廃都事変 5
変電所は外観を見るより広く、電気が通っていない。窓から差し込む月明かりと暗がりに慣れた視界はその全容を映さず、心もとない懐中電灯の明かりはかえって場の不気味さを助長しているようだ。
屋内にはその外にも漂っていた如何ともしがたい奇妙な刺激臭に満ち満ちており、それに加えて鼻につく血の生臭さは吐き気を催す。辺りには血の痕や異臭の元となっている泥が散らばっており、不衛生だ。
「なあ、顔色がよくないみたいだが、平気か?」
建物に侵入してからユイは酷く顔をしかめていた。この瘴気の中四都久民特有の優れた嗅覚を持つ彼女には辛いだろう。
「ああ、確かに酷い瘴気だけど平気だ、心配はいらない。それよりも、この瘴気には沢山の死の臭いが混ざってる。あの大男に利用されて大勢殺されたんだろう、そんな奴がシキと関わっていたと思うと吐き気がする。」
過去に半身である宇都宮シキが同じ運命を辿っていたのかもしれない。ユイはそれに耐え難い不快感をつのらせている。
「なに、心配しなくても私は平常さ。切っただの張っただの、そんなの私にとっては些細な問題だからな。お前はシキの事だけ心配していればいいんだよ。」
「心配なのはユイだって一緒だ。せっかく同行してるんだ、俺にできる事は頼ってくれ。」
自信満々の様子の雄一郎に対し、ユイは大きくため息をついた。
「元々頼んでなんかない。…まあ、装束を持ってきてくれたのは感謝してる。」
「凄いのか?」
「ああ、特にあの穢れ相手だと尚更な。白は潔白と浄化を表す色だ。穢れに浄化が有効なのは説明するまでもないだろう?それに、神懸かりをするという事は神と同一化するという事なんだ。だから自分という余分があると純度が落ちる。潔白とは何も無いって事だからな、余計な物がすでに在る器より元から何も無い器の方が神様も降りやすいのさ。」
どうにも概念的に常識の範囲外で理解をしかねるが、つまり巫女装束が役に立つということなのだろう。重い桐の箱をせっせと担いできた甲斐があったというものだ。巫女装束だけで意味があるというのなら、布に包まれたまま背中のリュックサックから少し顔を出している小太刀はどれほどの意味を持つのだろうか。
「想像と大分違うな。麻薬の生産をしているなら一面に植物が栽培されているのとばかり思っていた。」
「ああ、あれの原材料は大麻でも芥子でも、化学物質ですらないからな。あの薬は本来ならこの世には存在するはずのない黄泉の神威の結晶なんだ。この嫌な臭いもいわば凝縮された死そのものの臭いというわけさ。現世に生きる者達は本能的に嫌うようにできているんだ。」
ユイは当たり前のように語るが、雄一郎と龍斗は半分も理解することができず首を傾げるしかない。
「『死そのもの』?そんなものを取り込んだらどうなる。」
「そんなの、死ぬに決まっているだろ。あの薬を一度でも口にした人間は必ず死ぬ。黄泉の神威に抗えるのはそれこそ伊弉諾尊くらいのものだよ。」
「…そうかよ。」
普段飄々としている龍斗は背を向けているが、歯を噛み締めて怒っているようで歯の軋る音が聞こえる。
「胸糞悪いぜ…。何の目的があるのかは知らないが、俺みたいな日陰者はともかく雪丸達のすぐそばでもそんなモノ流行らせやがって。」
「…お前、」
「おっと悪い、余計な事だったな。忘れてくれ。」
しかし振り返るも龍斗に憂いの表情は無い。
「食えない奴。」
油断ならない相手だとユイは龍斗を評価している。いい加減な奴だが周到さも垣間見え、同時に腹の中を捉え難い。
「そういえばリュウト、お前どうして私の蹴りをまともに受けて無事なんだよ。」
「ああ、なんたって俺は頑丈だからな。」
「答えになってないぞ。」
「残念ながら、俺は無駄に手の内は曝さない主義なんだよな。」
「…。」
