死毒の薬 1

 武道場、正午。日本の夏の茹だるような熱気はいまだ健在であり、うるさい音を立てているいくつかの扇風機と、窓の外から流れ込んでくる生暖かい風だけがいくらかその不快感をやわらげている。

 道場内は外気温や湿度とはまた別の種類の静寂な熱気に包まれていた。

 床を踏む音、木刀同士がぶつかり合う音、時折漏れる歓声は、緊張感の中である種の調和を保っており、その緊張感は無音とは違う静謐な世界を道場内に作り上げているのだ。

 そしてその静けさの理由は、武道場の中央で繰り広げられる野試合に皆釘付けとなっているからに他ならない。

「凄い…。」

 古流剣術の師範代である門矢椿は、もう何合打ち合ったか数える事も億劫になるというのに、いまだ楽し気な笑みを絶やさない立ち合い相手に思わず息をのんだ。

 すでに肩で息をしている彼女は、しかし同じく口元は笑んでいる。単純に、それが楽しいからだ。

 剣の実力は伯仲しており、試合自体はわずかに椿が優勢に見えるが、そのあと一歩が恐ろしく遠い。さらに、間合いに入れば予測のつかない反撃に、ほとんど勘を頼りに捌き、抜け出さなければならず、たった数合斬り結ぶだけで体力と精神力が一息に削られるのだ。

「さすがですね、シキさん。」

「椿さんこそ!」

 目深に被った大きなキャスケット帽の下、宇都宮シキは口角を上げて犬歯を剥くと、疲弊している椿へ一足跳びに突っ込む。

 木刀の切先を真っ直ぐに、最短距離での突き。単純だが、シキの瞬発力を以ってそれは神速に至る。

 瞬く隙も与えぬ一閃は、椿の古流剣術の技術によりいなされるが、あまりの剣速に木刀を持った手は痺れ、必殺の胴薙ぎは空を切った。

 そのまま両者は数秒の間対峙するが、椿は徐ろに構えを解き木刀を腰に差した。そしてふっと息を吐くと、

「疲れましたぁー…。降参です、こうさーん。」

 途端に情け無い声をあげて床にへたり込んでしまったので、張り詰めた空気が一瞬にして綻び、道場内は歓声に沸くのだった。

 宇都宮シキは東雲市に堂々とそびえ立つ霊山、その頂上につながる長い石段を登り、夜都賀埜清神社へと足を運んでいた。シキにその記憶はないが、雄一郎から神主と門矢椿の二人から世話になったことを聞き、そのお礼にやってきたのだ。まさか試合をすることになるとはシキも想定していなかったが、門矢椿の有無を言わさぬ気迫に当てられ、彼女は上がる口角と武者震いを抑えることができなかったのだ。

「あはは、やったやった!勝った!わーい楽しかったー!」

「なんだか道場破りみたいだな、これ。」

 宇都宮は勝利の喜びに無邪気に跳ねまわっており、歓声を上げているギャラリーは、目の前で繰り広げられたその神掛かった試合を見て熱気が沸いている。

 最後、宇都宮の放った神速の突きは、ユイのものと比べても遜色ないほどの速さだった。椿さんでさえほとんど閃光にしか見えていなかったはずだ。

「さすが、噂に違わずお強いですね。」

「えへへ。こっちこそ、何度もやられるって思いました。」

 試合の流れ自体は椿さんにあった。確かに宇都宮は体力、筋力、速力において椿さんの上を行っていたのは間違いない。実際持久戦となり、華奢で体力のない椿さんが白旗を上げる結果になったのだが、初めの数回の斬撃で宇都宮は危うく一本取られそうになっていたのだ。結果として異次元の体力を持つ宇都宮に軍配が上がったのだが。

