東雲学園ジュブナイル
ゆうねこさくま
廃都事変 1
それは初夏の昼下がりだった。
落ちかけの陽はなおもジリジリと肌を焼くように熱く、汗で張り付く服が不快感を増長させている。
目的の喫茶店はそう遠い場所ではないとはいえ、少しでも早く冷房の効いた店内へ駆け込みたいと坂本雄一郎は気を急いていた。
だが、そんな夏の暑さの事など忘れ、足を止めてしまったのはいわゆるお人よし精神による衝動のようなもののせいなのだろうか。道端で一人、長い黒髪を生暖かい風に揺らしながら困り顔で地図を眺める少女に思わず俺は声をかけてしまったのだ。
「君は…?」
その少女はとても小柄だ。俺の目線からは頭に乗る大きなキャスケット帽がひときわ大きく目を引くが、彼女が見上げていないとその顔は帽子の影に隠れて見えない。ようやく見えた帽子の下にはまんまると大きな瞳が隠れており、それはさながら小動物のようだ。
「あー、すみません。困ってるみたいだったんで。」
声をかけられた意図を図りかねたのだろう。少女は目を丸くし、不思議そうにしている。
「道、案内しましょうか?」
少し気恥ずかしくなった俺は頬をかきながら少しぶっきらぼうに提案すると、少女は覗き込むようにその大きな瞳で俺の眼をまっすぐ捉えた。
まるでルビーのような深紅の瞳はとても綺麗で、しかし獲物を品定めする獰猛な獣のようにも見え、数秒の間お互いの眼があったまま膠着していた。恥ずかしさからその状態に耐えられず目を離そうとしたその時、少女はその大きくて丸い瞳を輝かせ、ずいと顔を近づけてきたのだ。
「ほんと!?」
その拍子に後ろに仰け反った俺は重力に対して無抵抗なまま、彼女はやたらとパーソナルスペースが狭いんだななどと妙な関心を抱きながらそのままの勢いで尻もちをついた。太陽の熱に焼けたアスファルトはやはり熱く、ついた手をすぐに放してしまうほどだ。
「わーっ!大丈夫?」
「…なんとか大丈夫です。」
少女は小さく華奢な手を伸ばし、今し方上げた俺の右腕をしっかりとつかんだ。
「よっと。」
「おお!?」
そして次の瞬間には軽々しく身体が引き起こされていた。
「えっと、びっくりさせちゃってごめんなさい。じゃあ、お言葉に甘えて案内してもらおうかな。」
一瞬何が起こったかわからず目をぱちくりさせている俺を差し置いて、一方の少女は嬉しそうな屈託のない笑顔を浮かべていた。
◆
坂本雄一郎が所属している東雲総合大学付属市立東雲学園高等学校は東雲市中心部に構える巨大な高校だ。
東雲市は学校教育と医療分野へ特に注力しており、東雲学園高校へは旧家大刀洗家や市で一番の大病院、神代会が出資をしている。学業だけでなく部活動の特待生制度や一般の部活生にも支援制度があり、多種多様な方面で生徒が活躍できるよう一人一人の持っている才能を伸ばすことを教育方針としている学校なのだ。
「や、お嬢。今日も不機嫌そうだな。」
灰青色の柔らかな日差しが窓辺から教室に射し込む。
まだ大半の生徒が登校しておらずがらんどうとした教室で、誰も見ていないというのに姿勢よく背筋を伸ばして席に腰かける彼女は、いつも通りの仏頂面で意識だけをこちらに向けた。
生徒たちの少ない朝早くから登校し、隣の席の女子生徒、大刀洗桜に挨拶をするのが雄一郎のここのところの日課だ。
もちろん、彼女に挨拶をするだけが目的で朝早くから登校しているわけではないのだが、雄一郎が教室へ到着するよりも早く桜が席についているため、結果的に日課となっているのだ。
「…ご機嫌よう、雄一郎。」
大刀洗桜は雄一郎の親戚にあたる。遠縁だが、大刀洗は名家で東雲市の土地の多くを所有している大地主だ。
雄一郎が彼女に初めて合ったのも幼少の頃、親戚間の会合でだった。一般家庭で育った雄一郎と箱入り娘として育てられた桜と育ちの違いはあれど、同世代の親戚が他にいなかったということもあり、遠縁と言えども疎遠というわけでもない。
「…不機嫌にもなるわ。…どこかの誰かが一々私に構うせいで、ありもしない噂が流れているのだから。」
