味がわからない。
「うふふ、お姉さんちょっと濡れてきちゃったかも…。」
「一体何がしたいん…だ。」
突然目眩を覚え、俺は地面に膝をついた。直後強烈な倦怠感に襲われ、意識が朦朧とする。
どうやら香水とやらに一服盛られていたらしい。
「あはっ、雄一郎くんダウン!これで夜くんも褒めてくれるかなー?」
「一体何考えて…。」
「うふふ、とっても気持ちいいでしょ?これねー、」
突如、俺の思考は全能感に支配される。ありとあらゆる感覚が研ぎ澄まされ、ありとあらゆる認識がーーー遠い。
「黄泉竈食(ヨモツヘグイ)っていうんだ~。」
その瞬間認知が極限まで高められ、認識した傍から思考が加速する。インパルスが爆発する。
超越するのは思考能力だけではない。全身の筋肉は膨張し、膨張した組織は発達に耐えきれず断裂する。さらに、歪んだ視界は平衡感覚を侵し尽くし、胃の内包物がこみ上げる。
「きゃは!ねえ気持ちいい?気持ちいいね~?」
「…んな、わけ、」
吐瀉物には血が混ざり、血管が破裂せんほどに膨張しているようでさらに鼻からも血が噴出している。
「あははは!」
激痛と吐き気に襲われ儘ならない頭で必死に思考を加速させる。香水に黄泉竈食を混ぜていたのか。何故このクソ女は薬を所持している?いや、それよりこのままでは俺の意識がーーー
「…顔を上げなさい。」
俺の視界に何か丸いものが映ると共に届いたその声に振り向くと、よほど慌てていたのか肩で息をしている大刀洗桜と目が合う。
「…ここに御佩せる十拳剣を抜きて、後手に振きつつ逃げ来るを、なほ追ひて、黄泉比良坂の坂本に到りし時、その坂本にある 桃子三箇を取りて待ち撃てば、悉く逃げ返りき。」
お嬢が呟くと、少しだけ感覚の暴走が和らぎ、俺はこれを好機と目の前の狂人に一矢報いると即座に距離を取った。
「…どこで油を売っているのかと思っていたのだけれど。随分と無様な姿ね、雄一郎。」
夏の茹だるような熱気の中、突如背筋を突き抜けるその寒風のように静かな声に、俺は心底安堵した。
「そう言うな、結構頑張ってたんだぜ。」
「…ふん、どうかしら。」
力尽き倒れた雄一郎を後を追ってきた使用人に応急手当をさせ、今度は桜が水無空と対峙する。
「…その格好は些か公序良俗を逸脱しているようですね、水無空先輩。」
「あ、やっほー桜ちゃん!あのさー、雄一郎くんはもう動けないはずなんだよね。桜ちゃん、何したのかな?」
「…古事記によると、かの伊邪那岐尊は黄泉比良坂より逃げ帰る際、木になっていた桃を三つ投げる事で黄泉からの追手を退たそうよ。」
見れば地面には三つの桃…ではなく、それに見せかけた巾着袋が転がっていた。
「ふふ、ごめん、全然意味わからない。」
「…仮にも黄泉の瘴気を使っているのなら、古事記くらい読んでおくべきでしたね。…もっとも、あなたのそのお粗末な頭では無意味な事なのでしょうけれど。」
「へえ、やる気?桜ちゃんって運動は大の苦手なんじゃなかったっけ?」
「…ええ。…だけど、既に私が運動する必要はありません。」
いつの間にかその場の空気は異様なものに変容していた。
桜の魔眼からは不気味な気配が溢れ出しており、そのプレッシャーだけで心臓が押し潰されそうなほどだ。
「げっ、もう魔眼を開いて!?」
お嬢の魔眼につられて湧いて出てきた悪霊共が水無空に絡みつき身動きを封じている。しかも、どうやら悪霊共は俺やお嬢には興味がないらしく、なぜか彼女へと吸い寄せられるかのように寄り集まっている。
「…さて、行くわよ雄一郎。」
「へ?」
お嬢は突然力の放出を止めるとくるりと踵を返し、情けなくも介抱されている俺を連れて車へと戻った。
呆気に取られた俺は先程までお嬢と対峙していた水無空に視線を移すが、既にその場に彼女の姿はなかった。
「…逃げられたわ。…相変わらず逃げ足だけは天才的な人ね。」
俺を後部座席に放り込むや否やお嬢が使用人に合図をして車が動き出す。