後でもう一度蹴って確かめればいい事だ。そう結論づけ、ユイはそれ以上の追求はやめることにした。元々口の化かし合いは得意ではないのだ。
「しかし、妙だな。瘴気の濃さからして、奴は間違いなくここにいると思っていたんだが。」
「ああ、どうやらこの変電所は地下に広がってるらしいぜ。」
「地下?」
ユイは龍斗よりひょいと投げられたものを受け取る。冊子状のそれは、広げると変電所の内部構造の書かれた設計図だった。
「こんなもの、一体どこで手に入れたんだよ。」
「それに関してはもちろん企業秘密なんだが。どうだ、俺も少しは役に立つもんだろ?」
「この秘密主義者め。おいユウイチロウ、こいつ自分の事になると何も口を割ろうとしないぞ。」
「はは、龍斗は昔からそんなんだから気にしないでやってくれ。」
雄一郎は龍斗の行動には慣れたもので気にする様子もなく、広げられた変電所の設計図に懐中電灯を当てた。
変電所の地下は広大で五階建てとなっており、敷地も広い。シラミ潰しに探索するには骨が折れそうだ。
「へえ、これだけ大規模な変電施設だったのか。しかし分からないな、いよいよもってなんで旧市街は廃墟なんかになっちまったんだ。」
旧市街がロストタウン化したのは八年前。大規模な区画整理と銘打って住民は一斉立ち退きを迫られた。その際に新設したばかりのこの変電所も閉鎖になってしまった。
だが、不可解な事にこの理不尽な立ち退き要求に対して、反対運動は一切起こらなかった。
それどころか住人は一人たりとも不平不満を言う事もなく、蜘蛛の子を散らすように旧市街すべての立ち退きが終わる。その一連の大移動は一日で行われたという信じられない噂もある。
「なんだそれ、そんな大胆な事して誰も気づかないなんてこと…あり得ないだろ。」
「ありえるかあり得ないかなんて、そんな事実は別段どうでもいい。そんなことは宇都宮六廻という化物の化物性を確かめる事にしかならない。」
電気の通わないエレベーターを通り過ぎ、奥の非常階段へと歩を進めた。
螺旋を描く階段に三人の足音が一定のリズムを刻む。歩けど歩けど見える景色はほとんど変わらず、階層を示す表示だけが曖昧にも現在の居場所を教えてくれる。
「八年前、旧市街のロストタウン化は宇都宮シキは孤児院に保護された時期と一致する。そして何より、宇都宮という共通の名字の敵。ここに因果関係が無いと断言するにはいささか出来すぎているよな。」
「…黄泉の不浄は穢浄醜女のものだ。なら因縁があるのは私であってシキじゃない、くれぐれもそれを忘れるな。」
「そうかよ、まあどう思おうがお前の勝手だがな。」
剣呑な空気のまま延々と降る螺旋階段は、いつまでも続くと思われるほど長く感じた。
階層を降るほどに瘴気はますます濃くなり、その臭いに顔をしかめる。いつの間にか会話はなく、緊張感が張り詰めていた。
「…ここだ。」
階段を降り終え、その先の扉の前でユイはぼそりと呟いた。それが何を指して言っているのか、言わずもがなわかっている。
「瘴気…黄泉の神威を強く感じる。」
「それじゃあ、」
ーーー瘴気の発生源は、そこにいる。
「ああ、間違いない。」
そこは地下送電設備が格納されている部屋のようで、重く頑丈な鉄のハッチの先は大きなホール状になっているらしい。
その先にいるであろう宿敵を睨むように扉を見つめ、袴に挿していたナイフを抜いた。
「…開けるぞ。」
雄一郎はずっしりと重いハンドルを回す。密閉された扉から漏れ出す瘴気は這うように、そして瞬く間に身体を包み込み、五感を支配した。
◆
「はー…。」
夜の帳も降りた頃、雪丸花火は携帯端末の画面を見ながら自室のベッドの上で何度目か知れないため息をついた。
