第3話 フィリピン

 草野先生が冬休みの2週間、フィリピンで現地の学生たちと交流するプログラムを用意したことを翌週のゼミで知った。学科の中から参加者を募るというので、迷いなくエントリーシートにサインした。


「僕も行こうかな、楽しそうだし」


 アサギがそう言ったのは意外だった。彼がいるのは心強くもあり、気恥ずかしくもある。


 2年の冬休みは他の国に留学を予定している学生が多かったのもあり、参加者は私たち入れて4名だった。1人はアサギを毛嫌いしていると噂のチネン、アサギに気があるらしいユウカだった。



♦︎

 


 ニューイヤーの2週間後、マニラのニノイ・アキノ空港の外に降り立った私たちは、群馬の吹き付ける冬の風の冷たさと、マニラの照りつけるような太陽のギャップに驚いた。


「俺は元巨人の江藤と同じでよ、夏に強えんだよ!」


 そんな意味不明なことをチネンは言っている。草野先生はいつもの長袖シャツにサスペンダーだが、流石に暑そうだ。


 空港には草野先生の友人であるというラロイという中年の男が来ていた。フィリピンの第二言語は英語なのだが、彼は初っ端からタガログ語で話しかけてきた。


 彼の車はジープを改造して作られたジプニーという車だった。リアルな蛾のイラストが、車体全体にびっしりと描かれていたのにはぎょっとした。飛行機の中で草野先生が、乗合タクシーの運転手はジプニーを好きなようにデザインするのだと言っていたが、こんなジプニーにだけは乗りたくない。


「趣味悪すぎでしょ」


 呟いた私に、運転席に乗り込もうとしていたラロイが満面の笑みを向けた。いや、褒めてないから。


 ラロイの車で、私たちは空港から車で30分ほどのところにあるカンデラという街に向かった。私は一番後ろのユウカの隣に座った。前にはアサギとチネンが間をあけて座っていて、助手席の草野先生とラロイが楽しげに話している。高層ビルが立ち並ぶエリアを過ぎると、野菜やフルーツ、帽子や服などの衣類などを売る市場が広がる。タンクトップにハーフパンツという薄着の格好をした男性たち、色鮮やかなキャミソールにデニムパンツを履いた若い女性のグループなどが歩いている。


 現地の学生たちとの待ち合わせ場所は、スケートボードの公園のあるすぐそばの、『自由の館』とタガログ語で書かれたホールだった。外壁はタイル張りで、タイルの一つ一つに花や蝶、星や魚などのイラストがペンキで描かれている。所々には貝殻が貼り付けられていた。


 中に入ると、ロビーで5人ほどの学生たちが出迎えてくれた。その中の1人は、日本人だった。彼の顔を見た途端、アサギの表情が凍りついた。


「久しぶりだね」


 イツキと呼ばれた学生がアサギに声をかけると、アサギはいつになく動揺した様子で答えた。


「……どうして、君がいるんだ?」


「マニラの大学に留学してたんだ。いやぁ驚いたよ、君が交流メンバーの中に入ってるなんて」


 青白い顔をしたアサギには、イツキの言葉が耳に入っていないようだった。


 ホールの二階はアートで埋め尽くされていた。壁には絵画や写真が貼られ、壁に沿うように置かれたテーブルの上には鹿の彫刻やボックスアートなどが展示されている。三階にはアトリエがあり、ここは街の若者たちが自由に表現をする場なのだとイツキは言った。


 私たちはしばらく、現地の学生たちと交流した。彼らは皆フレンドリーで解放的だった。その中の1人、ジョージアという少女と仲良くなった。


「草野先生、セクシーね」


 ジョージアは流暢な英語で言った。


「私は草野先生が好き。あなた好きになっちゃ駄目!」


 パニックになった私がおかしな英語で言い返すと、ジョージアは大きな声で笑った。


 チラリとアサギの方を見る。アサギは相変わらず暗い顔をして、ホールの隅でぼーっと絵画を眺めている。私はアサギの隣にそれとなく移動して、彼が眺めている猫の絵を一緒に眺めた。


「参ったな、何でアイツがいるんだ」


 アサギは苦い表情を浮かべた。彼がここまで感情を乱しているのを、初めて見た。


「訳ありなの?」


「まぁね。酷い行いをしたのは僕なんだけど。あんな風に笑顔で話しかけられちゃ、堪らないよ」



 近くのビーチでバーベキューをしたあと、私とアサギは缶ビールを飲みながら砂浜に隣り合って座った。向こうからユウカの視線を感じるが、知らないふりをした。


 ふいに、アサギはイツキのことについて語り始めた。イツキとアサギは幼稚園からの付き合いだった。趣味もよく合った彼らは、まるで兄弟のように一緒にいた。高校の時、イツキはアサギのことが好きだと告白してきた。アサギは断る理由もないから付き合った。


 イツキはアサギを大切にした。お揃いのネックレスをしたり、手を繋いで歩きたがった。だがアサギはそんなことは好きではなかった。段々とアサギはイツキに攻撃的な態度をとるようになった。彼との約束をドタキャンし、彼の人格を否定するようなことを言ったり、彼の言動についても酷い言葉で詰った。イツキはその度に悲しそうな顔をしたが、そのあと静かにアサギを抱きしめた。アサギはある日、抱きしめたイツキを突き放して殴りつけ、「もう終わりだ」と言って別れた。まともに口を利くこともせず、そのまま2人は高校を卒業した。


「僕は彼が鬱陶しかったんだ。何をしても離れない、遠くに行くことのない彼が」


「彼を愛してはいなかったの?」


 その問いかけに、アサギは答えなかった。


「さあね。今でも思う、ずっと友達のままだったらどれほど良かったかって」


 日が暮れたビーチの海ではいつの間にか、ユウカとチネンが現地の学生たちに混じって泳いでいた。その中に、イツキの姿もあった。イツキは一度私たちの方に笑顔で手を振って、再び水遊びに戻った。


 

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