「とんだ物好きもいたもんだな。」
「…ふん。」
会話はそれまでだというように桜は鼻を鳴らし、それまで読んでいた小説に意識を戻してしまった。
教室の窓を開くと、暖かい風がふわりと顔を撫でた。
窓からのぞくグラウンドでは部活動の朝練が始まっており、ジャージ姿でトラックをジョギングしている部活生の姿が見える。
雄一郎は朝から賑わっているグラウンドを見渡し、その中でも一際小柄な女子生徒を見つけひらひらと手を振る。柔軟体操を終えた彼女は一瞬だけちらりと教室に目やると、すぐにジョギングを始めた。
彼女の名前は雪丸花火という。雄一郎と花火は小学校、中学校と雄一郎と同窓ので住んでいる家も近いいわゆる幼馴染、ないし腐れ縁である。雄一郎が朝早くから登校するのは花火の部活動に合わせて一緒に登校しているからであり、その日課は小学生の頃からの名残なのだ。
「…あなた達も大概ね。」
「そうか?」
桜は意地悪く茶化すが、慣れている雄一郎にとっては今更だ。
「ところでお嬢、放課後空いてる?」
「…特に予定はないけれど。」
桜は雄一郎の怪しい表情に嫌な予感を感じ、眉をひそめた。彼女は以前に数度、雄一郎から同じような誘い方をされたことがあるのだが、その度にろくな事になった試しがないのだ。
「そりゃあよかった、じゃあいつもの喫茶店集合な。」
いつもの喫茶店というのは、東雲市の郊外にある東雲商店街の小さな喫茶店のことだと桜は心得ている。
学校や通学路からは少し離れた位置にあるのだが、その隠れ家的様相が雄一郎のお気に入りなのだ。無論、桜もその落ち着いた雰囲気を好ましく思っている。
「…あなたがそうやって誘ってくる時は決まっていつも面倒事よね。…毎度よくもまあ懲りないものだわ。」
「まあまあ、そう言わずに聞いてくれよ。実のところ雪丸はもう誘ってあるんだ。」
「…。」
得意気な雄一郎に桜はムッと睨む。なにやら今回の面倒ごとは手回しがいい。
ということは、『彼』も関わっているのだろう。桜はさらに面倒なことになりそうだとため息をついた。
「…わかったわ。…どうせあなた達の事だから最後の最後で私を頼るのは目に見えているのだし、一人で振り回される雪丸さんも気の毒だわ。」
「そう来なくっちゃな。」
桜は満足げな雄一郎が自分の席に戻るのを見送る。
すでにクラスにはぼちぼちと人が集まってきており、友人同士で会話するもの、勉強するもの、携帯端末で音楽を聴いているものなどでにぎわい始めていた。
今日は夏休み前最後の出校日ということもあり、終業式が終わればそれで放課となる。遅くても昼過ぎには喫茶店に集まることができるだろう。
大方、夏休み中になにかを仕出かそうという魂胆なのだろう。そう思って桜はもう一度ため息をはくと、再び小説に没頭するのだった。
◆
ーーー茹だるように蒸し暑い初夏の夜。普段は静かで不気味とも言える旧市街に怒号が響き渡る。ある者は怒り、ある者は苦痛に呻き、ある者は助けを求め、そしてある者は口角を上げ笑っていた。
「なんなんだよコイツ!?」
駆け抜ける閃光は有象無象の間隙を潜る。誰もそれに触れることができず、その爪牙は無数の斬撃を刻んだ。
「何やってんだ、取り囲んで人数で押し潰せ!」
「たかが小娘一人…!」
粗暴な集団。中には筋骨隆々の者や鈍器、ナイフで武装している者もおり、数は増援も含めて二十にも三十にも上る。だが既に半数以上が気絶、逃走、戦意喪失しているのだ。
取り囲まれているのは齢十数程の少女。伸ばし放題の黒い跳ねっ毛に鋭い紅の眼光が縦横無尽にまるで踊っているかのように宙を舞う。
少女の片手には奪ったのであろうナイフが握られ、次々に斬り伏せていく。迸る鮮血が服を汚すが、それを気にしている様子はない。それどころか、わざと急所を外して何度も何度も切り付け、その行為を楽しんでいるようにさえ見える。乱戦の中、彼女の姿を正確に視認できた者はおらず、中には少女が飛び跳ねる様子が獣の姿に見えた者さえいた。
