廃都事変 4

 遥か昔神代の頃。八岐大蛇を倒し櫛名田比売を娶った素戔嗚尊が、高天原へ都牟羽の大刀を献上する道中、四都久の岬にて逢瀬を共にしていた時の話。

 岬の水は澄み渡っており、その美しさに感動した櫛名田比売は数日間の滞在を申し出る。それを聞いた素戔嗚尊は八岐大蛇討伐の後休む暇もない旅路に櫛名田比売も疲れているだろうと思い、それを受け入れた。

 宿を得るために立ち寄った付近の村は歓待をしたが、酷く寂れており、土地が弱々しく痩せていた。櫛名田比売がそのわけを尋ねたが、民は口を紡ぐばかりであった。

 不審に思った素戔嗚尊が近くの社を訪れると、そこには痩せ細った幼い巫女が一人いるのみ。そして社の力はほとんど消え失せ、場の神聖さすら保たれていない。神を祀るにはその社はあまりに寂れすぎていたのだ。幼い巫女に問いかけるが、生気を失っている少女には応える力さえ残っていない。

 素戔嗚尊はその幼い巫女を連れ宿に戻ると十分な食事をとらせ、櫛名田比売と共に看病を行うと少女は少しずつ活力を取り戻した。八岐大蛇を討伐した素戔嗚尊の噂はすでに広く知れ渡っており、その事を思い出した幼い巫女は素戔嗚尊へ助けてほしいと伏して願った。

 その地四都久には泉の底に荒ぶる神がおり、土地は荒れ果てその供物の為民達は疲弊し痩せ細ってしまっていた。その神は穢浄醜女と呼ばれる黄泉の国から流れ出た伊邪那美命の神威が形を成した存在。いわば伊邪那美命の子であり、素戔嗚尊とは兄弟とも言えるのだ。

 地に頭を付け泣きながら願うその姿に素戔嗚尊は心を動かされたが、兄弟を手にかけることは躊躇われ、少女を救うか否か決めかねていた。

 葛藤する素戔嗚尊を見かねた櫛名田比売は一つ提案をする。素戔嗚尊が手を下すのではなく、四都久の少女が穢浄醜女を鎮めればよいと。

 当然神を打倒する力など持っていない少女はその言葉が拒絶であると考え、泣くことすら忘れ、ただ茫然としていた。しかし、素戔嗚尊はその意味を理解すると、少女に歩み寄った。

 素戔嗚尊は少女にその身を神使とし、その魂を未来永劫眷属として捧げる覚悟を問うた。それを聞いた少女はもう一度地にひれ伏した。

 かくして一夜明け、素戔嗚尊の神使となった少女は素戔嗚尊の神威を受け継ぎ体の各所を兎の様相に変え、名を鶴来比売と改めた。鶴来とは即ち剣の意。八岐大蛇を討伐した素戔嗚尊の剣戟を神楽とし、神威を代行する写し身となった。

 さて、剣の神威を得た鶴来比売には武器が必要だった。素戔嗚尊の持つ天羽々斬は折れており、天照大御神に献上する天叢雲剣を使うわけにはいかなかったが、社に奉納されていた宝剣は刀身が錆び付きあまりにも粗末なものであった。

 そんな時、素戔嗚尊の神通力を感じ取った流浪の祈祷師が社へ訪れた。鶴来比売は祈祷師に事情を説明すると、それを聞いた祈祷師は宝剣を預かり、三日三晩泉の水で清めた。すると朽ち果てていた宝剣はたちまち輝きを取り戻し、本来の姿を取り戻した。そして無銘であった宝剣は祈祷師によって落水剣と名付けられ、鶴来比売へと献上された。

 鶴来比売は落水剣を携え身を浄めると、供物の駕籠に自ら入り穢浄醜女の鎮座する岬の底へと向かった。

 清らかな水に囲まれた底は穢浄醜女から流れ出す瘴気に満ちており、その瘴気は岬により清められていたが、その瘴気の為に本来恩恵を受けていた四都久の土地が酷く痩せていたのだ。

 大量の供物と共に駕籠から出た鶴来比売はようやく社の巫女を喰えると喜ぶ穢浄醜女へ一つ提案をする。それはもう居なくなってしまった社の神へ最期の神楽を舞うというものだった。

 神使となった鶴来比売の神楽は、その場に満たされる瘴気を祓い、穢浄醜女を封印するものであったが、巫女の力が失せていると思っていた穢浄醜女は大量の供物に囲まれ上機嫌であり、良い酒の肴になると神楽を舞う事を許した。

