母子寮の人でなし

不二丸 茅乃

母子寮の人でなし


 母子寮、と聞いて、その詳細を知っている人はどれだけ存在しているだろうか。




 母子寮、正確には母子生活支援施設。

 未成年の子供を抱えた母親が、何かしらの理由で生活に困難な事情を抱えている場合入所できる施設になる。

 正確な説明はもっと細やかなのだが、私が説明するとそんな感じだ。

 これは父親の不在――例えば離婚や離婚調停中、父親の拘留や蒸発――が大前提。


 そして母子寮が何をするか。

 未成年の子供の健やかな成長の為の手助けと、母親の自律に向けての支援。

 私がそれを知った時、まるで目の前に大きな壁が聳え立ったかのようだった。


 ――『お前の母親は自立出来ていない』。

 そう突き付けられたようで、それが反抗期のきっかけだったと思う。




 母子寮での生活は、そこまで窮屈な訳でも無かった。

 中学二年生の私――西原にしばる ルリ――は、朝六時半に起床し、朝食の準備、身支度を整え、それから学校に向かう。夕食は母が作るから、朝食は自分が作ると言い出したのが小学校六年生の春。

 それが今まで続いているから苦でも無い。簡単な目玉焼きやトーストくらいしか作らないし、スープは電気ポットのお湯で作るからすぐ終わる。母は、私が出掛ける準備を全て済ませた後にやっと起きてくる。


「……るり……もう行くの……? いってらっしゃーい……」

「……」


 このダメ人間――もとい、私の母は、いつもこうだ。

 基本的に家から出ない、お気楽な人間。今はこの母子寮に来てから通信講座や独学で学習した技術を元に、自宅での仕事を続けている。

 あまり体が強くないので、遊びに連れて行って貰った事も少ない。毎月病院に通う虚弱体質。

 父と離婚したのは、私が小学校四年生の時だったか。今となっては顔も思い出せないし、養育費の支払いも途絶えて久しい。離婚の時にお世話になった弁護士さんに相談すると、法律の何やらで今は取り立てられない状況にあるらしく、珍しく母がキレていた。

 ……子供を一人育てるのは大変だと思うけれど、大人としてどうなのだろうと方々に思う。


「行ってきます」


 一応の礼儀として母に外に出る旨を伝えると、母は微笑を浮かべて手を振っていた。




 母子寮には今の所総勢十五名、七家庭が暮らしている。

 母子、との言葉通りにどこの家庭にも父親はいない。母一人子一人の家庭もいれば、母一人子三人の家庭もある。

 母子寮は玄関が一緒なので、廊下やその他の場所で擦れ違うこともある。誰もが穏やかに挨拶してくれるくらいの治安で、廊下掃除も家々で週一回の持ち回り。

 築二十年越えの母子寮で、そこそこガタが来始めた建物だが、風呂トイレが各家庭に配置されていることがとてもありがたい。場所によっては未だに風呂が共同の場所もあるようだ。キッチン以外の部屋二つが畳なのは嫌だが、それで将来暮らす自分の家はフローリングに憧れるきっかけにもなる。

 三階建ての母子寮で、一階には支援員や管理人が詰めている事務室や多目的室、相談室などがある。出掛ける時も帰って来た時も、そこに必ず声をかけなければいけない。


「行ってきます」

「行ってらっしゃい、気を付けて」




「ただいま」

「おかえりー。今日はどうだった?」


 暖かくも仕事として一線を引いている事務員さん達には、とてもお世話になっていると子供ながらに思う。福祉を謳っている施設なのだから当たり前なのだが。

 母子寮に戻ると同時、いつも部屋の鍵を掛けている専用のロッカーに、いつものように掛かっている鍵が二つほど目に入る。


「……」


 それからは何も言わずに事務室を後にする。

 鍵があるのは留守の印だ。我が家西原家の鍵は、買い物や病院の時を除いて滅多に掛かる事が無い。

 家にずっと母が居るのが嫌なのだ。他の家庭は外に働きに出ていて、ひとりの家に帰れば少しの間自由時間だ。でも、それが無い。

 たまには自宅で一人になりたいと思っても無理。家で母が仕事をしているのだ、当たり前――なのだが。


「っあ」

「あれ? おかえり」


 自分達の暮らす部屋まで向かう廊下の途中で、部屋にして二室ぶんほど離れている家の母親が立っていた。

 四か月前に越して来た、小呂さんだ。まだ幼稚園児の子供を抱える、外で働く人。見た目から言って、三十代前半だろうか。染めてない黒髪をきっちりと結び、いつもスーツを着ている。

