廃都事変 2
夕刻、東雲市郊外旧市街。
本来街を照らすはずの街灯や信号機などにはすでに電気は通っておらず、茜色の夕日のみが照らしている。
廃墟へ赴くとなると花火や桜もパンツスタイルでスニーカーを履いており、普段とは違ったアクティブな着こなしをしている。桜は珍しく長髪を一纏めに結っており、雄一郎はその様子が珍しかったためじっと眺めていると、不機嫌そうに睨まれてしまった。
苔むしてしまっている電気の通らない信号や廃屋となった汚れた灰色のビル群は退廃的な様相を呈し、当時は綺麗に舗装されていたであろうアスファルトはヒビ割れ、隙間から雑草が伸び放題だ。
土地開発と区画整理の為に見放された旧市街『ロストタウン』。何故この区画のみ住人全てが立ち退き、そして何も開発も取り壊しもされないまま放置されているのかは名家の一人娘である大刀洗桜ですら知らず、東雲市の都市伝説の一つにも数えられている。
「ったく、相変わらず両手に花で羨ましい限りだなあ、ユウ。」
先程旧市街の手前で合流した彼は嘲るような調子で皮肉を口にした。
白川龍斗。雄一郎と花火の腐れ縁で、変人というより『柄が悪い』という表現が一番しっくりと収まるだろう。人相の悪い釣り目で長身、ヘアスタイルはオールバック、校則など守る気のない奇抜なアクセサリーの数々を身に付けているおり、雄一郎とは生きる世界が違うような人種だ。しかし何故か悪友としての付き合いは長く、花火と同様小学生からの幼馴染の一人である。
「一度代わっておくか?」
「あー、やめとく。そこのチビはともかく、大刀洗はおっかねえわ。」
「…あら、私の方が雪丸さんよりもか弱いとと思うのだけれど。」
「はは、一番強かなやつがなんか言ってら。」
「ていうか、誰がチビよ誰が。」
ついでにとばかりに低身長を弄られた花火はわざわざ龍斗の前に来てまで少しむくれた表情で抗議した。
「おっと、いたのかよロリ丸。あんまり小さいもんで気付かなかったぜ。」
「ねえ坂本、今からでもいいから白川だけ置いて引き返さない?」
「おいおい、日和っちまったのか?なんならユウの裾引いてビービー泣いてたっていいんだぜ。」
「なにおう!」
「龍斗も雪丸もその辺にしておいてくれ。まったく、仲がいいのかわからないよなお前ら。」
昔から二人は顔を合わせては何かにつけて言い争いをしている。とはいえ険悪というわけではなく龍斗が雪丸を茶化して遊んでいるだけで、なんだかんだで仲が良いのだ。
「…そろそろ静かにしておいた方がいいんじゃないかしら。…白川君、この先少し空気が悪そうだけれど、どこまで進む気?」
雑談を交えつつ廃墟を進んでいると、いつのまにか奥まったところに来ていたようだ。既に市街地からの灯りが遠くに見え、廃屋に隠れてしまった太陽がぼんやりと旧市街を照らす。割れた窓ガラスや明かりの灯らない街灯がいかにもといった雰囲気を醸し出しており、なるほど肝試しをするには確かに都合のいい場所だ。
「肝試し連中の目的地だった変電所までは行こうとは思ってるぜ。そっから先はノープランだがな。」
「…そう、長丁場になりそうね。」
「龍斗、わかってると思うがお嬢の力にも限界があるんだ。あんまり無理させるなよ。」
「わかってるわかってる、そう心配すんじゃねえよ。取り敢えず、連中の痕跡とあわよくばロストタウンの獣とやらの痕跡が確認できれば俺は満足だからよ。」
実際に肝試しをした者の話によれば、確か変電所周辺でナイフを持った血塗れの怪物を見たのだったか。痕跡というのならそのあたりに行けば血痕があるということだろうか。
「そんなこと言って、どうせ痕跡程度じゃ満足できなくなるだろお前は。」
「さて、どうだかな。」
