第2話 アサギ
24号教室の窓際、前から4番目の席にアサギはいた。この場所が彼のお気に入りな理由は、教授から見て程よく目立たず、窓の外の『秋の庭』も見ることができるからなのだという。
確かに大教室だと、目立つこと、刺されることを避けて後ろにポツンと一人で座っている方がかえって目立ったりするから、彼の言うことは理解できる。いつものようにアサギの隣に腰掛けた私は、お疲れといつもの消えそうな笑顔で声をかけてきた彼に同じ言葉を返した。
「草野の授業だったんでしょ?」
白い長机に頬杖をついたアサギが尋ねる。窓から差し込む夕刻の日差しが彼の色素の薄い栗色の髪を、金色に染める。
「うん」
「どうだった?」
「どうって……。相変わらずよ、少し話せた」
ふーんと目を細めて相槌を打つアサギの本心は、読み取れないことの方が多い。妻帯者の草野先生に無謀な恋をする私を応援しているのか、嘲笑っているのか。そもそも関心すらないのか。だから、その次に発せられた彼の台詞に私は大いに驚いた。
「手紙でも渡したらどう?」
思わずアサギの顔をまじまじと見つめた。こんなに彼の顔を見つめたことは、これまでになかった。羨ましいくらいの色白の肌、長いまつ毛に覆われた二重瞼の中の茶色い瞳、うっすらと微笑む薄い唇。美しい容姿をしている、と今更ながら思う。
「手紙なんて……無理よ」
「どうして? 口で伝えるよりずっと楽じゃない?」
「楽だけど、怖いのよ」
「何が?」
「口で伝えるより、ずっと真実じみてて」
「なるほどね。それは分からなくもない」
アサギは頷いた後で、手元に置かれた銀色のタンブラーをそっと手にとって、私に見せた。
「この中に入ってる飲み物を当てることができたら、僕は君に好きなものを奢る」
「本当?」
「ああ。ただし、千円以下のものだ」
「結構太っ腹じゃない。よし、当ててやるわ。アッサムティーね?」
アサギはいつものようにふっと笑ったあとで、「外れ」と首を振った。彼が中に入っている飲み物は白湯だとネタバラシし、私が悔しさのあまりクソーと叫んだところで、英米文化を教えている相田助教授と、今日のゲスト講師の映画研究家の松原久氏が講義室に入ってきた。髪を整髪料でぴっちりと七三に分け、黒のスーツを着こなした40代前半の相田助教授と、白髪混じりのボサボサの髪を肩まで伸ばし、冬だというのに長袖の白いシャツに色褪せたジーンズ姿のサーファーのような松原氏は、とても対照的に見えた。
その日観たのは、『パリ・テキサス』というロードムービーだった。夫の激しいDVにより別れた夫婦の物語だ。講義の時は寝ているかノートに漫画を連載しているアサギにしては珍しく真剣に見ていた。最後のシーンーー夫婦が音楽スタジオの壁を隔てて思いを打ち明け合うシーンで、ちらりと隣に目をやる。
その時確かに私は見た。アサギの目から、透明な涙が一筋頬を伝うのを。スクリーンから放たれる人工の光に照らされたその水滴は、ゆっくりと頬から顎に流れ、広げられたノートの上に溢れた。
あの涙について、私は一言も触れなかった。講義が終わって大学を出てからも、私たちはしばらくの間無言だった。校門を出て、車道を渡る。すっかり枯れ果てた狭い並木道を、2人並んで歩く。
「僕はさ、あの映画すごく共感できた」
不意に、ぽつりとアサギが言った。
「どの辺に?」
「愛すればこそ、ってところかな」
「愛してたって、暴力は駄目よ」
「それは確かにそうだよ。だけど、本気で愛するってことは、本気で憎むってこととも対になりえるだろ?」
「そうかもしれないけど...。分からないわ、私は本気で人を愛したことがないから」
あの映画は確かにテキサスのパリと呼ばれる街のそこかしこに漂う荒廃感や、緑豊かな自然の風景が美しかったけれど、最後のシーンで涙が出るほど感動はしなかった。きっと、共感ができなかったのだ。DVで妻を傷つけた夫が反省して泣いていることに。
「君もきっとわかるよ、いずれね」
アサギは前を向いたまま言った。その笑顔はどこか悲しげだった。
アサギと別れ、アパートへ向かう道を歩く。歩道の左手にはスーパーが、車道を挟んで右手には大きな進学塾がある。車道を行き交う車の一台が、なかなか交差点を曲がらない前の車に向かってクラクションをしつこく鳴らし、窓から顔を出した男が「早く行けよ!!」と叫んだ。
こんな場面を見るのが、私はとても苦手だ。さっきの映画も、夫が妻を椅子に縛り付けてストーブで火傷させるシーンでは吐き気をおぼえた。あの映画に共感できるというアサギの気持ちも分からなかった。
たまに、アサギのことが好きなのか嫌いなのか分からなくなる時がある。
アサギに始めて会ったのは入学式から2週間ほど経った頃。講義のために入った小さな教室に、彼はいた。他にも20人ほどの学生がいたが、彼だけが浮き出て見えた。私の視線に気づいてこちらを見た彼は、ふっと笑った。まるで、私が来ることを、私たちが会うことを知っていたみたいだった。
アサギは博識で、独自の世界観があって、話していると楽しかった。どういう理由か分からないが、私たちは妙に波長があった。
アサギは恐ろしいくらいに頭がよかった。講義はしょっちゅうサボっていたが、レポートは全てA +評価で、内申も「優」の上の「秀」という文字が並んでいた。
彼は頭と勘の両方が恐ろしいくらいに良すぎた。
ある日、私は授業で提出したレポートを教授からコテンパンにけなされて、更には人格否定のような言葉まで投げつけられて落ち込んでいた。いつもならすぐに立ち直るのに、それが何日か続いた。そんな時に食堂でアサギに言われた。
「君らしくないね」
「私らしいって、何?」
私はその時混乱してしまって、帰るねと言い残して逃げるように大学を出た。家に帰ると何故だか涙が溢れてきた。自分らしさってなんだろうと考えていたとき、ふと、中学の時に詩のコンクールで優秀賞を取った時のことを思い出した。あの時滅多に喋らない祖父が、賞状を眺めながら私に言った。
「お前はこれでいい」
それを思い出したら、何故だか気持ちが晴れた。
後からアサギは言った。
「あの時の言葉は、わざとだったんだ」
アサギといることは、居心地よくもあり悪くもあった。講義の前に彼と隣の席で話していると、彼の言うことが時々難しすぎたり、抽象的すぎたり、意図せず私を思考モンスターへと変えてしまうような内容だったりして、頭が疲れた私は席を移動する。そんなことも時々あった。だけど、私たちは次に会った時にはいつも通りに話していた。
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