「シキさん、無理言って立ち合いしていただきありがとうございます。私もまだまだ精進が足りませんね。」

「無理だなんてそんな。私、こんなに楽しい剣の試合は初めてなんです!」

 宇都宮は試合の余韻が抜けないのか、ひとしきり喜んだあとも興奮が収まらないようだ。

 そういえば、本物の刃物ではない木刀での立ち合いとはいえ、剣を手にしているというのにユイが出てきている雰囲気ではなかった。実戦ではなかったからだろうか、はたまた別の理由があるのだろうか。しかし、彼女の太刀筋は、ユイの荒々しいそれとは異なるが、剣の冴えは勝るとも劣らず、まさに神懸った力だった。

「それは光栄です。シキさん、ぜひまたお相手をしてくださいね。」

 その神懸った力と互角以上に渡り合っていた椿さんの剣技も、もしかすると人間の領域を越えているのではないだろうか。

「ところで坂本さん、お怪我はもう大丈夫なんですか?」

「おかげさまでなんとか。本調子じゃないですけどね。」

 日常生活を送れるくらい回復するまでに残りの夏休みを丸々要した。宇都宮に続いて俺や龍斗まで病院送りとなり、律儀に見舞いにやってくるお嬢や雪丸から罵倒される日々を送る羽目になっていたのだった。

 思いの外怪我は大したことなく、折れたと思った肋骨も打ち身で済んだ。しかし、目の回復があまり芳しくなく、右目には未だ違和感が残り、視力もかなり落ちている。お嬢曰く視力の低下は一時的なもので、時間はかかるがいずれは快復するそうだ。

「もー、それは君が無茶するからだよ。」

「まったく面目ない。」

 バツを悪くした俺が頭を掻くのを見ると、椿さんはクスクスと小さく笑う。

「相変わらずのようですね坂本さんは。昔から女の子の前ではとことん格好つけなんですから。」

「ちょ、やめてくださいよ黒歴史なんですから。」

「へぇー、やっぱり君格好つけてたんだね。」

「か、からかうなよ…。それに、宇都宮の前じゃまったく格好つかなかっただろ。」

 ユイは強かった。あの不浄の泥から繰り出される数多の攻撃を逆手に構えた小太刀一本で切り伏せる鬼神。多少喧嘩の腕に自信がある程度の俺ではまず相手にならないだろう。

「つか椿さん、いい加減本題に入ったらどうです?」

「本題?」

「そうですね。では立ち話もなんですし、お二人ともこちらへ。」

 椿さんに導かれるがまま、俺たちは奥に通された。武道場の奥、給湯室のそばにはちゃぶ台と座布団が設置されており、椿さんは日頃ここでのんびりとしていることが多い。

「シキさん、故郷に一度帰省されるそうですね。」

 ずず、と湯呑を呷ると、門矢椿はそう切り出した。緊迫した試合後に緩んでいた空気が再度一気に冷え込むのを感じた。それもそのはず、宇都宮シキが故郷である四都久の地に帰省するつもりであることを知っているのは、本人から直接聞いた坂本雄一郎だけであるはずなのだから。

「聞けば保護者の方がご一緒できないとのことで。もしお邪魔でなければ、私を伴っていただけませんでしょうか。」

「…えっと、君、意外と口が軽いんだね。」

 宇都宮はため息交じりに文句を言うと、流し目で俺を刺した。

「えーっと…。」

 シキは思案する。門矢椿が大方の事情を知っているとはいえ、隠れ里である故郷に連れて行くのは気が引けるのだ。

 それに、彼女はユイを知らない。里帰りするのにユイとして帰るべきか、シキとして向かうべきか決めあぐねていたのだが、故郷の人たちは死んだはずのユイとして認識するだろう。

「私は大学で民俗学を研究しているのですが、この夜都賀埜清神社と四都久民との関わりに興味がありまして。それに、坂本さんも療養の為にご一緒できないとのことでしたので。…見栄だけは一丁前な坂本さんよりはお役に立てますよ。」

