第4話
ようやく落ち着いた峰さんは、鼻血を拭ったハンカチと自分の涙を吸った私のシャツを見て、財布から何かを差し出した。
何も考えずに受け取ってみると、それは見たことのない黒いクレジットカードだった。
私は全く意味が分からず、カードと峰さんを交互に見る。
「……ハンカチのクリーニングとシャツ代です」
「これって……まさか峰さんのカードですか?」
「はい。欲しい物があれば、これで何でも買えます」
何を言ってるんだ、この人は。
何だか恐ろしくなってきて、一刻も早くこのカードを持ち主に返したくて、峰さんに突き返した。
しかし峰さんはカードを受け取ることはなく、手を後ろに回してしまう。
「いや、あの、結構です」
「使ってください」
「使って、って……こんな大事なもの渡しちゃだめですよ。もし私がこのカード悪用したらどうするんですか?」
「むしろ、あなたの今後の生活費もこのカードで支払ってください」
「生活費……?」
峰さんの行動すべてが私の予想を上回ってきて、頭がクラクラしてくる。
こめかみを指先で押さえて、未だに手にあるカードに視線を落とした。
ブラックカードって噂では聞いたことはあったけど本当にあったんだ。普通のカードじゃないし、誰でも持てるわけではないと思う。きっと前職で相当稼いでいたんだろうな。
「俺は、お詫びには足りないくらいだと思ってます。あ……あなたの前で、その、見苦しい、気持ち悪い姿を晒してしまって……」
峰さんが両手で顔を覆った。また指が震えている。きっと冷たく冷えているであろう指先を、そっと温めてあげたくなった。
「おれ、あなたに、嫌われたくないんです……」
弱々しくて切実な声色が、私の鼓膜を震わせる。
私に対する峰さんの態度を見ていると、地中深くに埋まっていたはずの私の母性が、マグマのようにぐつぐつと燃えたぎっていくようだった。
私が峰さんのことを守ってあげたい。そして原石であると自覚のない彼のことを、私が磨いて本来の価値を知らしめたい。
峰さんに対して抱いているこの思いが恋愛感情だというには、かなり歪んでいると思った。好きとか愛してるとか、そんな言葉をこの気持ちに割り当てることはできない。
なぜだか私を慕っているらしい峰さんのことを、私の好きなように支配してみたいと思っていたからだ。
そんなことをぼんやり考えていたら、顔を覆っていた峰さんの手が突然私の肩を掴んだ。
強い力に驚いて、声が出ない。
峰さんの顔は見えないけど、異様な必死さは伝わってきた。私は峰さんを嫌いにならないと伝えなきゃ、と口を開いた時だった。
遠くからヒールの音がこちらに近づいてくる。
ピタリと音が止んだ時、女性社員が目をまんまるにしてこちらを見ていた。
「あのー、なんか……お取り込み中でした?」
「い……いえ! 全然!」
やんわりと峰さんの腕を払い、手に持ったままだったカードをジャケットのポケットに滑り込ませた。
失礼します、と言って給湯室から立ち去ると、峰さんが3歩ほど後ろをついてくる。
「とりあえず、気にしないでください」
「あ……あ、あの」
「午後も仕事がんばりましょうね」
「……はい」
強引に会話を切り上げて、自分の席に戻ることにした。
少し離れたところから覗いてみると、山瀬さんの姿が見える。きょろきょろと落ち着かない様子で、私が戻ってくるのを見ているようだった。
非常に戻りにくい。しかし仕事をしないわけにもいかない。
諦めてのろのろと席に戻っていくと、待ってましたとばかりに山瀬さんが近づいてきた。
「大丈夫だった?」
「……」
「あれから結構長かったじゃん。もしかして、あいつとエッチなことしてたりして」
「山瀬さん。ここ、会社ですよ」
「だからこそ燃えちゃうんだろ。そういう経験ない?」
「ないです」
「ないんだ……あ、俺もないよ?」
ヘラヘラ笑う山瀬さんを一瞥して、パソコンの画面に向き合う。
「あいつ、峰って言ったっけ」
「……」
「うちの会社の会長の名前知ってる?」
コソコソと話しかけてくる山瀬さんに無視を決め込んでいたが、そういえば会長の名前知らないなと思ってタイピングの手を止めた。
検索エンジンを開き、うちの社名と会長と打ち込む。
「峰星太郎……」
「もしかして、あいつ会長の息子だったりして」
「え?」
「あ、ただ同じ苗字だったなぁって思っただけだから」
「……」
「峰なんて別に珍しい苗字じゃないしね」
山瀬さんが座る事務椅子が離れていく。人が困惑しているところを見て楽しむなんて悪趣味だ。
「……仕事に集中してください」
「そういう自分が一番集中できてないくせに」
「本当に黙ってもらっていいですか」
「今日、なんか攻撃的だな」
「……その原因、なんだと思ってるんですか」
「え? あー、俺か」
そして山瀬さんは、私に見せつけるようにしてあのキャラメルを口に放り込んだ。
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