振り返ると、今まで人通りが一切なかった道中にちらほらと通行人の姿が見える。それに気がつくと同時に携帯端末がものすごい勢いで鳴り始め、十数件もの不在着信とメッセージを知らせる。
「…ふん、ご丁寧に人払いまで仕掛けていたようね。」
「人払い?」
「…ええそうよ、人払いの魔術。…あの性根の腐った陰気な魔女の術よ。」
その言い分だと、お嬢には心当たりがあるのだろうか。
「あのと言われても、流石の俺でも魔女の知り合いなんてまるで心当たりないんだが。」
「…シキから連絡があったのだけれど、あなた同様雪丸さんと龍斗も襲撃されたそうよ。…魔女は、不知火朝。」
それを聞いて合点がいった。
「確かに、水無先輩が不知火絡み以外で動くとは考えられないな。」
水無空はその不知火兄妹とかなり親しく、自由奔放な性格の彼女が唯一従うのが不知火兄妹なのだ。
不知火兄妹とは小学生の頃は同窓だった。中学では学区の関係で別だったが、当時正義の味方を気取っていた俺たちは悪質なトラブルを引き起こす彼らと事あるごとに対立していた。水無空はそんな不知火兄妹を溺愛しており、昔から何かにつけて彼らと行動を共にしているのだ。
「…不知火夜に襲撃された龍斗は病院送りになったわ。安心して、軽傷よ。…雪丸さんにはシキが駆けつけたみたい。二人とも外傷はないようだけれど、どうやら面倒なことになったみたい。」
不知火妹は特に凶悪だ。何が目的か知れないが、宇都宮が助けに入らなかったら雪丸はどうなっていただろうか。ともあれ無事だということにはひとまず安堵した。
「…あとこれ、開いてみなさい。」
そう言ってお嬢が送りつけたURLを開く。そこは様々な都市伝説やホラーゴシップを扱う掲示板サイトらしく、取り上げられている話題は数日前旧市街で起きたロストタウンの獣事件についてだった。
薬の売人や旧市街に迷い込んだ一般人を襲ったロストタウンの獣は、凶暴な四都久民という人種であり、今も東雲市のどこかを彷徨っている。というのが不知火朝の筋書きだ。
「上手いな、事実と嘘の織り交ぜに違和感がない。注意喚起にするよりも物語性を持った怖い話にしてしまった方が人の興味を引くし、仮に弁明の投稿をしたところでむしろ話の信憑性が増すだろう。」
「…同感。正直、私達の無い知恵を束ねたところで手に負えないわ。」
「確かに、俺たちでは無理だな。」
俺はいまだ気怠い身体をシートに預けたまま、耳に当てた携帯からコール音を聴いた。
◆
「ひっろーい!」
大きな屋敷門と漆喰の塀で囲われた広大な敷地の中は、異界とも呼べる空間が広がっていた。
「桜の家ってこんなに広いんだ!すごいね、花ちゃん!」
正門をくぐってまず見えてくる巨大な紅葉や松などの樹々が悠然と幹を伸ばし、しかしそれは丁寧に人と手で手入れが行き届いている。
「シキー、あんまりはしゃいでると笑われるよ。」
「あはは、ごめんごめん。」
視線を移すと苔むした池が奥へと続いており、その先に年季が入った大きく立派な日本屋敷が顔を見せている。
大刀洗本家は東雲市の都市部、東雲学園から夜都賀埜清神社、商店街へと続くいわゆる繁華街から郊外への道のりからは外れた場所に位置している。
大きな道路からも外れ、大刀洗本家へと至るには最寄りの駅を降りて徒歩数十分、古くからの民家や田畑が連なる田舎道を行かなければならない。
「ふふ、お嬢様の新しいご友人はとっても元気の良い御仁でいらっしゃいますね。」
シキの様子を見て、出迎えた使用人は口元に手を当ててクスクスといたずらっぽく笑った後、コホンと咳ばらいを一つ瀟洒に一礼して見せた。
「お待ちしておりました。雪丸様、宇都宮様。」
「お久しぶりです、秋月さん。」
迎えに来たその女性は由緒正しい大刀洗家に代々仕える秋月家の使用人で、秋月野鳥(あきづきのとり)という。
「お久しゅうございます雪丸様。まあ、しばらくお見かけしないうちにまた一段とお綺麗になられまして。それと、お初にお目にかかります宇都宮様。申し遅れましたが、使用人の秋月と申します。お噂はかねがね、お嬢様から伺っております。」
