廃都事変 3

 ぼんやりと月明かりが照らす病室で宇都宮シキは目を覚ました。

 体を起こすと胸のあたりがズキズキと痛み、シキはぼんやりとした記憶の中自分が銃弾に撃ち抜かれたことを思い出す。

 撃たれて尚、こうして生きているという事は、要するに私は助けられてしまったらしい。そして、おそらく私を助けたのはどうしてか居合わせた坂本君たちで間違い無いのだろう。

 なぜ彼らが旧市街に来ていたのかはわからないが、私のせいで嫌なものを見せてしまった。そんな後ろめたさが胸の内で尾を引いている。

 彼らは私が武器を手に取り、暴力をもって人を傷つける醜い姿を知って私の事を嫌悪するだろうか。

 病衣を捲ると消毒のにおいがツンと鼻につき、銃創のあたりは包帯でぐるぐる巻かれている。血は止まっているらしく、赤い染みは乾き硬化している。

「あっ、…いてて。」

 キャビネットの上の冷水を取ろうとし、傷の痛みにそれを取り落とす。ガラス製のコップは落ちるや否やいとも簡単に砕け、床に水をぶちまけた。

 こんな事でナースコールを押すのはためらわれたが、どちらにせよこんな夜更けに突然ガラスの割れる音がしたのだから、すぐに夜勤の看護師が駆けつけてくるだろう。

「まったく、何やってるんだろ。」

 ボタンを押すと備え付けのスピーカーから看護師の声が応答した。シキは平静を装い、その声の主に飲用水を要求する。看護師はすぐに向かうと告げ、通話を切った。

 ほどなくしてシキの耳は遠くからこちらに近づく足音を捉える。

 どうやらその足音は一つではなく、二つ…いや三つ。足音から察するに一つは主治医を務める椎名千歳、もう一つは黒井奈都のものだろう。もう一つは看護師だろうか、やはりナースコールは大袈裟だった。多分彼らは目覚めた私を咎めるだろうと確信し、やぶ蛇を突いてしまったとさらにナイーブになった。

 あまりの気恥ずかしさから枕を抱きしめ掛け布団を顔のあたりまで被り、シキは足音が徐々に近づくのを感じていた。

「しーちゃん、入るよー。あらら、また派手に散らかしちゃったね。」

 しばらくして、千歳が飄々とした調子で病室に入ってきた。

 彼女は注文通りに冷水をコップに注いだが、なぜかそのままベッドに上がると布団の上からシキの上に馬乗りになり、胸に抱きかかえる枕を引きはがした。

 突然目の前に千歳の顔が現れた為しっかりと目が合ってしまい、シキはすぐにそっぽを向いてしまうが、渡された水を受け取ると喉がカラカラに乾いていたため、出来るだけ彼女の事は気にしないように務めすぐに飲み干してしまった。

「痛むかい?飲みづらいなら次は先生が口移ししてあげるぜ。」

「…椎名先生が邪魔で飲みにくいんだけど。」

「あらら、なかなか連れないね。まあ、しおらしくしてる珍しいしーちゃんの姿も可愛らしいけど、反論するくらい元気な方が張り合いがあっていい。」

 シキが二杯目の水を飲み干すと、千歳は満足げにシキの上から離れ、ベッドへ腰かけ直した。どうやら床に散らばったガラスの破片は続いて入ってきた奈都が片付けてしまったようだ。

「シキ、これに懲りたら勝手に旧市街なんて危ない所に行くのは辞めてくれよ。みんなすごく心配してたんだから。」

「うー、わかってるよ。」

 これから延々と聞かされるであろう二人の小言に辟易するが、一方で彼らが来たことで私は胸の内に安心感を覚えている。それは私が少なからず彼らの事を信頼しているという証拠なのだろうか。

「まあまあ、そうへそを曲げないでくれ。せっかく友達も来てくれているんだから、シキもしゃんとしないとね。」

「え、友達って…。」

 視線を後方に移す。そういえば確かに近付く足音は三人分聞こえていたのだ。そして、半年分の記憶しか持たないシキに友人と呼べる人物は限られている。恐る恐る顔を上げると、そこにいたのは彼女の予想通りではあったが、同時に今一番顔を合わせづらい人物だった。

