第2話

 目の前で、カツカツと固い音がしてハッと我に帰った。


「なあ、ここって桁がズレてないか」


 山瀬さんは身を乗り出し、私のモニターに映る金額を、いち、じゅう、と桁を爪でカツカツと音を立てながら指差していく。

 そして最後の桁まで辿り着き、桁が二つもズレていることにやっと気づいた。


「すいません。ありがとうございます」

「お前がこんなミスすんの珍しいな。いつも俺が指摘される側なのに」

「なんか今日、ちょっと集中できてなくて……すいません。気をつけます」

「何かあったのか?」

「……まぁ、ちょっと」

「大丈夫か? しんどかったら無理しないで休めよ」

「ありがとうございます」


 よほど様子がおかしく見えたのか、いつもなら不調を茶化してきそうな山瀬さんが真剣な顔で心配してくれた。

 とはいえ、さっきの出来事を相談するのはあまりにもリスクが大きすぎる。もしも軽率に話してしまえば瞬きするまもなく社内中に広まりそうだし、転職したばかりの峰さんが居づらくなることは想像しなくても分かることだ。


「よく分かんないけど、そこに入ってる甘いもんでも食って元気出せ」


 山瀬さんの目線は、峰さんからのお菓子が入っている引き出しに向けられていた。

 今食べたら、余計に調子が狂うような気がする。


「ていうか、小腹空いたから俺も何かもらっていい?」

「えっ」

「いっぱいあるんだし、一個ちょうだい」


 山瀬さんは、ん!と子供みたいに手のひらをこちらに向けてくる。

 峰さんが毎朝置いてくれていたお菓子を山瀬さんに分けるというのは、なんだか峰さんの気持ちを無碍に扱っているような気がして気が進まなかった。

 そんなことを考えて渋っている私に、山瀬さんはニヤニヤ笑いだす。


「だめなの? やっぱりお前って結構食い意地張ってるよな」


 相変わらず、山瀬さんはデリカシーがない。しかし山瀬さんの場合は、相手への言葉を気にしないだけでなく、相手から言われたことも気にしないタイプだから、ある意味で助かっている部分もある。

 私は適当に苦笑いを浮かべて、マグカップを片手に「気分転換してきます」と言って席を立った。



 誰もいない給湯室の電気をつけて、お気に入りの紅茶のティーバッグが入ったマグカップにお湯を注いだ。

 小さく立ち込める湯気とダージリンの匂いにほっと息をつく。

 峰さんとは普段の仕事で関わることはほとんど無いにしても、廊下ですれ違ったりしたとき、一体どんなテンションでいればいいのだろうか。

 曖昧な態度を取られているならまだしも、面と向かって「求愛行動です」と言い切られてしまっている。


「いやだから、求愛行動ってどういうことよ」


 紅茶に向かって独り言をこぼした直後、背後で何かがぶつかったような物音がした。

 振り返るとそこには、峰さんが脛のあたりを両手で押さえてうずくまっている。


「あの……峰さん? 大丈夫ですか?」


 何やら只事ではない様子だ。

 私はとっさにポットの近くにマグカップを置いて、峰さんのもとに駆け寄る。すると峰さんは何も言わずに近くのゴミ箱を指差した。

 金属製の重いゴミ箱に脛をぶつけたらしい。

 なるほど、それは相当痛かっただろうなと心配になって、峰さんの隣にしゃがみ込むと髪の毛の間から真っ赤な耳が見えた。


「……すいません」


 水分を含んだような震える声で謝っている。

 なぜか痛々しい峰さんを前にして、とにかく慰めようと背中に手を置いた。

 その時、峰さんは驚いたのかびくんと大げさに体を震わせて顔を上げた。


「あの……痛みは、収まりましたか?」


 峰さんが首を横に振る。そして、脛を押さえていたはずの手が私の太ももに伸びた。

 骨ばっている大きな峰さんの手から、スカートの布越しにじわじわと熱い体温が伝わってくる。いやいや、どういうこと。


「フクロウは、心を許した相手に絶対的な愛情を示します。それに」

「え?」

「すごく嫉妬深いんです」


 またフクロウの話、と思っていると、峰さんは私の太ももに置いた手にキュッと力を込めた。


「俺よりも、あの人の方がいいですよね」

「えっ?」

「普通に会話できないし、暗くて声小さいし、見た目も粗大ゴミだし」

「粗大ゴミ?」

「……これくらいの距離でいっぱい話してるの、いいなぁ」

「ちょっと峰さん、顔が」

「ずるい……」


 峰さんの顔を覗き込むと、頬が濡れていた。泣いている。

 ぎょっとして固まっていると、峰さんはおずおずと私の肩にすり寄ってきた。 いやいや、この状況どういうこと。


「うわっ……何やってんの、お前ら」


 泣いている峰さんを突き飛ばすわけにもいかず、硬直してされるがままになっていると聞き覚えのある声が頭上に降ってきた。

 そして目線を上げると、山瀬さんが私と峰さんのことを見下ろしていた。

「いや、これは違うんです」と咄嗟に口を開きかけて、何が違うんだろうと自分自身に疑問が浮かぶ。そうこうしているうちに、山瀬さんはポケットからスマホを取り出し、私たちの方に向けて構えると、軽快なシャッター音が響いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る