 『ただいま』『おかえり』と言い合うのは、皆母子寮に住む仲間だからだ。


「ただいま。今日お仕事は?」

「依頼人が急病で、今日は予定が無くなっちゃった。あはは」

「そうなんだ」


 小呂さんは結婚する前から法律関係の仕事をしているらしい。でも最初の旦那さんと離婚し、その次の旦那さんがどうしようもないDV男だったので逃げて来たのだと。警察にまで厄介になって、途方に暮れた時に仮住まいとしてこの寮を紹介されたそうだ。

 それを子供の私に話す時も「男運ないからね、あははー」と軽く笑って見せたが、なかなか波乱に満ちた生活をしているようだった。


「ルリちゃんは、学校終わり?」

「そうだよ。今日は部活も無いし、すぐ帰れた」

「部活かぁ。懐かしいな、何部って言ってたっけ」

「ESSだよ。English Speaking Society」

「わーぁ、おばちゃん分からない」


 クスクス笑う小呂さんは、手に煙草を持っていた。喫煙場所は分煙方のナンタラで決められていて、場所が決まっている。この母子寮自体が公共施設なので、自宅となっている部屋でも吸う事が許されていないのだ。

 そして、煙草を咥えて紫煙を吐き出す小呂さんはとても格好良い『大人』に見えた。白に煙る口許も、煙草を挟んだ指先も、とても綺麗だったのだ。


「煙草吸いに行くの? 私も行って良い?」

「え? ……いいけど、体に悪いよ。臭いも移るし」

「私は吸わないから良いの」

「副流煙の方がよっぽど酷いって聞くよ? まぁ、ルリちゃんがいいならいいけど」


 この時点で気付くべきだった。


「私は大丈夫!」


 普通の常識ある大人は喫煙場所に連れて行くことを『いいけど』なんて、普通は言わない事に。




 喫煙場所になっているのは非常階段の踊り場だ。最近は母子寮内部でも禁煙が掲げられ、喫煙者は居場所がないらしい。

 今日は晴天だ。雲ひとつない空に、煙草の煙が舞う。わずかに紫がかったような、灰色の不思議な色の煙。

 小呂さんの吸っている煙草は、ろくでなしの大人が道端に落とすような煙草より細かった。女性の細い指によく似合うような細さのそれが、灰に変わっていくのを近くで見ていた。


「ねぇ小呂さん」

「なに?」

「みーちゃんはまだ迎えに行かなくて良いの?」

「んー。まだいいかな。家でやることもあるし、今日は上がりって言っても書類は持って帰って来てるし、いつも通りの時間に迎え行くよ」

「そっか。今日の夕飯は?」

「煮込みハンバーグ」

「いいなー」


 煙草の匂いがする。

 不思議な香りだった。酷く煙たさを感じるでもない細い煙草からの一筋は、外の空気と混ざり膨らんで空に向かう。そこにあるのは『誰かが煙草を吸った』という気配。特別臭いとは思わなかった。

 小呂さんが吸っているからかも知れない。それだけ、この人に懐いている自分に気付く。


「ルリちゃんの所だってお母さんが作ってくれるでしょ。料理上手なんだってね」

「うん? ……うん、まぁ。でも、家にいる時間が長いんだし、お母さんなんだし、そのくらいして貰わないと」

「私だって、料理し始めたのは結婚してからだよ。……ま、だから最初のダンナに『家庭的な女性が良い』って逃げられたんだけど」

「……」


 煙草が、半分灰になった。


「そうなの?」

「そうだよぉ。だから次はそういう事言わない人がいいって思ったら、とんだ大外れ。殴るわ蹴るわで大変だった。うちの子守るので精一杯だったけど、こうして離れられて清々した」