「おい、なんかサラッと酷くないか。」

「うー、でもなー。いいのかな…。」

「否定しろ!?」

 尚も思案する宇都宮を見て、俺はその埒が明かない様子の椿さんに一つ助け舟を出すことにした。

「なあ宇都宮、さすがに保護者役も連れずに一人で帰省するつもりじゃないよな?」

「うぐ…。」

「椎名先生どころか、お嬢や雪丸が知ったらとんでもない剣幕で怒るだろうなー。」

「うー、もうわかったよ。…まったく、君たちは心配性が過ぎるんじゃないかな。」

 不本意そうではあるが、なんとか椿さんの同行には同意してくれたらしい。

「でもよかったじゃないか、これで二人に秘密にしなくてよくなっただろ?」

「全部君の掌の上ってことか。わかったよ、ちゃんと桜と花ちゃんにも、…ついでに奈都や椎名先生にも言っておくよ。」

「よろしい。」

「あ、坂本君危な…。」

「え、」

 一件落着と腕を組んで頷いた直後、宇都宮の指摘を受け、その視線の先を見るように振り向いた。

「隙あり!」

 しかし振り向くより先に突然背後に衝撃が加わり、俺はちゃぶ台を跳び越すように吹き飛び、武道場の壁に激突する。なんとか咄嗟に受け身を取ることができたが、武道場の老朽化した木材はその衝撃で嫌な音を立てた。

「テメェ、怪我人に何しやがるこのクソジジイ!」

「はっはっは油断したな坊主!」

 神社の宮司、水上源八は俺にドロップキックをした後、先程の俺を真似るように偉そうに腕を組んで仁王立ちしていた。

「だ、大丈夫?坂本君。」

「ああ。まったく、いい歳こいてドロップキックなんてしてると腰痛めるぞクソジジイ。」

「なんだ、今日も相棒は来てねえのか。あいつ、高校生になった途端めっきり顔出さなくなりやがって。まさか女でも出来やがったか?かーっ、どいつもこいつも青春しやがって羨ましいなぁおい。」

「聞けよ、ったく、耳遠くなってんじゃねえのか。あと、龍斗は生徒会で忙しくしてるらしいぜ。」

 部活動で学校へ行っていた雪丸の証言で、どうやら夏休み中もほとんど生徒会活動で駆り出されてたようだった。いまいちどんな活動をしているか見えないが後から聞いた話、どうやら夏休みの麻薬騒動にも生徒会が首を突っ込んでいたらしいのだ。思えば確かに龍斗は麻薬についても知っている情報が最初から多すぎた。もしかしたら俺達と行動を共にしたのも生徒会執行部の活動の一環だったのかもしれない。

 しかし、そうだとすると生徒会執行部は単なる学生の自治機関というには活動が幅広い上に危険過ぎる。彼らは一体何者なのだろうか。

「えっと坂本君、この人は?」

「おっとそうだった、宇都宮、この中年のおっさんが夜都賀埜清神社の宮司の水上源八。こんなんでも一応俺の師匠だ。」

「あ、えっと、宇都宮シキです。その節は大変お世話になりました…。」

 シキは改って深々と頭を下げた。彼女にとって門矢椿と水上源八は命からがら流れ着いたこの神社で瀕死の命を救ってくれた。恩人でもあるのだ。

「おう、まあこれも神様の御心のままにってこったな、いいってことよ。詳しいことは知らねえが、お前さんもとんでもねえ事に巻き込まれちまってたみてえだな。そこのエロ坊主が少しでも役に立ってたならよかったぜ。」

