第4話 ファベルジェの追想 1ー⑷
末広町にある『西洋料理 五灯軒』は建物の新しさのせいか、西洋料理店という我が国ではまだなじみの薄い店であるにも拘らず結構な賑わいを見せていた。
「はてさて、早智殿のお目当ての若侍はいますかな」
日笠が冷やかすように言うと、早智は頬を赤らめつつ「国彦さんは外国人並みに背丈があります。いればすぐわかるはずです」と言った。
――ふむ、これが西洋料理店の匂いか。なるほどお腹が減ってきそうなよい匂いだ。
肉と油の混ざったような匂いに導かれ、流介が店の扉を潜ったその時だった。
「ええっ、パンは売り切れてしまったんですか。……ではピロシキはどうです?」
突然、聞き覚えのある声が店内にこだまし、流介は思わず声のした方にまなざしを向けた。
「参ったなあ。あれを楽しみにしている商人さんたちが、海の上で僕を待ってるんですよ」
三十過ぎと思しき男性店員を前に恨めし気な顔でそう漏らしたのは、英国風のシャツに身を包んだ美貌の青年、水守天馬だった。
「申し訳ありませんが、本日はピロシキもございません。作れる料理人が一昨日から来ていないもので……」
「来ていない?……ふむ、それは気になります。確か背の高い、若い料理人でしたよね?」
「はい。
「いい卵、ですか。確かにコートレットやピロシキをこしらえるのに、いい卵は欠かせませんが……」
戸惑う店員をよそに何かを考え始めた天馬に、流介は思いきって声をかけた。
「天馬君」
「えっ?」
いきなり名を呼ばれた天馬ははっとしたように顔を上げると、こちらを見て目を丸くした。
「やあ飛田さん……それに住職まで。皆さんも噂の新しい料理店を見に来られたのですね」
天馬は目に驚きの色を浮かべつつ、意外な場所での出会いに美しい顔をほころばせた。
「実は僕らもパンを買いに来たんだよ天馬君。よもや君がいようなどとは思いもせずにね」
流介が食べ物にまで商いの手を広げる天馬に感心していると、流介たちが三人連れであることに気づいた天馬が「おや?」と身を乗り出した。
「飛田さん、住職、その方は?」
「ああ、山上大神宮で働いている早智さんだよ。『五灯軒』のパンと国彦さんという料理人が大層お気に入りなのだそうだ」
「いやですわ日笠様。意地の悪いことをおっしゃらないでください」
早智が恥じらいながら日笠を睨み付けると、天馬が「なるほど、ではここにいる全員、香田さんという方が戻ってこないと目的が果たせないというわけですね」と言った。
「そういうことになるな。だがこれも巡り合わせという物だ。致し方ない」
日笠が僧らしくあっさりと諦めを口にすると、天馬が「その通りです。が、香田さんの行方を突き止めることができれば、早く店に戻ってパンを多いて欲しいという我々の願いを伝える事も可能なはずです」と言った。
「天馬君、ひょっとすると君は料理人の足取りを追うつもりなのかね?」
「聞くところによると谷地頭の手前、青柳町のあたりに卵などを扱う牛乳屋があるそうです。まずはそこを訪ねてみてはいかがでしょう」
「青柳町か……そうなると半日仕事だな。私は本堂に戻らねばならぬのでそちらの方は天馬君たちに任せることにしよう」
「いえ、僕も港で待っている商人たちに今日はパンもピロシキも都合できないと告げにゆかねばなりません。行くのなら日をあらためてということになるでしょう」
天馬が残念そうに言うと、早智が「あの……場所はわかりませんが、私が探しに行ってみます」と言った。
「それじゃ、僕も一緒に行きます」
早智の心細げな横顔が目に入った途端、流介は迷わずそう口にした。
「えっ……でもお仕事はいいのですか?」
「僕は新聞記者です。料理人の取材ということにすればいいのです」
流介がその場でこしらえたような理由を口にすると、早智は「わかりました」と小さく頷いた。
「では、何かわかったら僕にも教えて下さい。用が片付き次第、直ちに飛んで行きます」
天馬はそう言うと店員の方を振り向き「もちろん、お店にもお伝えしますよ」と言った。
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