どちらにせよ、桜がいなければ旧市街の危険度が格段に上がる。彼女の眼で気配を探り、躱しながら進んでいる為今まで一度も他の人間と出くわさずに済んでいるのだ。その特権を使えないのであればそもそも高校生のみで大した装備も整えず危険だとわかっている区画に立ち入る事自体無謀と言える。雄一郎を介して桜に協力を頼んだのだから、その程度のことくらいは龍斗も承知の上だろう。
「…隠れるわよ、誰か来る。」
桜が感知し、やり過ごす為に侵入したマンションは身を隠すにはおあつらえ向きの暗がりだ。しかし饐えた厭な臭いが充満しており、特に桜は気分を害したのか顔色があまりよくない。
桜の指示により退避して数分後、一行がいた場所へ人相の悪い男が数人通り過ぎる。暗がりではっきりと視認できるわけではないが、おそらくは薬の売人とその客だろう。客と思われる男は足取りも覚束かず、半ば運ばれるようにして連れていかれているようだ。
「あーあー、ありゃ末期だな。これだから薬やってるやつは見てられねえ。」
売人たちはしきりに周囲を見渡して警戒しており、その手にはそれぞれバールやバット、ナイフなどの武器を持っている。
「なにかしら、これ。」
花火が足元から拾い上げたのは、焦げた赤い紙のようなものの切れ端だった。
「とう。」
「痛っ!」
そこそこの勢いをつけた龍斗の手刀が紙を持った花火の右手首に直撃し、衝撃で取り落とした。
「無闇になんでも触ってんじゃねえよ。」
「でも叩く事ないでしょー!」
「バーカ、それが連中がやってるヤツだからだ。多分この廃墟で吸ってたんだろうな。」
「げっ…。」
それを聞いた花火は微妙な面持ちでその麻薬の切れ端を掴んでしまった指を拭った。
「この臭いもその薬の煙が建物に染み付いたんだろう。なんでも新しいタイプの薬らしくてな、そいつを使うと最終的に全身の筋肉が断裂して激痛でのたうち回る事になるらしいぜ。さっきの奴が運ばれてたのもそんなわけだろうな。」
「うわ…なんでそんな薬を使うの?」
「簡単に言えば、スーパーマンになれるからだな。意識の覚醒、筋肉の増長、身体能力の飛躍的向上。例えばお前が駅伝で使えば区間新記録を余裕で更新できるといった所だな。それにドーピング検査しても引っかからないし、ステロイドなんか比じゃない効果が出るらしいぜ。まあ、その後地獄を見るんだがな。」
おぞましい想像をしてしまった花火は身震いをし、先程取り落とした麻薬の切れ端から距離を取った。
「実のところ、俺はロストタウンの獣ってのもその薬使ってるヤツだろうと思ってんだがな。」
しばらく建物内でやり過ごし、人の気配が無くなると再び変電所へ向けて歩をすすめる。旧市街の市街地を抜け、桜の察知する人の気配を頼りに進んでいると何度か遭遇を免れたが、変電所に近づくにつれ明らかに人の数が増えているようだ。
ほどなくして付近に到着するが、同時に桜の表情に疲労が見えた為休憩を取る事にした。変電所の方向からは喧騒が聞こえ、人がいる事は確実だ。ならば、桜はできる限り万全にしておく必要があるのだが…
「さっきから何なのよ、この臭い。」
変電所からは建物で臭っていたむせるような刺激臭が漂っており、口元を覆わなければ満足に呼吸もできない。
どうやら桜はこの臭いにめっぽう弱いらしく、廃屋の壁に背中を預けぐったりとしている。
「さすがに良くないな、引き返そう。」
「…待ちなさい。…確かに平気とは言えないのだけれど、せっかくここまで来たのだから多少は無理してでも収獲が欲しいわ。」
他ならぬ桜に引き返す提案を止められ、雄一郎も引き退らざるを得ない。桜が旧市街を訪れたのは、大刀洗家の祈祷師、怪異の専門家としてロストタウンの獣という噂の調査のためでもあるのだ。
「おい龍斗、お嬢がやばそうだったらすぐ引き返すからな。」
「うるせえな、わかってるよ。」
どのくらい休憩していただろうか、それはおそらく半刻にも満たない時間だったであろう。長い時間を費やしていたのならすぐに陽が落ちていたはずだからそう長い時間ではないはずだ。