「この…化け物が!」
痺れを切らした男が取り出したのは拳銃だった。
「おい馬鹿、撃つなーーー!」
銃口の先には目を丸くする少女。だがそれだけではなく、反対側から少女を取り囲んでいる者もいる。当然、発砲すれば少女に当たらずともその者達に流れ弾が当たる危険があるし、至近距離で当たっても弾が貫通する危険もある。だが、そんな事を考える思考能力のない男に照準を定める事など出来るはずもない。
ーーーダダダッという発砲音の直後、金属音。そして、絶叫。
奇跡的に弾丸は少女の胸部目掛けて一直線に発射された。
だが、絶叫を上げたのは少女を挟んで斜め後方にいた男だった。
「下手くそ。」
身を翻した少女は奪ったナイフを前方に構えていた。金属音は銃弾がナイフを掠めた音だったのだ。数発連続して放たれた弾丸は最小限の動きで躱し、直撃弾のみナイフで軌道を逸らしたのだ。
少女は弾丸を打ち尽くす前に男へ接近すると、顔面に回し蹴りを放つ。その勢いは少女が繰り出した物だとは俄かに信じがたい威力を持ち、男の脳を一撃で揺らし意識を刈り取った。
「生きてる?後ろの人。」
銃弾がわき腹に突き刺さりしばらく悲鳴を上げていた男は、遅れて発生した痛みに悶え声を上げることができなくなっていた。
「…おまえ、は」
少女はゆっくりとした足取りで男に近づくと、目の前でしゃがみ込み、おもむろに手を差し伸べた。
「少し痛むぞ。」
そして男の脇腹をナイフで抉り、銃弾を取り除いた。
◆
店内に流れるクラシックジャズとアンティークの調度品が大人の落ち着いた時間を演出する喫茶店。高校生が学校帰り井戸端会議をしに訪れるには少々場違いであると言わざるを得ないが、窓際の一番奥の席に雪丸花火と大刀洗桜が腰掛けていた。
彼女達二人だけでお茶をするという事はめったになく、あるとすれば決まって雄一郎も何かしら絡んでいる事が多い。今回も元々雄一郎からの誘いではあったのだが、どういうわけか当の本人が到着に遅れているのだ。
「しかし、改めて坂本も隅には置けないなー。」
「…何の話かしら。」
頬杖を軽くついてニヤりと話しかける花火に対して、桜は眉ひとつ動かさず紅茶に口をつける。
「もちろん、あんたの話。お洒落に気合いが入ってるなーと思って。」
「…あなたこそ、今日は随分と身だしなみに気を使ってるのね。」
「そうそう。この服初めて袖通すんだけど、変じゃない?」
レースがあしらわれた白のワンピースに薄青色で花柄フリルのチュニックを合わせたガーリーなスタイル。
部活動に励んでいる時のストイックな印象とは打って変わり、普段の彼女はかなりの少女趣味なのだ。フリルやリボン、レースのあしらわれたかわいいものには目がなく、服装はもちろん、日用雑貨などの至る所にそのような趣向が見られる。
「…ええ、相変わらず可愛らしいわ。」
「ありがと、そうやって褒めてくれるの、あんたと坂本くらいよ。」
褒められて気をよくしたのか、ついつい服のすそや袖をいじってしまっていた。
「…それにしても、遅いわね。…もしかしてすっぽかされたのかしら。」
話し始めてどれくらい経っただろうか。注文していた飲み物も空になったところで会話に花を咲かせていた二人はふと我に返る。時計の針は約束の時間から一時間を記そうとしていた。
「んー、でも坂本って基本的に時間は守るじゃない?」
「…確かに、そういう所は信用できる男ね。」
それぞれ違うタイミングで約束をしているのだから、お互いに待ち合わせの時間を間違えたという線はなさそうだ。ならばどうして肝心の本人が現れないのだろうか。
「あ、」
二人はほぼ同時に窓の外にいる雄一郎の姿を捉えた。
「…そういえば思い出したわ。…雄一郎が時間を忘れる唯一の理由。」
「奇遇ね、私も。」
照れくさそうに頭を掻く雄一郎の傍らでは、大きなキャスケット帽を被った小柄な女子が深々と頭を下げ屈託のない笑顔を見せていた。
「…一緒に入ってくるわね。」
「いい度胸じゃない。」