 鶴来比売が神楽を舞う事で少しずつ穢浄醜女の力そのものである瘴気は落水剣へ封印されていったが、酔っていた穢浄醜女は酒が回ってきたのだと勘違いしていた。そして神楽は三日三晩続き、その間多くの瘴気を取り込んだ鶴来比売は穢浄醜女が封印される頃には力尽きていたのだった。

 そうして社は剱楽神社と名を改め、鶴来比売命を祀る社として大刀洗と家名を賜った祈祷師が宮司を務めることとなった。

 さらに、四都久では鶴来比売と近縁の家から獣の様相を持った子が生まれるようになり、それらは四都久民と呼ばれた。彼らは素戔嗚尊の神使である鶴来比売命の恩寵により小柄だか強靭な肉体と鋭敏な感覚を持っていた。

 そうして鶴来比売の神威は素戔嗚尊の神使として賜ったものだけでなく、自らが一柱として信仰され、築いた。

 除災、子孫繁栄、縁結び、開運招福の恩寵は、永劫大刀洗や剱楽神社を訪れる者に振る舞われるのだ。



 百を超える数の石段を登り切り、白色の大鳥居をくぐった雄一郎は呼吸を整えると石段がまっすぐ並ぶ後ろを振り返った。高台からの見晴らしは市を一望できるほど壮観だ。

 東雲市中央にそびえ立つ高台、その頂上に鎮座する夜都賀埜清神社(よつがやすがじんじゃ)は開発都市のビル群の中でひときわ異彩を放っている。話によると、大刀洗の意向で開発から外されているのだそうだ。境内は広く、神職も数多く駐在しているが、かなり変わっている点が一つある。

 雄一郎は参拝を済ませ、向かった先はこの神社の社務所だった。

 夜都賀埜清神社の社務所は武道場となっている。多くは剣術師範の元で研鑽する剣士だが武道家の聖地の一つとして有名であり、名の知れた武道家が時たま訪れては異種武道技の手合わせを行っている事もある。

 かくいう雄一郎も、何かにつけて喧嘩の絶えなかった頃、その昔齧っていた小手先の空手と喧嘩殺法を引っさげて挑んでは返り討ちに遭うなど、よくお世話になったものだ。

 顔見知りである御守り授与所の巫女さんに会釈をして武道場の戸を開く。

「お邪魔しまーす。」

 鍵はかかっていなかったが人気はない。どうやら誰も稽古をしていない時間に来てしまったらしい。

 構わず靴を脱ぎ、玄関を上がっていく。床を踏むたび年季を感じる木材の軋む音がなにやら回顧の念を催させるようだ。

 武道場の戸を開くと、防具や木材、独特な如何とも言い難い臭いが立ち込めていた。ここは団体が稽古の為に使えるほど広くはなく、もっぱら試合か個人の稽古に使われるようなものだ。

 人気のない武道場の中、床の間を背に、剣道着姿の長い赤毛の女性が座布団の上に凛とした姿勢で正座をしていた。人が入ってきたというのに、彼女は美しい姿勢で微動だにしない。

「こんにちは、椿さん。」

 彼女、門矢椿は東雲総合大学の考古学部に所属する大学生で古流剣術の師範代。そんな肩書きから文武両道を実践している優等生に思われがちだが、実際のところはそうではない。

「ふぁ…あれ、坂本さん?」

「おはようございます、椿さん。」

「えっと、寝てませんよ。瞑想です、瞑想。」

「目の前で大あくびをしておいてよく瞑想だなんて嘘がつけますね。今日は大学いかなくていいんですか?」

「いやあ、授業の前に朝稽古でもしようかと来たのですが、そのまま眠…。いえ、大丈夫ですちゃんと単位は確保していますから。」

「おい。」

 門矢椿は、つまりダメ人間なのである。

「でもちょうど良かった、聞きたい事があったんですよ。」

「聞きたい事?私にですか?」

 神社の事なら宮司にと思ったのだが、年中この道場に入り浸っている彼女ならよく知っているだろう。

「一年前の事なんですけど、大怪我した女の子が境内に倒れてた事知ってます?」

 ああそのことか、と椿さんは少しばかり苦い記憶を思い出す表情をして相槌を打った。

「もちろん知っていますよ。というより、最初に女の子を見つけたのが私なんです。」

「あれ?俺が聞いた話だと、第一発見者は神主さんだって聞いたんですけど。」

「はい、体外への対応は全部宮司さんと神主さんに丸投…お願いしたので、公的にはそういう事になってると思います。後日警察の事情聴取を受けたのも宮司さんです。とても酷い怪我をしていたので心配していたのですが、面会をするにも宮司さんも口止めをされているようでして…。」

