恋情散り咲く

紫鳥コウ

恋情散り咲く

 古井戸に梅の樹の影が色濃く落ちるある日の昼下がり、奉公先の館川たてかわ家のお蔵の石段でおよしまぶたを落としてとしていた。昨晩は、蝋燭ろうそく火取ひとむしが散っていくのを眠ることなくただ漫然と眺めていた。なにを待つでもなく、なにを考えるのでもなく。


 しかし蝋燭の火のように闇中を明るく切り裂いていく希望を、この時のお芳は確かに抱いていた。書きかけの艶書えんしょの上に重ねられた、横山からの恋文を見れば、その意味を容易に想像できるかもしれない。こちらから出すまでもなく、向こうから恋慕の情を打ち明けてきたのである。


 お芳は次の休みに横山と会うつもりでいた。が、その日はこの館川家の離れで一中節いっちゅうぶしの稽古が催されることになり、その世話のためにお芳は残らなければならなくなった。彼女の希望は、瞬く間に火取り虫に変わり、宿命の炎に焼かれてしまうことになった。今晩は、断りの手紙を書かなければならない。


 しかし、館川家の坊ちゃんの家庭教師をしている以上、横山と決して会えなくなるわけではない。それでも、二人きりで浅草公園で活動写真を見るなどという夢のような時間は、まったくの幻として忘却しなければならなくなった。


 こうした事情から、すっかりやる気をなくしたお芳は、暇を見つけてはこそこそと隠れて堂々と休んでいるのである。それは来客の世話を命じてきた主人への反抗でもあるし、失意からくる疲労に苛まれているからでもあった。


 そのとき、坊ちゃんの泣く声が聞こえてきた。あの弱虫の坊ちゃんのことだから、縁側を走っているうちに、不注意のあまりこけたのだろうなどと思ったのだが、それにしては尋常ならざる声をあげている。


「どうしましたか」――と声をかけると、坊ちゃんは、右足首を両手でがっちりと抑えている。お芳が触ろうとすると、裏拳を食らわすようにねのける。遠目から見ても、親指がぷっくりと膨れているのが分かる。柱にぶつかって骨折したのかもしれない。折よく書生の中川が通りかかったので、「どなたかを連れてきて頂戴ちょうだい」と頼むと、彼はドタバタと炊事場の方へと駆けていった。


 坊ちゃんはやはり骨折していた。部屋から部屋へと移るときは、おぶわなければいけなかったし、風呂へ入れるのも一苦労だった。弱虫の坊ちゃんは、ちょっと親指が痛むだけで、わんわんと泣いた。


 それだから、横山が来るのも断り、敷きっぱなしのふとんの上で遊ばせておくしかなかった。のみならず、その手の掛かる坊ちゃんの用向きを聞くのはお芳の役目となった。弱虫なわりに我儘わがままな坊ちゃんは、右足をかばうあまり負担のかかる左足を揉むように命じることもあった。お芳はこそこそと隠れて堂々と眠ることができなくなった。


 坊ちゃんの親指が治ったころには、横山の態度がすげなくなっていることに、お芳は気付いた。手紙の返信はない。勉強を教えにきたときも口数が少ない。きっと他の女性を好きになったのだろうと察したお芳は、その失恋とこの数か月の苦労とが相まって、体調を崩してしまった。


 その頃、館川家の主人はある事業に失敗し、妻との確執も激しくなり、喧嘩をすることもあれば、抱き合って泣くこともあった。坊ちゃんは、そんな両親の姿を見ているうちに塞ぎがちになり、その反面、お芳へ強く当たるようになった。のみならず、身体が悪くなっていくお芳のことを、だれも気にかけることはなかった。


 古井戸の中にも周りにも、枯葉が散らかり、鳥のさえずりが寂しくなった雨曇りの日に、お芳は縁側に腰をかけて、傾いていく館川家の主人からいつ暇を出されるのかを気にしながら、すっかりと痛んだ身体を束の間でも休ませていた。するとそこへ書生の中川がやってきた。


「言いつけるんじゃないよ」と釘を刺すと、苦笑いをした中川は少し離れたところに腰をかけて、「ぼくはもうすぐここを出ようと思っています」と、寒々しい梅の樹に立てかけてある箒の方を見ながら、少し思い詰めたように言った。


「あなたはどうするんです? もうここにいる者は、ひとりふたりと暇を出されるでしょう」

「さあ……国に帰るかもしれないね」


 中川はふところから小さなウヰスキーの瓶を取り出して、一口飲んだ。そしてそれをお芳の方へと差しだした。


「飲みませんか?」

「飲みませんかって……」

「お互い、酔わないとやってられないでしょう」


 そのとき、足の遅い雲の間から光が差し込み、あたりが少しだけ明るく彩られた。そして、緩やかな風が流れて、箒がパタリと倒れた。樹の上にいたなにかの鳥が一声ひとこえ鳴いた。

 お芳はとうとう観念して、ウヰスキーの瓶に口をつけた。


「もう、酔わないとやってられないでしょう?」

 そう重ねて問いかける中川の声には、自分が横山へと抱いていた想いと同じような情が含まれているように、お芳には思えた。


「もし、あんたが、酔いの力に頼らなかったらねえ」

 と、お芳は独り言のように、冬に近づいていく庭の景色へ向けてつぶやいた。


     *     *     *


 年を越し間もなくして、館川家はすっかりと没落してしまい、お芳は暇を出されてしまった。中川もとっくに別のところへ越してしまっていた。


 横山の行方については、だれも知らない。しかし中川のその後を知っている者は、何人かはいると聞いている。

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