ふと、雄一郎の視界の端になにか廃屋の間隙を縫う様に影が映った。
それは一瞬の出来事で、慌てて振り向いたが再び視界にとらえる事はできず、彼はそれが何であったのかはわからない。
「おい龍斗、今なんか見えなかったか?」
「なんかって?」
「いや、俺もよく見えなかったんだけど。お嬢はなにか見えたか?」
「…いいえ、見間違いじゃないのかしら。」
「そうか…。」
桜の眼に見えていないならば、それはやはり気のせいだったのだろうと、雄一郎が結論を出したのも束の間だった。
変電所の辺りが一気に喧騒に包まれ、怒号と共に空気が変わった。さながら種火が業火へと転じるかのように、それまで騒めき程度だったものが一瞬にして一際大きな騒動へと発展してしまったのだ。
時折聞こえてくる金属の交る甲高い音と、殴打の鈍い音がそこで戦闘が行われているのだと主張しているようだ。
「くそ、なんだよいきなり!」
一番体力のない桜は雄一郎が背負い、忍び足で変電所の方へと近づいていく。
騒動自体そう長く続いたわけではなく、雄一郎達が現場に到着する頃には全てが終わった後だった。
あたりには負傷し倒れた人が苦痛の呻き声を上げている。殴打された打撲痕と刃物による切創が生々しく痛々しい。
そして、そこに一人立っているものの姿を見て、俺たちは息を飲んだ。その姿に見覚えがあったのだ。
「うそ…。」
花火は唖然として目を見開き、口からは自然と驚嘆の声が漏れていた。
その小柄な体躯に大きなキャスケット帽、腰まで下ろしたその長い黒髪を見間違えるはずはない。
「宇都宮…?」
服を血で紅に染め、その右手には血の滴るナイフを握っている。状況から見て、彼女が交戦していたのは明らかだった。
「ーーー誰?」
彼女からは十分に距離があったし、建物を背にし暗がりに隠れてさえいた。姿を見られてすらいない。だが、宇都宮シキは雄一郎達の存在に気がついていた。
振り返った彼女の表情に喫茶店で見た笑顔は無い。明るくて太陽のように振りまかれていた暖かさを感じたその顔には、ただ気怠げで鬱陶しそうな表情を浮かべており、姿形は同じだが全くの別人と思えるほどだった。
「…隠れていても無駄なようね。」
「そうだな。」
まずは敵意が無い事を示す為、物陰から出る決断をした。
それは友人である宇都宮シキを信頼しているという意味もであるが、一番は大勢の人間を無傷で倒している彼女を敵に回すことだけはしてはいけないからだ。
姿を現した一行を見てシキは驚いたような仕草をすると、遅まきながらも手に持ったナイフを後ろに隠した。
「あ、えっと。」
先程までの冷酷な表情とは打って変わり、シキは明らかに狼狽えているように見える。
「いったい何があったの?」
「あはは、まいったな…。」
花火の問いかけに言い訳をすることもできず、彼女は頬をかいて決まりの悪い表情を浮かべた。
「へえ、そいつが宇都宮シキか。さっきまでと随分と印象が違うみたいだが。」
「おい龍斗、下衆の勘繰りはよしてれ。そういうのは悪い癖だぞ。」
しかし、それは最もな疑問だった。先程の、ナイフを片手に血に濡れて佇んでいる鋭利な刃物そのもののような姿は一体なんだったのだろうか。
「はは、悪い悪い。どうもサイズ感が弄りやすくてな。」
「ちょっと、それ誰の事よ。」
「別に?俺は誰かの事を言ったつもりはねえんだけど?」
「はあ何よそれ!絶対悪意あったわよ!」
「お前さあ、ちょっと被害妄想強すぎなんじゃねえの?」
「はああああ!?」
「おいおいそう怒るなよ。疲れちまうぜ?」
「誰のせいよ!」
売り言葉に買い言葉。交わされる罵倒は次第に大きくなっていくが、龍斗と花火のおかげで剣呑だった空気もいくらか紛れる。偶には彼らの言い争いも役に立つというものだ。
「なあ宇都宮、落ち着いて話を聞かせてほしいんだけど。」