 なるほど、椿さんが逃げたのか宮司さんが庇ったのかは定かではないが、彼女が一番事情を知っている立場にいるというのはありがたい限りだ。

「実を言うとその女の子と知り合う機会がありまして、もちろん今も元気にしていますよ。」

「本当ですか!よかったぁ…。」

「しかし宮司さんも口止めされているとなると、やっぱりこれですかね。」

 俺は頭の上で手をひらひらさせるジェスチャーをした。もちろんシキの耳の事を指し、つまりは彼女が四都久民であると知っているかどうかの確認であった。

「はい、お察しの通り四都久民の保護が目的だと思います。」

 四都久民は極めて希少だ。現代においても東雲市郊外のどこかで集落を形成していると噂されているが、目にした人物も極々少ないため半ばUMAのような扱いなのだ。

 実態として、宇都宮の様子を見る限りおそらくは大刀洗や神代会が四都久民の存在を保護、秘匿しているのだろう。

 椿さんには大まかな事情を説明し、お互いの情報や意見を交換する事にした。彼女自身も一年前の事でずっと沸きらないでいたのだという。

「ところで、坂本さんはここの御祭神様を知っていますか?」

 椿さんは給湯室からお茶とお茶菓子を持ってきて振る舞ってくれたため、座布団の上で正座をする女性と立ち話をするなどというシュールな絵面は避ける事ができた。

 御祭神、この神社に祀られている神様。そういえば武道場にはお世話になってそれなりの日が経つが、どの神様が祀られているかなどは考えた事もなかった。

「ここには主神の素戔嗚様と櫛名田比売様の二柱が祀られています。気になって私も少し調べてみたのですが、どうやら素戔嗚様と四都久民は深く関わりがあるようです。わかりやすいもので言えば、例大祭などで奉納される神楽ですね。」

 椿さんの話によると、夜都賀埜清神社の巫女神楽は真剣を使って執り行われる珍しいもので、その重量や危険度から一般的な巫女では難しく、しばしば武道場を利用する剣士が招致されているそうだ。

「それじゃあ椿さんは適任ですね。」

「ただ、その…例大祭以外は断っているんです。少々恥ずかしい風習がありまして…。」

「風習?」

「あの…ですね、神楽舞を行う巫女は、…付け耳をしないといけないのです。」

「なんと。」

 つまり、リアル獣耳巫女を拝める絶好の機会なのではないか。この十数年東雲市に住んでおきながらそのような一大イベントを知らずにいたとはなんたる不覚。

「椿さん、つかぬ事をうかがいますが、次の例大祭っていつでしたっけ。」

「えっと、あの…少々恥ずかしいので、自分で調べてください。話は戻しますが、その付け耳が四都久民を表していることは明白でしょう。」

 あからさまだと言ってしまえばそれまでだが、そもそも四都久民の知名度も高いものではない。それこそ東雲市の歴史に関わる立ち位置の人か一部のマニアくらいのもの。地域に根強く浸透している文化が形だけ取り残され、その意味が薄らいでいくことなどよくある事なのだろう。

「普通、神楽や神事を奉納する際には一般的な巫女装束である白衣、緋袴に千早という薄手の羽織りをまといます。実は、あの時の宇都宮さんも、緋袴ではなく白い袴ではありましたが千早を羽織っていました。」

 四都久民と縁のある神社で神事を行う格好で死にかけていた。つまり命の危険を伴う危険な神事を奉仕していたという事なのだろう。そうなってくると、四都久民をひた隠しにしようとする大刀洗や神代会がきな臭くなってくる。

「あと、これは余談なのですが、巫女が緋袴を着用するようになったのは明治以降なのだそうです。とはいえ、夜都賀埜清神社の巫女装束は一般的な白衣に緋袴ですので宇都宮さんはこの神社の巫女ではないと思います。」

 白色の和装と言われて、まず連想するのは花嫁衣装である白無垢だった。白は純粋や潔白の意味を持ち、そして何物にでも染まることが出来る空虚さを備える。

 ふと、喫茶店でのお嬢のつぶやきを思い出す。彼女は宇都宮を視て真っ白で空っぽだと評した。巫女装束といい精神性といい、あまりに純潔すぎて神に仕える巫女としては出来すぎている。それはまるで宇都宮自身が神に捧げられる供物であるかのようだ。