画面には四人のグループチャットが表示されており、そこには桜が調べた長々とした情報や龍斗がリアルタイムで逐一書き連ねている状況報告が表示されている。どうやらユイとは上手く合流できたようだ。
「…あの馬鹿。これじゃあ仲間外れじゃない。」
花火は雄一郎と龍斗の口車に乗せられて旧市街に行かず、自宅で待機することになっていた。その役割は何かあった時に即座に然るべき機関への連絡役。この場合は神代会、というより黒井奈都個人に連絡する事になるだろう。
とはいえ、花火はそれが自分を危険に近づけないための配置だと十分に理解していた。
昔から雄一郎はそのような節があるのだ。自分達はどれだけ危険な目にあってもいいと言わんばかりに危険を顧みないというのに。
「小学生の頃からそうよね、あいつ。」
元々、花火は雄一郎や龍斗と仲が良かったわけでもないし、クラスも違った為面識も薄かった。
小学生の頃、龍斗は喧嘩に明け暮れる問題児だったし、雄一郎も素行が悪いわけではないが、なぜか龍斗と連んでいた為一緒くたに問題児扱いされていた。反対に花火は気弱で友達も少なく、いつも教室で一人でいるような生徒だった。
彼らと関わる事になったのは、本当に些細な事からだった。
気弱だった私は、しばしば同じクラスのいじめっ子から明るい色の癖毛を馬鹿にされたり、ちょっかいをかけられたりする事があった。多分、憂さ晴らしとか、なんとなく気に食わないとかそういう理由なのだと思う。要するに与しやすい相手だったのだろう。
その日は特別な日だったというわけではなかったが、お気に入りだったワンピースを着て、髪もお母さんから編んでもらって、少しだけお洒落をした。
友達が少ない私はお洒落を見せびらかす相手も居なかったのだが、その日は廊下で通りかかった他クラスの男子がすれ違い様に褒めてくれた。そんな事もあり、私は上機嫌だった。
運の悪い事に、そんな日に限っていじめっ子の機嫌が悪かったのだ。
喧嘩をする気もなかったが、せっかくの髪がぐしゃぐしゃでワンピースも台無しになってしまったのが悲しくて、私はボロボロの姿を誰にも見つからないように、学校を抜け出し、行く当てのない足でふらりと立ち寄った神社の境内で泣いていた。
ーーーまあ、運悪く同学年の男子に見つかってしまったんだけど…。
彼、白川龍斗はちょっとした有名人で、上級生相手に大立ち回りだの何だの、その悪評は花火の耳にも聞き及んでいた。
「そう怯えんな、別に取って食っちまうってわけでもねえよ。」
ひょいと投げられた缶ジュースを慌てて受け止めている間に図々しくも隣に座った彼は、爽快な音と共に缶コーラのプルタブを開け、喉を鳴らしながら一気に飲み干した。
「それ、ジジイのおごりな。こんなところで泣かれると様子見て来いってジジイがうるせえんだよな。」
その言動は粗野なものではあったが、聞いていた噂やイメージとは違い花火は彼の事をあまり粗暴だとは思わなかった。
「それに、ちょうどユウから聞いたんだよ。朝見たときは綺麗にしてた女の子がボロボロになってるのを見たって。それお前の事だろ、三組の雪丸花火。」
むしろ、それまでのイメージとは真逆だった。彼は泣いている他人を自尊心を満たすためだけに無条件で慰めるような厚かましさもなければ、弱い立場の他人を見下さずにはいられないほど感情的でもない。白川龍斗とは極めて理性的な人物だった。
「…なんで学校サボってるの?」
「理由がなきゃ学校をサボっちゃいけないか?」
それは質問に対する答えではなく、且つ花火にとって考えたこともない常識外の発言だった。
「歳さえ取ってれば卒業できるんだ、気が乗らねえなら行かなきゃいい。」
龍斗は「ま、こんなこと言ってたら教師連中から怒られんだけどな。」と皮肉気に笑いながら言う。
「でも、授業についていけなくなっちゃうし…。」