「まあうん、そうだね。君達にだったらナツも…」
その一瞬、耳を劈くような爆音に雄一郎は何が起こったのかすぐに理解する事が出来なかった。
「あ…れ?」
その音が銃声だと気がついたのは、胸元を貫通した銃創から血が滲み、真正面に倒れこんできた宇都宮シキへと咄嗟に駆け寄り、受け止めてからだっだ。
「ザマァみやがれ…。殺してやったぞ…、ロストタウンの獣を殺してやったぞ!」
「ーーーお前!」
桜が乱暴な声音で叫ぶ。雄一郎はそんな珍しい光景を、まるで映画でも見ているかのように実感の伴わない頭でぼうっと眺めていた。
「服で縛って止血だ!ユウ、しっかりしろ!」
むせるような鉄の匂いと、彼女を支える手へ直に感じる生暖かい体温。恐る恐る掌を見ると、まるで絵の具をぶち撒けてしまったかのようにべったりと血で赤に染まっている。
それを目の当たりにした雄一郎はいまだに状況を理解することができず、いや、これはあまりのショックに理解する事を放棄したという方が正しいのかもしれないが、どちらにせよ彼に出来る事は茫然と横たえるシキを支え、眺めるだけだった。
「くそ、どけノロマ!雪丸、手伝え!」
「わかったわ。…坂本、あんたは大刀洗を頼んだわよ。」
無理やりシキから引き剥がされた衝撃で少し冷静さを取り戻した雄一郎に、花火はジッと目を見て語りかける。すると次第に止まっていた脳が動き出し、徐々に状況を把握し始めた。
気がついた雄一郎はまず第一に桜の安否を確認する。相手は銃を持つ暴漢、そして龍斗と花火がシキの応急処置に追われている今、対峙しているのは筋力でも体力でも武装でも劣る桜だけだったのだ。
「お嬢!」
確かにお嬢は一番弱い。喧嘩では俺や龍斗と比べるべくもなく、体力も雪丸より大きく劣る。さらにこの悪臭でその僅かな体力を大きく削られている。本来ならこんな場所に着いてくるべき人間ではないのだ。
「…殺す、…殺すわ。よくも…!」
その力を解放した双眸が妖しく光を灯す。
彼女の眼に宿る本来の能力は、ただこの世ならざる者を視るというだけのものではない。
その全貌は本人でさえ未だ明らかではないが、その瞳に魅入られた者は感情を支配されてしまうのだ。
そして怒りで桜の力が最高潮に達したとき、制御を失った魔眼の力がその瞳から漏れ出し、周囲の人間の前に『この世ならざる者』が姿を現わしてしまう。
不幸にもそれを目の当たりにした男は大声で泣き叫ぶ。何度も何度も地面に頭を擦り付け額から血を流しながらも繰り返し繰り返し赦しを乞うのだ。それでも桜はその鋭く冷血な怒りの矛を収めることはしない。
そして、ゆっくりと口を開く。
「…あなたに生きる価値は無いわ。死ーーー」
制御を失い始めた魔眼の力は次第に周囲へ流れ出す。聞こえないはずの音が聞こえ、見えないはずのものが視界にぼやけて現れる。現実と非現実が混ざり合い、認識と理解に齟齬が生まれ、摩擦が起こる。摩擦によって生まれるのは純粋な『恐怖』だ。
「やめろ、お嬢。」
死ね、と宣言されてしまったならばその男は地面に転がり落ちた銃を即座に拾い上げ、自害しただろう。そうなる前に、雄一郎は桜の視線と口を両腕で抱くように覆った。
「お嬢、それは言っちゃいけない。…わかるな?」
抵抗はない。最後に残った理性が首の皮一枚で繋ぎ止めたのだろうか。
「『それ』で殺してしまえばお嬢は化け物と一緒だ。そんなの俺は嫌だ。」
「…私も、御免被るわね。」
桜が矛を収めると、発生していた怪奇現象が次第に薄れていく。男はいまだに青い顔で何かを呟いており、廃人とまではいかないにしろ彼が社会復帰するまでには長い時間がかかりそうだ。
「お嬢、宇都宮を助ける為に大刀洗の力を借りたい。手配できるか?」
「…そうね、それがいいと思うわ。」
異臭のする変電所から引き返し、二人はシキの応急処置をする龍斗と花火と合流することにした。