「エロ坊主って、坂本君?」

「違う、誰がエロ坊主だ。まったく、宇都宮に変なことを吹き込むなよな。」

「おうおう、純白の巫女服を着た美少女を妄想して鼻の下伸ばしてたやつが何か言ってらぁ。」

「は!?」

 何てこと言いやがるんだこのジジイ!と思ったのも束の間、宇都宮も心なしか恥ずかしそうに目を伏せている。

「わー、えっと、そうなんだ。…流石にちょっと恥ずかしくなってきちゃったな。」

「だから違うんだ宇都宮!」

「気をつけてくださいねシキさん。男は皆狼ですよ。」

「椿さんも乗らないでくださいよ!」

 何も言い返すことができなかった俺は、女性陣の冷ややかな視線に刺され満身創痍だ。


「そんじゃ、老ぼれはさっさと退散するとしようかね。」

 それから宇都宮シキに関する情報と、夏休みの騒動の概要を宮司と門矢椿に共有し、宮司から馬鹿にされたりなどした。

 また、宇都宮は無事に道場に迎えられ、椿さん達と共に自らの剣術を研鑽する場所ができたことを素直に喜んでいた。

「あ、ちょっと待ってください。」

 シキは長い桐の箱を取り出すと、それを宮司へ差し出した。

「あの、これをまた神社で預かってもらえませんか?」

 桐の箱の中にはあの小太刀が収まっており、これを預けるのがシキの当初の目的の一つであった。元の所有者とはいえ、未成年で無免許であるシキが所持し続けるのは難しい。事情を知る宮司に神社の宝物庫で預かってもらうの安全だろう。

「あいわかった。嬢ちゃんの刀は責任持って預かるぜ。」

「やけにあっさりなんだな。」

「馬鹿野郎、餓鬼にこんな危ねえもん持たせられっかよ。それに、明らかに御神刀の類だしな。うちで預かるのが一番良い。」

「御神刀かどうかなんて、そんなわかるもんなのか?」

「ま、伊達に宮司やってないってな。そんじゃ、コイツは宝物庫で保管しておくわ。」

 そう言って宮司は桐の箱を小脇に抱えて武道場を後にした。



「ねえ、無視しないでよ。」

 部活の帰り、校舎裏で今し方見て見ぬふりをして通り過ぎようとした女子生徒に呼び止められ、新学期早々面倒な相手に絡まれたものだと雪丸花火は嫌々ながら立ち止まった。

「今日も男子にガードされていいご身分。これっていわゆる姫ムーブってやつ?ウケる、ブスがあんまり調子に乗らないでよ。」

「なにか用?」

 人相の悪い目つきとそばかす、三つ編みにした明るい赤毛が特徴的な女子生徒、不知火朝。彼女はその外面の良さで常にスクールカースト上位を維持しつつ、普段は猫を被っているがその性根は陰湿で邪悪だ。

「はあ、何その態度。」

「…私、急いでるんだけど。」

「は?マジでぶっ殺すぞ、お前。」

 不知火朝は手に持ったカッターナイフの刃をカチカチ、と伸ばした。

「あんたさぁ、転校生と仲良いんだって?」

 カッターナイフを向けてにじり寄る朝の狂気に得も言われぬ恐怖を感じ、花火の目はその刃に釘付けになる。

「ねえ教えてよ、その子の事。教えてくれたらその不細工な顔がもっと不細工にならなくて済むんだからいいでしょ?私、どうしても転校生と一度お話しておかなくちゃいけないんだよね。」