「…人身御供、なんて事は流石に考えすぎですかね。」

「坂本さん、あまり良くない想像をするものではありませんよ。ですが宇都宮さんの事が心配なのはよくわかります。どうぞよしなに、彼女の力になってあげてください。」

 椿さんは正した姿勢のまま正面に手をつき、見惚れする程優美に頭を下げて見せたのだった。

 その後いくつかの意見交換をした後、武道場を後にした。椿さんは食器を洗うなどと言い、相変わらず大学に行く気はないらしかった。

「うおおおおくらえクソ餓鬼!!」

 ザクザクと砂利の上を走る音が聞こえ、雄一郎は嫌な予感を抱く。

「おわああああ!?あっぶねえないきなり何しやがる畜生!!」

 間一髪、飛来する中年男性の足蹴をすんでのところで躱した。

「なんだクソ、つまんねえなあ。俺の愛のドロップキックくらい正面から受け止めやがれってんだ。」

「マジでなんなんだ、いい歳こいて不意打ちなんてやめやがれクソジジイ!」

 悪態をつきながらよっこらせと立ち上がる中年。彼はこの神社の宮司を勤めるロクでもない男で名は水上源八という。

「おいおい、師匠に向かってクソジジイはねえだろう。せっかくかわいいクソ弟子が『また』面倒背負ってるみてえだから様子見にきてやったってのに。」

「大きなお世話だ。つか源さんこそクソ弟子言ってるじゃねえか。」

 認めなくないが、残念ながらこのロクでなしの中年は俺に空手の稽古をつけてくれた師匠なのだ。

「そんで、今度は獣耳巫女誑かしたってか。イケメンはいいねえ、モテモテでよ。」

「…盗み聞きしてやがったな。まあそういう事で俺は源さんに構ってられるほど暇じゃねーんだ。」

 水上源八は去ろうとする俺を呼び止める。

「まあそう言うな。あの娘っ子に関わるなら、お前さんに渡しておく物があってな。」

「ああ?」

「まあついてこい。」

 訝しむ俺に構わず、宮司は境内の奥の方へ連れていく。その行き着く先は祭具殿だった。

 年季の入った外観とは裏腹に中は整然としており、清掃も行き届いているようで埃っぽさもほとんど感じない。祭事に使う神輿や太鼓だけでなく、例大祭で使う簡易テントや長机、パイプ椅子なども納められている。

「これ、あの娘っ子に返しておいてくれや。」

 差し出されたのは大きな桐の箱だった。雄一郎はおそるおそるその蝶結びをほどき、封を解いた。

「どうだ見事なもんだろう、流石に血まみれのままじゃあ不憫だってんでな。」

 桐の箱に入っていたのは純白の巫女装束と、同じく白色の鞘に収まる小太刀だった。

 その白さはやはり純潔そのものであまりにも綺麗だった為、雄一郎は少しの間目を奪われてしまっていた。

「刃物なんて持ってたら捕まっちまうだろ。」

「なに、お前さんがバレなきゃいんだよ。」

 ぼんやりと思い浮かべた宇都宮シキがこの装束を身につけた姿は、神々しくも美しいまさに純潔そのものだ。

「妄想してんじゃねえよ、このエロ坊主。」

「は、はぁ!?誰が妄想なんか…。」

「ったく、若いってのは羨ましいぜ。それじゃあ渡したからな、頼んだぜ坊主。」

 もう一度封をする前に、雄一郎は小太刀を鞘から抜いた。恐らくは宮司が一度刃を研いだのだろう、刀身は僅かな光すら反射し、触れるだけで斬れてしまいそうな強さと危うさを感じる。

 雄一郎は考える、これを本当に宇都宮シキに渡してしまっても大丈夫なのだろうかと。一抹の不安を抱きつつも、彼は再び封をした桐の箱を手にした。



 昇降口を出ると、いつの間にかにわか雨が降り出していた。

 部活帰りの雪丸花火は通学鞄の奥底に沈む物を手で探り当て、そのレース柄のあしらわれた小さな折り畳み傘を開いた。

 彼女は部活動の仲間はそれぞれ寄り道などをする中一人帰路に着いていた。

 花火はあまり大人数ではしゃぐ事を好まない。

 昔からいわゆる体育会系の雰囲気に馴染めず仲間同士の集まりにもほとんど参加した事がない。その結果チームの中で一人で浮いている事が多かった。

 そんな性格がチームの調和を乱すと揶揄された事もあったが、これまで黙々と駅伝選手としての成果を挙げ続けた花火にしてみれば一人の性格に成績を左右される程度の選手など眼中にはないということだ。