「宇都宮シキです。えへへ、さっきははしゃいじゃってごめんなさい。」
「いえいえ、どうかお気になさらなないでくださいませ。それでこそ手入れのし甲斐があるというものですから。」
正門を抜け、見事な庭園を過ぎ、シキと花火は玄関に通された。これもまた大きな玄関でその質実剛健な出立ちには厳かな雰囲気があった。
「秋月さんって、もしかして結構強いですよね!」
「さて、どうでしょう。薙刀をほんの少々嗜んでおりますが。」
「やっぱり!身のこなしからもしかしてと思ったんです。」
「まあ、光栄でございます。宇都宮様のお眼鏡にかなう腕かわかりませんが。」
「へー、そんなこと分かるものなんだ。私にはさっぱり。」
思わぬ強者の気配にシキは目を輝かせており、その様子に花火は呆れて肩をすくめた。
「それにほんの少しだなんてとんでもない、秋月さんは生活にも身のこなしが溶け込んでるほどの達人だよ。一度手合わせしてみたいなあ。」
「ふふ、では機会がございましたら是非。」
大刀洗桜の私室は屋敷の奥、使用人の居住する離れに最も近い最奥にあった。
周囲の建物や背の高い塀、隣接する竹林によりどの部屋よりも目隠しが多く、知っていなければそこに一部屋ある事に気が付かないだろう。
「失礼します。お嬢様、ご友人様がいらっしゃいました。」
「…通して頂戴。」
「えっと、お邪魔しまーす。」
促され、シキはぎこちなく扉をノックして扉を開いた。
「…あら、よそ見だなんて余裕ね。」
「ちょっと待っ…!」
そして目に飛び込んできたのは周囲の見事な日本屋敷とはうって変わって西洋風の部屋と、大きな画面のテレビには桜の勝利を讃える対戦ゲームのリザルト画面が表示され、ポテトチップスを片手にいつになく得意顔な桜と、力なく突っ伏す雄一郎の姿だった。
「あんたたち、呑気ね…。」
「よう、雪丸もやるだろ?」
「あんたね、私達は突然襲ってきた不知火達の対策を練るために集まったってこと忘れてないかしら。それに、やるもなにもシキはこういうの初めてじゃないの?」
「え?」
突然話を振られ素っ頓狂な声を上げたシキは、どうやらいつの間にか桜からゲームの操作方法のレクチャーを受けていたらしい。
「実はそのあたり、もう手は打ってあるんだ。順を追って説明するから、まあ聞けよ。」
花火は促されるままソファに腰掛け、手渡されたコントローラーを受け取った。自分からはあまりこの手のテレビゲームに触れてこなかった花火のコントローラーを握る手は少しぎこちない。
シキまでもソファに収まると、雄一郎は説明を開始した。
「まずわかっている事だが、不知火達はロストタウンの獣事件をネガティブな脚色を加えて広める事で宇都宮への印象操作をしている。今回の襲撃は俺や龍斗がそれに気がついて何らかの対策を取られる前に行動不能にしようとしたんだろうな。」
恐らく不知火は旧市街で発生した大規模な暴力事件の主犯としてロストタウンの獣を悪役に仕立て上げようとしているのだろう。そして四都久民の凶暴さを訴え、同時期に転校生として入ってきた宇都宮がその四都久民であることを暴露する。大方そうすることで宇都宮に対してのネガティブイメージを蔓延させるつもりなのだろう。
宇都宮=ロストタウンの獣を結びつけるには少し強引だとしても、宇都宮への攻撃だけなら四都久民自体を悪役にすることで事足りる。
「不知火が宇都宮だけを狙い撃ちしたなら太刀打ちできなかったかもしれない。だが、四都久民から間接的に攻撃しているだけなら付け入る隙はある。それは、」
俺は未だに自分の事だと捉えられていない宇都宮に視線を移した。
「…またよそ見。」
「ラッキー!」
「待ってくれ!?」
俺の操作していたキャラクターはその瞬間、無常にも戦闘不能となってしまうのだった。
◆
「首尾はどうだ?」
「お兄ちゃんが厄介な奴を潰してくれたお陰で邪魔も入ってないし、ネットの反応も思い通りに誘導できてる。上々だよ、…どっかの馬鹿はしくじったみたいだけどね。」
