恋情散り咲く
紫鳥コウ
恋情散り咲く
古井戸に梅の樹の影が色濃く落ちるある日の昼下がり、奉公先の
しかし蝋燭の火のように闇中を明るく切り裂いていく希望を、この時のお芳は確かに抱いていた。書きかけの
お芳は次の休みに横山と会うつもりでいた。が、その日はこの館川家の離れで
しかし、館川家の坊ちゃんの家庭教師をしている以上、横山と決して会えなくなるわけではない。それでも、二人きりで浅草公園で活動写真を見るなどという夢のような時間は、まったくの幻として忘却しなければならなくなった。
こうした事情から、すっかりやる気を
そのとき、坊ちゃんの泣く声が聞こえてきた。あの弱虫の坊ちゃんのことだから、縁側を走っているうちに、不注意のあまりこけたのだろうなどと思ったのだが、それにしては尋常ならざる声をあげている。
「どうしましたか」――と声をかけると、坊ちゃんは、右足首を両手でがっちりと抑えている。お芳が触ろうとすると、裏拳を食らわすように
坊ちゃんはやはり骨折していた。部屋から部屋へと移るときは、おぶわなければいけなかったし、風呂へ入れるのも一苦労だった。弱虫の坊ちゃんは、ちょっと親指が痛むだけで、わんわんと泣いた。
それだから、横山が来るのも断り、敷きっぱなしのふとんの上で遊ばせておくしかなかった。のみならず、その手の掛かる坊ちゃんの用向きを聞くのはお芳の役目となった。弱虫なわりに
坊ちゃんの親指が治ったころには、横山の態度がすげなくなっていることに、お芳は気付いた。手紙の返信はない。勉強を教えにきたときも口数が少ない。きっと他の女性を好きになったのだろうと察したお芳は、その失恋とこの数か月の苦労とが相まって、体調を崩してしまった。
その頃、館川家の主人はある事業に失敗し、妻との確執も激しくなり、喧嘩をすることもあれば、抱き合って泣くこともあった。坊ちゃんは、そんな両親の姿を見ているうちに塞ぎがちになり、その反面、お芳へ強く当たるようになった。のみならず、身体が悪くなっていくお芳のことを、だれも気にかけることはなかった。
古井戸の中にも周りにも、枯葉が散らかり、鳥の
「言いつけるんじゃないよ」と釘を刺すと、苦笑いをした中川は少し離れたところに腰をかけて、「ぼくはもうすぐここを出ようと思っています」と、寒々しい梅の樹に立てかけてある箒の方を見ながら、少し思い詰めたように言った。
「あなたはどうするんです? もうここにいる者は、ひとりふたりと暇を出されるでしょう」
「さあ……国に帰るかもしれないね」
中川は
「飲みませんか?」
「飲みませんかって……」
「お互い、酔わないとやってられないでしょう」
そのとき、足の遅い雲の間から光が差し込み、あたりが少しだけ明るく彩られた。そして、緩やかな風が流れて、箒がパタリと倒れた。樹の上にいたなにかの鳥が
お芳はとうとう観念して、ウヰスキーの瓶に口をつけた。
「もう、酔わないとやってられないでしょう?」
そう重ねて問いかける中川の声には、自分が横山へと抱いていた想いと同じような情が含まれているように、お芳には思えた。
「もし、あんたが、酔いの力に頼らなかったらねえ」
と、お芳は独り言のように、冬に近づいていく庭の景色へ向けて
* * *
年を越し間もなくして、館川家はすっかりと没落してしまい、お芳は暇を出されてしまった。中川もとっくに別のところへ越してしまっていた。
横山の行方については、だれも知らない。しかし中川のその後を知っている者は、何人かはいると聞いている。
恋情散り咲く 紫鳥コウ @Smilitary
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