 その点、東雲学園高校は花火にとってはおあつらえ向きだと言える。チームメイトは実力主義のスポーツ特待生が集まっており、中には花火と同じく大人数で連む事が苦手な選手もおり、理解がある選手も多いからだ。

「よう、今帰りか?」

 花火は人気のない昇降口でかけられた声に振り向いた。

 夏休みだというのに部活動生でもない白川龍斗が登校しているというのは珍しい。見かけによらず学力の高い彼の事だ、補習というわけでもないのだろう。

「ええ、あんたは?」

「まあ野暮用でな、生徒会長から呼び出しくらってたんだよ。」

「ふーん。」

 東雲学園高校の生徒会長、佐藤真菜といえばその独特な掴み所のなさで有名だ。一年生である花火はよく知らないのだが、選挙の際一般生徒はもちろん教員や、いわゆる不良生徒からの支持も多く得ていたという曰くつきらしい。

 噂によれば才色兼備完全無欠の生徒会長らしく、その手腕は学園内に止まらず東雲市内にも小規模ながら及んでいるのだという。どこまで本当なのかは定かではないのだが、腕っぷしもかなり立つらしい。

「さ、帰るぞ。」

「あ、うん待ってよ。」

 ぼうっと話しているうちにいつの間にかスニーカーを履き終えていた龍斗に続き、花火も慌ててローファーを履いた。

 当たり前のように歩幅を合わせ隣を歩く姿は側から見ると恋人の距離感なのだが、実際のところ二人は恋人同士というわけではない。

 ただの友人だと言うには些か仲が良すぎるのかもしれないが。

「バーガー行かねえ?」

「いいわね、お腹すいた。」

「よっし、決まりだな。」

 龍斗は学生服の襟元からはみ出したフードを被ると、雨の中へ飛び出した。

「ちょっと、あんた傘は!?」

「忘れちまった。ま、その辺のパクれば問題ねえだろ。」

「大問題よ馬鹿。…ほら、あんたが持ちなさい。」

 その傘は二人で入るにはあまりにも小さく、渡した手前、彼女は龍斗のそばにほぼ密着するような形になってしまう。見上げると、龍斗は可愛らしいレース柄の傘を渡されたままの格好で持ったまま硬直していた。

「おま…!」

「あら、案外似合うわよ。」

 龍斗は仕方なく密着状態のまま歩き始めた。すれ違う人々から微笑みや嫉妬の目線が注がれるたび、花火は身長の高い彼の後ろに隠れている。

「…これはこれで役得だな。」

「…段々恥ずかしくなってきたわ。」

 彼の手元から傘を奪い取ろうとする花火だが、それに気づいた龍斗は腕を高く伸ばして阻む。身長差にして三十センチ以上、花火が懸命にジャンプしても届かない高さだ。

「ちょっと、返しなさいってば!」

「俺、濡れるの嫌なんだよな。」

「あんたが遊ぶおかげで完全に濡れてるわよ!」

「まあ細かい事は気にすんな。」

 行き先のハンバーガー店は学校からほど近くにあり、多くの東雲学園高校の生徒が学校帰りに立ち寄る憩いの場ともなっている。注文カウンターの列には先程別れたばかりの部員もおり、店に入るや否や密着していた花火は龍斗から距離を取った。

「そのヒト、雪丸ちゃんの彼氏〜?」

 一部始終を目撃し、クスクスと笑う部員たちの中からひょっこりと顔を出したのは独特な鼻抜けのするシニカルな声の持ち主。彼女の名前からは守田佳奈子、駅伝部の部長である。

「ち、違います!」

「どうも、いつもウチのちっさいのが世話んなってます。」

「ちっさい言うな!それに、あんたのでもないわよ!」

 言い返したところで花火はふと我に返ったのだが、部長の満足げな表情にげんなりと肩を落とした。

「なーるほど、いつもクールな雪丸ちゃんが熱くなるような関係ってことね。」

「守田先輩。」

「はいはいごめんね可愛い可愛い雪丸ちゃん。よかったら君も一緒にどうかな?もっとも、雪丸ちゃんが気乗りしないのは知ってるんだけどね。」

 花火は龍斗の傍らでいまだ半身を隠しながらも頬を膨らます。学校の近くのハンバーガー屋なのだから顔見知りに会うのは仕方のないことなのであろうが。

「それじゃあお言葉に甘えてみるか。」

 花火の分もトレーに乗せ龍斗はイートインスペースへ足を運んだ

「ところで先輩、実は聞きたい事があるんですけど。」

 食事もひと段落したところで龍斗はおもむろに切り出した。

「何かな?」

 龍斗は学生鞄の中からクリアファイルを取り出した。そこにはいくつかのポラロイド写真が入っており、花火は写っているものに見覚えがあった。それは旧市街で見た赤い紙状の麻薬だった。