睨みを効かせるがしくじった当人はあっけらかんとしていて、無意味だと悟った朝は頭を押さえ、わざとらしく大きくため息をついた。
「やんっ!ねえねえ夜君、朝ちゃんがいじわるなんだよ~。自分だってユッキー逃がしたくせにさー。」
「あんた、打ち合わせ本当に聞いてた?アレに遭遇したら即撤退って話だったでしょ。まあそもそも、最初から馬鹿なあんたに坂本か雪丸のどっちか攫っておびき出すなんて繊細な作戦が務まるとは思えないけどね。」
「えーでもでも、桜ちゃんが戦えるなんて朝ちゃんも思ってなかったじゃん。私悪くないよ~。」
尚も食い下がる空に、不知火朝は突然ぷつんと来た。
「うるせえ喚くなこの豚!私が散々保険をかけてあれだけ忠告したというのに、てめえがダラダラしてるから大刀洗に勘付かれたんだろうが!この間抜け!」
「やーん、朝ちゃんが怖いよ~。夜君慰めて~。」
キレた朝が怒鳴り、空がわざとらしく夜に助けを求めに行くのはこれといって珍しいことではない。夜は淡白にまたいつものが始まった程度にしか認識しない。
「朝、それくらいにしておけ。大刀洗の力を見誤ったのは俺達全員の失態だ。」
「お兄ちゃんがそう言うなら…。」
「さっすが夜君!懐が広い!」
毎度鶴の一声で引き下がるのだから、彼にとってはその程度の日常でしかないのだ。
夜は抱きついてくる空を難なく避け、体勢の崩れた彼女の背中に腰掛ける。なにやら足元から嬌声が聞こえるが、気にも止めない。
「それより朝、どうやら妙な動きがある。」
「妙な動き?」
「噂の広まりが早すぎると思っていたんだが、これ見てみろ。」
夜が開いて見せてきたのは東雲市のニュースサイトのようだ。
「なにこれ…。」
そこにはロストタウンの獣の実在をアピールする記事と、その本人である”ユイ”への電撃取材が放送されていた。
記事よるとユイは、秘密裏に旧市街へ潜入して危険な薬物を流通させるなど工作していた反社会勢力を探っていたエージェントとあり、彼女が四都久民という特殊な一族の生まれである説明もされている。当主が市長を務め、古くからの名家でもある大刀洗家と、東雲市の発展に貢献した医療法人である神代会が後ろ盾に立ち、彼女の活躍で反社会勢力は壊滅。その後、インターネットなどであらぬ噂がたたないよう公表に踏み切ったと記載されている。
さらに、顔は隠されているが本人出演の生放送で四都久民の身体能力をアピールするパフォーマンスを披露するなどかなり強引な記者会見だが、東雲市において大刀洗家の後ろ盾はゴシップなど歯牙にも掛けない絶大な意味を持つ。
「してやられたな。」
「…やっぱこの馬鹿女のせいじゃん。」
「うふふ、それほどでも〜。」
嫌な音を立て、朝の履くローファーのヒールが空の顔にめり込んだ。
「手は有るんだな?」
「最終手段だけど。どうせ薬のストックもこれで最後。」
最終手段。もう後がない事に不知火朝の苛立ちと焦りは増していくばかりだった。
「問題ない、それが最善だ。」
「ガッテン承知!」
それは私の唯一の希望であり、それが潰えるという事は私の未来が文字通り永遠に閉ざされてしまう事に他ならない。
だから私は希望に縋って泥臭くも足掻いてみせるのだ。
◆
日もすっかり落ち夜の帳が下りた東雲市郊外。既に全ての商店のシャッターが降りている東雲商店街に彼女は寝間着にしている白の浴衣姿で一人ぽつんと立っていた。
人の気配のしない真夜中の商店街はどこか物寂しく、静寂で、それ故に微かな異常に対しても敏感になる。
漂ってくる死の匂いに、ユイはその犬歯を剥いて笑みをこぼした。
「なあ、良い月夜だと思わないか?」
問いかけた先でカツカツと、商店街の床に敷き詰められたレンガが踏まれる音が反響している。
現れたのは不知火朝、不知火夜、そして水無空の三人。さらに商店街を丸々覆うように結界が張られ、この場を異界たらしめている。