 開かれた瞳孔、荒い息、ギラギラと光を反射する凶刃。唐突に明確な害意を向けられた花火は身体が硬直し、嫌な汗が一瞬で全身を伝うのを感じる。

「…あー、でももういいや、飽きてきた。」

 不知火朝がその興味を失ってしまえばそれまでだ。利用価値がなくなった上に花火のような気に入らない人間に対しては剥き出しの攻撃性のみを表にする。

 花火は自らがあのカッターナイフに切り刻まれるという生々しい想像をしてしまい、足がすくみ逃げる足が遅れてしまったのだ。

「とりあえずぶった斬って考えよ。」

「え、ちょっ…!?」

 斬られた、と花火は思った。狙われた顔を防ぐ暇もなく、無情にもその刃は振り下ろされてしまったのだと。

「おいおい、刃物なんて振り回したら危ないだろ。」

 どこからともなく現れた彼女が、その凶器をまるで最初から持っていたかのように器用に玩んでいる様子が目に映るまでは。

「まったく、とんでもない奴だなお前。ハナビ、大丈夫?」

「えと、ありがと…。ユ」

「おっと、」

 口元に人差し指を押し当てられた花火はハッとして押し黙った。転校生として東雲学園にやって来たのは宇都宮シキであり、ユイではないのだ。

「さて、噂の転校生宇都宮シキは私の事だけど、お前何者?」

 ユイはカッターナイフの刃を仕舞い、返すように持ち手側を向ける。それはまるでいつでも取り返せると言うように明らかな挑発を込めていた。

「ああ悪い、お前が何者かなんてどうでもいいや。ハナビの敵って事は私の敵って事だし、それで十分。…というかお前、ちょっと臭うぞ。」

「は?」

「ああ、お前からは微かに死の臭いがする。この学校に来た時から鼻についてずっと気になってたんだけど、やっと見つけたよ。」

 飄々としていたユイはすうっと目を細め、冷たい殺気を表に出した。

「隠してるんだろ、これと交換だ。さっさと私に差し出しさえすれば痛い目見なくて済む。」

「…さっきから何言ってるのか分からないんだけど。」

「惚けるなよ。この死臭はあの薬、『黄泉竈食(ヨモツヘグイ)』と同じ臭いだ。」

 黄泉竈食。花火はその名前を知っている。それは夏休みにシキ達が宇都宮六廻を撃退するまで東雲市に流通していた麻薬の名前だ。そしてその正体は黄泉の神である穢浄醜女から流れ出た不浄そのもの。効果は神威による一時的な身体強化と引き換えに乱用者を確実に死に至らしめるものだ。

「それは危険すぎる。こっちで処分してやるから大人しく寄越しな。」

「…チッ。」

 朝は学生鞄を開け、手探りで取り出したのは小さなチャック付きのポリ袋。その中から出てきた赤い紙状の物質を花火は一度目にしたことがあった。

「あんた、犬か何か?」

「生憎嗅覚には自信があるんだ。」

「あそ、まあどうでもいいや。…少し勿体無いけど、」

「おい、早まるな!」

 炙った煙を吸うだけで最後には中毒死させるほどの強力な麻薬。不知火朝は躊躇いもなくそれを嚥下した。そのあまりに突然の行動に、ユイはただ立ち尽くして見ることしか出来なかった。

 だからこそ反応が遅れたのだ。

「シキ!」

 ユイが知覚した頃には朝の拳が眼前に迫っていた。黄泉竈食の服用で身体能力が限界を超えているとはいえ、ユイにとって大した速度でも大した威力でもない。

 ただ一点だけ、彼女の意表を突いたがためにその何でもない女子の拳が効果を発揮するのだ。

 反射的にのけぞったユイは、真正面からその拳を受ける事はなかった。しかし、運悪く攻撃の軌道上には帽子のツバがあり、大きなキャスケット帽が空を舞う。

 結果として耳隠しとしての機能は失われ、四都久民の特徴である大きな獣耳が露わとなった。

「ふふ、面白いものが撮れちゃった。」

 すかさず写真を撮った不知火朝は、まるで格好の獲物を見つけたかのような笑みを浮かべている。

「なるほど。転校生、あんたが『ロストタウンの獣』ってわけ。クスリが手に入らなくてずっとイラついてたし、ちょうどいい。」

 彼女はひらひらと画面に映るシキの顔を見せつける。

「…何をするつもりだ。」

「あ?口の利き方には気を付けろよ化け物。自分が今詰んだってことも理解できてないの?」

 不味いと花火は直感で感じ取ったがすでに遅かった。彼女の手にかかればあの写真をいくらでも悪用できる。そしてそれをやめさせる為には写真データを消すしかないのだが、薬で身体能力が上がっている彼女を捕まえるのは容易ではない。