「なんだお前、勉強がしたいのか?俺が教えてやろうか。」
そのきょとんとした表情に腹が立って、花火はそっぽを向いた。
「いい。私頭悪いし…。」
「いいからいいから、俺様が直々に解説してやるからわかんないとこ見せてみ。」
結局龍斗の強引さに根負けして、花火はランドセルからおずおずとテストの答案用紙を取り出した。花火は勉強ができる方ではなく、決していいとは言えない点数の答案用紙を見てあざ笑うのだろうと思っていた。しかし、龍斗がいたって真面目に解説を始めたものだから面食らってしまった。
「おっす龍斗。と、雪丸さん。」
「あ、朝の…。」
「坂本雄一郎だ、よろしくな。」
花火はほとんど初対面である彼がお洒落を褒めてくれたことと、それがぐしゃぐしゃになってしまっているところを見られたことになんだか気恥ずかしくなってしまい、俯いてしまった。
「なんだ、お前も抜けてきたのかよ、ユウ。」
「ちょうど掃除時間だったからな。」
「ふーん。暇ならこいつの髪括ってやってくれよ、これじゃ俺が虐めたみたいだし。」
「ちょ、…。」
「心配すんな、こいつ結構器用だぜ。…それともお前、まさかその髪のまま帰るつもりだったのか?」
他人に髪を触られるという嫌悪感はあった。だが、龍斗の言う通りこのままの髪で帰ると親にバレてしまう。それは花火の望むところではなかった。
花火は少しの葛藤の後、首を縦に振った。対する彼は紳士的で、準備をすると言って社務所に向かうと、巫女さんが使うものだという清潔な櫛と霧吹きを持って帰ってきた。
龍斗の言う通り、癖毛を梳かしている時も乱暴さはなく、器用にボサボサの髪を整えていく。
「ちょっと違うかもだけど、そん時は先生にやってもらったって誤魔化してくれな?」
「う、うん。…すごいね、ほんとに器用なんだ。」
「大したもんじゃないさ。」
雄一郎はそう言うが、実際その手際は見事なものだった。仕上がった髪は朝に母親が仕上げてくれたものと比べても遜色なかった。
「…こんなところだな。どうだ、他にわからないとこねえか?」
「すご…、わかりやすかった。」
「な、サボり魔だからって勉強ができないなんて決めつけんなよ。」
私はそう言って満足げな龍斗を見て悔しくなり、二人みたいに何か取り柄があったらと呟いた。
「何言ってんだお前、ユウに褒められたじゃねえか。そう自信がなさそうだからナメられるんだぜ。」
「そんなこと言われても…。」
「じゃあさ、俺たちと一緒にいたらいいじゃん。」
「…は?」
雄一郎の発言に、花火は何を言っているのかわからないとポカンと口を開き、龍斗は頭を痛そうに押さえた。
「お前な、」
「なんだよ、雪丸さんが安心できる名案だと思ったんだが。」
「…この天然め。お前がどうするか知らんが俺を巻き込むな。それに、いきなりすぎてこのチビがびっくりしてんじゃねえか。」
完全に停止していた思考が『チビ』の一言で現実に引き戻される。散々言われ続けてきたはずのその言葉になんだか無性に腹が立ったのだ。
「どうかな、雪丸さん。俺たちと一緒に来ない?」
「…聞いちゃいねえ。」
ーーー思えば彼らとの腐れ縁はそんな坂本のお節介から始まったんだった。
坂本と白川と絡むようになって、少しずつ私へのちょっかいは減った。…その代わり、あることないこと囁かれるようになったが。個性と称してかわいらしいファッションで着飾ることが私の趣味となり、それが段々とエスカレートするにつれて残念ながら私は変わり者というレッテルを貼られることになってしまった。
「ユイ、あの二人とうまくやってるかしら。」
なんだか坂本と白川が一緒になって失礼なことしてるような気がする。坂本は頭がいいように見えて考え無しで変なところでド天然だし、白川に関しては言うまでもない。