◆
剣神ツルギヒメノミコトを祀る剱楽神社の巫女として生まれたユイは、七歳の誕生日を迎えるとツルギヒメの生まれ変わりとして神威を受け継いだ。
永劫たる年月、歴代の巫女に受け継がれてきたその神威を身を纏い、荘厳たる神楽を舞い水底に繋ぎ止められた荒れ狂う邪神に死力を尽くて戦った彼女は、それは呆気なく死んだのだった。
ーーーそれが私の人生だった。
これはおそらく、いわゆる人身御供というやつに近いのだろう。
いくら神の寵愛を受けた身とはいえ相手は正真正銘の神なのだから、人間ごときが抗うべくもない。だから巫女は禍津日神を鎮め、一族を守る為の生贄となるのだ。
死んでしまった今となっては意味のないことだけど、どうやら私は歴代の巫女の中でも類を見ない強力な神通力を持っていたらしい。だから私はシキに私を託して(別人としてではあったが)生き延びることができたのだろうか。
不満はない。だってそれが私の使命だったし、私は邪神と戦い力を削ぐために育てられたのだから。ずっと前から、そうして幾人もの巫女が力及ばず倒れ、その度に新しい巫女が生まれてきたのだから…。
死の底から目を覚ました時、まず視界に入ったのは大きな尖がり帽子を被った不思議な女と病院の天井だった。
死んでいるくせに一丁前な生存本能が働き、その明らかに不審な相手に警戒した私だったが、体は長い間動かされていなかったらしく身構えることもままならない。
そして、その状況を理解すると同時に頭の中にシキの記憶が流れ込んできたのだ。
おそらく、私はシキの持つそのおぞましい心の闇にそう長く耐えることはできなかっただろう。どうしてシキが生身のままで口にするのも憚られる恐怖に耐えることができたのか、私には到底理解できなかった。
緊張と恐怖でどうにかなってしまいそうな私を前にその胡散臭い尖がり帽を被った女は、私に何か語りかけながら終始不敵な笑みをうかべていた。
「…何をした。」
女がその何かを言い終えると、混在していたシキの意識が途切れた。流れてきていたシキの記憶は霧散し、私は再び体の主導権を取り戻したのだ。
「なぜ私が生きている、お前は何者だ?」
「おいおいそう睨みつけないでおくれよ無垢、ゾクゾクするじゃないか。」
その無垢という呼び名に覚えはなかったが、厭にしっくりと馴染むのだ。まるでそれこそが私という存在を括る呪いのように聞こえた。
「無論私はお前の敵だよ、忘れてしまっているとは思うがね。いや、その潔白さこそがお前が背負う業なのだったな、すまないすまない。」
訝しい顔をする私を後目に、女はさらに饒舌に語りかけてくる。
「しかしその中身、面白い事になっているじゃないか。精神死したお前の神威が新たな人格へと昇華したというところかな?いや、重畳。お前ならば或いは…。」
自分の事を私の敵だと言った帽子の女は、動けない私にひとしきり語ると満足そうに踵を返す。
「そうそう、シキの記憶を探るなら、一度旧市街へ行くといい。なに、退屈はせんさ。」
私が何かを言い返す間もなく、女はそのまま病室から出ていってしまった。
後に残った私は、混乱する思考の中ようやくシキの持つ記憶の海からこの病室が東雲総合大学病院の一室だということを導き出したのだった。
◆
「容体は?」
廃屋の一室、どうやらここはマンションのエントランスらしい。比較的清潔な床の上で宇都宮シキは横たわっていた。龍斗が半裸なのはシーツの代わりに自分のTシャツを使っているためであるようだ。
「多分内臓は外れてる。それに出血も落ち着いてるし、取り敢えずは大丈夫だと思う。」
飲み水を使ったのだろうか、シキの額には濡れタオルがあてがわれている。今はうなされてもおらず、寝苦しそうではあるがいたって落ち着いているようだ。
「それと、面白い事がわかったぜ。」
