第6話

 男の人に抱きしめられたのは何年ぶりだろう。

 あまりにも遠い昔のことで、相手もシチュエーションも思い出せない。

 ただ、しっくり来なかったのはなんとなく覚えている。相手のマネをして腕を体に回してみても、肉の塊を抱えているだけでなんとも思わなかった。

 ちなみに今は、峰さんのとんでもない早鐘を打つ胸の音と落ち着かない呼吸に心配になっている。


「峰さん……?」


 興奮した犬のような荒い呼吸だった。

 苦しそうだし、落ち着かなければ過呼吸になってしまうような気がした。

 焦って広い背中に腕を回し、手のひらで肩のあたりを優しく擦る。


「この手に合わせてゆっくり息吐いて」


 だんだん呼吸が私のリズムに合ってくる。


「無理して息吸わなくても大丈夫です。吐ききると自然に吸えますから」

「はぁ、はぁ……」


 峰さんの呼吸と胸の鼓動を体で感じる。徐々に呼吸が落ちついて来たのが分かって、私も安堵した。


「……なんで」

「はい?」

「なんで……俺なんかに、こんなに優しくするんですか」


 投げかけられた疑問に答えようと、思考を巡らせる。

 峰さんを見ていると、どうしても放ってはおけない。

 元々こんなにお節介をするようなタイプじゃなかったのに、峰さんは特別だった。


「あなたは誰にでも優しいのかなって思ったらそうじゃないし」


 思わず吹き出してしまったが、それは正解だ。

 なるべく人に深入りしないようにしているし、そんなに優しい人間ではない。


「俺にだけ、特別なのかもって……思って……あっ!」


 急に頭上で響いた大きな声に驚いて、体を離した。


「もしかして……もしかしなくても、俺の勘違いですか?」

「え?」

「ああ……俺、勘違いして、全部……」

「勘違いじゃないです!」

「……」

「峰さんは、特別」


 そう言って顔を見上げると、わなわなと唇が震えだした。

 私の洋服を掴む力が強まっていき、体が引き寄せられた。


「よかった……」


 絞り出すような声。

 そして私を自分の中に取り込もうとするかのような力でぎゅうぎゅう抱きしめてくる。


「人間の求愛行動は複雑で、調べれば調べるほど絶対俺には無理だって思って、色んな動物から勉強したんです」

「……あ、だからフクロウの?」

「あなたに一番似てるなって思って」


 フクロウに似てるなんて初めて言われたなぁと思っていたら、急に電気がついた。

 顔を上げて眩しくて目を細めると、すっと顔が近づいてきて、何も考える間もなく視界が影でいっぱいになった。

 今の、何。

 目が慣れてきて、顔を赤らめた峰さんを見てようやく今起こったことを認識した。


「できた」


 幼い子供が初めて何かをやり遂げたとき、多分こんな風に言う。

 満足げな顔を見ていたら、何だか胸の奥がざわざわした。


「下手くそ」


 思わずついて出た言葉に自分でも驚いた。

 峰さんは予想外の私の反応に固まってしまっている。


「あ、あ、ごめんなさい……俺、初めてで」

「じゃあ、二回目はもっと上手くできますか?」

「え、えっ!?」


 かわいそうなくらい焦りが体全体から出ている。弱々しい声で言った。


「おれ、わかんなくて……!」

「分からない?」

「だ、だから、教えてください」

「……何を?」

「キッ……キスの、やり方……」

「キス、教えてほしいんですね」

「俺! 勉強は得意で、その……」


 無意識なのか、唇を舐める。

 私には人に教えられるほどの経験値がないことを棚に上げ、峰さんの頬に手を添えた。顔を隠す髪の毛を避けると目がきらきらしていた。

 そして峰さんは、はっと息を呑む。身構えているのがかわいい。

 そのままキスするのはもったいなくて、親指を唇に当てると峰さんは小動物みたいな鳴き声を上げた。


「……目、瞑らないと」


 ぎゅっと音がするくらいキツく目を瞑る。

 私がかかとを浮かせて背伸びをしたその時だった。


「すみませーん、大丈夫ですか!」


 スピーカーから大きな声が響いた。


「救急車は必要でしょうか!」

「あ、全然! いらないです!」

「そうですか。もうボタンで扉開きますので」


 私は言われるがままに開ボタンを押した。

 扉が開き、二人だけの空間が終わる。

 エレベーターから出ると、峰さんは小さな声でぶつぶつ何かをつぶやきながら私の後ろに立った。


「意外と早く出られてよかったですね」

「それは、まぁ」

「どうかしました?」

「……何でもないです」


残念そうにする峰さんに、また胸の奥がくすぐったくなる。

そして、峰さんが向かった先には私の予想を超えた光景があった。


「なっ……?」


車が長い。車種のことはわからないが、デザインや質感から高級車であることは確実だった。


「これ、峰さんの……?」

「はい、うちのです」

「……すごいですね」


呆気にとられる私の前で峰さんは後部座席の扉を開け、私に乗るようにと促す。

こんな風に男性にエスコートしてもらったの初めてだなと思っていると、峰さんも同じく後部座席に乗り込む。


「出してください」


車は驚くほど滑らかに走り出す。

今、誰に言った?

その前に、この車運転してるの、誰?

私の疑問が伝わったのか、バックミラー越しに運転席にいる男性と目があった。


「坊っちゃんがお世話になります」

「……坊っちゃん?」

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