「よ、宇都宮。元気か?」

 坂本雄一郎のまるで数刻前の出来事などなかったかのような様子に目を合わせることができず、彼の存在を確認するや否やシキはふくれ面で奈都へと向き直る。

「ねえナツ、なんで坂本君がここにいるのかな…。」

 私は奈都を強く睨んだが、彼は飄々としたまま私の苛立ちをどこ吹く風と受け流す。

「おいおい、何を言ってるんだいシキ。倒れた君を救助してくれたのは彼らなんだから居場所を知らないわけないだろう。それにね、彼は君が目を覚ますまでずっと待っててくれたんだよ。」

「坂本君が…?」

 それはもう恥ずかしいやら恨めしいやら…嬉しいやらで、私の頭の中をぐちゃぐちゃにかき乱す。こんな時に限って当のユイは眠ったまま出てこないし、それがこんなにも腹立たしい。…いや、ユイだって私なのだから、そうやってユイだけを責めるのはお門違いだろう。

「黒井さん、それは言わないお約束ですよ。」

「おっと悪いね、口が滑ってしまった。」

「…まあなんにせよ、宇都宮が無事で俺は一安心だ。」

 枕を抱く腕に力が入り、心臓は早鐘を打っている。羞恥と背徳感が私の胸を締め上げ呼吸すら儘ならない。

「じゃあ二人とも、お邪魔な僕たちは退散するよ。ゆーくんも積もる話はあるだろうけど、程々にね。」

「坂本君、戸締りをしないといけないから病院を出たらメッセージを忘れないようにね。シキも早く寝なよ、じゃあね。」

「椎名先生、黒井さん、我儘言ってすみませんでした。」

「気にしないでおくれよ。君はしーちゃんの命の恩人なんだからね。」

 それじゃあ、と言って二人は出ていった。夜も遅く、もうすぐ日付も変わる頃だ。お互いすぐには顔を合わせることもなく、雄一郎は立ったまま、シキは枕に顔を埋めたままでいた。

 どちらも話したい事、話すべきことはいくらでもあるはずなのに、最初の一言がなかなか絞り出せない。

 悶々とした空気の中時間だけが経っていく。外は静かなもので遠くを走る車の音すら聞こえず、シキが少し動くたびに布が擦れる音だけが聞こえてくる。

「…私の事なんて、嫌いになってしまったのかと思った。」

 居たたまれず、まず言葉を発したのはシキの方。絞り出すように彼女が口にしたのは自虐だった。

「…君は見たでしょ。」

 私は旧市街へ向かうユイを止めもせず、野放しにしていた。そこに何が潜んでいるのか、もうとっくに気づいていたのだ。もうあんな所には戻りたくない、あの人は私から何もかもを奪い去ってしまった。

 だから私はもう二度と大切なものをーーー記憶を失わないために、ユイの強さにすがるしかなかった。

「椎名先生から宇都宮のこと、色々聞いたよ。孤児だったことも、もう一人の人格…ユイの事もな。」

「あはは、そうなんだまいったな。…でも、こんな問題を抱えてるんじゃ、学校になんてとても行けないね。君もさ、こんな危険なやつなんか放っておいてーーー」

「やめてくれ。」

 シキの自虐に被せるように、雄一郎は吐き捨てる。そんなのが本心ではないことは彼女の表情を見ればわかりきっていることだった。刃で人を傷つけるたびにシキの心も傷ついていたのだ。たとえ自分の心を傷つけたとしても、シキにはやらなければならない意志があったのだ。

「…まさか、友達に目の前で大怪我されて放ってなんておけるわけないだろ。それに、宇都宮は確かに他の人とは違うし変わってると思う。けど、だからといって化け物とは違う。化け物ってのはさ、きっとそういう風に自分のした事で苦しんだりなんてしないからな。」