龍斗は何故か寝かされたまま被っているキャスケット帽に手をかける。そしてこれみよがしに脱がせて見せる。
「見てみろよ、珍しいぜ。四都久民の生き残りだ。」
帽子の下には耳があった。しかし、それは人間の耳ではない。ふさふさとさわり心地の良さそうな猫を思わせる大きな耳がそこにはあったのだ。
「…文献で見た事があるわ、東雲の奥山にその昔暮らしていたと伝えられる原住民族ね。…私も目にしたのは初めてよ。」
「かわいいわね…。」
獣の耳がお気に召したらしい花火はシキが寝ているのをいい事に執拗に頭を撫でている。心なしかシキもそれを甘んじて受け入れてるようにも見えた。
「…時機に救助ヘリが到着するわ。…多分とても怒られることになると思うから、それが嫌ならこの場から逃げることをお勧めしておくわ。」
「そうか、それじゃ俺はこれで。後は任せたぜユウ。」
「おいおい、お前服はどうすんだよ。」
「あー、そこら辺の奴から適当に剥いでくわ。」
「ごめんね坂本、大刀洗。できることなら私も付いていたいんだけど…。」
「いいって。…それよりお嬢がついてないんだ、気をつけて帰れよ。」
足早に退散する龍斗を誰も責め立てることはしない。むしろ不良生徒である彼と同行している事の方が問題を大きくする可能性が高いのだ。
それに花火は駅伝部員として大会も控えている。不祥事で出場停止や最悪退部になってしまうわけにはいかない。
二人を見送り救助ヘリが到着するまでの間、幸いにもシキの容態が大きく変化することがなかった。それどころか時間が経過するとともに寝苦しそうな顔が和らいでいき、ヘリコプターが到着する頃にはすやすやと寝息を立てているほどの驚くべき回復力を見せた。
「君たち!」
ヘリコプターが着陸し、真っ先に飛び出してきたのはいかにも医師然としたダボついた白衣を羽織った女性だった。
跳ね放題の灰色のショートヘアに幼げな顔立ちだが、首から下げたネームプレートには内科医椎名千歳と記載されており、それも鑑みると彼女の年齢を推察することは難しい。
「主治医の椎名千歳です。…宇都宮シキさんはどこかな?」
「…こっちよ。」
驚くことに乗っていたのは彼女と操縦士の二人だけで、救助隊の姿はどこにも見えなかったのである。
千歳の指示でシキを担架に乗せると、そのまま三人で待機中のヘリコプターに乗り込んだ。するとすぐにプロペラが回転を始め、揚力が発生する。
「お嬢、救急隊を呼んだんじゃなかったのかよ。」
「…そうね、よほど四都久民の生き残りを隠蔽したかったってことでしょう。…そうよね、椎名先生。」
桜の直接的な言い回しの質問に対し、手早く処置を済ませた千歳は難しい顔で向かいの壁に持たれかかったまま応える。
「はは、君たちすごいね。しーちゃんが四都久民だってことも知ってるんだ。…おっと失礼。」
「私達は気にしないから訂正しなくて結構よ。」
「悪いね、彼女の事になるとどうにも友人感覚が抜けなくていけない。」
椎名千歳は少し悩んでいる様子だったが、今更隠し事など意味がないと悟ると、言葉を選ぶように白状した。
「えっと、君は大刀洗のお嬢様だったかな、概ね君の言うとおりだよ。彼女は…東雲総合大学病院で保護してる四都久民の生き残りだ。」
「その、詮索するようですけど。四都久民ってなんなんですか?それに、彼女はいったい…。」
「ふむ、君はまだしーちゃんとは知り合ったばかりなのだろう?それに、彼女の過去はおいそれと語っていいものでもない事は大方の察しはついているんだろう?」
雄一郎は言葉に詰まらせるしかない。まさかここまできて宇都宮シキが何かしらの闇を抱えている事に気づかないほどの鈍感ではないのだ。
「でも、僕個人としては君たちには話してあげていいと思っている。もちろん、しーちゃんの為にね。…君たちにその覚悟はあるかい?」
その問いは自分の為に向けられているものだと雄一郎は思った。
