第5話
私以外誰もいない薄暗いオフィスに、モニターの明かりが煌々と光る。
今日はあんなことがあって仕事が進むはずもなく、しっかり残業になった。
オフィスが薄暗いのは、一定の時間になると自動消灯されてしまうせいで、いちいち電気をつけに行くのが面倒だからそのままにしている。
今日一日、私の頭の中は峰さんのことでいっぱいだった。
気を抜くと、あの色素の薄い瞳、震える指先、情けないぐちゃぐちゃの泣き顔、鼻血……と、とめどなく脳裏に浮かんできてしまう。
「もう疲れた……」
デスクに突っ伏して、額をぶつけたときのゴツンという鈍い音がやけに響いた。
そのまましばらくデスクに重たい頭を預けていると、バタバタバタと遠くから忙しない足音が迫ってくる。
警備員が見回りにやってきたんだろうか。
残業の申請は出しているけど、防災センターにも連絡しておくとか何とか言われたような気もする。
そう思ってくるりと後ろを振り返った時、目の前にはぼんやりとした人影があった。
霞む目をじっと凝らしてみると、人影の輪郭が徐々にはっきりしはじめた。
「……峰さん?」
「ああっ、あ、はい」
峰さんはもじもじと手元をいじりながら、私を見ていた。
「もしかして……残業ですか?」
「いや、残業するのは無能の証なので」
「……そうですか」
すぐさま打ち返された言葉に面食らった。それは、私が無能だって言ってることになるんだけどな。間違いではないけど。
そんなことに気づいていなさそうな峰さんは、一歩ずつこちらに近づいてきた。
そして意を決したように、大きく息を吸い込む。
「イ、一緒に帰りたい……です」
「はい?」
「あ、あ、だから、あの、一緒に」
「……まさか、そのために今までオフィスにいたんですか?」
「はい」
当たり前だという顔だ。一体何時間待ってたんだろう、この人。
約束していたとかではないから私が悪いわけではない。しかし、私の仕事が終わるのを健気に待っていたのかと思うと申し訳なくなってきて、パソコンの画面を閉じた。
「……じゃあ、帰りますか」
「はい」
ちょっと嬉しそうな声が返ってきた。かわいいな。
荷物をまとめて席を立つと、峰さんは目の前にぱっと手を差し出してきた。
これはどういう意味の手なのか。
峰さんの顔を見ても、髪の毛が邪魔で表情は見えない。
疲弊しきった私が思いついたのは、自分の右手を峰さんの手の上に置くことだった。
「ヒェ」
ヒュンと音がするような速さで手が引っ込んでしまった。
「い、いま、手が」
「はい……」
「あの、に、荷物を」
「あ、そういうこと」
私のバッグを持ってくれようとしたのだとようやく気付き、居た堪れなくて苦笑いを浮かべた。
「荷物は大丈夫ですよ。行きましょう」
「はい、あの、最寄りは」
「うちは国分寺です」
「……ここから遠いですか?」
「まぁ、だいたい1時間くらいですね。峰さんは?」
「えっと……」
峰さんは驚くほど駅を知らなかった。
自分の最寄り駅すら首を傾げる始末で、主要なターミナル駅も名前だけうっすら知っているという程度だった。
普通に通勤していて、こんなに駅知らないなんてことあるんだろうか。
疑問を抱えながらエレベーターに乗り込むと、峰さんは地下のボタンを押した。
「あ、地下は」
駐車場ですよ、と言いかけてハッとした。
峰さんはもしかしなくても、車通勤なのではないか。だから駅を知らなかったのかと納得した。
しかし、うちの会社って車通勤は許可されていなかったような気がする。
エレベーターの扉が閉まると、峰さんは私をちらりと見た。あと数ミリ動けばお互いの手が触れそうな距離まで近付いてくる。
これは、何かが始まる。それが何かはわからないけど、このままでは始まってしまうことは分かる。
エレベーターという数十秒の密室には、私と峰さんの探り合うような雰囲気が充満していた。
「……あの」
「は……はい」
「これからも、一緒に帰ってもらえませんか」
「一緒に帰るのはいいんですけど……私、結構残業が」
「そういう時は、俺のこと呼んでください」
「え?」
「あなたが今抱えている課題を洗い出して、解決策を立てて、必要なところに自動化プログラムを」
「いやいや、そんなことしてもらうの申し訳ないです」
「……俺のこと、嫌ですか?」
あまりの話の飛躍具合についていけず、首を傾げた。
エレベーターは地下に到着し、扉が開く。とりあえず降りようとした瞬間、持っていたバッグが強く後ろへ引っ張られた。視線を落とすと、峰さんの白い指が持ち手を掴んでいる。
しかも、もう片方の手は閉ボタンを連打していた。
えっ。この展開、何?
エレベーターの扉は閉まり、再び密室が出来上がる。今から何が始まるんだ。
「……あなたのことが好きです」
ここに来て、まっすぐな告白が飛んでくるとは思わず固まってしまった。
なにか言わなきゃと口を開いたけど、どう答えていいか分からない。
私は開いた自分の口を閉じ、峰さんをじっと見上げてみる。
俯いたままで私の答えをじっと待っている峰さんは、まるで飼い主から待てを言い渡された犬のようだった。
私の様子を伺おうとして、ちらちらと目線だけをこちらに寄越すのがいじらしくてかわいい。
「そんなことは、もう知ってると思うんですけど……その……」
私のバッグを中へ中へと引き寄せようと力が入る峰さんの指に触れた。
すると峰さんが「あ」と「ひゃ」の間のような声を出し、ぐいっと強く引っ張られた。
よろけた私はバランスを崩し、峰さんの方へと倒れ込んだ。
「わっ」
ガタン、と嫌な音がする。その直後、また嫌なブザー音が鳴り響いてエレベーター内の明かりが消えた。
「衝撃を感知しました。安全確認後、復旧します」という機械的なアナウンスがくり返して流れる。壁にある開ボタンも、どの階数ボタンを押しても反応しない。
「え、嘘でしょ」
電話のマークを押すと呼出音が聞こえたあとに「時間外につき、下記番号までご連絡ください」とテープが流れた。
「これ、出るまで時間がかかるやつじゃ……」
「……」
「峰さん?」
暗闇の中で何も言わなくなった峰さんの方を向くと、腕がこっちに伸びてきてぎゅっと私を抱きしめた。
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