「困ったな、私じゃお前の悪巧みが理解できない。…ハナビ、あいつは一体何を企んでるんだ?」

「たぶんみんなに言いふらすつもりだと思う。…その、シキがロストタウンの獣と同一人物だってこと。」

 ユイは首を傾げる。どうやらその危険性をいまいち理解できていないのだろう。

「ロストタウンの獣、結構噂になってるんだよ。…それに暴力沙汰だし、まだみんなシキの事よく知らないから。」

 花火は怒りと遣る瀬無さに奥歯を噛みしめ朝を睨み付けている一方、ユイ自身は飄々とした態度を崩さない。

「ふーん、いい趣味してる。そんな事より、黄泉竈食を丸呑みしてよく平気だなお前。私より余程化け物じみてないか?」

「…言ったよね、口の利き方には気を付けろって。かわいそうだけど転校早々あんたの学園生活終わらせてあげるから。じゃあね。」

 ユイのその歯に衣着せぬ物言いに痺れを切らした朝はそれだけ言い残して去っていった。

「追わなくていいの?」

「ま、クスリ自体はあいつが飲んじゃってもう無いしな。追いかける理由もないさ。」

 ユイは拾い上げた帽子の汚れをはたくと、器用に耳を隠すようにかぶり直した。

「それより、ハナビが無事でよかったよ。…っと、シキが何か言いたげだな。またな、ハナビ。」

「え、ちょっと…ッ!?」

 花火は突然前方からのしかかった重みを慌てて受け止めた。

「花ちゃん、怪我ない!?ホントに大丈夫!?」

 切羽詰まった様子のシキが花火に抱きついたのだ。

 その勢いに花火は大きくのけぞったが、不思議と倒れ込まないのは、花火の全体重を抱きついている方のシキが支えているからだ。

「えと、シキ、大丈夫。それより、この体勢がしんどいかも。」

「あ、あはは、ごめんね。」

 シキはひょいと軽々しく花火を抱き上げると、静かに着地させた。

「それより、追わなくていいの?あいつの手にかかれば、すぐに全校で噂になるわ。」

 不知火朝のネットワークは学内だけでも幅広い。シキが突然の転校生だということも相まって瞬く間に噂が広まる事だろう。

「んー、確かに厄介だけど、大丈夫なんじゃないかな。いつまでも隠してられないし、それにいつかは明かすつもりだったことだもん。」

 花火の心配をよそに、シキはあっけらかんとしている。

 確かに、シキの力を持ってすれば真正面から武力行使してくる者は少ないだろう。しかし、武力だけが攻撃ではないのだ。

「…私も昔、あいつのせいで散々な目に遭ってきたわ。その矛先が今度はシキに向くなんて絶対に許さないんだから。」

 花火は硬く拳を握り、その決意を口にした。



 生徒会室、放課後。

 部活動の生徒たちの声が残響のように遠く聞こえてくるが、普段は大勢の生徒が闊歩している校舎が静まり返っているというのはいささか不思議な感覚に思える。

「ん、よく纏まってる。流石。」

「そりゃどうも。」

 ダブルクリップに挟まれた数枚のコピー用紙に目を通すと、その女子生徒は無表情ではあるが満足した様子だ。

 生徒会執行部所属の白川龍斗は夏休み期間中、生徒会長である佐藤真菜に命じられ、治安が悪化したロストタウンの調査をしており、提出した資料はそのレポートというわけだ。

「満足したなら俺は失礼しますよ。生憎この後予定が入ってるんでね。」

「あ、待って。」

 嫌な予感を抱きつつ、龍斗足早に立ち去ろうとしたがその足を止めた。

「先輩、これでも俺は病み上がりなんですから、あまりこき使わないでいただきたいんですが。」

「この生徒二人の監視をしてほしい。」

「聞けよ。って、こいつは…。」

 その写真の赤い癖毛の男子生徒と赤毛三つ編みの女子生徒には覚えがあった。

 男子生徒の名前は不知火夜。雄一郎たちと同じクラスの寡黙で影の薄い生徒だ。

 そしてもう一人の女子生徒は不知火夜の双子の妹、不知火朝。近頃は業を潜めていたが、ネットワークを駆使して数々の悪辣な暗躍をしており、現在は休戦中だが龍斗達と対立したこともある。