宇都宮シキの過去を知り、友人として受け止める事ができる覚悟はできているのか、要するにそういう事なのだろう。
「生憎、そういう手合いには縁がありましてね。今更驚きなんてしませんよ。」
雄一郎のちらりと桜へと視線をやるが、彼女はフンと鼻を鳴らすとそっぽを向いてしまった。
「はは、君は面白い奴だね。そうやって減らず口が聞けるくらいが上等だ。」
椎名千歳は宇都宮シキの過去を語る。
シキが初めて東雲総合大学病院に訪れたのは彼女が十歳の頃。捨て子だったのかどうかは定かではないが、病院の前で寝ていた所を職員に保護されたらしい。
元々は彼女が暮らしていたであろう集落を探し帰す予定だったのだが、シキが集落へ戻る事を極端に拒んだ為、養育施設で預かる事となった。
その頃のシキは無口で他人を信用せず、四都久民として特殊な身体的特徴も相まって養育施設の中でも孤立していた。宇都宮シキという名前と年齢が以外まるでそれまでの自分を棄ててしまったかのように自分の事を頑なに語ろうとはしなかったのだ。
当時小児科の実習生として研修中だった千歳も後に友人ができ彼女が心を開くまでは頭を悩ませていたようだ。
「しーちゃんが施設から姿を消したのは四年前、それはもう職員総出で探した。その頃には僕も新任の内科医として彼女の担当をしていたからね、思いつく限りの場所を来る日も来る日も探し回ったよ。…でも痕跡すら見つけることが出来なかった。」
そして一年前、なんの前触れもなくシキは大怪我を負い、意識を失った状態で病院へ救急搬送されて戻ってきた。その傷はなにかと激しく争ったかのような酷いもので、裂傷や打撲痕、それに加えて火傷のような爛れた箇所も見受けられた。
衰弱したシキを発見したのは東雲市内にある神社の神主。話によると袴まで白色の巫女装束を着たシキが拝殿の賽銭箱に寄りかかり、気を失っていたそうだ。
半年後、奇跡的に目を覚ましてからのシキは人格が二つに分裂していた。一つはまるで養育施設に入ってきた頃と同じように頑なに何も語ろうとしない宇都宮シキ。もう一つはユイと呼ばれる粗野な人格。そして、シキからは失踪する以前の記憶が欠落しており、千歳の事すら綺麗さっぱり忘れてしまっていた。
「それまでどこで何をしていたのやら、しーちゃんが僕らにまた懐いてくれたのだって最近の事なんだ。それに、ユイはどういうわけか旧市街を彷徨いているようだし、…まあ、それは彼女を止められない僕らの落ち度かな。」
彼女がなぜ過去を語らないのか、そこから先は推察の域を出ることはないが、その秘密が旧市街に潜んでいるのだろうか。
雄一郎たちを乗せた救助ヘリコプターは東雲総合大学病院の屋上ヘリポート上空へ到着していた。緩やかなホバリングで降下する先には数人の医師が待ち受けており、着陸するや否やシキはストレッチャーへ移され、すぐに処置室へと連れて行かれた。
「本来なら年長者として、危険な場所に踏み込んだ君たちを叱るべきなんだろう。でもね、」
シキを見送った後、千歳は二人に向き直り、深々と頭を下げた。
「ありがとう、今回の事は本当に感謝しているよ。そして、どうかこれからもしーちゃんの友達でいてくれないだろうか。」
「そんな事で頭を下げないでください、椎名先生。こう見えて、俺はそんなに薄情な人間じゃないですよ。」
「…ただのお人好しなだけでしょう、あなたは。…ここまで干渉しているのだもの、今更交友関係を途絶えさせるのも忍びないわ。」
素直とは言えないものの、どうやら桜もいつの間にかシキには随分と気を許しているようだ。
「ありがとう、新しいしーちゃんの友人が君達で本当によかったよ。」
椎名千歳は満足げに優しく微笑んだ。
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