突然、花火の携帯端末に着信が入り、私は驚いてベッドの上で姿勢を正した。
「大刀洗…?」
彼女から電話がかかってくるのは珍しい。口数の少ない桜はほとんど通話することもないのだ。
花火は訝し気に通話ボタンへ触れた。
◆
死臭が充満した空間の中、純白の礼装を纏うユイは縦横無尽に飛び回る。逆手に握った刃は幾度となく大男に突きつけられるが、その度に蠢く泥にその切っ先を阻まれる。
「クソッ…、なんで!」
泥に突き立てられたナイフは甲高い金属音を響かせるだけで刃が通る気配がない。
「愚かな。」
全体重を乗せた突きすら大男には届かず、逆にユイは泥に弾き飛ばされ、体勢を崩されてしまった。
「斯様な神威で私を貫こうなど、嘆かわしいことだな、無垢よ。」
「そうかよッ…!」
ユイは体勢を崩しながらも追撃を仕掛けてくる泥を紙一重で躱し、そして再びナイフを構えなおした。しかし、泥に阻まれ大男を動かすこともできていないどころかナイフは刃こぼれを起こしており、形勢不利にユイは歯嚙みするしかない。
大男、宇都宮六廻はどうやらユイしか狙っていないらしく、雄一郎たちは彼女が戦っている隙に送電設備の奥で横たわる人影に近付くことができた。
「…コイツらはもう手遅れみたいだな。」
そのいくつかの死体は猛烈な死臭を放っていた。
龍斗は死体に触れようとする雄一郎を制すると、近くにあったアスファルト片で死体の皮膚を突く。すると辛うじて形を保っていた死体はグズグズに崩れ、泥になってしまった。その様子に吐き気を催した雄一郎は顔をしかめ、口元に手を当てた。
「吐くなら奥で頼むぜ。」
「…大丈夫だ。というか、そんな暇もなさそうだぜ。」
次から次へと死体が溶け、泥に変貌する。その泥は尚も流動を続け、さながら大蛇のような様相で立ちはだかる。そして、泥を鞭のようにしならせ襲い掛かってきた。
「クソがッ!」
龍斗は鉄パイプでその攻撃を受けるが、衝撃を完全に受けきることはできずに吹き飛ばされてしまった。
「おい、無事か!」
慌てた様子のユイが駆け寄るが、龍斗は何もなかったかのように立ち上がった。しかし、鉄パイプを持って泥の攻撃を受けた腕が不自然に垂れたままになっている。
「…クソ、腕がやられたらしい。」
「お前、痛くないのか!?」
「俺の体は特別製なんだよ。」
「おい!」
「…ったく、教えてやるからそう睨むな。」
龍斗は観念して白状する。彼は痛みを感じにくい体質、先天性無痛症なのだ。たとえ腕の骨が折れて動かなくなろうとも、それで龍斗が痛みを感じることはない。痛みを感じないとはいえ、肉体にかかる負荷が軽減されるわけではない。むしろ、痛みとのギャップが身を滅ぼしかねない病気だ。
「そうか、だから私の攻撃も…。あまり無茶はするな。」
「へーへー。そら、次が来るぜ。」
再び迫る泥の攻撃はユイの斬撃に軌道をずらされ、擦れ擦れの所で空を切った。
「クソ、悠長に出し惜しみしてる場合じゃないな…。」
雄一郎はリュックサックから伸びた包みを引っこ抜き、そのまま乱暴に封をあける。ユイは投げ渡された小太刀を慣れた手で抜き、鞘を投げ捨てた。
「ユイ、このままじゃジリ貧だ。この剣でどうにかできないか!?」
「お前、こんな物隠し持ってたのか…。ありがたく使わせてもらうが、どの道私の神威が弱い。…せめて神楽を舞う暇があればな。」
「要は時間稼ぎをすればいいんだな。龍斗はユイの援護をしてくれ。」
「ったく、ケガ人無茶言うぜ。」
「…自分の身は自分で守れる。少しでも気を削いでくれるだけでいい。」
「お安い御用だ。…行くぞ!」
改めて大男と対峙する。気味の悪い事に、依然として大男は微動だにせず、蠢く泥のみでユイすら圧倒している。
「よう、次は俺達が相手だぜ、宇都宮六廻。」
「愚かな。無垢よ、身の程を弁えぬ童ごときでこの宇都宮六廻が止まるなどとは思わぬ事だ。」