 私はどうしても彼の顔を見ることができず、いまだ枕に顔を埋めることしかできない。一刻も早く一人になりたかった。同じ空間に他人がいることが我慢ならなかったのだ。

「なんてな。とりあえず宇都宮が元気そうなのも確認できたし、長居も怪我に障るだろう。俺は帰るよ。」

「あ、…。」

 そうやって笑った彼に声をかけようとした自分自身に驚愕した。

 私は何をやっているんだろう、先ほどまで私はあんなにも一人になりたがっていたではないか。

「怪我、早く治してくれよ。宇都宮が学校に来るのお嬢や雪丸だって楽しみにしてるんだからな。」

 彼女たちもまた、坂本君と同じくこんな私を待っていてくれるというのか。それがどれだけ私を傷つけ、私の希望になっているのか、彼は分かっているのだろうか。

「あと、次旧市街に行く時は誘ってくれ。何してるのかは知らないけど、俺も力になるからさ。」

 そんな優しい言葉を最後に、坂本雄一郎も病室を後にした。後に残ったのは一抹の寂しさと胸を穿つ傷の痛みだけだった。



「これも失敗だな。」

 無骨な風貌をしている大男はぼやき、肩に担いだ人間を軽々と放り棄てた。その人間は眼を充血させ、鼻から血を流し、四肢はまるで軟体動物であるかのように無様にだらんと放っている。そして言葉になっていない呻き声は更なる快楽を求め続けている。

 コンクリート造りの無骨な空間には強烈な刺激臭と噎せるような血の臭いが立ち込めていた。ここは実験場だ。

「所詮凡愚は凡愚、鬼にも神にもなれんという事か。」

 快楽を求め続けたその人間は、やがて眼や耳、毛穴に至るまでが赤黒い血を吹き出す。そして身は溶け崩れ同じ色の泥へと変貌した。その泥はこの空間に充満するものと同じ強烈な刺激を含む悪臭を放っている。

「だが、これはこれで利用できないでもない。」

 不浄の泥は、崩れてなお泡立ち蠢いている。人間としての形を失ってなお、この泥は生命としての機能を失っていない。泥は幾人もの魂と混ざり合い、その混沌は悪臭を放ち、人間ではない異形の化け物へ変わり果てている。

「あの美しい純白の神威…あれを壊すには、まだ足りんな。」

「相変わらず執念深いね、お前は。」

 気配なく現れたのはとがり帽の女。彼女こそがありとあらゆる黒幕に違いないが、大男にとってはそれすらどうでも良い事だ。

「…覚醒の魔女。貴様のその胡散臭さは幾星霜もの時を経ても変わらんものだな。」

「ほう、言うじゃないか。お前こそ惚れた女の尻をいつまでも追い掛け回すのはいい加減見るに耐えんぞ。あの子は確かに可愛らしいが、それではいい男が台無しだ。」

 魔女が指を鳴らすと、部屋中に立ち込めていた瘴気はいつの間にか消えてなくなってしまい、代わりに独特な香の香りに包まれる。

「それに、お前ではあの子ーーー無垢には届かんと、以前にもそう言ったはずだが。」

 その名を語ると場の空気が一変し、緊張が走った。しかし、大男から迸る圧を受けてなお、魔女は涼しい顔で胡散臭い笑みを浮かべている。

「確かにあれは私の最高傑作と相討ちとなったが、それだけで私が勝てぬと断ずるのはいささか早計が過ぎるというものではないか、魔女よ。」

 大男の圧は次第に強く肥大し魔女を喰らい尽くす程の勢いで巨大化しているが、対して魔女は大あくびをするだけで気にすら留めていない。

「早計か、そうでもないさ。なにせ、お前は一つ過ちを犯しているのだから。そして、それにいまだ気付いていないことがお前の最大の綻びということだよ。そもそもあれは穢れを知らない純真無垢な白の神威だ。その純潔さは僅かな澱みすら抱いておらず、人間の領域としてはとうに破綻している。彼女を破壊するという事は神威に至る高潔な魂を俗物で穢し、醜い人間性を抱かせるという事だ。まあ、そういう意味では確かにお前の専門ではあるだろうね。」

「ーーー喰え。」

 刹那、つらつらと語る魔女に向け大男の圧が収束し大蛇の形となった汚泥が無防備なままの魔女へ襲いかかる。

「様々な生物無生物の残留情報が溶け出し混ざり合った集合体といったところか。なるほど、肉体と精神すらも混ざり合った禍々しい泥に少しでも犯されたならば、原型はもとより元々も意味すら剥奪されるだろう。無論、私とて無事では済まないな。」