「悪く思わないでよ、あんたは存在してる事自体が反則なんだから。」
「ああ、構わない。だけどお前達も難儀だな、あの仙人に私を殺せとでも命じられたか?」
「…そこまで気付いていたってわけ。まあでも、大人しく連れていかれるなら殺しはしないけど?」
「はは、冗談!」
ユイが驚異的な脚力をもって一足跳びに放った神威の抜き打ちは、しかし夜の蹴りによって阻まれた。ナイフは革製のブーツに傷をつけるだけで刃は通らない。
「へえ、さっき研いだばかりなんだけどな。その靴、鉄板でも仕込んでるの?」
続けざまに二、三度斬撃を振るうが、その悉くを阻まれた。
「夜君だけに構ってないでよね!」
背後からの奇襲。しかし空の拳は届かず、ユイは既に二人から距離を取っている。
いかに四都久民の身体能力をもってしても、息の合った二人の猛攻を凌ぐ事は難しいが、一撃離脱を繰り返す事でユイは二人同時にさながら一対一のように相対しているのだ。
「思ったよりやるね。それに神威を見切る事なんて並の人間じゃできないはずなんだけど、それはどんな絡繰なんだ?もしかして、さっきから鼻につくこの死臭と関係あるのか。」
「お喋りな奴だ。」
突然、神威並みの速さで接近した夜の蹴りを避けきれず、ユイは腕で受けた。咄嗟に威力を殺す様に受け流すが、ナイフを取り落としそうなほどの痺れが残る。
「お兄ちゃん、早く決着つけるよ。」
「ああ、わかっている。」
不知火朝からなんらかの異様な力の流れを感じ、その後強烈な殺気が放たれた。
刹那、ユイは総毛立ち、咄嗟に全力で退避する。その瞬間、今し方ユイがいた場所を抉り取るかのように明らかに殺傷性の高い攻撃が通り過ぎた。
「くそ、今のは少しヤバいな。」
「次は外さない。」
「夜くん、仕留めるよ!」
今ので感触を覚えたのだろう。夜と空の殺気はさらに増している。
対するユイは今の同時攻撃に対抗する術はない。次同じ攻撃をされたら確実に敗北するだろう。
「ああ、交代だ。」
ユイが逆手に持ったナイフを順手に持ち替えると、鋭い表情が幾分柔和になり、その刹那、同時攻撃が襲い掛かった。
先の攻撃より速く、鋭く、完璧なタイミングで解き放たれたその技は、しかし彼女に届く事はなかった。それどころか攻撃を仕掛けた側のはずだった水無空は吹き飛ばされ、ぶつかった店のシャッターが激しく音を鳴らした。また、不知火夜の履く頑丈なブーツも鉄板ごと綺麗にソールが抉られており、もう使い物にならない。
「観念しないと、次は足首を斬り落とすよー。なんてね。」
ユイと人格が入れ代わり、シキが表層に出ていた。
ユイとシキでは性格や言動、そして得意分野までも違い、そしてそれは戦闘においても例外ではない。ユイが攻めが得意なら、シキは守りや反撃が得意なのだ。
「隙あり!」
「残念。」
音もなく背後から掴みにかかった空をまるで見えていたかのようにすり抜け、そしてシキは一片の躊躇なくナイフを突き刺した。
ナイフを抜くと、飛散した鮮血は白の浴衣を赤く汚し、空は刺された腹を押さえてその場に倒れ込んだ。
「お前ッ!」
それが冷静さを欠いた突進であるならば、いくら常人離れした速度であろうがシキにとって捌くのは容易いことだ 。蹴り技の勢いを殺さず、その威力を利用して蹴り返す。その力は凄まじく、夜は軽々と弾き飛ばされ商店街のレンガ壁へ激突した。
尚も立ち上がろうとする夜に対してシキの判断は早く、立ち上がることができないようナイフで足を突き刺した。
「ま、安心しなよね。どっちも死ぬような傷はつけてないからさ。」
瞬く間に水無空と不知火夜を潰した彼女に対して、不知火朝が打てる手立てはもう一つしかなかった。
その逃走はやはり常人とは思えないアスリート並みの速さだったが、それは一般人から見たらの話である。つまり、四都久民である宇都宮シキからしてみれば追いつけない速度ではない。
だが、シキは追わなかった。追う必要がなかった。逃走する朝が、商店街のアーケードから出る寸前、それ以上進む事ができなかったからだ。
