朝は霧めいて

たらこ飴

第1話 草野先生と革靴

 草野先生の靴音が、背後からこつん、こつんと近づいてくる。身体が硬直し、胸の鼓動が速くなる。先生が私の机のすぐ横を通ったとき、持っていたシャープペンシルを落としてしまった。カランという音を立てて落ちたそれを、白髪の草野先生が、ゆっくりと上体を屈めて拾った。そして静かに、シャープペンシルは私の机に戻ってきた。


「ありがとう、ございます」


 ほとんど掠れた声でお礼を言った。草野先生は私を見て、少しだけ笑ったように見えた。胸が早鐘を打ち、身体が火照るのを感じた。


 草野先生の英文学のゼミが終わり、ほかの数名の受講生たちに混じって36号教室と書かれたドアを開けて外に出た。黒いタイル張り、吹曝しの通路を歩く。ぴゅうと吹く木枯らしが、この間新調したばかりの白のコートの繊維の隙間を縫って肌に刺さる。


 沖縄の人が建設したというこの大学は、見た目はピンク色の公立大学らしいこじんまりとして可愛らしい建物だけれど、至る所が吹曝しになっていて、夏は涼しいけれど、そのほかの季節は寒さを感じることが多い。


「寒くなってきましたね」


 草野先生の声が、背後から聞こえた。私に向かって言っているのだとわかってはいたが、すぐに返事をすることができなかった。黙って歩幅を緩めたとき、草野先生の肩がすぐ横にあった。


「群馬は夏は暑く、冬は寒い。当たり前のことのようですが、極端なんですよね」


「そうですね」


 先生と話せていることが嬉しいのに、言葉が出てこないことがもどかしい。


「ところで斉田さん、あなたは時間には厳しい方ですか? それともルーズな方ですか?」


 突然の質問に、一瞬頭が凍りついたように真っ白になる。私の頭は、草野先生の前だと20年も前の性能の悪いパソコンのように、出来ない子になる。


「時間は守る方です、ある程度は」


「確かに、そんなふうに見えますね」


 草野先生はそう言ったあとで、先月NPOの交流活動でパキスタンを訪れた時の話を始めた。


「あちらの国の学生はね、たとえば8時に集合と言うと、8時から支度を始めるんです。だから、支度して集合場所に到着するまでの時間を計算して、7時に集合と言わなければならない。日本の学生とはえらい違いです。文化の違いというやつですね」


 草野先生は、白い豊かな白髪の短髪で、口にも同じような白い髭を生やしている。170センチあるかないかの身長で、白いシャツにブラウンのネクタイをし、ベージュの緩めのチノパンを履き、アーミッシュのようなサスペンダーをつけている。


 定年を過ぎた臨時講師の草野先生は、週に一度こうしてゼミのためだけに私の大学にやってくる。特にハンサムというわけではない、普通のお爺さんに近いおじさんだ。だが、どういうわけか私は先生のことが好きだ。


 先生が、いつものボロボロの茶色の革靴の音を響かせて去って行った後、私は次の授業の時間が迫っていることに気付いて慌てて駆け出した。

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