「あんた、それ…。」

 ぴたり、と会話が止む。部員たちの中には顔を下げ、中には気分を悪くする者もいた。どうやらかなり出回っているのが予想以上に身近で、根が深いらしい。

「ほう、なんか知ってるらしいな。別にここで弾劾裁判をしようってわけじゃない、知っている事を教えてくれればそれでいい。」

「ふーん…、知ってどうするかなんて聞いていいかな?」

「どうもしやしないさ、俺は親友の為に情報を集めてるだけだからな。それに、雪丸が蚊帳の外みたいだしな。」

 花火は身震いをした。その麻薬の恐ろしさは確かに龍斗から聞いていたのだが、それは自身が知らなかっただけこんなにも身近に知れ渡っているなどと思いもしなかったからだ。

「雪丸ちゃんにはこんな事知って欲しくなかったんだけど、仕方ない。それに、知らないのも無理ないよ、私達がソレに出会ったのは雪丸ちゃんが入学する前、去年の十二月のインターハイなんだから。」

「インターハイって、まさか…!」

「そ、ドーピングだよ。去年の優勝校だったんだけどね、その末路は悲惨な物だったよ。」

 それは容易に想像がついた。乱用者に襲い掛かる筋肉断裂の症状。一度の大会の為に選手生命が断たれる無念。そうまでして優勝に固執した理由はなんだったのだろうか。

「悪いけどこれ以上は口にできない、情報はメールでどうかな。」

「ああ、それでいい。邪魔したな。」

「ちょっと、待ってよ!…あの、守田先輩、失礼します。」

「うん、またねー雪丸ちゃん。今日は珍しくお喋りできて楽しかったよ。」

 ヒラヒラと手を振る部長に花火はお辞儀をし、龍斗の後を追った。



「なんだ、やっぱり警察なんて来ないじゃん。」

 拝借したナイフを弄びつつ、ユイは再び夜の旧市街へ足を運んでいた。気がかりであった警察による一斉検挙などという龍斗の情報もハッタリだとわかったが、口車にのせられこうやって足を運んでしまったことは気に食わない。

 だが、ユイは焦る。タイムリミットが近づいていることは確かなのだ。あの薬からわずかに感じた力は黄泉と不浄は明らかに穢浄醜女と同じもの。どうやら完成には至っていないようだが、あの穢れた力がこれ以上流出しないように一刻も早く宇都宮六廻に会い、そして殺さなければならない。

 そういえばあの魔女はシキと宇都宮六廻は因縁があると言っていたか、名字が同一であることを考えても並々ならない過去があるのだろう。おそらくはあの巨大な心の闇とも関係しているだろう。

「シキに知られる前に、私が終わらせる…。」

 決意を口にし、それを確固たるものにする。

 思えば、いつまでもシキが記憶を無くしてくれているとも限らないではないか。彼女が宇都宮六廻とどのような因縁があるか見当もつかないが、少なくとも穢浄醜女に関しては私が殺し損ねたもの。それが今のシキを苦しめているというのなら、死者である私にできる事は過去を清算することだけだ。

 廃墟を探索するのはこれで三回目になる。一番初めは真正面から堂々と赴き、この辺りを根城にしているらしい暴力団組織と戦闘になってしまった。その甲斐あって宇都宮六廻という名前と変電所にその男がいるという情報を得る事ができたが、戦闘を一般人に目撃されてしまい、『ロストタウンの獣』などという通り名を付けられてしまった事は誤算だった。警戒をされた故に二回目で変電所に向かった時も激しく抵抗された。坂本雄一郎一行に見つかったショックで寝ていたシキも目覚め、結果的にその隙をつかれ凶弾を食らってしまった。