 泥の中から魔女の語り口が尚も聞こえる。仕留め損なったと認識した大男はさらに大量の泥の蛇を使役し、次々に魔女へ向けて放った。

 するとすぐに魔女の声は聞こえなくなり、代わりに肉を喰らう咀嚼音や骨が砕ける音が耳に届いた。

「捨て駒か、逃げ足の速い奴だ。」

 泥が崩れ、中から身体中の至る所を欠損した先程の魔女が転げ落ちるが、既に魔女の気配はない。つまり、影武者であったということだ。

 それだけ確認すると、大男ーーー宇都宮六廻はつまらなそうに影武者の遺体を泥に喰わせた。



 それから退院するまでの間、彼らは毎日私の病室へ見舞いにやってきた。

 最初花ちゃんーーー雪丸花火ちゃんの事をそう呼ぶ事にしたのだーーーが見舞いに来た時は凄まじい剣幕で叱られてしまった。それだけ彼女は私の事を心配してくれていたということだろう。そんな風に叱られる事なんて今まで一度もなかったから、私はとても驚いたものだ。

「…シキ、来たわよ。調子はどうかしら。」

「こんにちは、桜。もう傷は塞がってるし、すぐに退院できるんだから心配しなくても大丈夫なのに。」

 ここのところは桜がよく見舞いに来てくれる。坂本君は何やら忙しくしているらしく、花ちゃん曰く白川君と共にまたロクでもないことを企んでいるのだそうだ。

「…ええ、その心配はしていないわ。…私達がしているのは別の心配よ。」

「う、それは何も言い返せないや。」

 彼らが足しげく通うのは、もちろん見舞い目的ではあるのだろうが、病院を抜け出してまた旧市街へ行きかねない私の監視も目的の一つだろう。

 先日坂本君から釘を刺され、さすがの私もそんな気を起こすつもりはないのだが、いつユイのその気が変わるか私にだってわからないのだ。

「今日は一人なんだね。」

「…雪丸さんは部活動、雄一郎は…お人好しね。」

「お人好し?」

「…退院すればわかることよ。」

 桜はそれ以上は答えず、淡々と持ってきた菓子を広げると椅子に腰掛け、学生鞄から取り出した本を読み始めた。

 数日の間に分かったことだが、彼女は表情を作るのが苦手で口数がとても少ない。それに、何というか、ものすごくマイペースなのだ。桜と会話をしていても物言いが直球で長く続かないし、多くを語らない。そして今みたいに話が終わるや否や自分の世界に入ってしまう。

 …最初の頃はそれが気まずくて、少し困ったっけ。

「ねえ桜。」

「…なにかしら。」

 でも、それはただ言葉選びに時間がかかるというだけで不機嫌だとか鬱陶しがっているわけではないらしいのだ。

「いつもお菓子持ってきてくれて、ありがとね。」

「…いただき物を消費しているというだけよ。…感謝されることではないわ。」

 照れ隠しでぶっきらぼうにそっぽを向く仕草が可愛らしい。

 桜と過ごす時間は、なんだか穏やかでゆっくりと流れていく。彼女が読む小説のページをめくる音や息づかい、時計の針がまわる音を聞いていると、だんだん眠気が襲ってくる。それに逆らうことはなく、私は意識の海に落ちていく。

 坂本君や花ちゃんとお喋りをする時のような刺激は少ないけど、一人ぼっちの寂しさがない優しくて温かい時間はとても心地がいいのだ。

「邪魔するぜ。」

 微睡みの渦中にいたシキは、スライド式の扉が乱暴に開けられた音で目を覚ました。病室に入ってきたのは白川龍斗だった。

「…来るタイミングが最悪ね。」

「おっと、いたのかよ大刀洗。」

「…ここは病院よ、騒がしくするのはやめて頂戴。…シキも起きてしまったわ。」

「あーはいはい、悪かったな。」

 彼は桜の隣を抜けうつらうつらと眠け眼をこするシキへずかずかと近寄り、そして目の前で仁王立ちになった。

「…ちょっと、何のつもりなのかしら。」

「大刀洗は黙ってろよ、俺はロストタウンの獣に用があんだ。寝てないでさっさと出て来てくれると助かるんだが。」

 桜は動揺した。白川龍斗には宇都宮シキが解離性同一性障害であることを伝えてはいないはずだった。これは雄一郎、花火、桜の三人で取り決めたことだ。理由はもちろん、彼女をこれ以上の面倒ごとに付き合わせないためである。

「…あなた、どこまで知っているの。」

 龍斗が現場に居合わせたことを知らない黒井奈都や椎名千歳が、おいそれと患者の個人情報を話すとは考えにくい。そもそも、今まで一度も見舞いに来ていない彼がシキの主治医なんて知る由もないことだ。