「無視すんじゃねえ!」
次々と襲いかかる泥にだけ集中、龍斗の怒号が何処か遠くに聞こえ、複数の泥の軌道がハッキリと鮮明に目に映る。
焦るな、こちらから攻撃を仕掛ける必要はない。目の前の攻撃だけに集中しろ。
直撃軌道だけを避け、流し、それ意外の情報を意識から外す。
大丈夫だ、ユイの斬撃に比べたらずっと遅い。
「ほう、力を持たぬ唯の童にしてはよく避ける。」
「言ってろ!」
攻撃は更に激化する。だが、それだけユイに向く刃が雄一郎に向かうという意味で狙い通りだ。そして、数が増えようが泥の軌道は依然はっきりと目視でき、辛うじてではあるが回避行動も間に合っている。
ーーー後は俺の体力が切れるのが先か、ユイの神楽が完成するのが先かだ。
だが、突然雄一郎の視界に赤くヒビが入った。一瞬何が起こったのか理解できず、遅れて襲い掛かる激痛に体勢を崩した。
「ユウイチロウ、後ろだ!」
「え、」
自動車に追突されたかのような衝撃に、雄一郎の体は簡単に吹き飛ばされた。アドレナリンが出ていたためか痛みは少ないが、肺の空気を一気に吐き、瘴気も合わさって息が苦しく、すぐに立ち上がる事もままならない。さらに、激痛の走った視界は未だに痛みを伴うヒビが見える。
「ユウ、早く起きろ!」
泥の追撃は既に振りかざされていた。四肢は思い通りには動かず、吹き飛ばされた先はユイとは逆方向であり、彼女がどんなに素早くとも追いつくことはできない。
あ、これ死んだーーー。
「坂本!」
俺は強く手を引かれ、地面に体を擦り付けられる。泥は元居た場所へと叩きつけられ、その衝撃はコンクリートの床に大穴を穿った。
「この馬鹿!何勝手に死にかけてんのよ、信じらんない!」
「ゆ、雪丸!?」
「…間一髪ってところね。…二人とも、下がってなさい。」
雄一郎の前に立った桜は、ユイの纏うものと似た純白の装束を着用している。
「お嬢まで…っておい!?」
桜は少しの躊躇いもなく魔眼の力を解き放った。場を支配する空気が変わるが、怒りに任せて使った時と比べてその雰囲気が全く異なっていた。
「…ユイ、祝詞は私が受け持つわ。…存分に暴れなさい。」
「貴様、大刀洗の術師か。小癪な…ッ!」
「…あら、目が合ったわね。」
その泥の攻撃は桜には当たらなかった。それどころか、むしろ泥が桜だけを避けて進んでいるようにも見える。
「…残念ね、宇都宮六廻。…この東雲の地ではあなたの術でも私の眼から逃れるのは難しいわよ。」
「ならば、」
宇都宮六廻の視界を泥が阻み、魔眼の効力が落ちる。それを機に、泥は大刀洗桜へと一直線に向かった。
「ーーー許さない。」
袈裟に振り下ろされた小太刀は今まで刃が通らなかった泥をバターを切るかのように両断する。
「よくも、私の友達に怪我をさせたな。宇都宮六廻。」
「ほう、やっと目覚めたか無垢よ。」
それを為した彼女は、ユイともシキとも雰囲気が異なっていた。
彼女は目が据わり、静かに怒っている。その覇気はユイのように烈しくもシキのように優しくもなく、ただ、その小太刀の刃のように鋭い。
「些か待たせ過ぎであるが、行幸よな。我が元で再び仙道を進もうぞ。」
「絶対に嫌だ。あなたは私から何もかもを奪っていく。私はもう、何も失いたくない!」
「仙の道には不要な物を削いだまで。そも、無垢に世俗は不要だ。」
彼女の振るう刃は襲い来る泥のことごとくを叩き落とし、両断する。その勢いは一騎当千とも言えるほど凄まじく、無数に襲い掛かっていた泥のその全てが彼女を食らいつくさんと怒号と共に雪崩こむが、歯牙にもかけないとばかりに撫で斬り、沈黙していく。
「さあ、祝詞を。」
「…ええ、わかったわ。」
さらにもう一段階空気が変わるのを感じた。
その瞬間、すべての情報が桜の支配下に置かれるような錯覚を抱く。