 ユイは胸の傷痕を服の上から手でなぞった。いまだ違和感の残るそれは、しかし確実に治癒している。

 昔からユイは傷の治りが早かった。それだけではない、彼女は運動能力も突出しており、狩りの腕では大人でも右に出る者はいなかった。刃の扱いに長け、ある時は小刀一刀をもって十頭もの鹿や猪を容易く狩ってきたこともある。ユイは四都久民の中でも異質な存在だったのだ。それでも歴代の巫女同様、穢浄醜女を封じる代償に黄泉の穢れを一身に受け、命を落とした。彼女の力を持ってしても穢浄醜女を完全に消す事は叶わなかったが、それでも復活までは数百年単位の時間を要したはずだ。以来、代々巫女を供物とし、彼女達の命が幼くして失われるなどという事はユイの代で終わりのはずだったのだ。だというのに、不遜にも黄泉の穢れを悪用し混沌へと陥れようとしている者を野放しにしておくなどあり得ない。

 ユイはナイフを逆手に握り、件の変電所を見据える。粗方の見張りは前回病院送りにしたため、数は少ない。これならほぼ誰にも見つからずに建物内へ侵入できるだろう。

 敷地内への入り口は一か所のみ、そして見張りは覆面をした男二人だ。外周はぐるりと金網フェンスと有刺鉄線で覆われており、いかにユイといえど一足跳びで越えることはできず、よじ登ったとしても大きな音を立ててしまう為勘付かれずにフェンスを越えての侵入は難しい。ーーーならばこそ、やる事は単純明快だ。

 カラン、と敷地内で音が鳴る。見張りの視線が一か所に集まる瞬間、近くの廃屋に身を隠していたユイは飛び出し一目散に片方の見張りへ近づくと、後頭部へ飛び膝蹴りを見舞う。

 あまりにも一瞬の出来事に、その光景を間近で目撃したもう一人は唖然と口を開けるしかない。

「痛い目見たくなかったら騒がないで。」

 首元にナイフをあてがわれた見張りの一人は素早くポケットにしまってある警棒に手をかけたが、それを取り出す前にユイは片手で男の手首を捻る。少女のものとは思えない怪力に、警棒は地面に取り落とされた。

「まてまて落ち着け、宇都宮!」

 次はユイが驚く番であった。覆面を外した男は、坂本雄一郎だったのだ。反射的に飛び退いたが、依然右手には凶器を握りしめたまま対峙する形となった。

「いや、今は宇都宮じゃなくてユイのほうなのか?…ちなみに飛び膝蹴り受けてそこで伸びてるのは龍斗だ。」

「ってえ…!まったく、思いっきり蹴飛ばしやがって。」

「お、さすがの頑丈さだな。」

 ユイは絶句した。彼女の膝は確実に龍斗の後頭部に直撃し、その意識を刈り取った。その手ごたえは確かなもので、半日は昏倒させるものであった。少なくとも、ものの数秒で意識が戻るなどありえない。

「それで、私を止めにでも来たの?…邪魔をするなら容赦はしない。」

 しかし、対する坂本雄一郎はユイの威嚇を受けてなお平然と無防備を晒していた。

「いやいや、言ったじゃん。次旧市街に行く時は連れてけって。」

「は、なに、あれ本気で言ってたの?」

「当たり前だろ、なに考えてんだよ。」

 そんな馬鹿みたいな理屈を馬鹿真面目に言ってしまうものだから、ユイは、それはこっちのセリフだと返す事が出来なかった。そんな様子に傍らで聞いていた白川龍斗が吹き出し、腹を抱えて笑い始めたため場の緊張感とともにシュールな感じが否めない。

「その為にお嬢に頼んで四都久の巫女の歴史を調べてもらったんだからな。」

「へえ、大刀洗のね。それで私が何に躍起になってるか察したわけ。…じゃあ分かるよね、お前じゃ力不足だってこと。はっきりと言っておくけど、お前は要らない。」

 足手纏いの存在はユイの枷になる。だから彼女は一人で戦う必要があった。

「お前だってそんなナマクラじゃどうにも出来ない事くらい分かってるはずだ。ましてやシキが敗けた相手なんだろ。」

「…四都久の巫女を侮るなよ。それに私はシキよりも強い。得物が何であろうと、それが刃物なら私は使いこなせる。私の魂はそういう風にできているんだから。」

「どうだか。喧嘩の強さは知らないが、少なくとも精神面では宇都宮の方が断然強そうだけどな。」

 ユイは歯嚙みする。

「それにまさかとは思うが、お前シキと心中するつもりなんじゃないだろうな。どうにも俺にはお前が望んで死にに行くように見えてならない。だとしたら、悪いが俺はお前を力尽くでも止めるしかない。」