「これは、結界…?」
「…ええ。あなたを真似てみたのだけれど、気に入ってくれたかしら?」
シキの背後からゆっくりと歩いて現れた
桜は、両手で重そうにシキの小太刀が入った桐の箱を抱えている。
「…終わったようね。」
「タイミングバッチリだよ、桜。」
朝はすぐさま結界の破壊を試みるが、既に開かれた桜の魔眼に魅入られてしまう。
魔女である朝は抵抗力があり、完全に精神を奪われることは無い。だがそれ故に流れてくる根源的な恐怖の感情に対して意識を手放す事ができず、永続的な苦痛を味わうことになる。
シキは受け取った小太刀の鞘を抜き捨てた。薄暗い中でも微量の光を反射させ、その刀身は月明かりに照らされ爛々と煌めいている。
「ごめん、ちょっと痛いよ。」
振りかぶったその小太刀を袈裟に切り下した。
◆
後日談。
不知火兄妹と水無空は多量の出血と意識不明の重体で神代会病院で救急搬送され入院することになった。救急隊の手配は既に済んでいたため到着から処置までスムーズに事が進んだようだ。
そんな彼らとは入れ替わるようにして退院した龍斗はざまあみろとぼやいていた。
その後、不知火達が傷害事件として起訴するなどということもなく、大刀洗の管轄である怪異案件として処理されたのだそうだ。
一般病棟からは隔離された病室で目覚めた彼らは思いの外大人しくしていた。約一名、様子を見にいくや否やなにやら卑猥な行動をしていた馬鹿も居たが、概ね問題も起こしていないらしい。
目覚めた頃には傷も治り始めており、それはあまりに綺麗な切創で完治する頃には傷跡も残らないそうだ。
不知火朝は俺たちを襲った動機を洗いざらい教えてくれた。
「どうせあんた達は私が魔女だって事も、あのイカレた仙人と関わってる事も知ってるんでしょうけど。」
そんな前置きをして。
不知火朝は先天的に魔女である。その魔術は薬や毒の製作や効能を操る事に特化しており、風邪の治療薬の薬効を高めたり、副作用を抑えたりなどが主な用途だったそうだ。
宇都宮六廻が接触したのは一年前。おそらく時期的には宇都宮が神代会に保護された後くらいだろう。
仙人は黄泉の泥を素材に麻薬、黄泉竈食を不知火朝に作らせる為、彼女に黄泉の呪いをかけた。不知火兄妹も激しく抵抗したが、流石に相手が悪かったということだろう。
彼らは泥を飲まされ、生殺与奪の権を握られてしまう。その代わり、不知火朝は魔女としての力を、不知火夜は魔人としての高い身体能力を得る事となった。水無空は呪いを受けてはいないが、不知火朝の力で弱毒化させた黄泉竈食を勝手に飲んでいたらしい。俺の攻撃が通用しないわけだ。
呪いを受けた不知火は、旧市街で定期的に与えられる黄泉の泥を使って黄泉竈食を精製していた。それでも魔女の力を限界まで使って弱毒化させていた為ユイの仮説通りに乱用者全てが死亡したという事実はない。だが、抵抗力の低い者から少なからず死亡者は出した上廃人になった者は処分され、黄泉の泥へと変わり果ててしまった。
商店街で宇都宮が彼らを斬ったのは、不知火達の受けた呪いを祓う為であるが、それも宇都宮の神威の斬撃だけでは不十分だった。宇都宮六廻は不知火兄妹をいつでも殺す事ができる。だから彼らが用済みになる前に奴の監視網から逃れ、呪いを祓う必要があったのだ。
宇都宮の周辺を襲撃して拉致し、彼女を一人で釣り出す作戦も、インターネットを駆使して宇都宮を攻撃して孤立したところを襲う作戦も潰された不知火はもう後がなかった。だからわざと宇都宮を孤立させることで彼らを釣る事ができたというわけだ。
宇都宮が戦闘を行ってる間にお嬢が結界で神域を作る。その場所に最適なのが商店街だったらしい。お嬢曰く、
「…神域っていうのは神社の境内のことよ。…今回はアーケードの入り口を鳥居、シキが住んでる喫茶店を本殿に見立て、私を仮の宮司として神域を成すわ。」
とのことだったが、ユイもその意見に同意しており、狙い通り商店街を神域とする結界を作る事ができたようだ。