二人は大きな音を立てながら席から立ちあがるのだった。
◆
不機嫌に詰め寄る友人二人を前に、俺は嫌な汗をかいて焦っていた。そうだ、俺は間違いなく余裕をもって家を出たはずだったのだ。しかし、いつの間に時間がたってしまったのか、実際に待ち合わせから一時間も遅れて到着しまっていたのだ。
自ら誘っておいてこの失態、目の前で頬を膨らませている雪丸花火と静かに睨みつけてくる大刀洗桜へどう言い訳をするのか大いに頭を悩ませていた。
「え、えーっと?」
そんな雄一郎とは打って変わり、傍の少女宇都宮シキはどういう状況なのか飲み込むことができておらず、きょとんと呆けている。
「俺の事は気にしないでいい、店主に用があったんだろ。」
「う、うん。なんだかよくわからないけど、頑張ってね?」
パタパタと店の奥に入っていく彼女を見送りながら、雄一郎は後悔していた。ただ彼女に喫茶店への道のりを案内するだけにとどめておけばよかったのだ。東雲市を歩くのが初めてだと言った彼女が俺の話を目を輝かせながら聞いてくれるので、ついつい興が乗って案内に熱が入ってしまったのだとしても、悪いのは自制のきかない自分のせいなのだと雄一郎は理解している。
「…女子二人待たせて別の女の子と楽しくやってるなんて、随分といいご身分ね。」
「言い訳、聞かせてくれる?」
たらり、と冷や汗が額を伝うのを感じる。だが、思考を加速させいくら考えても打開策は思い浮かばない。かくなる上はーーー
「すまん!迷子を道案内してたら東雲市が初めてだって言うもんで、いろいろ案内してしまった!」
結局、正直に謝る事にしたのだった。
数秒の沈黙。相変わらず流れるクラシックジャズ、サイフォンコーヒーをいれる音や二人の息遣いまでもが細く耳に入ってくる。その沈黙を破ったのは、意外にも目の前から聞こえてきた「ぷふっ」などという気の抜けた音だった。
「呆れて怒る気も起きないわ。このお人好し。」
どうやら雪丸の方はあまり怒ってはいないようだったので、取り敢えず胸を撫で下ろした。
「…雄一郎、あなたを待っていたら少しお腹が空いてきたのだけれど。」
「慎んで奢らせていただきます…。」
「…あらそう、悪いわね。…こんなに大きな三千円のサンデーなんて私一人じゃ食べきれないから、雪丸さんにも手伝ってもらおうと思っていたんだけど。…まさかお金まで浮くなんて思っていなかったわ。…ラッキー。」
即座に財布の中身を何度も思い返したが、今月の収支はどう考えても赤字は免れなさそうだ。
「さ、席で落ち着きましょう。今日は私たちに面白い話があるんでしょ?」
「…雪丸さん、真面目に聞かない方がいいわよ。どうせ碌でもないことを企んでるんだから。」
「おいおい…まあ、今回のは面白い話というか頼みたい事なんだがな。」
俺は懐を犠牲になんとかやり過ごせたことに安堵した。座席に腰掛けるなり即座に件の高級サンデーを注文した鬼が目の前で涼しい顔をしているが、怒っていないだけまだマシというものだ。
「…なにかしら。」
「いや、ナンデモゴザイマセン。」
「なんで片言なのよ…。」
雄一郎は以前本気で桜が怒りを露わにした時のことを思い出し、身震いをした。彼が知っている中で一番怒らせてはいけない人物が大刀洗桜なのだ。
幸い、彼女はそんな簡単に怒るような性格ではない。むしろ感情が動くことの方が珍しいほどだ。
「それで、頼みたい事って?」
「ああ、そうだった。実は旧市街に行こうと思うんだけど、夏休み都合つかないか?できれば二人にも手伝ってほしいんだが。」
旧市街。建造物の老朽化や地盤の軟弱性を理由に区画整理の際切り離された東雲市西部の一区画で東雲市のロストタウンと呼ばれている場所だ。だが、それは表向きの理由と言われており、本当の理由は別にあるのだと実しやかに囁かれている。現在は暴走族や麻薬の売人などのアウトサイダーが跳梁跋扈しており、一般人が安易に立ち入れるような場所ではない。