「もうウザいよ、お前。」

 それ以上の問答は無用だ。宇都宮シキの友人は今倒すべき敵として私の目の前にいる。彼はシキの友達であって私のではない。

 ユイはゆっくりと長く息をはくと、ナイフを構えた。

「おいおい、奴さんキレちまったぜ。どうすんだよユウ。」

「まあ任せとけって。」

 シキには悪いが引き下がるまで彼を痛めつける。彼もその程度の覚悟なしに来ているわけでもないだろう。

「痛い目見ても知らないよ…!」

 しかし、一つだけ彼女には大きな誤算があった。一足飛びに懐へ駆け放った一閃は手応えがなく、空を斬る。それと同時に腹部へと繰り出されるカウンターブローを避け切ることが出来ず、ユイは地面に転がり込んだ。

 確かにユイは雄一郎の実力を嘗めていた。だからこそ一足飛びで突進し神速の斬撃を繰り出したのだ。並みの反応速度ではその刃を避ける事など出来はしない。

 ーーーそれにコイツ、見えていた。

「悪いが、速いだけの素直な剣じゃ俺は捕まらないぞ。」

「顔に当てないなんて相変わらずお優しい。」

「うっせ。」

 その予想外の反撃に合い、荒い呼吸を喘ぎながらもユイは再び立ち上がった。

「そうやって安易に相手を嘗めてかかるようじゃ、お前一人に宇都宮は任せておけない。だから協力したい、俺たちの手を取ってくれないか。」

 騙し討ちに二度目はない。次の一撃を雄一郎は避け切れる気がしなかった。

「はー…しょうがない。わかったよ、私の負け。」

「は?」

 ユイはそのまま両手を上げると、あまりにもあっさりと降参した。その清々しいまでの切り替えの早さに雄一郎はすぐに状況を飲み込めず、口にするのは気の抜けた疑問符のみだった。

「なんだよ。仮にも神威の一撃を躱したお前を足手纏いって言ったのは取り消すし、お前の言ってる事も正しいって認めてやるって言ってるんだけど。…大丈夫?」

「待ってくれ、その『シンイの一撃』って何なんだ?」

 雄一郎は状況に混乱しながらも、耳に入った聞きなれない単語への疑問を口にした。

「何って、そのままの意味だけど。神の威光、神懸かった技ってこと。四都久の巫女は神楽によって鶴来比売を神懸かりするからな。」

「おいおい、ユウはいつから人外になったんだ?」

 しかし、確かにユイの一撃は人間業ではなかった。門矢椿の斬撃よりも速いその一撃を躱したというのは事実だ。

「…人聞きの悪い事言うなよ。」

「まあ、神懸かりってのは何も本当に神を宿してるわけじゃないからな、人間業でも稀に起こるものさ。」

 自己暗示、のようなものだろうか。ふと、雄一郎は宮司から託された巫女装束と小太刀の事を思い出した。

「そういえば、協力していいなら渡したい物がある。」

「なに?」

 雄一郎は彼女の巫女装束の入った桐の箱を渡した。小太刀は雄一郎のリュックサックに入れたままだが、凶器を渡すのはいささか気が引けた。

「へえお前が持ってたんだ、私の装束。少し待て、着替える。」

「ちょ…!」

「ヒュウッ。」

 あろう事か、ユイは目の前で着替え始めた。雄一郎は反射的に目を逸らすが、そんな彼の心情などお構いなしだ。

「…なんだお前ら。」

「な、なんだじゃないだろ!少しは隠れろよ!」

「変な奴だな、私の裸がそんなに気になるのか?」

「やっぱロリ丸と違っていい体してやがる。なあ、ユウよ。」

「うるせえお前少しは目線を逸らしやがれ!」

「騒がれると着替えづらい、静かにしろ。」

「だってよ、大人しく俺と一緒に観察してるんだな。」

「お前な…。」

 着替え終わってみれば、それは想像以上に美しい物だった。特に白一色でありながらも千早の繊細な柄は月の光を反射して淡く光っているようだ。その白さと彼女の黒々とした長髪のコントラストがより一層儚げな美しさを際立たせているようだ。

「待たせたな。」

 彼女のその言葉に、雄一郎は緩んだ気持ちを引き締めた。これより先は死地。宇都宮シキが敗れた怪物の巣窟。

「生きて帰ろう、ーーーユイ。」

「ああ。足を引っ張るなよ、ユウイチロウ、リュウト。」

 ユイの心に焦りはない。いつのまにか、不思議と自分より弱いはずの二人の存在が心強く感じていたのだった。

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