「……」

「でもルリちゃんの所も似たり寄ったりなんでしょう? 大変よねぇ、西原さん。養育費も途切れて相手は海外に出稼ぎ名目で高飛びしたんでしょ? そりゃあ腹も立つよね」

「……え?」


 灰が携帯灰皿の中に落ちるのを見ながら、私は耳を疑った。

 なんで、――小呂さんがその事を知っているんだろう。

 湧き上がる疑問に凍り付いている間、目の前の小呂さんは『またやっちゃったか』みたいな表情を浮かべていた。


「私の仕事ってさ、司法書士なんだよ」

「……」

「離婚問題に関して、権限は弁護士の先生より少ないんだ。大学院まで行く気力も頭も無かったから、弁護士までにはなれなかったけど……私ね」


 煙草が、灰になる。


「人に関心が持てないんだって思いながら生きて来た」

「……」

「友達は出来るけど、その友達が休みの間何してたって、楽しい事あったって嬉しそうに話してきても、興味も何も無かったの。私といても楽しくないって言って、皆離れていった。休み時間に友達と集まって楽しそうに話している所に加わっても全然面白くなかったの。流行のものだってそう。男子の話だってそう。誰がカッコいい、誰が頭いい、誰が部活で県大会に行った、……そんなの、ルリちゃん、聞いてて楽しい?」

「……状況、次第、かな。私だって、気になる男子くらい、いるにはいるし」

「そっか。私ね、そんなの、全っ然興味なかったんだぁ」


 やがて根元まで灰になった煙草は、フィルターだけを小呂さんの手元に残した。


「そんなつまらない話ばっかりだったら友達なんて要らないって思って、勉強だけ頑張って高校は良い所入ったよ。分かる? 隣の市の明猷めいゆう高校。あそこの普通科」

「……良い所、って……県で一番の偏差値って有名じゃん」

「そうそう。……幾ら頭のいい高校でもさ、通う高校生の中身って年齢相応の女子高生と男子高校生な訳なんだけど」


 フィルターだけとなった煙草を、小呂さんが携帯灰皿に仕舞い込む。


「クラスメイトの一人が、高一の秋ごろに妊娠してさ」

「――……」

「相手は家庭教師の大学生だったそうなんだけど、いやー、その話が噂になって学校中凄い事になってたよね。当然私の耳にもそういうの入って来たんだ。なにしろ、その時は本当に大問題になったから」


 煙草をもう一本、咥える小呂さん。


「でも――私、その時、初めて、心が焦り……? みたいなのを覚えたんだ」

「焦り……?」

「その子、友達とかじゃなかったけど、私にも優しくてね。私よりテストの順位は低かったけど、頑張り屋だったんだよ。そんな子が子供の事で困ってるなら力になりたいって……その時は、自分でそう解釈したのかな?」


 疑問符ばかりを連ねる小呂さんの言葉に、違和感を覚えたのはこれが最初ではない。


「だから、どうにか……その子が困らないように出来ないかって。私が最初に考えたのは法律からのアプローチだった」

「……そこで、法律?」

「人付き合いの少ない私が最初に手を伸ばしたのは本だったんだよ。今じゃ凄い斜め向かった考えだなって思うけど……、それでも、頑張り屋のその子が妊娠で学校を辞めるのは嫌だな、学ぶ権利は誰にでも認められてるのにどうして女子だけ妊娠しても学べる環境が用意されてないのか、って。……まぁ、結局その時素人の私がどうこう出来るでもなく、その子は自分から学校辞めてったんだけど」

「……」

「法律に携わる仕事を目指したのは、それが理由。……私はその子のお陰で、誰かに心を傾ける事が出来る人間なんだって思う事が出来た。……例え、それが思い込みでも」

「思い込み、って」

「私はねぇ、ルリちゃん」


 二本目の煙草に火が点いた。

 ――燻ぶる煙が何故か、今度は、とても酷い悪臭に感じる。


「人の不幸が大好きなんだ」

「……」

「私は初めて人に関心が持てる人間だと希望を抱いた。でも違った。誰かが不幸になってる姿が好きで、そこから這い上がろうとする人が好きで、『私が助けてあげられる人』なら更に大好きなんだ。だから私は法律家以外の道を選べない。人に関心が無いから。娘だってそう。あの子は私が居ないと生きて行けないから。あの子は親の居ない世界を知らないんだ」


 悪臭は煙草からか。それとも、小呂さんの口から出る吐息か、それとも言葉か。

 ここまで醜悪な言葉を生で聞くのは、これが初めてかも知れなかった。自分がどれだけ優しい世界で守られていたかを痛感する。


「……異常だよ、小呂さん」

「そう?」

「法律に携われるくらい頭いいのに、どうしてそんな方向に考えるの。人の不幸が好きだなんてどうして言えるの」

「自分の事じゃないのに誰かの幸福を無条件で祝える方が異常じゃないの? 不幸はエンタメなんだよ。ルリちゃんだって、誰かが『絶対に』『一度でも』悲しむ描写が無いフィクションを知ってる?」