「伊達に腐れ縁やってないっての、こちとら単純なお前らの考えることなんざ手に取るようにわかんだよ。そんで、ロストタウンの獣本人に聞くのが手っ取り早いと思ったんだが、赤い紙状の薬を売ってるの大男について聞きたい。」

 彼の飄々とした態度に桜は舌打ちをしたが、それ以上は何も問わなかった。いや、その言葉を口にするより先に空気が変わったのだ。

「知ってどうするつもりか知らないけど、」

 その緊張感はまるで常に首元に刃物の切っ先を向けられているかのようだった。

「そいつに関わるのはやめたほうがいいよ。」

 張り詰めた緊張とは裏腹に、その声色は無駄な力を一切含まない倦怠感にも似た静かさを持っており、それまでのシキのような快活さは一切感じられない。

「驚いたな、マジで人が変わったようだ。」

「…あなたがユイね、話はシキから聞いているわ。」

「懐かしい匂いがすると思ったらなんだ、お前大刀洗の異能持ちか。珍しい偶然もあったものだ。」

「…何の話かしら。」

「もしかしてお前、鶴来比売命の恩寵を知らないのか?」

 ぶっきらぼうな物言いから発せられたそのツルギヒメノミコトという単語、それは桜には聞き覚えのないものだ。だが、恩寵というものには聞き覚えがあった。

「いや、仕方ない事かな。神威も私の代までかなり薄れてたみたいだし、それも今となってはどうでもいい。」

 大刀洗は神の恩寵を受け現代まで栄えてきた家系である。

 それは大刀洗の一族として常に忘れず神への畏敬と心に宿すべき誇りとして幼いころから言い聞かされてきたものだ。そのツルギヒメノミコトが神だというのなら、なぜそれがユイに関係があるのだろうか。

「…そんな事より、おい、そこののっぽ、お前はその大男に会ったの?」

「直接の関わりはない。ただ件の薬が流行る速度が尋常じゃねえ、既に俺の周囲でも出回ってるらしい。常習者が何人か消えてるっつー噂もあるしな、知って警戒するに越したことはないだろ。」

「そう、会っていないの。ならお前はそのままでいいよ、知る必要がない。…シキはまだ寝てる、あまり騒がしくはしないでくれたら助かる。」

 それだけ呟くと、ユイは再び口を閉ざしてしまった。まるで最初から会話などしていなかったかのように二人への意識の一切合切が残らず消えたのだ。

 その事実を桜はその目で視てしまった。

 予てより違和感に感じていたことだ。シキの無垢とも呼べる研ぎ澄まされた刃のような純白さ、それはつまり人間性が薄いということに他ならない。そしてその特性はユイへと切り替わったことでより一層強く実感する。

「頑なだな、だが交渉材料がないわけじゃない。…近いうちに警察が一斉検挙に動くらしい。そんなことが始まってしまえばお前の探し物はもうできなくなるぜ。」

 しかしその言葉に、ユイの耳が反応した。

「…探し物って?」

「さあな、だが薬売りが何かに関わってるのは間違いないだろ。で、そいつはロストタウンの獣が警戒するほどのやばい奴だ。」

「…なんだ、結局当てずっぽうじゃない。」

 だが、ユイとしてもその情報は聞き捨てならなかったということらしい。完全に外していた意識が龍斗に集中する。

 その圧力に龍斗は尻込みするが、かろうじて飄々とした態度を崩さずにいる。

「わかった、いいよ交換条件だね。…ちょうどシキも寝てることだし。」

 ーーー来た。

「おっと、やけに食いつくじゃねえか。」

「餌を撒いたのはお前だろ、ほら早く教えてよ。」

「まあ落ち着けよ、お前はこの条件が得ばかりなんかじゃないことくらい分かっているんだろ?だから焦って話を決めようとする。腕っぷしは立つようだが交渉向きじゃねえな、お前。」

「…。」

 苛立ち歯嚙みするユイに対して、調子を取り戻した龍斗は煽りを入れる。

「お前は薬売りにこいつらを近づけたくないが情報は必要だ、だが俺の条件を飲めば間違いなくこいつらにも伝わるだろう。まあ、俺の情報を聞こうが聞くまいがお前のやることは変わらないだろうがな。」