「…どうしてかしら。…あんな所、好きこのんでわざわざ行くような場所でもないでしょう。」
「俺だってできれば行きたくはないんだけどな。二人とも、クラスの連中数人が旧市街へ肝試しに行った話は知っているか?」
「…知らないけど。」
「私も。」
流石はと言うべきだろうか、二人とも興味がない物事は耳にすら入ってこない性質らしい。夏と言えば肝試しと言うほどにありがちで安易なイベントだが、入学して数か月、クラスメイトの親交を深めるという意味では有効なのだろう。お嬢も雪丸も肝試しって柄でもないし、わざわざそのような絡みにくい相手を誘うなんてことはしなかったのだろう。
「なんでも、相当怖い目にあったらしいんだ。それでここからが本題なんだが、白川がこの話に興味を持ってな、調査をすると言って聞かないんだ。」
「…そういうことね。」
白川龍斗、他クラス所属の男子生徒で同時に雄一郎や花火と同じ中学の出身。さらに雄一郎とは幼少の頃からの悪友だ。
「あのさ坂本、いつも思うんだけどなんだって白川なんかに構うのよ。あいつ、馬鹿は馬鹿だけど頭はいいんだから、そんなの一人でなんとかなるわよ。」
「まあでも危険は危険だろ。」
二人とも旧市街の危険性については程度は違えど知っているはずだ。なぜならばつい最近旧市街の情報が噂程度のものだけでなく、大々的にニュースでも取り上げられていたからだ。
数日前、件の肝試しと同日。旧市街を根城にしていた暴力団組員と麻薬密売業者が何故か全員大なり小なり負傷して倒れているところを消防隊が搬送、その後大量検挙された。証言によると、人の姿をした化け物が一人で全員を壊滅させたのだという。その姿は黒い影、獣、快楽殺人鬼だとも言われ証言が一致しておらず、ロストタウンの獣と呼ばれるようになった。
「とはいえロストタウンの獣が実在するならお嬢の力は不可欠だ。」
大刀洗桜の持つ力。それは大地主の一人娘という家柄にまつわる特権だけにとどまらない。
「…なるほど、必要なのはこれってことね。」
桜は納得したように自分の目を指差した。
光を飲み込むような漆黒の瞳に宿るのは極めて超自然的な異能。それはいわゆる魔眼と呼ばれるものだ。
大刀洗家書物庫に保存されている平安時代に綴られた文献によると、さらに昔神代の時代より大刀洗家は代々祈祷師の家系として東雲の土地にあったそうだ。大刀洗という家名はかつて剣舞の神が不浄の物怪を打ち滅ぼしす際、その穢れを纏い打ち捨てられた祭祀の剣を清め、返上した功績を讃えられ土地と共に与えられた由緒正しきものなのである。
桜はそんな大刀洗本家を継ぐ跡取り娘として、幼い頃から祈祷師としての教育も施されていたが、それは本家の血筋とて長い間祈祷師の大きな力を持つ当主が生まれることはなかった為すでに形骸化されてしまっているものだった。しかし、雄一郎が桜と初めて出会った幼少の頃にはもう、彼女は既に霊視という形でその頭角を現し始めていた。
「実は龍斗にお嬢を誘って来てくれと頼まれてな。」
「…ふん。」
不穏な空気やこの世ならざるものを観測し、干渉する魔眼。桜はすぐに『先祖返り』『奇跡の子』ともてはやされ、彼女は幼い頃からその異能を駆使して大刀洗の祈祷師としての職務を果たしている。旧市街のロストタウンの獣がこの世ならざるものであるなら、まず間違いなく桜の力が必要になるだろう。
三千円のフルーツサンデーがテーブルの真ん中に給仕される。なめらかな生クリームソフトに色とりどりの果実がみずみずしく光っている。
不安げな雄一郎に対して、さっそく高級サンデーに舌鼓を打った桜の返答に迷いはなかった。
「…わかった、同行するわ。」
「雪丸は、…」
「もちろん行く。私だけ仲間外れなんて絶対嫌だもん。」
「だよな…。正直、危ないから雪丸はあまりついてきてほしくないんだけどな。」
「…あら、雪丸さんは駄目で私は良いのね。」
「痛いところ突いてくる…。」