「……」

「だから、下で事務員さんと西原さんが話してるのも聞いちゃったんだ。養育費貰えないとか可哀相にねぇ、西原さん。ここに住んでる人たちは殆ど駄目な男に引っかかってるんだもん、不幸な話に事欠かないんだよ」

「止めて」


 これ以上、醜悪な言葉を聞いていたくなかった。

 ここに住む優しい人たちの事も、その臭い口で汚すように語って欲しくない。

 紫煙舞う青空の下の非常階段が、今は死ぬ程居心地が悪い。


「……小呂さんだって辛い思いしてここに来たんじゃないの」

「私? あははっ、私はね、住む場所他に探そうと思えば探せたよ。でも母子寮だなんてこの先人生で関わる機会があるかどうか分からないじゃない。住めるってなったら、そりゃ住むでしょ。『面白そう』なんだもん」

「……私達は、小呂さんのエンタメの為に生きてるんじゃないよ?」

「そうだろうけどね。でも楽しかったよ。そろそろ満足した」

「……満足、って」

「私ね、職員さん達以外誰にも言ってないけど、来週引っ越しするんだ。今荷造りの最中でね、未歩も今週が今の保育園最後なの。もう、ここへは来ない」


 紫煙が舞う、酷い悪臭漂う場所。


「ルリちゃんもいずれ分かるよ。誰かの不幸が、何よりも楽しく思う瞬間があるって」


 そんな場所で見た小呂さんの最後の表情は――唇を醜く歪めて笑っているものだった。




「おかえりー、……って? ルリ? どうしたの?」

「……」


 非常階段から家まではすぐそこだ。危ない事も何もない、ただの同じ施設内の移動。

 三十秒程度で帰り着いた我が家では、母がPCに向かって仕事をしている所だった。ぎし、とPCデスク用の椅子が軋む。

 背凭れ越しに振り向いた母は、私の暗い表情に気付いているようだ。でも、私が反抗期だからと気遣ってくれてあまり深入りしない。座面の上で軽く伸びをして、それ以上聞こうとしない。


「夕飯は準備するけどちょっと待っててね、今クライアントの打ち合わせで彩度の調節がって話になってて……もうすぐ連絡が入って来る筈なんだけど」

「……」

「今日は餃子焼こうかって思うんだけど、いい? お取り寄せの餃子貰ったんだー……ん? なんか煙草臭くない?」

「おかあさん」


 その背に、背凭れごと抱き着いた。


「わ!?」

「私、もう反抗期止める」

「なに!? どうした!? 何があった!? ちょ、ルリ!? 煙草の臭いがするのと関係ある!? 何があったの、言いなさい!」


 ――その後、母の誤解を解くのに少しだけ時間は掛かったが。

 反抗期と称して母と関わりを最小限にしていた、その溝はきっと近いうちに埋まるだろう。

 母はいつも変わらず私を見守ってくれている。

 どこかの誰かのように、自分の子供の立場さえも自分の愉しみに消費するような存在ではない。

 私は、そう信じられる母の子に産まれて幸せなのだと、そう深く思った。


 ……ただ、その半年後。

 小呂さんの名前が夕方のニュースに流れていた。

 元夫に家を知られて殺傷事件になったそうだ。

 小呂さんは死亡、娘の未歩ちゃんは重傷、元夫はその場で自殺。

 全国区に流れる殺人事件の衝撃は、眺めているだけのSNSでも余波を広げていた。

 『元夫が無理心中?』『離婚の理由が分かる気がする』『何があっても子供を傷付けたら駄目』『子供ちゃんだけでも助かりますように』『死ぬなら自分だけで死ねクズ男』『折角二人だけで暮らせてたのに可哀相』『どうしてこんな事に』『子供連れ去りからの悶着の可能性』『親権は母親の方にあるんだろコレ』『無理心中胸糞』『家の近くパトカーめっちゃ走ってたけどこれが原因だったのかな』『このマンション知ってるわ、学校の近く』『こういう事する男ってやっぱり離婚されるだけの理由があるってはっきり分かる』『かわいそうに……』


「元夫に因る殺傷沙汰か……物騒な世の中だねー」


 呑気に夕食を共に囲んでいる母は、被害者の名前が聞こえていなかったのか他人事のように口にするだけだったけど。


「……え、ルリ? あんた」


 その時の母の瞳に、私の顔はどう映っていたのだろうか。


「あんた、その表情」


 ――どうか、あの時の小呂さんのような顔ではありませんように。



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