 ユイが返すのは沈黙と射殺すような眼光のみ。

「帰れ、お前のせいでシキが起きた。」

「そうさせてもらおう。じゃあな、いい返事待ってるぜ。」

 返答はなかったが、それこそが返答だったのだ。ユイはこれで選択肢を失ったのだから。

「シキー、起きてるかしらー。…って白川あんた、」

「よっ、小さいの。」

 病室の扉前で鉢合わせた部活が終わったところらしく、雪丸の着ている制服は少し汗ばんでおり肩にマフラータオルをかけていた。

「誰が小さいのよ誰が!というかあんたね、今までなんでシキの見舞いに来なかったのよ。」

「相変わらずだな。…あとは頼んだぜ、雪丸。」

「は…?え、ちょっと!…なんなのあいつ。」

 花火が呼び止める間もなく、龍斗は立ち去ってしまった。

「こんにちは。ごめんね、シキ。あいつ何か変な事言ってたんでしょ。」

「花ちゃんこんにちは。ごめんね、私寝ちゃっててよくわからないや。」

「…私も帰るわ、調べたいこともできたし。」

 桜はぱたんと音を立てて読んでいた小説を閉じた。

「調べたい事って?」

「…私の事よ。」

 龍斗と桜の不可解な態度に、花火は首を傾げるのだった。



「お嬢様、夕食の支度が整いました。旦那様と奥様がお待ちです、食堂へお越しください。」

 扉の向こうからの使用人の声に桜は我に返り、書きかけのノートから腕時計へと視線を変える。時刻はすでに夕食時の十九時を五分過ぎてしまっていた。

 しかし驚いた。埃の被った書庫から引っ張り出した古めかしい伝記で眉唾物と高を括っていたのだが、ユイの話と照らし合わせるとそれがぴたりと辻褄が合う。

「…ごめんなさい、時間を失念していたわ。…お父様にすぐ向かうと伝えて頂戴。」

「かしこまりました。」

 思えば食事の時間に遅れるなんていつ以来だろうか。

「…私としたことが、雄一郎が絡む時はいつもこうね。」

 ーーーつまるところ、私は自分が思っているよりもずっと人情に厚い人間だということなのでしょうね。

 手早くメールを送信した桜は、パタンと古びた金属の装丁が施された分厚い本を閉じた。

「…あとはお願いね、雄一郎。」

 私の役目はこれまで、あとは彼があの子の面倒を見てくれるはずだ。

 そう一言祈るように言葉を口にして、彼女は私室の戸を開いた。

 桜の部屋は洋風だが、扉一つ隔てて日本屋敷へと世界が変わる。これは彼女の趣味によるものだが、同時にまじないとしての機能を持っている。外界から隔絶された個室は彼女の安寧の為の人工的な異界なのだ。たとえ血のつながった家族であれ、心理的に自ら立ち入ることを避けるように錯覚させられている。作為的にそのように彼女から仕向けられている。

 ーーーまったく効果のない相手もいるのだけれど。

「…ごめんなさい、遅くなりました。」

 両親は笑顔で、そして少し心配そうな顔で出迎えた。

「雄一郎君達とまた何か?」

「…ええ、まあ。…近々新しい友人を紹介できると思いますわ。」

「それは素敵ね、今度ゆっくり聞かせて頂戴。」

 最近、母は友達の話をするととても喜んでくれる。それに、少し前までの厳格な父なら食事の時間に遅れた私へ小言の一つや二つあったかもしれないが、母同様どうやら私の落ち度を許してくれるらしい。

 それまで家族不仲だったというわけではないのだが、名家の令嬢としての立ち居振る舞いや先祖返りとして強すぎる力の使い方を間違わない為の教育は、厳格にする他なかったのだろう。それは理解している。

 私が席に腰掛けると、いつものように使用人が今日の献立を読み上げ、父の唱和の元食事の時間となった。

「…お父様、お聞きしたい事があります。…後で伺ってもよろしいかしら。」

「察するに、食事の時間に遅れた理由も、新しいお友達も、その聞きたい事と関係があるな?」

「…ええ。」

「わかった、後で書斎に来なさい。私の知っている事なら教えてあげよう。」

「…感謝いたしますわ。」

 会話はそれまでと、桜は話を続ける両親をよそにいつものように静かに食事に戻った。

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