雪丸は喧嘩慣れしている俺や白川、異能を持つお嬢と違いいたって普通の女子高生だ。あまり危ない場所へついてきてほしくないが、俺や龍斗と絡んでいるせいで慣れており、意外と肝が据わっている。喧嘩はできないがその度胸は頼りになるのだ。
「…それで雄一郎、私が気になっているのは今し方店の奥に消えていった子の事なのだけど。」
「そうそう、あんな可愛い子どこで引っ掛けてきたのよ。たぶん同い年くらいよね、うちの高校の生徒じゃなさそうだけど。」
話が決まれば、二人の興味はすでに先ほどの少女に戻っていた。
「なんだか人聞きが悪いな。さっきも言った通り、道に迷っていた所を案内しただけだよ。後でちゃんと紹介するから勘弁してくれ。」
それから三千円の高級サンデーと格闘すること数十分、店の奥から先程の少女宇都宮シキが姿を現した。
「よう、お疲れさん。」
「あれ、君たちまだいたんだね!もう仲直りした?」
「まあな、こう見えて俺達付き合い長いし。」
「へえ、仲良いんだね。…えと、どうしたのかな?」
何故か桜からじっと見つめられ、シキは思わずたじろいだ。だが、桜はどういう事か視線を外さない。睨みつけるわけでも、好奇の視線というわけでもなく、ただ何かを『視ていた』。
「えっと、何か気に触る事したかな?」
桜はそれには応えず、そして眉ひとつ動かさずじっくりと、観察するようにシキを眺め続ける。本能的にシキは視線を合わせず、対向の雄一郎の後ろへ逃げるように移動した。
「おいお嬢、意地悪がすぎるぞ。」
「…ふーん。…真っ白、空っぽ。」
桜はそんな不可解なことを口走ると、やがて視線を外した。雄一郎はほっと胸をなでおろすが、彼女の言葉がなにやら引っかかる。大刀洗桜の異能の瞳には一体何が映っていたのだろうか。
「…で、紹介してくれるんでしょう?」
そんな桜の一言で雄一郎は我に返った。確かに今日出会ったばかりの彼女が何者であるかなど、考えても仕方ない。
「あ、ああそうだったな。…宇都宮、いいか?」
「うん、もちろんだよ。私も君のお友達とは是非仲良くなりたいな。」
宇都宮はにこりと微笑む。幸い、お嬢の態度に心象を悪くしたというわけではないらしい。
「へー、変わってるわね。こんな変人に関わるとロクな事ないから気をつけた方がいいわよー。」
閑話休題。雄一郎はこほんと咳払いをすると、シキを隣に座らせた。
「彼女は宇都宮シキ、俺達と同い歳らしい。さっきも言ったが、ここに来る途中に知り合ったんだ。それと、近々東雲学園に転校してくるんだったよな?」
「へえ、それは素敵ね。雪丸花火よ、そこの男とは腐れ縁みたいなものだけど、よろしくね。で、こっちの目が死んでるのは大刀洗桜、こちらこそ仲良くしてくれると嬉しいわ。」
「あはは、君たち本当に仲良いんだね。私、この喫茶店で雇ってもらえることになったから、これからもみんなで遊びに来てくれると嬉しいな。」
さっそく打ち解け始めた花火を余所に、雑な紹介をされた桜はいささか不服そうにサンデーをつついていた。
◆
「楽しそうだね、シキ。」
いくつかの診察を終えた後、生暖かいビル風の吹き抜ける東雲総合大学病院の屋上、一人でフェンスにもたれかかり日に当たっていたシキは不意に背後からかかった声に振り返った。
「何かいいことでもあったのかい?」
そう声をかけたのは院長の御曹司、黒井奈都だった。彼にしては珍しく、普段院内ではきっちりと着こなす白スーツを肩にかけ、ネクタイも緩めているのはシキには御曹司としてではなく気のおける友人として接するという彼なりの意思表明なのだ。
彼に気が付いたシキは、弛緩させていた表情を綻ばせた。それは、黒井奈都が現時点のシキにとって最大限の信頼を置ける人物だからだ。
「えへへ、ねえ聞いてよナツ。私ね、友達できちゃったんだー。」
半年前、宇都宮シキは東雲総合大学病院で解離性同一性障害と診断された。