「…例の麻薬の流通に関わってた可能性がある。それとなく動向を観察していてほしい。」

「それとなくって言われてもな、こいつらのヤバさは本物だぜ。どっかの吃驚人間と違ってごく普通の善良な一般人の俺には少し荷が重いんじゃねえの?」

「でも、以前君たちは確かに渡り合ってた。能力に不足はないと思うけど。」

「勘弁してくれ。あの気違いにまたあいつらを巻き込めるかよ。」

「そう。…まあ、君がどうしてもやりたくないって言うなら無理強いはしない。生徒会としても何も起きないに越したことはないから。…その結果に関しては預かり知らないけど。」

 嫌な物言いだ。その言い方では、既に手遅れだと言ってるようなものじゃないか。しかも、その胸騒ぎを助長するかのようにさっきからポケットにしまっている携帯端末がバイブレーションで着信を知らせている。

「あら、さっそく何かがあったみたい。…って、もう聞いてないか。」

 佐藤真菜は今まで彼がいた場所を眺めて、したり顔で呟いた。

 一目散に生徒会室を飛び出した龍斗は、雪丸花火からの着信だということを確認すると、そのまま走りながら応答した。

『あ、繋がった。白川、話があるんだけど…今から正門前に来れる?』

 雪丸は平静を装っているが、不器用なそれがむしろ彼女たちに何かあったのだと如実に語っていた。

「まさか、不知火と何かあったわけじゃないだろうな。」

『…あいつ、部活帰りにいきなり絡んできて…。もう、わけわかんない!』

「落ち着け。ユウには連絡したのか?」

『それが、電話繋がらなくて。』

「こんな時に何やってんだあいつは…。わかった、すぐ行く。」

 通話を切り、乱暴に携帯をポケットに突っ込む。不知火がどんな悪巧みをしているかはわからないが、まずは雪丸と宇都宮が待つ正門で一刻も早く現状を把握しなければならない。

「白川、」

 突然正面に人が現れ、先を急いでいた俺は急ブレーキをかけて危うく転げそうになった。

「不知火、テメェ…。」

 人気のなくなった昇降口で目の前に悠然現れたのはひょろっとした高身長の男子生徒、不知火夜。バランスを崩した俺に向かって、不知火は間髪入れずに蹴りを入れた。どうにかそれを防御することができたが、こいつが俺に害意を向けていることは明白だった。

「悪いな、白川。お前の邪魔をする。」

「チッ!つまりユウもお前らに足止めされてるってわけかよ。目的はなんだ?」

「…。」

 改めて雪丸に電話する隙はない。確かに不知火夜の背格好を見るにとても喧嘩が強そうには見えないが、過去にそんな見た目に騙されて痛い目を見たことがある。どういうわけかその細身に似合わず怪力の持ち主で動きも良い。

「目的はなんだって聞いてんだよ!」

「言う必要がない。」

 正直なところ、不知火に正面から喧嘩を売って俺に勝ち目はない。

「そっちから仕掛けて来ないって事は時間稼ぎか?お前らの事だ、碌なこと企んでないだろうな。」

 不知火は無言で俺をじっと見据えているだけだ。挑発しても仕掛けて来ないところを見るにどうやら本当に時間稼ぎが目的らしい。つまり雪丸と宇都宮市に絡んだあいつの妹の行動を邪魔させない為、合流を阻んでいるといったところだろうか。

「諦めろ、お前では無理だ。」

「ああ、そうだな。じゃあ降参って言ったら見逃してくれるか?」

「冗談。」

 再び不知火は鋭い横蹴りを見舞う。それは防御した龍斗の弱い場所を執拗に、的確に襲った。

「てめえ、右腕ばっか狙いやがって…!」

 まだ完全に繋がっていない折れた右腕を庇う龍斗に反撃の手は無い。それどころか怪我を庇うあまり猛攻を凌ぐことすら難しい。

「タフな奴。」

「この糞野郎ッ!」

 蹴り上げられ、ついに左腕の防御が大きく開く。そしてそのまま強烈なる踵落としが頭頂部に突き刺さり、俺の意識はそこで途切れた。

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