神域の特性は祀る神格によって異なるが、宇都宮シキとユイの神性は以前にお嬢が視た通り刃のように鋭く、清廉潔白そのものなのだそうだ。それが宇都宮六廻の操る黄泉の不浄と相性が良いらしく、その監視を完全に断ち切る事ができる。
そうして呪いから解き放たれた不知火達は宇都宮を襲う理由もなくなり、和解となった。
意外にも不知火朝が雪丸に対して誠実に頭を下げて謝罪をしており、雪丸自身も驚いていた。雪丸は今後一切自分らに危害を加えないことを約束させ、謝罪を受け入れた。
事件を経て大きく変わったことと言えば、宇都宮が帽子で耳を隠さなくなったことだ。
大刀洗からの公式発表を受けて、四都久民という存在が東雲市に広く認知されたことで隠す必要がなくなったのである。もちろん、『ロストタウンの獣』とは別人という設定だが。
その事で宇都宮の元には再び転校初日のように人が殺到し、収拾を付けるのに苦労していた。というか、収拾が付かず、途中で窓から飛び降りて逃げていた。その後、当然危険行為で教師から説教を受けていたようだった。
「雄一郎!花火ちゃんもう来てるよー!」
「すぐ行くよ!」
階下のリビングから呼ぶ親の声へ雑に大声で応えた。そうしてバタバタと準備を終え玄関へと向かうと、手持ち無沙汰に待っている雪丸を見つけた。
「よっ、雪丸。」
「おはよ、相変わらず忙しないわね。」
「悪い悪い。」
日課となっている雪丸との登校。駅伝部の朝練に合わせて朝早くから家を出る為、通勤通学の人通りも少ない。
つい先日宇都宮と不知火が争った商店街も静かなものだ。所々その闘いの傷跡…というより不知火達が叩きつけられた後が残っている。
本人から聞いた話によると、宇都宮は不知火ら三人相手に対してかなり一方的な闘いをしたらしく、龍斗を痛めつけた不知火夜をして二度と敵に回したくないと言わしめたほどだ。
特に傷の深かった水無空は何故か宇都宮に懐いてしまい、未だ完治していなかった傷が開いて入院期間が延びたらしい。
「おや、君は。」
その眩いほどのブロンドの女性は俺たちの唐突に現れた。
そこにいるだけで圧倒的な存在感を放っているというのに、彼女がすぐ目の前に現れるまで気付きもしなかったのだ。
まさに青天の霹靂。俺はあまりの衝撃に頭の中で警鐘は鳴りっぱなしだし、全身の鳥肌が一気に立ち、震えが止まらない。
俺はかろうじて隣にいる雪丸に視線をやることができたが、雪丸は立っていることすらできず、地面にへたり込んでしまっている。出来るだけ雪丸の視界を覆うように半歩前に出るだけで精一杯だった。
「そう警戒しないでおくれよ。いやしかし、警戒して当然と言えるだろうな。君のその目に私は確かに脅威として見えているだろうからね、全くもって当然の反応さ。」
その女性を一瞬目にしただけで右眼が燃えるように熱を帯び、俺はすぐさま目を閉じた。その一瞬だけしか見ることはできなかったが、女性の身に纏うオーラのような何かがあまりに大きく、あまりに眩しかったのだ。
「いやなに、旧友が近くにいたものでね、久々に会ってみたくなったのさ。心配しなくてもすぐにこの市からは退散するよ。」
それだけ告げると、ブロンドの女性は俺たちの隣をすれ違う。
「ああそうだ、またいつか合間見えるだろうから、どうかそれまで見知りおいておくれよ。私の事は、そうだな、」
そして背後に回ると、嫌味ったらしい声色で囁いた。
「シャルロッテ・ミルヒシュトラーセとでも呼んでくれたまえ。」
振り返ると最初からそこにいなかったかのように消えてしまっていた。
俺は安心すると同時に力が抜けてしまったようで、その場に座り込んだ。
「さ、坂本。今のって…。」
「…わからん。」
しかし、この東雲市で何か良くない事が起こりそうな、そんな確信めいた予感だけは肌で感じていた。
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