彼女はいわゆる二重人格と呼ばれるもので、もう一つ『ユイ』という人格を持つ。だが、シキとユイの関係は一般的な症状とは違い、言うなれば、『同一他者の共存』だろうか。シキとユイは間違いなく同一人物ではあるが、擁する記憶や思考はそれぞれ別のものを持つ。主人格と呼ばれるものは存在せず、しかし人格による身体操作権は共通しているがを奪い合うことはなく共存している。しかし、ユイは普段休眠状態にあり、シキからの問いかけには何も応えない。唯一、刃物を振るう時のみ覚醒し、ユイが起きている間はシキはぼんやりと夢の中から見ているような状態なのだ。
「へえ、それはいいね。」
シキは喫茶店で出会ったばかりの三人の事名前を何度も思い返す。そうすることで記憶の中の彼らの顔や声を鮮明に感じることができるのだ。
「みんなとっても素敵な人なんだよ。」
「…そうかい、君がそう言うなら本当に素敵な友達なんだろうね。是非僕も会ってみたいよ。」
奈都は少しだけシキに同年代の友達ができた事に寂しさを感じたが、それを面に出すことはしなかった。そしてむしろそれが彼女にとって好意的な事であるならば、そんな矮小な独占欲は必要ない。友人というものはいわゆる存在肯定者であり、それはシキにとって必要なものだ。
「でもねシキ、友達とはいえその帽子をおいそれと脱いではいけないよ。いつか君が本当に信頼できる人と出会うその時まではね。」
だからこそ彼は忠告する。その秘密を開示するにはまだ早いことを。
「あはは、また言ってる。わかってるよー。」
シキは帽子の位置を直すとくるりと向きを変えた。そして奈都の傍を通り過ぎる。
「行くのかい?」
その問いかけに、彼女は立ち止まった。
「ねえ、なんで奈都は止めないのかな?」
先程までとはうってかわって声のトーンが落ち、シキは不安げに問い返す。それは自分がしている事への後ろめたさを感じているからだ。
沈黙で答える奈都は全て知っている。『彼女』がどこへ行き、何をしているのか。
シキは屋上から出ていく。その顔に先ほどまでの笑顔はなく、その目に映るのは純粋で無垢で、鋭利な刃物のような眼光だった。
「まったく、君ってやつはいつもせっかちだ。」
奈都は誰もいなくなった屋上で一人ぼやいた。彼女とゆっくり話すために買ってきた白衣のポケットに押し込んだままの缶コーヒーの栓をあけ、先ほどまでシキがもたれかかっていたフェンスに手をかける。
屋上から俯瞰する風景は見通しが良く、晴れていると東雲市郊外まで見渡せる。シキはこの場所を気に入っているらしい。
黒井奈都が宇都宮シキと初めて出会ったのは彼女が病院の養育施設に保護されてきた時、当時奈都は中学生で、その頃のシキは二重人格ではなく、そして今とは違い警戒心が強くあまり周囲に心を開いていない様子だった。
シキは生まれが少々特殊で、身体的特徴を持っている。古い文献によると彼女のような人種を四都久民(よつひさのたみ)と呼ぶようだ。文献によるとーーー曰く、四都久民の四肢は獣の如く強靭で地を駆け宙を跳ぶ。眼光は夜を捉え獣の如き耳は虫の行脚さえ聞き分けるーーーとあり、つまり大きな帽子で隠しているものは特徴的な獣の耳(どうやらシキのものは猫科のもののようだ)なのである。
身体的特徴、違いというものは人間にとって原始的な畏怖に繋がるものだ。出会った頃のシキはその耳を隠していなかったのだが、同じ養育施設で育つ孤児や保育士、児童指導員に至るまで大小は違えどシキに対して畏れを抱いているというのは明白だった。
僕は彼女が心を開くまで養育施設に通いつめ、長い月日をかけてシキと友人関係を築く事ができた。しかし、彼が高校生となったある日、シキは施設から忽然と姿を消していた。姿を消した後シキがどこでどのように過ごしてきたのか、記憶を失っている今では知る術はない。もしかするとユイなら或いは知っているかもしれないが、シキの呼びかけにすら応じないのでは知る由もないことだ。
「シキを頼んだよ。…って、僕が言うのもおかしいか。」
奈都は屋上からシキを見送ると、缶コーヒーを一気に飲み干した。
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