第3話

 スマホを構えたまま、山瀬さんは身を屈める。

 そして画面から目線を外さずに、こう言い放った。


「あ、これ動画だから。なんか喋って」

「ていうか! そもそも勝手に撮らないでもらえますか」


 焦った私は、山瀬さんのスマホに手を伸ばそうとしたその時。バランスを崩し、そのまま峰さんの方へ倒れ込んでしまった。

 そのせいでドミノ倒しになった峰さんは、不格好な姿で私の体を受け止めてくれていた。


「おお、大胆」


 余計なことしか言わない山瀬さんをにらみつける。前々からそんな気はしていたけど、本当にろくでもない男だ。

 山瀬さんより、私の下敷きになっている峰さんのことを思い出して体を起こす。


「すいません! すぐに退きますから」


 下に目線を向けると、峰さんが私をじっと見つめている。

 倒れた時に前髪が乱れたせいで、峰さんの顔がよく見えた。色素が薄い峰さんの頬は紅潮し、うっとりした表情をしていた。なんで?

 もしかして、頭でも打ってしまったのではないかと心配していると、峰さんの鼻から真っ赤な血が垂れた。


「えっ、血!」


 本当に打ちどころが悪かったのかもしれない。

 まだぼんやりと私の方を見たままで、何も言わない峰さんに焦る。

 近くにティッシュが見当たらず、とっさに自分のハンカチを峰さんの鼻にあてがった。


「ん!?」

「鼻の根元を押さえて、下を向かないと」


 急に鼻が覆われて呼吸が苦しくなったことに驚いている峰さんの上体を引っ張って起こし、下を向かせる。

 峰さんの手にハンカチを握らせて山瀬さんの方を見上げると、まだスマホを構えたままだった。


「どういうつもりなんですか」

「面白いもん撮れたなと」

「……もし、このこと社内で言いふらすようなことしたら、本気で怒りますから」

「一応聞くけど、お前ら付き合ってんの?」

「付き合ってないですけど」

「あ、そう」

「……何なんですか?」

「いや、勝ち目あるかなーと思って」

「勝ち目?」

「じゃ、俺仕事戻るわ」


 意味深な言葉を残し、山瀬さんは立ち去った。

 それにしても厄介なところを見られてしまった。今後このことをネタにして強請られたりしなければいいな。


「峰さん、大丈夫ですか? 他に痛いところとか……」


 依然として座り込んだままの峰さんは、私のハンカチを鼻に当てたまま遠い目をしていた。

 そして私は、峰さんの下半身に現れている異変に気付いてしまい、完全に言葉を失った。

 いや、これは別にそういう反応ではなく、単なるスーツのシワかもしれない。

 そうだとしても、これはなかなかのサイズではないか。峰さんの入社初日、ここで女性社員たちが話していたことが脳裏に過った。もし峰さんが巨根の童貞だったらと一瞬想像して、すぐさま打ち消す。

 私は今、そんな下世話なことを考えてる場合じゃない。


 峰さんは私の空気が変わったことに気づいたのか、ぱっとこちらを見た。

 急いで峰さんの下半身から目線を外す。こういう時、どういう反応をしたらいいんだろうか。

 とりあえず普通に気付かないふりをしておこう。普通に。


「甘くて、いい匂い」

「え?」

「これがあなたの匂いなんだと思ったら、その、すごく……」


 峰さんは言葉の途中で自分の下半身が視界に入ったようで、ぴたりと体の動きを止めた。

 これはもはや、気まずいどころの騒ぎではない。


 膝を抱えるようにして座り直した峰さんは、いつにもまして小さな声で話し始めた。


「……見ましたよね」

「な、何を」

「殺してください」

「は? 今何て」

「い、いますぐ、おれのこと、殺して……」

「はっ? ちょっと落ち着いて」

「あっ、おれ、どうせ死ぬなら……このハンカチ口に詰めて、あなたの匂いで一杯のまま窒息死がいい」

「いやいやいや! そんなこと、絶対にやめてください! これ、お気に入りなんです!」


 ハンカチを握りしめる峰さんの手を力付くで下ろした。峰さんはハンカチから手を離すと、自分の目をごしごし擦った。また泣いてる。


「お気に入り、俺の鼻血で汚してすみません」

「あっ……それは、別に」

「死んで償います」

「え!? 私、峰さんに死なれたら困ります!」


 両肩を掴み、峰さんの顔をじっと覗き込む。

 峰さんの涙に濡れたまつ毛がキラキラ光っている。そして潤んで充血した瞳を見ていると、胸がきゅうっと苦しくなった。


「簡単に死ぬとか、殺してとか、そういうこと言わないで」

「……でも」

「二度と言わないって、私と約束してください」

「もう……やめて、そういうの」


「もっと好きなっちゃう」とかなんとか言いながら表情がみるみるうちに歪んで、涙が次から次へと頬に流れていった。

 子どものようにしゃくりあげながら泣く峰さんが見ていられなくて、両手を広げてそっと抱きしめる。

 峰さんの涙でシャツの肩の部分が濡れていくのが分かる。それでも私は峰さんのことを離さずにいた。

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