全ての音が遠くに感じ、全ての不快が取り払われるが、それでいてその全てが鮮明に見え、聞こえ、感じる。この空間に守られているという安心感と緊張感が全身を包み込む。
そしてその中、大刀洗桜の詞がやけに鮮明に頭に響いた。
掛けまくも畏き大前を拝み奉りて畏み畏み白さく
高天原に神留坐す鶴来比売命に申し奉る
大神等の広き厚き御恵みを辱み奉り彼の身へ天降し依さし奉り給ふ
直き正しき真心もちて誠の道に違ふことなく負い持つ業に励ましめ給ひ
諸々の禍事罪穢れを祓い給ひ清め給ふと申すことの由を
天津神地津神八百万神等共に聞こしめせと畏み畏み白す
桜がその祝詞を唱え終える頃には空間に充満した瘴気は全て消え去り、神気とでもいうべき荘厳さが場に広がっている。
「む、まさか大刀洗の術師がここまでとは。」
「逃がさない…ッ!」
全ての泥を叩き落とし、その刃はすでに宇都宮六廻の喉元に向かって振り下ろされていた。
「惟神神懸ーーー落水剣!」
一振りで宇都宮六廻の首が両断され、ごとりと嫌な音を立てて床に転げる。しかし、切断面からは頸動脈であるにもかかわらず血液の噴出はなく、程なくして泥に変貌した。
それまでの怒号の連続から一転、ぴたりと時間が静止したような静寂が訪れる。
「宇都宮…なのか?」
彼女が纏っていたプレッシャーは、宇都宮六廻を両断した直後に跡形もなく霧散している。彼女は鞘を拾い上げると小太刀を収めた後、くるりと振り返った。
「そうだよ、私はシキ。久しぶりだね、坂本君。」
駆け寄ってきた彼女は紛れもなく宇都宮シキであった。では、さっきの彼女は一体誰だったんだろう。あの大男、宇都宮六廻は『無垢』と呼んでいたようだったが、あれはどういう意味だったのだろう。
「酷い怪我…。ごめんね、ユイの無茶につき合わせちゃって。」
「気にするな、俺が勝手に付き合っただけなんだから。」
「ま、そういうこったな。おかげで面白いモノも見れたし、俺は満足してるぜ。」
「まったく、それで死にかけてるんじゃ世話ないわ。」
テキパキと俺の擦過傷の手当てをしていた雪丸は、その無謀ともいえる行動に完全に説教モードだ。
「桜も花ちゃんも、ごめんね。」
「…これからは無茶をするにも頭を使う事ね。」
「というか、無茶しちゃ駄目だから!」
確かに、今回で学ぶべきは自らの力を過信していた事だろう。
実際、ユイは元より雄一郎も龍斗も喧嘩慣れをしていた故にある程度の立ち回りはできると踏んでの作戦だった。結局、その過信から宇都宮六廻の化け物性を読み違えていたのだ。
「…それと雄一郎、目を合わせなさい。」
「え?」
言われるがまま、いまだに熱を持つ目を開いた。お嬢は俺に魔眼を行使する。
「痛みが引いて…?」
「…応急処置よ、今日は目を閉じておきなさい。」
やはり、さっき宇都宮六廻の攻撃がやたらと鮮明に見えたのは、例の神懸かりという奴なのだろうか。
「わかった。まあ、言われなくても目を開けておくのがしんどいんだけどな。…ところで、なんでお嬢と雪丸がこんなところにいるんだ?」
「…あの後、お父様から書斎で鶴来比売命への祈祷に関わる文献を戴いたのよ。…私の眼の力も大刀洗の先祖返りなのだからお誂え向きよね。…それで、あなた達はもう乗り込んだ後だったみたいだし、仕方ないから車を出させて追いかけてきたのよ。…ついでに家で燻ってる雪丸さんも一緒にね。」
「なんだか含みのある言い方ね…。でも、駆けつけてよかったわ。…本当に、みんな無事で。」
「お、おい。」
手当ても終え、全員の無事に花火は張り詰めていた緊張の糸が切れたのか、目を潤ませる。そして雄一郎の膝の上に顔を埋めた。
「馬鹿…。ほんとに、死んじゃうかと思ったんだよ。よかった…、生きてて、よかったよ…。」
「ああ、悪かったよ。心配かけた。」
「ぜったい許さないから…。」
多分、俺は危険に踏み込んでいたという自覚が足りないのだろう。今回は下手を打てば命を取られるという相手だったのだから。そう考えると、事態を一番正しく認識していたのは雪丸だったということなのだろう。
「チビ丸ー、一番の重傷な俺には手当てしてくれねえのかよ。」
「…あんたは別に痛くないんでしょ。」
「ひっで。」
桜は変電所の入り口で待機しているという使用人と椎名千歳に連絡を取っていた。じきにこの場所に駆けつけてくる手はずになっているようだ。
「そういえば、あいつはどうなったんだ?」
「…逃げられたわね。…というより、あの様子じゃ元々身代わりだったようだけれど。」
「結局奴の掌の上だったってことか、割りに合わねえなあ。」
「でも手応えはあったし、あの人もしばらくは大人しくしてくれるんじゃないかな。」
あの人、か。そういえば、宇都宮六廻と宇都宮シキの関係性を知らない。あの様子だとユイは面識がないのだろうが…。
「あの大男、何者なんだ?」
その質問に、シキはなんとも言い難いような、微妙な表情をした。
「えっと、説明しにくいんだけど…。うーん、元々命の恩人で名付けの親なんだけど、…今は変質者かストーカーかな。」
「ちょっと待て、」
「だってあの人、しつこ過ぎるんだよ。」
「…オッケー、続けて?」
表情から察するに、彼女は本気で宇都宮六廻の事を嫌っているらしい。宇都宮シキをしてここまで言わせるとは本当に何者なのだ…。
「大昔にご先祖様に一目惚れした仙人で、ユイから生まれた私を拾って育ててくれた人。…私の事ご先祖様の生まれ変わりだと思ってて、しつこく仙道の修行をさせようとするんだ。」
語るにつれて、シキはさらに憮然とした表情になる。
「…そして仙道に不要だって、私の記憶を消したのもあの人。それがきっかけで神威が暴走した私とあの人が暴れまわったせいで住めなくなってしまった街、それがこの旧市街、ロストタウンなんだ。」
記憶を奪われる。その底知れない恐怖は想像することすら憚られるほど恐ろしいものだったのだろう。彼女と宇都宮六廻が際限なく力を振るった結果、街一つ廃墟に変えてしまうほどの巨大な力となってしまった。
彼女はそれを悔やんでおり、それが廃墟となってしまったロストタウンの真相だと言っているのだ。
「…なるほど。じゃあ今回はラッキーだったかもな、最悪この施設が崩落ってこともあったかもしれないし。」
改めて周囲の様子を見ても、コンクリートの床面に大穴が空いていたりと破壊の痕跡が残っている。
「えっとね、ユイも君たちと一緒だったから捨て身では戦えなかったみたい。」
「それは俺たちが足引っ張ってたってことだな…。面目ない。」
「こんなこと言うのもなんだけど、君たちがいてユイにとっても良かったと思う。あの子、ちょっと無鉄砲だからさ。」
「それは宇都宮も一緒じゃないのか?」
「あはは、そうだね。でも、君もだよ!」
宇都宮は、そう言って笑ったのだった。
しばらくして、桜とその使用人に連れられ変電所の地下に黒井奈都率いる椎名千歳ら神代会の関係者や救急隊員が駆けつけてくる。怪我人である雄一郎と龍斗は担架で運ばれ、それ以外は事情聴取と共に一緒くたに説教を受けることになった。それは担架で運ばれた二人も例外なく、手当てを受けながらつらつらと説教を受けることになるのだ。
「宇都宮!」
坂本雄一郎は担架の上で身を起こし、叫ぶ。
「また学校でな!」
それだけ言って、雄一郎は救急隊員に言われるがまま、また担架の上で横になった。
「うん、またね!学校で!」
その声を遠くに聞きながら。
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